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森鴎外 - Wikipedia

森鴎外

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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森鴎外

森鴎外、1911年
誕生 1862年2月17日
石見国津和野
現・島根県津和野町
死没 1922年7月9日
職業 小説家評論家翻訳家
医学者軍医官僚
ジャンル 小説、翻訳、史伝
  
文学
画像:Lit.jpg
ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社文芸雑誌
文学賞
作家
詩人小説家
その他作家

森 鷗外(もりおうがい、文久2年1月19日1862年2月17日)-大正11年(1922年7月9日)は、明治・大正期の小説家評論家翻訳家医学者軍医官僚。第二次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部 卒業[1]

大学卒業後、陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツで4年過ごした。帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表し、また自ら文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、軍医総監となり、一時期創作活動から遠ざかったが、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『』などを執筆。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎』を書いた。なお、帝室博物館(現在の東京国立博物館奈良国立博物館京都国立博物館)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任している。

注:鴎外の「鴎(U+9D0E)」の字は、正しくは「鷗(U+9DD7)」である。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国津和野(現・島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。幼い頃から論語孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており[2]、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになる。

廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し、翌年、住居などを売却して残る家族も故郷を離れた。東京では、官立医学校への入学に備えてドイツ語を習得するため、私塾の進文学社に入っており、その際に通学の便から、親族の西周(にし・あまね)邸に寄食している。このような幼少期を過ごした鴎外は、ドイツ人学者にドイツ語で反論して打ち負かすほど、語学に堪能であった。著作でドイツ語やフランス語などを多用しており、また中国古典からの引用も少なくない。

[編集] ドイツ留学と初期の文筆活動

1874年明治7年)、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)に実年齢より2歳多く偽り入学し、1881年(明治14年)に19歳8か月で卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。その後、陸軍軍医副になり、東京陸軍病院に勤務。1884年(明治17年)、ドイツ留学を命じられ、10月にベルリンに入る。留学中は、ペッテンコーフェル等に就いて医学研究をするかたわら、西洋の哲学や文学などに触れて多大な影響を受けた。また、北里柴三郎とともにコッホのもとを訪問し、ナウマンを批判した。1888年(明治21年)に帰国し、陸軍軍医学校大学校教官に任じられた。なお帰国直後、ドイツ人女性が来日し、滞在一月ほどで離日する出来事があり、小説『舞姫』の素材の一つとなっている。後年、文通を続けるなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる[3][4]

1889年(明治22年)、新声社訳として『於母影』を発表し、弟の三木竹二などと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊した。海外文学の翻訳も多く始め(『即興詩人』『ファウスト』などが有名)[5]、以後、熱心に啓蒙的文筆活動をすることになる。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を相次いで発表。とりわけ、日本人と外国人が恋愛関係になる『舞姫』は、読者を驚かせたとされる。ちなみに、そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草子』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げている。1894年(明治27年)から翌年まで日清戦争に軍医部長として出征。帰国後、『しがらみ草子』の後を受けて幸田露伴斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評『三人冗語』を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。

[編集] 小倉「左遷」から歴史小説へ

1899年(明治32年)、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)に「左遷」[6](このとき『小倉日記』が書かれる)され、1902年(明治35年)に東京勤務。1904年(明治37年)から1906年(明治39年)まで日露戦争第二軍軍医部長として出征し、1907年(明治40年)には陸軍軍医総監陸軍省医務局長に任じられた。このころまでは翻訳が多かったが、1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、これに毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。『半日』『ヰタ・セクスアリス』『鶏』『青年』などを『スバル』に載せ、『仮面』『静』などの戯曲を発表。自然主義の発展や夏目漱石の影響もあり、反自然主義文学の立場で作品を書いている。

1911年(明治44年)に『』と『灰燼』の2長編を同時連載。1912年(大正元年)9月13日乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に『興津弥五右衛門の遺書』を書き終えた[7]。これを機に歴史小説に進み、「歴史其儘」の『阿部一族』、「歴史離れ」の『山椒大夫』『高瀬舟』などののち、史伝『渋江抽斎』に結実する。1916年(大正5年)には、後世の鴎外研究家や評論家から重要視されることになる随筆『空車』(むなぐるま)を著した[8]

任官時の年齢が低いこともあって軍医総監・医務局長を9年つとめて退官し、その後、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)、さらに帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証・編集に着手した。しかし病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が元号案「昭和」を提出することになる[9]。なお、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子平塚らいてうも早くから高く評価しており、晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうなど新しい女たちの純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝等とも広く交際した[10]

1922年(大正11年)7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎墓 」とのみ刻されている。向島弘福寺に埋葬された(現在は、東京都禅林寺と津和野町の永明寺に改葬されている)。なお、墓碑銘は遺言により中村不折によって筆された。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。

[編集] 人物評

[編集] 作家評

鴎外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。しかし鴎外が寄稿する論文の多くはドイツなどの論文の広範な引用が多く、文章のレトリックや学問的な裏付けに拘るばかりで、臨床医学の実質からは乖離したものと言われ、当時の医学界からは最初から相手にされていなかったとも言われる。

また、鴎外の言いがかりとも思える論争癖を発端として論争が起きた事もある。坪内逍遥が「早稲田文学」にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草子』に載せたことから論争が始まった。このような形で鴎外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「戦闘的啓蒙」などと評される。

教師でもあった漱石のように弟子を取ったり[11]、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した鴎外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、文芸雑誌を主宰したり、自宅で観潮楼歌会を開いたりして色々な人々と交際した。そうした生活を送り[12]、日清・日露戦争に出征しながら、文学以外も含めて膨大な著作を残している。

なお、近年の鴎外評のキーワードとしては、「女性論」(金子幸代)、「近代日本観」(池辺健次)、「文化の翻訳」(長島要一)などが挙げられる。

[編集] 軍医として

森 鴎外
1862年2月17日-1922年7月9日

所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1891 -
最終階級 陸軍軍医総監
除隊後 小説家

上記のとおり、鴎外は陸軍軍医であり、かつエリートとして昇進を続け軍医総監(軍医中将に相当)にまで上りつめた。 当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイギリス医学)と対立した。自説に固執し、当時海軍で採用していた脚気対策の治療法として行われていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であるとしていた。ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木により食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためである)。実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のために戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」との批判も存在している。日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰された経緯がある)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外の述懐である。

後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。また、赤痢菌を見つけた志賀潔などが脚気の栄養由来説を支持したこともあり、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。この頃より鴎外の医学界での孤立はますます深まった。結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった。脚気栄養起源説の国家としての見識が示されたのは鴎外の死の2年後であった。

鴎外を擁護する立場からは、下士官達の「入隊したからには白米を食べたい」という声があり、当時、麦飯は白米に比べ美味でないとされていた(麦の精白技術が現代ほど発達していなかったため)こと(脚気の歴史)を考慮すべきとの意見もある[13]

麦飯食を推進した高木兼寛は都市衛生問題で「貧民散布論」を提案し、東京から貧民を追い出すべきとの主張をしていた。この主張はたしかに医学的・公衆衛生学的にはある程度評価できるものであったが、人道上の大きな問題があり、その立場から「貧民散布論」を徹底批判したのが鴎外ということもあって、両者の間には感情的にも深い対立関係が存在していた。鴎外にとって高木の説を後追いで認めることは屈辱であったろう。

加えて脚気細菌起源説は鴎外のドイツ留学実現に尽力した石黒忠悳の主張だった。このため当時ドイツ留学が国費留学以外に不可能だったという事情を鑑みる向きもある。なお、森鴎外も食事上の栄養価については考慮していて、日露戦争時は新たに兵に十分な肉と野菜を与えるように指示していたが、脚気は細菌に由来すると考えていたため、脚気を考慮していたものではなかった。日露戦争では補給が滞り現地調達も困難であったため、米のみで熱量(カロリー)を補給する事態となり、鴎外らによって麦飯の補給を止められた陸軍では、大量の脚気患者と死者を生み出す結果となった。

『森鴎外全集』には医学に関する論文が多数収められている。また、なぜビールに利尿作用があるのか、といった研究も行っている。軍医であったためか「情勢を報告する・させる」目的から「情報」という言葉を考え出した人物とも言われる(異論もある)。

[編集] 年譜

年齢は数え年

  • 1862年2月17日(文久2年1月19日・1歳) - 石見国津和野藩の津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)に、津和野藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。
    史跡・森鴎外生家
    史跡・森鴎外生家
  • 1867年慶応3年・6歳) - 11月、村田久兵衛から論語を学ぶ。
  • 1868年(慶応4年・7歳) - 3月、米原綱善から孟子を学ぶ。
  • 1869年(明治2年・8歳) - 藩校である養老館で、四書を一から読み直す。
  • 1870年(明治3年・9歳) - 五経、オランダ語を学ぶ。
  • 1871年(明治4年・10歳) - 藩医である室良悦から、本格的にオランダ語を学ぶ。
  • 1872年(明治5年・11歳) - 6月、父とともに向島小梅村へ上京。その後、向島曳舟通りに移る。ドイツ語習得のため、本郷の進文学社に入る。
  • 1873年(明治6年・12歳) - 6月、津和野町の家を売却し、祖母、母なども上京。
  • 1874年(明治7年・13歳) - 1月、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)へ入学。後に東京医学校へ名称が変更される。
  • 1877年(明治10年・16歳) - 東京医学校は東京開成学校と合併し、東京大学医学部へ。そして、鴎外は本科生に。
  • 1880年(明治13年・19歳) - 本郷龍岡町の下宿屋「上条」へ移る。翌年3月、下宿先で火災に遭う。
  • 1881年(明治14年・20歳) - 春、肋膜炎にかかる。7月、東京大学医学部を卒業。文部省広報に「東京府士族 森林太郎 十九年八ヶ月」とみえる。その後、明治政府に仕える。9月、「読売新聞」に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。これが鴎外の初めて公にされた文章であろう。12月、東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医の副の任務に就く。
  • 1882年(明治15年・21歳) - 2月、第一軍管区徴兵副医官になり、従七位の勲等を授かる。5月、陸軍軍医本部課僚になり、プロシア陸軍衛生制度の調査に駆り出される。
  • 1884年(明治17年・23歳) - 6月、陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を命じられる。8月、横浜を出航。10月、ドイツに到着。ライプツィヒ大学でホフマン教授などから学ぶ。『ビイルの利尿作用に就いて』の研究を始める。
  • 1885年(明治18年・24歳) - 1月、ハウフの童話を翻訳した『盗侠行』を発表。2月には、ドイツ語で『日本兵食論』『日本家屋論』を書く。5月、陸軍一等軍医へ昇進。10月、ドレスデンへ移り、軍医監ロートに就く。
  • 1886年(明治19年・25歳) - 3月、ミュンヘンに移る。大学衛生部へ入学し、ペッテンコーフェルから衛生学を学ぶ。
  • 1887年(明治20年・26歳) - 4月、ベルリンへ移る。5月、北里柴三郎とともに、コッホを訪ね、衛生試験所へ入る。
  • 1888年(明治21年・27歳) - 3月、プロシア近衛歩兵第二連隊の軍隊任務に就く。9月、日本へ帰国。10月、陸軍大学校教官へ就任。12月、『非日本食論将失其根拠』を自費で出版。
  • 1889年(明治22年・28歳) - 1月、『東京医事新誌』を主宰。その後、読売新聞で『医学の説より出でたる小説論』が発表され、本格的な文筆活動が始まる。3月、写真婚で、海軍中将赤松則良の長女登志子と婚約。5月、東京美術学校専修科美術解剖学講師に就任。8月、訳詩編『於母影』を「国民之友」に発表。10月、軍医学校陸軍二等軍医正(中佐相当官)教官心得になる。
  • 1890年(明治23年・29歳) - 1月、『医事新論』を創刊。「舞姫」を「国民之友」に発表。8月、「うたかたの記」を「しからみ草紙」に発表。この作品は、石橋忍月との論争の火種になる。9月、長男於菟誕生。しかし、まもなく妻登志子と離婚。10月、本郷駒込千駄木町57に居住を移す。そこを、鴎外は「千朶山房」と呼ぶ。
  • 1891年(明治24年・30歳) - 1月、『文づかひ』を刊行。8月、医学博士の学位を授与される。9月、「山房論文」を「しからみ草紙」に発表。「早稲田文学」で坪内逍遙と没理想論争を交わす。
  • 1892年(明治25年・31歳) - 7月、小説翻訳集『美奈和集』を春陽堂から刊行。8月、医学、文学の論争からしばし離れて、休息を取るために「観潮楼」を建設。11月、アンデルセンの「即興詩人」を「しがらみ草紙」に連載。
  • 1893年(明治26年・32歳) - 11月、陸軍一等軍医正(大佐相当官)になり、軍医学校長に。
  • 1894年(明治27年・33歳) - 8月、日清戦争開戦。軍医部長として中国(盛京省花園口)へ上陸。10月、広島に執務後、11月大連へ上陸。
  • 1895年(明治28年・34歳) - 5月、日清講和条約成立に伴い、日本(宇品)に帰国後、台湾へ赴任。8月、台湾総督府陸軍局軍医部長になる。9月、日本に帰国。
  • 1896年(明治29年・35歳) - 1月、「めさまし草」を創刊。3月、幸田露伴斎藤緑雨らとともに「三人冗語」を「めさまし草」に連載。4月、父静男死去。
  • 1897年(明治30年・36歳) - 1月、中浜東一郎(中浜万次郎=ジョン万次郎の長男)、青山胤通らとともに「公衆医事会」を設立、「公衆医事」を創刊。
  • 1898年(明治31年・37歳) - 10月、近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。
    森鴎外旧居、小倉北区
    森鴎外旧居、小倉北区
  • 1899年(明治32年・38歳) - 6月、第十二師団軍医部長になり、九州・小倉に赴任。
  • 1902年(明治35年・41歳) - 1月、大審院判事荒木博臣の長女志げと再婚。3月、東京に転勤。
  • 1903年(明治36年・42歳) - 1月、長女茉莉誕生。
  • 1904年(明治37年・43歳) - 2月、日露戦争開戦。4月、第2軍軍医部長として、宇品から、中国へ渡る。『うた日記』を書く。
  • 1905年(明治38年・44歳) - 奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。翌年、1月帰国。
  • 1906年(明治39年・45歳) - 6月、山県有朋らとともに歌会「常磐会」を設立。賀古鶴所らとともに幹部に。
  • 1907年(明治40年・46歳) - 3月、与謝野寛伊藤左千夫佐佐木信綱らと「観潮楼歌会」を開く。6月、西園寺公望が主催した歌会「雨声会」に出席。8月、次男不律誕生。10月、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になる。
  • 1908年(明治41年・47歳) - 1月、弟篤次死去。2月、次男不律死去。5月、文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になる。
  • 1909年(明治42年・48歳) - 3月、「スバル」に、口語体小説「半日」を寄稿。以後、頻繁に寄稿する。5月、次女杏奴誕生。7月、文学博士の学位を得る。『ヰタ・セクスアリス』が発売禁止となる。
  • 1910年(毎時43年・49歳) - 2月、慶應義塾大学の文学科顧問となる。
  • 1911年(明治44年・50歳) - 2月、三男誕生。5月、文芸委員会委員になる。9月、「」を「スバル」に連載。
  • 1912年(明治45年・51歳) - 1月、文芸委員会に頼まれていた戯曲『ファウスト』の訳を完結させる。10月、鴎外にとって、初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を「中央公論」に発表。
  • 1913年(大正2年・52歳) - 1月、「阿部一族」を「中央公論」に発表。
  • 1914年(大正3年・53歳) - 1月、「大塩平八郎」を「中央公論」に発表。2月、「堺事件」を「新小説」に発表。
永明寺の墓
永明寺の墓
  • 1915年(大正4年・54歳) - 1月、「山椒大夫」を「中央公論」に、「歴史其儘と歴史離れ」を「心の花」に発表。11月、大嶋次官に辞意を表明。同年、渋江抽斎の研究を始める。
  • 1916年(大正5年・55歳) - 1月、「高瀬舟」を「中央公論」に、「寒山拾得」を「新小説」に発表。「渋江抽斎」を「日日新聞」に連載。3月、母峰子死去。
  • 1917年(大正6年・56歳) - 12月、帝室博物館総長に就任。高等官一等に叙せられる。
  • 1918年(大正7年・57歳) - 11月、正倉院宝庫開封に立ち会うため奈良に一時滞在。以後1921年まで毎秋、奈良を訪れた。
  • 1919年(大正8年・58歳) - 9月、帝国美術院の初代院長に就任。
  • 1920年(大正9年・59歳) - 1月、腎臓を病む。
  • 1921年(大正10年・60歳) - 6月、臨時国語調査会長に就任。秋、足に浮腫が出来はじめるなど、腎臓病の兆候が見られ始める。
  • 1922年(大正11年・61歳) - 4月、イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の旅行。途中、いくどか病臥する。6月29日、萎縮腎と診断される。また、肺結核の兆候も見られた。7月6日、友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。7月9日、午前7時死去。向島弘福寺に埋葬される。
  • 1927年昭和2年) - 墓が三鷹市禅林寺に移される。分骨され津和野町永明寺にも墓がある。

[編集] 主な作品

[編集] 小説

  • 舞姫(1890年1月、「国民之友」)
  • うたかたの記(1890年8月、「国民之友」)
  • 文づかひ(1891年1月、吉岡書店)
  • 半日(1909年3月、「スバル」)
  • 魔睡(1909年6月、「スバル」)
  • ヰタ・セクスアリス(1909年7月、「スバル」)
  • 鶏(1909年8月、「スバル」)
  • 金貨(1909年9月、「スバル」)
  • 杯(1910年1月、「中央公論」)
  • 青年(1910年3月 - 11年8月、「スバル」)
  • 普請中(1910年6月、「三田文学」)
  • 花子(1910年7月、「三田文学」)
  • あそび(1910年8月、「三田文学」)
  • 食堂(1910年12月、「三田文学」)
  • 蛇(1911年1月、「中央公論」)
  • 妄想(1911年4月、「三田文学」)
  • (1911年9月 - 1913年5月、「スバル」)
  • 灰燼(1911年10月 - 12月、「スバル」)
  • 百物語(1911年10月、「中央公論」)
  • かのように(1912年1月、「中央公論」)
  • 興津弥五右衛門の遺書(1912年10月、「中央公論」)
  • 阿部一族(1913年1月、「中央公論」)
  • 大塩平八郎(1914年1月、「中央公論」)
  • 堺事件(1914年2月、「新小説」)
  • 安井夫人(1914年4月、「太陽」)
  • 山椒大夫(1915年11月、「中央公論」)
  • じいさんばあさん(1915年9月、「新小説」)
  • 高瀬舟(1916年1月、「中央公論」)
  • 寒山拾得(1916年1月、「新小説」)

[編集] 戯曲

[編集] 翻訳

[編集] 史伝

  • 渋江抽斎(1916年1月 - 5月、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」)

[編集] 家族 親族

妻子

  • 先妻 登志子(海軍中将赤松則良娘)
    • 長男 於菟(医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)
  • 後妻 - 志け
    小説「波瀾」を著しており(『樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集』現代日本文学大系5、筑摩書房、1972)、義妹の小金井喜美子とともに雑誌「青鞜」の賛助員になっている。
    • 長女 森茉莉(随筆家・小説家)
    • 次女 小堀杏奴(随筆家)
    • 次男 不律(夭折)
    • 三男 (随筆家)

4人の子供はいずれも鴎外について著作を残しており、とりわけ茉莉(国語教科書に載った『父の帽子』)と杏奴(『晩年の父』)が有名である。

弟妹

  • 弟 森篤次郎(三木竹二)
    明治期を代表する劇評家で、開業医。演劇雑誌「歌舞伎」を主宰し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した(三木竹二『観劇偶評』岩波文庫、2004)。
  • 妹 小金井喜美子
    明治期に若松賤子と並び称された翻訳家で、また随筆家・歌人でもあった(『鴎外の思い出』岩波文庫、1999。『森鴎外の系族』岩波文庫、2001)。
  • 義弟 小金井良精
    喜美子の夫。大学出の初期の官費留学生であり(鴎外の前年に留学)、帰国後、27歳で東京帝国大学医学部教授になっている。

小金井夫妻の孫の一人が小説家の星新一

傍系

  • 西周
    鴎外の曾祖父の次男、森覚馬が西家を継いで生まれた子で、幕末明治維新の西洋法学者。上京後の一時期、鴎外少年は西周邸から進文学社に通学した。

[編集] 系譜

玄佐━玄篤━玄叔━周菴━玄佐━玄碩━玄叔━周菴━秀菴━立本━秀菴━白仙━静泰━┳林太郎      
                                       ┣篤次郎
                                       ┣喜美子
                                       ┗潤三郎

[編集] その他

  • 常日頃、文人の自分と武人のそれを厳格に分けて考えていた。あるとき文壇の親しい友人が軍服を着て停車場にいた森に何気なく話しかけたら、その友人を怒鳴りつけたことがある。
  • 軍人としての誇りが高く、娘と散歩する時にも必ず軍服に着替えた。あるとき杏奴と散歩をしていると、「わー中将が歩いているぞ」と子供たちがバラバラと駆け寄ってきた。日露戦争後で、軍人が子供たちのヒーローであったのである。得意満面の鴎外を、あこがれの目で見つめていた子供たちの一人が、襟の深緑色を見て、「おい、なんだ、軍医だよ」と声をあげると、「なーんだ、軍医かあ」と言いながら子供たちは散ってしまった。あとには呆然として立ち尽くす父娘が残され、がっかりとした鴎外は帰宅するまで、一言もしゃべらなかったという。
  • 鴎外が軍医総監にまで上り詰めた背景には、長州閥との接触にあった。鴎外の出身地である津和野は石見の中でも長州と関係が深く、鴎外は徹底的に山縣有朋にすり寄った。乃木稀典との親交も、同じ長州閥のためであった。
  • 1892年東京都文京区へ建設し、晩年まで過ごした住居「観潮楼」跡地に、文京区立本郷図書館鴎外記念室がある。
  • 細菌学を究めて以来、パスツール同様潔癖症になってしまい、どんな食べ物も加熱しないと食べられなくなってしまったという。その一方で、風呂嫌いでもあった。
  • 大の甘党でもあり、娘(茉莉・杏奴)の著書によると饅頭茶漬けにして食べていたという。これは潔癖症も原因で、食品を砂糖漬けにしたり、熱湯をかければ細菌は死滅するから、という考えもあったようだ。

[編集] 鴎外の登場する作品

  • 「タイムスリップ 森鴎外」(小説・2005,鯨統一郎
    森鴎外が、彼の命を狙う何者かに襲われ、現代(平成)の渋谷・道玄坂にタイムスリップ。そこで女子高生・麓麗(ふもと うらら。実はこっちが主人公)達に助けられ、元いた時代へ帰る方法を探っていく内、文学史上の大きな謎に突き当たり、また彼の命を狙う者の秘密も明らかになっていく。刺客からの目をくらますため、髪を金髪に染め、情報を得るために携帯電話・ワープロ・インターネットを使いこなし、戦う体力をつけるためジムやダンス教室に通い、ラップやブレイクダンスまで披露してしまう、とても大正時代の60歳とは思えない活躍ぶり。
    現代の文学状況を知るにつれ、友人でありライバルでもあった夏目漱石の本が、自分より多く出版されていることを知って、ちょっと落ち込むところなど、かわいげを感じる部分も。
    本名の森林太郎から、うらら達に「モリリン」と呼ばれ親しまれている。
  • 栄光なき天才たち」(コミック)
    北里柴三郎の友人として登場するが、彼の研究には懐疑的・批判的な立場を取る。ある時は彼が恩師の研究を否定した事を、道義にもとるとして(学術上の是非とは無関係に)恫喝を加えている。
  • 「歴史」(楽曲・2004年 エレファントカシマシのアルバム『扉』の一曲目)

 日本のロックバンドであるエレファントカシマシのボーカル・ギター担当の宮本浩次が森鴎外の作品を敬愛しており、鴎外の歴史をその生き様とも重ね合わせ、現代に生きる自らの生き様を自問自答する楽曲。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 第一大学区医学校予科に入学。
  2. ^ 『講座 森鴎外』第1巻、15頁。なお同書は、学生、作家、軍医、家庭人の側面から、鴎外の実像にせまっている。
  3. ^ 小堀杏奴『晩年の父』、195-196頁。林尚孝『仮面の人・森鴎外』、小平克『森鴎外「我百首」と「舞姫事件」』など。林尚孝はドイツ人女性をエリーゼ・ヴィーゲルトとする。エリーゼ・ヴァイゲルト(Elise Weigert)説もあり、また当時既婚者であったエリーゼ・ヴァイゲルト説を否定し、裕福な既製服店の娘アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(Anna Berta Luise Wiegert)とする新説もある。AnnaとLuiseが鴎外の子供達の名と一致することも指摘されている(植木哲『新説 鴎外の恋人エリス』 新潮選書 2000年)。
  4. ^ 森鴎外と「エリス」―ドイツ・ベルリン
  5. ^ 鴎外の「翻訳」(広義)ぶりの現代的意味は、長島要一『森鴎外 文化の翻訳者』が参考になる。
  6. ^ この人事は、鴎外本人の受け止め方を別にして当時の状況を踏まえれば、左遷と言えるのか疑問視する声もある。松本清張『両像・森鴎外』、108-111頁
  7. ^ 乃木希典の殉死と「興津弥五右衛門の遺書」に関する通説・定説には、批判もある。池内健次『森鴎外と近代日本』、147-157頁
  8. ^ 「空車」(むなぐるま)に対し、これまで様々な解釈がなされている。近年も注目すべき解釈が提示された。池内『前掲書』、198-207頁
  9. ^ この点は、猪瀬直樹『天皇の影法師』が詳しい。
  10. ^ そうした鴎外の女性観については、金子幸代『鴎外女性評論集』が参考になる。同書には、一葉や晶子やらいてうの評なども集められている。また、金子幸代『鴎外と〈女性〉』には、鴎外と女性解放運動に関する記述があり、らいてうの回想文を引用(322頁)し、鴎外が日本初の女性団体新婦人協会の設立にどう関わったのか等を紹介している。ちなみに、若き日の鴎外は、1885年にドイツ初の女性団体「独逸婦人会」(1865年設立)の第13回総集会を傍聴している。
  11. ^ 弟子の有無に限らず、松本清張による鴎外と漱石の比較が興味ぶかい。松本『前掲書』、93-97頁。なお、鴎外と漱石の対比は、生前の鴎外を知る平塚らいてうもしており、金子『鴎外と〈女性〉』、314-315頁で読むことができる。
  12. ^ 家庭では良き父であった。森まゆみ『鴎外の坂』最終章
  13. ^ 平時よりもはるかにストレスの溜まりやすい戦場において、食事は重要な娯楽のためである。また食事が士気に影響することは軍隊に限らず、スポーツなどの場面でも言われている。
    しかし、この当時は「海軍のメシはうまい(西欧食中心であったため)」が陸軍兵士の羨望であり、かつ脚気が海軍で少ないこと、栄養に原因がありそうだという噂も一部の上級将校は知っており、ひっそり戦地で麦飯を調達する将校すらいた。ただ、上述のような事情があるため、下士官以下には海軍の健康状況は伏せられた。

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

ウィキソース
ウィキソース森鴎外の原文があります。
ウィキクォート
ウィキクォート森鴎外に関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズ


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