有馬頼義
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有馬 頼義(ありま よりちか、1918年2月14日 - 1980年4月15日)は日本の小説家。社会派推理小説の巨頭と目された。
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[編集] 経歴
伯爵有馬頼寧の三男として東京市赤坂区青山に生まれる。母貞子は北白川宮能久親王の第二女子。頼寧の母寛子は岩倉具視の五女。頼義の妹澄子は足利惇氏の妻。末妹の正子は亀井茲建の妻であり、衆議院議員亀井久興は頼義の甥にあたる。兄2人の早世と病弱により早くから伯爵家を嗣ぐことを決められる一方、有馬家と母の実家・北白川宮家の複雑な家庭環境[1]を肌で感じる多感な幼少期を過ごした。
学習院初等科卒業。野球と小説に熱中し、成蹊高等学校 (旧制)を中退。早稲田第一高等学院在学中、1937年に短篇集『崩壊』を上梓。その原稿料を受け取ったことが問題とされて放校処分を受ける。
1940年、兵役に就いて満洲に渡る。3年間の軍隊生活を経て帰国後、同盟通信社社会部記者となる。1944年、『晴雪賦』によって第4回国民演劇脚本情報局賞受賞。
敗戦後、農相だった父が戦犯容疑者として拘禁され、財産差押えを受ける。貧窮生活に転落し、カストリ雑誌の常連執筆者となる。
1950年、『河の唄』により『改造』第1回懸賞選外佳作入選。1951年、『皇女と乳牛』により『文藝春秋』懸賞入選。
1954年、『終身未決囚』により第31回直木賞受賞。1959年、『四万人の目撃者』で日本探偵作家クラブ賞受賞。
1970年、『早稲田文学』編集長に就任。1972年5月、川端康成の死に誘発されてガス自殺未遂を起こし[2]、以後筆を断つ。1980年、脳溢血で死去。
[編集] 関連項目
- 兵隊やくざ:頼義の小説『貴三郎一代』が原作。
- あゝ声なき友:頼義の小説『遺書配達人」が原作。
- 成蹊大学:一時、野球部監督を務める。
- 立原正秋:前任の『早稲田文学』編集長。一方的に嫌われていたという(参考文献『立原正秋』高井有一著 新潮社刊 ISBN 4101374112)。
- 立松和平:事実上の弟子の一人。
- 渡辺淳一:数少ない親交のあった文壇関係者。
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ^ 父・頼寧の実母は岩倉具視の娘であったが、頼寧出産後、有馬家によって一方的に理由不詳のまま岩倉家に返され、離婚に追い込まれた(後に森有礼と再婚)。母・貞子は側室出生であったが、北白川宮家での貞子母子の立場の悪化を懸念した有馬韶子(有栖川宮韶仁親王女)によって有馬家に迎えられた。この時に貞子の母も有馬家に同行したが、あくまで「女中」という扱いをされたため、実娘の貞子からですら呼び捨てにされるという奇妙な状態であった。(参考文献 『想い出の作家たち 2』文藝春秋編 ISBN 4163478604)
- ^ ただし有馬は『カストリ雑誌前期』(『小説現代』1971年8月号に発表)に引用した匿名の小説について「作者の創作でなく盗作である。盗作の事実を認めず慰謝料を払わなければ新聞沙汰にする」との脅しを受け、内密に約100万円の慰謝料を支払わされたことがあり、この事件を自殺未遂の遠因と推測する説もある(大村彦次郎『文壇うたかた物語』筑摩書房、1995年。pp.220-221)。また遺族の証言では、以前から極度の薬物依存症であったのが原因とも言われる(参考文献 『想い出の作家たち 2』)。