大山柏
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大山柏(おおやまかしわ、明治22年(1889年)6月2日 - 昭和44年(1969年)8月20日)は、日本の華族、陸軍軍人、考古学者、戊辰戦争研究家。階級は陸軍少佐。父は陸軍大将元帥:大山巌、母捨松。妻は近衛文麿妹の武子。
[編集] 経歴・人物
大山巌・捨松夫妻の次男として生まれ、そのときに父・巌は新潟県柏崎市に滞在中だったことから命名された。教育熱心な母親の元、早くから英語、ドイツ語の英才教育を受ける。特にドイツ語は陸軍での第2外国語でもあったため、柏は晩年になってもドイツ語に堪能だったという。
当初父の親戚であった鮫島家の養子となる予定であったが、1908年、兄の高が台湾で乗艦「松島」の爆発の巻き添えとなり事故死、そのため急遽大山家の嗣子となり、1916年に父・巌の死を受け、公爵・貴族院議員となる。
父・巌の遺命により陸軍士官となった柏であったが、欧米生活が長い両親の元、リベラルな家庭環境で育った柏と、藩閥と学閥が跋扈する陸軍の気風は全くあわなかったらしく、特に第一次世界大戦後、内定していた青島赴任を参謀長・山梨半造に妨害されてからは陸軍での栄進を放棄し、陸軍大学校への進学も拒絶、以前から興味を持っていた考古学研究へ傾斜していく。
1921年には『人類学雑誌』に沖縄県の伊波貝塚に関する論文を投稿する。1923年からは石原完爾の監視役という密命を帯びてベルリンに留学するが、一方で小金井良精の紹介でトロイ遺跡の発掘にも関わったフーベルト・シュミットの元で本格的な考古学を学ぶ。
1925年に帰国した頃には考古学の研究に専任する意思をかため、1928年には父の友人であった上原勇作の反対を押し切り予備役編入を志願、慶應義塾大学講師となる。
翌1929年には自邸内に「史前学研究所」を設立する。それまでの日本の発掘が単なる「宝探し」だったのに対し、ドイツ最新の系統だった発掘方法を持ち込み、主に縄文時代の研究において著しい成果を上げ、山階鳥類研究所、徳川生物学研究所(後の徳川林政史研究所)とともに「華族3大研究所」ともいわれた。
しかし、1943年に陸軍退役を目前にして応召を受け、第32警備隊第33警備大隊長として根室に赴任する。この直前に書き上げた文学博士学位論文が、実質的に柏が考古学に関与した最後となる。また、この突然の根室赴任は政治的理由によるものとされ、貴族院議員出身者で応召されたのは柏ただ一人であった。
赴任地の根室はソ連との前線であったにもかかわらず、物資が乏しく、柏は自家の財産を食いつぶして部隊に補給を回す有様であったという。更に1945年の東京大空襲で大山邸と隣接する史前学研究所が全焼、戦後の華族制度廃止と農地解放令、公職追放により財産の過半を没収され、研究所を再興することができず、以後は父母の別荘のあった那須に隠棲する。
晩年は戊辰戦争の研究に身を捧げ1968年に現在も戊辰戦争研究の基本資料とされる『戊辰役戦史』を出版。続編として日清戦争の研究書を出す予定だったが、翌年、かかりつけの病院での通院治療中に急逝した。
長男の梓は海軍主計少尉・広島大学教授・帝京大学法学部教授・法学博士(外交史研究)、次男の桂は日本貝類学会副会長(元)・鳥羽水族館研究員、理学博士(貝類学)。
[編集] 参考文献
- 阿部芳郎「失われた史前学-公爵大山柏と日本考古学」岩波書店 ISBN 4000001876