治安維持法
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通称・略称 | なし |
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法令番号 | 大正14年4月22日法律第46号 |
効力 | 廃止―昭和20年10月15日 (昭和20年勅令第575号) |
種類 | 公法、刑事法 |
主な内容 | 国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締 |
関連法令 | 刑法、(旧)刑事訴訟法、破壊活動防止法 |
条文リンク | constitutional law |
治安維持法(ちあんいじほう)は、国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。
とくに共産主義者の行動の激化を懸念したものといわれている。
目次 |
[編集] 沿革
[編集] 前身
1923年に関東大震災後の混乱を受けて公布された緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)。1917年のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て成立したとされる。
[編集] 法律制定
1925年4月22日に公布され、同年5月12日に施行。 (天皇の勅令により当時は日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行され、独立運動をも弾圧した)。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから“飴と鞭”の関係にもなぞらえられ、普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが、普通選挙実施は1928年まで延期された。 1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また大東亜戦争(太平洋戦争)を目前にした1941年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1925年法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。
1928年改正の主な特徴としては
- 「国体変革」への厳罰化 1925年法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として、最高刑を死刑としたこと
- 「為ニスル行為」の禁止 「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行の為にする行為」を、結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとしたこと
- 改正手続面 改正案が議会において審議未了となったものを、緊急勅令のかたちで強行改正したこと
があげられる。
1941年法は同年5月15日に施行されたが、
- 全般的な重罰化 禁錮刑はなくなり、有期懲役刑に一本化、また刑期下限が全般的に引き上げられたこと
- 取締範囲の拡大 「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、冤罪事件が発生する可能性が生じた。
- 刑事手続面 従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、例えば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」としたこと、等
- 予防拘禁制度 刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと
を主な特徴とする。
1945年の終戦後も同法の運用は継続されていたが、同年9月に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死したことなどから、同10月4日にはGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止を命じられ、東久邇内閣はそれを拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。
[編集] その歴史的役割
当初治安維持法制定の背景には、ロシア革命後国際的に高まりつつあった共産主義活動をけん制する政府の意図があった。
そもそも当時の日本では、結社の自由は厳しく制限されており、日本共産党は存在自体が非合法であった。また、普通選挙法とほぼセットの形で成立したのは、合法政党であっても、無産政党の議会進出を政府は脅威と見ていたからである。
後年、治安維持法が強化される過程で多くの活動家、運動家が弾圧され、小林多喜二などは取調べ中の拷問によって死亡した。ちなみに朝鮮共産党弾圧が適用第一号とされている(内地においては、京都学連事件が最初の適用例である)。1930年代前半に、左翼運動が潰滅したため標的を失ったかにみえたが、以降は1935年の大本教への適用(大本弾圧事件)など新興宗教や極右組織、果ては民主主義者や自由主義者の取締りにも用いられ、必ずしも「国体変革」とは結びつかない反政府的言論への弾圧の正当化のためにも機能した。奥平康弘は、1928年改正で追加された「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の禁止規定が、政権や公安警察にとって、不都合なあらゆる現象・行動において「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の名目で同法を適用する根拠になったと指摘している(奥平『治安維持法小史』 岩波現代文庫、2006年6月、ISBN 978-4006001612)。不都合な相手ならば、ただ生きて呼吸していることでさえ、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」と見なされ、逮捕された。こうした弾圧は、公安警察という組織の維持のために、新しい取り締まり対象を用意することに迫られた結果という一面もあったといわれる。
内地では治安維持法違反のみを理由として死刑判決を受けた人物はいない。そこには、極刑を科すよりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的であるという当局の判断があったともされている。思想犯に転向を薦めるノウハウ、論破・説得術は、一種の芸術のような高レベルだったと言われている。もっとも、「文化評論」1976年臨時増刊号によれば、194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したとのことである。日本本土での検挙者は約七万人(「文化評論」1976年臨時増刊号)、当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、二万三千人以上を検挙した。
[編集] その後
1952年公布の破壊活動防止法は、「団体のためにする行為」禁止規定などが治安維持法に酷似していると反対派に指摘され、治安維持法の復活という批判を受けた。その後も、治安立法への批判に対して、治安維持法の復活という論法は頻繁に使われている(通信傍受法(盗聴法)、共謀罪法案など)。
第二次世界大戦後は、治安維持法については否定的な意見が主流である。しかし、保守・右翼の一部では、治安維持法肯定論や、その復活を主張する論者もいる。
1976年1月27日、民社党の春日一幸が衆議院本会議で宮本顕治のリンチ殺人疑惑を取り上げた際、宮本の罪状の一つとして、治安維持法違反をそのまま取り上げた。そこで、宮本の疑惑の真偽とは別に、春日は治安維持法を肯定しているのかと批判を受けた。
藤岡信勝は、『諸君!』1996年4月号の「自由主義史観とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」と全面的に評価し、ソ連の手先と名指しされた日本共産党などから強い反発を受けた。中西輝政も『諸君!』『正論』などで、同様の主張を行っている(『諸君!』2007年9月号「国家情報論 21」。『正論』2006年9月号など)。いずれも、反共主義の立場から、「絶対悪としての共産主義」を滅ぼすためには当然の法律であったという肯定論である。また、藤岡や中西などの論者は、歴史認識問題など、日本に対する批判は全て共産主義者の陰謀と認識し、その取り締まりを主張している。
[編集] その他
1948年に制定された韓国の国家保安法は治安維持法をモデルにしたと言われている。