早稲田文学
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早稲田文学(わせだぶんがく)は、早稲田大学文学部を中心にした文芸雑誌。1891年、坪内逍遥が創刊。第2次早稲田文学は自然主義文学の牙城として、耽美派の三田文学と共に文学史上知られている。
[編集] 沿革
- 第1次(1891-1898年)
- 坪内逍遥の評論を掲載。森鴎外との没理想論争の舞台になった。他に島村抱月、広津柳浪らが執筆。
- 第2次(1906-1927年)
- 留学から帰国した島村抱月が中心になって復刊。自然主義文学の拠点になった。正宗白鳥、秋田雨雀らが執筆。
- 第3次(1934-1949年)
- 谷崎精二(谷崎潤一郎の弟)らが主宰。第二次世界大戦中も刊行を続けた。
- 第4次(1949年)
- 第5次(1951-1953年)
- 第6次(1959年)
- 第7次(1969-1975年)
- 1968年より立原正秋が編集長を務める。1970年から有馬頼義が編集長になる。
- 第8次(1976-1997年)
- 編集兼発行人は平岡篤頼。見延典子『もう頬づえはつかない』、三石由起子『ダイアモンドは傷つかない』などが掲載された。新人作家の発掘に意欲的であり、1984年に早稲田文学新人賞を設けた。
- 第9次(1997年-2005年)
- 編集参加者として批評家の池田雄一、市川真人らが名を連ねる。小説よりも批評、思想を中心とした編集方針にシフトした誌面作りになっている。
- 第10次(2008年-年)
- 2008年4月に「早稲田文学1」として早稲田文学会発行、太田出版発売にて復刊。
同人誌ではなく、書店で販売する商業誌であったが、2005年5月号までで書店売りの形態を一時休止し、同年11月から2007年まではフリーペーパー形式(「WB」)で刊行されていた。2008年春からは再び商業誌(第10次「早稲田文学」)としての展開を再開、2008年4月に「早稲田文学1」として復刊した。なお、その準備号として2007年に出された0号に川上未映子の小説『わたくし率イン歯ー、または世界』を掲載、大手文芸誌以外から久々に芥川賞候補作を送り出した。