星新一
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星 新一(ほし しんいち、本名・星 親一、男性、大正15年(1926年)9月6日 - 平成9年(1997年)12月30日)は日本の小説家、SF作家。血液型はO型。
東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれ育つ。父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一。本名の親一は一のモットー「親切第一」の略で、弟の名前の協一は「協力第一」の略。イラストレーターのほししんいちとは全く関係がない。
ショートショート(掌編小説)を数多く残し、多作さと作品の質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショートの神様」と呼ばれ、生涯で1001編以上の作品を残す。『ボッコちゃん』『悪魔のいる天国』『おせっかいな神々』『ノックの音が』など多くの短編集がある。また『明治・父・アメリカ』、父親を書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。小松左京・筒井康隆と並んで「御三家」と称される、日本を代表するSF作家として知られている。
目次 |
[編集] 略歴
大正15年(1926年)、東京・本郷に生まれる。母方の祖父の家がある本郷で昭和20年(1945年)まで育つ。
東京女子高等師範附属小(現・お茶の水女子大学附属小)から東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進む。附属中在学中に対米開戦。これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修(飛び級)で旧制の官立東京高等学校(現・東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承)に入学。このため秀才と呼ばれたが戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。高等学校在学中、満16歳の時に1年間の寮生活を経験。当時の寮生活について、後年「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」[1]、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」[2]と回想した。
昭和23年(1948年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業。高級官吏採用試験である高等文官試験(現在の国家公務員I種試験)に合格したが内定を取ることに失敗。なおかつ役人嫌いの父親に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究。昭和25年(1950年)に大学院の前期を終了する。卒業論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」であった[3]。
昭和24年(1949年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。おそらく、星の初めての作品である。
昭和26年(1951年)、一が急逝したため同大学院を中退し、一の会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻。会社を他人に譲るまでその処理に追われたという。星製薬倒産の経緯は『人民は弱し 官吏は強し』にも少なからず触れられている。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた。のちに星自身は「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な空飛ぶ円盤に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加。この研究会は三島由紀夫、石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。
昭和32年(1957年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊。第2号に発表した『セキストラ』が当時江戸川乱歩の担当編集だった大下宇陀児に注目され[4]、「宝石」に転載されてデビューした。
昭和33年(1958年)には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生、樹下太郎、佐野洋、竹村直伸、水上勉、結城昌治と参加。
昭和35年(1960年)には「ヒッチコック・マガジン」に作品が載り、また「文春漫画読本」から注文がくる。
昭和36年(1961年)、医者の娘で小牧バレエ団のバレリーナだった村尾香代子と見合い結婚。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。
昭和38年(1963年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加。SF作家仲間たちと新宿の中華料理屋に集まり、SF的な雑談に興じたが、なかでも星の「異常な発想の毒舌発言」はその中でも群を抜いていて、他のSF作家たちの回想文等で神話的に語られている。その一部は『SF作家オモロ大放談』(いんなあとりっぷ社、1977年。のちに角川文庫に収録され『おもろ放談』(1981年)と改題)で読むことができる。また、平井和正は星の異常な発言をテーマにした「星新一のインナースペース」という短編小説を発表している。
同年、日本SF作家クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。また、この年に福島正実と二人で、特撮映画『マタンゴ』の原案を担当している。
以降、40代~50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。
昭和54年(1979年)、「星新一ショートショート・コンクール」の選考開始。
昭和55年(1980年)、日本推理作家協会賞の選考委員を務める。昭和56年(1981年)まで。
昭和58年(1983年)、この年の秋に「ショート・ショート1001編」を達成。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため「1001編目」の作品はない。
それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版されるつど「現代にそぐわない記述」を延々と、改訂し続けていた。
平成9年(1997年)12月30日18時23分、東京都の病院で間質性肺炎のために死去、71歳没。
平成19年(2007年)、死後10年目に星が残していた大量のメモ類と、関係者への大量のインタビューによる最相葉月の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。
[編集] 受賞(受賞候補)歴
- 昭和36年(1961年)2月、ショートショート6編(『弱点』、『生活維持省』、『雨』、『誘拐』(『その子を殺すな!』)、『信用ある製品』、『食事前の授業』)で直木賞の候補作に選ばれる。
- 昭和37年(1962年)、ショートショート集『人造美人』、ショートショート集『ようこそ地球さん』(旧バージョン)、ショートショート集『悪魔のいる天国』で第15回日本推理作家協会賞候補。
- 昭和40年(1965年)、長編小説『夢魔の標的』で第18回日本推理作家協会賞候補。
- 昭和43年(1968年)、ショートショート集『妄想銀行』で第21回日本推理作家協会賞を受賞[5]。
- 昭和56年(1981年)、「マンボウ・マブゼ共和国」(北杜夫の小説に登場する架空の国)から文華勲章が授与される。「日本の勲章ならみっともなくて下げておられぬが、外国の勲章なら……」と語った。
- 平成10年(1998年) - 第19回日本SF大賞特別賞を受賞[6]。
[編集] 親族
サーファーで反戦団体「ワールドマップ(World MAP: Mothers Acting for Peace)」代表の星マリナは次女。母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の小金井良精と森鴎外の妹・小金井喜美子である。また小説家・鈴木俊平は父の妹の孫[7]。
[編集] 作品の特徴
星の作品、特にショートショートにおいては通俗性を出来る限り排し、具体的な地名・人名といった固有名詞はあまり登場させない。また、例えば「100万円」とは書かずに「大金」・「豪勢な食事を2回すれば消えてしまう額」などと表現するなど、地域・社会環境・時代に関係なく読めるよう工夫されている。また、機会あるごとに時代にそぐわなくなった部分を手直し(「電子頭脳」を「コンピュータ」に、「ダイヤルを回す」を「電話をかける」に直すなど)したという。激しい暴力や殺人シーン、性行為の描写は非常に少ない。このことについて星は「希少価値を狙っているだけで、別に道徳的な主張からではない」「単に書くのが苦手」という説明をしている。加えて、時事風俗は扱わない、前衛的な手法を使わない等の制約を自らに課していた。
ショートショートの主人公としてよく登場する「エヌ氏」「エフ氏」の名は、星の作品を特徴づけるキーワードとなっている。作品ごとに境遇・容姿・年齢・性格などは異なっていて、同一人物ではないと思われる。
作品は20言語以上に翻訳され、世界中で読まれている。冷戦を扱った作品が英語・ロシア語に翻訳され、米ソ両国で読まれていた事は星の作品の普遍性の高さを示している。
寓話的な内容の作品が多く、星も自らを「現代のイソップ」と称していた。その柔軟な発想と的確に事物の本質をつかんだ視点の冷静さから多くの読者を獲得したほか、学校教科書やテレビ番組『週刊ストーリーランド』(「殺し屋ですのよ」など)・『世にも奇妙な物語』(「おーい でてこーい」「ネチラタ事件」など)の題材に採用されている。
評論家の浅羽通明は自身の評論内で星のショートショートをしばしば引用し、どんな時代になっても通用する星作品の「普遍的な人間性への批評」を強調している。
また、筒井康隆は星の作品について、ストイシズムによる自己規制と、人間に対する深い理解、底知れぬ愛情や多元的な姿勢が、彼の作品に一種の透明感を与えていると評した。その一方で日本人が小説において喜ぶような、怨念や覗き趣味、現代への密着感やなま臭さや攻撃性が奪われ、結果として日本の評論家にとっては星の作品が評価しづらくなり、時として的はずれな批評をすることになったと指摘している。もっともこれは、星の作品そのものに対する批判ではなく、星の作品が真に理解されないという趣旨と思われる。また、星は後期の作品においてその形式を大きく変化させたが、筒井はその事にも触れ、星は数十、数百に及ぶ膨大な対立概念・視点・プロット・ギャグ・ナンセンスのアイデアを持っており、後期の作品に見られる「価値の相対化」「ラスト一行の価値転換によるテーマ集約の排除」といった変化は、彼の視点のアイデアのうちのほんの一例に過ぎないと評価している[8]。
挿絵の多くは真鍋博や和田誠が担当している。真鍋とは特に初期からの名コンビで、真鍋の挿絵を星がセレクトした『真鍋博のプラネタリウム 星新一の挿絵たち』という本も出している。
アメリカの1コマ漫画の収集家でもあり、それらをテーマ別に紹介した『進化した猿たち』(全3巻)という本も刊行している。さらに官僚の壁に立ち向かい、そして敗れた父・一を描いた『人民は弱し 官吏は強し』、明治時代の新聞の珍記事を紹介した『夜明けあと』のようなSF以外の近代史ノンフィクションや『気まぐれ - 』で始まるタイトルのエッセイ集なども多数残している。
[編集] 人物
容貌や作風から穏やかなイメージがあるが、実生活でも破天荒なギャグを連発するなど「奇行の主」と呼べる側面があった。同行している作家仲間を驚かせることもしばしばだったという。特に筒井の初期短編は、星の座談でのギャグに大きく影響を受けているといわれる。こうした奇想天外な発言の数々は、『星語録』として作家仲間やファンの間で語り継がれている。しかし、文庫解説等では、(育ちがいいこともあり)しばしば紳士的な人物と書かれた。世代・生育環境が近いこともあり北杜夫とも親交が深く、北の随筆にもたびたびエピソードが取り上げられている。
星製薬が人手に渡った後も永らく星薬科大学評議員という肩書きがあった。なお、手塚治虫の漫画『ワンダースリー』の主人公・「星真一」の名前は彼に由来する。星新一自身は、手塚の息子の手塚眞にちなんでいる可能性も考えていた[9]。
なお、『三田文学』1970年10月号で、福島正実と「SFの純文学との出会い」という対談をした際、星が「ネパールに、ヒューマニズムに燃えた外国の医師団が乗り込んで病気を治し、死亡率をさげた結果、人口が増えて貧民が多数発生した。一種のヒューマニズム公害と言える」と発言したところ、同席していた編集者は「公害が文学になるのですか?」「問題があるのはわかりますが、どうして文学がそんなものに、こだわらないといけないのですか?」と、的外れな応答をした。星はあきれて、「文学が想像力を拒否するものだとは思わなかった。ぼくが純文学にあきたらなくなった理由がわかった」と発言した。SF的発想に対する「純文学側の無理解」として、有名なエピソードである。
作品のアイデア同様、他の作家とは着眼点が異なり、第1回奇想天外SF新人賞の選考委員として、小松や筒井がほとんど問題にしなかった新井素子の『あたしの中の……』を強力にプッシュし(結果は佳作入選)、作家として活躍していくきっかけを作った[10]。ただ一人、選考委員を任じたショートショート・コンクール(のちにショートショート・コンテストと名称変更)からも数千にも及ぶ作品の中から、後にプロとして確固たる活躍をしていく作家を多数発掘しており、その慧眼ぶりを発揮しつつ後進に道を拓いている。
とはいえ、星といえどもショートショートに万能というわけではなかった。星新一ショートショート・コンテストとほぼ同時期に募集・発表があったショートショート・コンテスト「ビックリハウス」のエンピツ賞受賞作については「感性を非常に重視した作品」が選ばれており理解が及ばず、お手上げの状態だったという。また、向田邦子の直木賞受賞作を含むショートショート集『思い出トランプ』についても、好みでない旨を語っていた。星新一ショートショート・コンテストの選考においても、そのような作品は選外とした旨を語っていた。
生前は自己の作品の映像化・戯曲化をほとんど許さず、アニメ化を持ちかけた製作会社ガイナックスの武田康廣に「自分の作品がいじくられるのは真っ平ごめんだ。やるなら俺が死んでからにしてくれ。それなら文句は言わない」と断っている。小松はこの件を聞き、「星さんならそう言うだろう」と武田に語り、自作の作品のテレビアニメ化『小松左京劇場』を快諾したという[11]。例外的に短編のいくつかが、アニメーション作家の岡本忠成によって人形アニメーションとして製作されている。
昭和49年(1974年)、超能力ブームが起き超能力者を名乗る人物が何名も出現した際、「空中に投げたスプーンが、途中で、くの字に曲がるのだ」「これは大事件ですぞ。どうして新聞各社は報道しないのですか」などと朝日新聞記者にからんだ。からまれた記者は報道のため、超能力の現場をストロボ分解写真で写すなど取材を開始。その結果、超能力と称するものが一種の手品のたぐいである事が発覚し、記事は朝日新聞系の『週刊朝日』に掲載される。その際「超能力者が現実に現れたら、SF作家は失業してしまいますからね」と述べた。
また、「リスクもなく大きな儲けが出る」と称して大量の人から金銭を集める詐欺行為の被害者について、「騙された者は、欲に目がくらんだ者であり、救ってやる必要などない」などと辛らつな内容をエッセーに書いていた。別のエッセー集『できそこない博物館』では、一が急逝し業務を引き継いだ星製薬時代のことを指していると思われる「不渡り手形を掴まされれば、誰だって人間不信になる」といった一文を目にすることができる。
[編集] 星新一ショートショート・コンテスト
昭和54年(1979年)より始まった星の選考によるショートショート作品のコンテスト。毎年の優秀作品は単行本として出版されている。星の死後も選者を阿刀田高に変え、マイナー・チェンジを繰り返しながら継続中。受賞者のなかでも江坂遊の才能は非常に評価しており、星自身は「唯一の弟子」と考えていて江坂の子供の名づけ親にもなった。
[編集] 主な受賞者
- 昭和54年(1979年)入選
- 昭和55年(1980年)入選
- 昭和56年(1981年)入選
- 太田忠司(推理小説作家)
- 昭和57年(1982年)入選
- 昭和58年(1983年)入選
- 井上雅彦(ホラー作家)
- 斎藤肇(推理小説作家)
- 昭和59年(1984年)入選
- 昭和60年(1985年)入選
- 山口タオ(絵本作家)
- 矢崎存美(SF作家)
- 宏奈和泉(SF作家)
- すやまたけし(介護福祉作家)
- 小説現代コンテスト
[編集] 作品
- 生命のふしぎ (1959)
- 少年向けの科学解説書。現在絶版。
- 人造美人(1961)
- 初の短編集。30篇収録であり、現在の自選集『ボッコちゃん』とは異なる。
- ようこそ地球さん(1961)
- 31篇収録。星によると「ガガーリン少佐を乗せた初の人工衛星発射のおかげもある」とのこと。
- ボンボンと悪夢(1962)
- 宇宙のあいさつ(1963)
- 気まぐれ指数(1963)
- ユーモアミステリー小説。初の長編。東京新聞に連載された。
- 花とひみつ(1964)
- 和田誠挿絵による限定版であり、私家版。現在は絶版。
- 妖精配給会社(1964)
- 夢魔の標的(1964)
- はじめてのSF長編。SFマガジンに連載された。
- おせっかいな神々(1965)
- ノックの音が(1965)
- いずれも「ノックの音が」の文ではじまる連作もの。
- エヌ氏の遊園地(1966)
- 黒い光(1966)
- 少年向けSF8篇収録。現在絶版だが、『ちぐはぐな部品』に数編が改稿の上収録されている。
- 気まぐれロボット(1966)
- 子ども向けショートショートに童話を加えたもの。
- 妄想銀行(1967)
- 盗賊会社(1968)
- マイ国家(1968)
- 午後の恐竜(1968)
- ひとにぎりの未来(1969)
- 宇宙の声(1969)
- 小学生向けSF中編。絶版。
- おみそれ社会(1970)
- 声の網(1970)
- 12章よりなるSF短編連作。
- ほら男爵・現代の冒険(1970)
- 「ほら男爵」ことミュンヒハウゼン男爵の子孫の冒険を描く、連作短編集。
- だれかさんの悪夢(1970)
- 4章より成るユーモア長編。
- 未来いそっぷ(1971)
- ボッコちゃん(1971)
- 『人造美人』『ようこそ地球さん』の中から19編を選び、それにほかの短編集に収録の作品を加えて50編にまとめた自選短編集。
- なりそこない王子(1971)
- 誰も知らない国で(1971)
- 書き下ろし長編の少年もの。後に『ブランコの向こうで』に改題された。
- さまざまな迷路(1972)
- にぎやかな部屋(1972)
- 戯曲。
- ようこそ地球さん(1972)
- 自選集である『ボッコちゃん』に収録しなかった、『人造美人』と『ようこそ地球さん』(1961年)の残りの42篇を集めた短編集。
- おかしな先祖(1972)
- ユーモアSF短編10編。
- 殿さまの日(1972)
- 城のなかの人(1973)
- かぼちゃの馬車(1973)
- ごたごた気流(1974)
- 夜のかくれんぼ(1974)
- おのぞみの結末(1975)
- たくさんのタブー(1976)
- 白い服の男(1977)
- どこかの事件(1977)
- 安全のカード(1978)
- ご依頼の件(1980)
- 地球から来た男(1981)
- ありふれた手法(1981)
- 凶夢など30(1982)
- どんぐり民話館(1983)
- これからの出来事(1985)
- 竹取物語(1987)
- 日本最古の物語とされる『竹取物語』を現代語訳したもの。
- つねならぬ話(1988)
- 神話的な物語を描いた短編集。
[編集] エッセイ集
- 進化した猿たち(1968)
- アメリカの一コマ漫画の紹介とエッセイ。絶版。
- 新・進化した猿たち(1968)
- 進化した猿たちの続編。のちに再編集し、『進化した猿たち 1・2・3』の3冊で文庫化される。ただし現在はいずれも絶版。
- きまぐれ博物誌(1971) 絶版
- 気まぐれ星のメモ(1968) 絶版
- きまぐれ暦
- きまぐれフレンドシップ(1980)
- きまぐれ読書メモ(1981)
- きまぐれエトセトラ(1983)
- あれこれ好奇心(1986)
- きまぐれ学問所(1989)
- きまぐれ遊歩道(1990)
- できそこない博物館
- 小説の発想についてのエッセイ集。
[編集] ノンフィクション
- 人民は弱し官吏は強し(1967)
- 実父である星製薬の創立者・星一の栄光と悲劇を描いたノンフィクション。
- 祖父・小金井良精の記(1974)
- 明治・父・アメリカ(1975)
- 星の父の少年・青年期を描いたもの。
- きまぐれ体験紀行(1978)
- ソ連、東南アジアの旅行記。
- 明治の人物誌(1978)
[編集] 作品集
- 『星新一の作品集』 全18巻 新潮社、昭和49年(1974年) - 昭和50年(1975年)
- 『星新一ショートショート1001』 全3巻 新潮社、平成10年(1998年) ISBN 4-10-319426-X
[編集] 翻訳
- アイザック・アシモフ『アシモフの雑学コレクション』 新潮社、昭和61年(1986年) ISBN 4-10-218604-2
- ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』 早川書房、昭和41年(1966年)
- フレドリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』 早川書房
- フレドリック・ブラウン『フレドリック・ブラウン傑作選』 サンリオ、昭和57年(1982年)
なお、この1963年の『Magazine of Fantasy and Science Fiction 6月号』に『ボッコちゃん』が英訳。 1966年には短編『景品』がロシア語に訳され、『冬きたりなば』が同国の『世界SF選集』の国際短編アンソロジーに収録された。
[編集] 星新一に関する作品
[編集] 星新一作品の漫画化
- 川口まどか『コミック・星新一午後の恐竜』 秋田書店、平成15年(2003年)
- 鬼頭莫宏、羽央、東山むつき、阿部潤、人見茜、川口まどか、鈴木志保『コミック星新一 空への門』 秋田書店、平成16年(2004年)
[編集] 星新一作品の映像化
- 「ゆきとどいた生活」、「肩の上の秘書」、「プレゼント」、「包囲」、「愛用の時計」の5編。
- 上記パイロット版の反響を受けてのシリーズ化。毎週3編をそれぞれ実写・手描きアニメ・CGアニメで映像化。
[編集] 伝記
- 最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、平成19年(2007年)) ISBN 9784104598021
[編集] 脚注
- ^ 星新一『きまぐれ読書メモ』p.20(有楽出版社、昭和56年(1981年))
- ^ 『きまぐれ暦』p.225(新潮文庫、昭和54年(1979年))
- ^ 「星新一年表」『別冊新評 「星新一の世界」 76 AUTUMN』、新評社、昭和45年(1970年)、p202。
- ^ ただし最相葉月は『星新一 一○○一話をつくった人』(新潮社、平成19年(2007年))のpp.208-217で「矢野からしきりに『セキストラ』を読むよう勧められた乱歩は、一読してこれは傑作だと思い『宝石』に掲載することを考えたが、自分が責任編集をしている雑誌に自分が推薦するのではどうも具合が悪い。そこで乱歩が大下宇陀児に『提灯もち』(『矢野徹・SFの翻訳』)を依頼し、九月末発行の十一月号でデビューさせることになった」「大下が推賞したのは事実であるとしても、大下が『発掘』したというのは宣伝用の惹句で、矢野が書き残している通り、乱歩から依頼された大下の『提灯もち』が、いつのまにか大下の『発掘』という定説になってしまった」と述べている。その根拠として当事者だった矢野の証言の他、肝心の大下本人の推賞文が短い一文しか存在しないこと、それに比して乱歩が『宝石』の『セキストラ』末尾に記したルーブリックは約800字と長く、作品の具体的内容にまで言及して絶賛していることなどを挙げている。
- ^ 昭和43年(1968年) 第21回 日本推理作家協会賞
- ^ 日本SF大賞
- ^ 『きまぐれ読書メモ』p.219(有楽出版社、昭和56年(1981年))
- ^ 『ボッコちゃん』解説(新潮社)
- ^ 星新一「文句を言い忘れた『W3』の主人公名」『朝日ジャーナル臨時増刊 手塚治虫の世界』朝日新聞社、1989年。
- ^ http://moto-ken.cool.ne.jp/profile/senko.html
- ^ 武田康廣『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを創った男たち』ワニブックス、2002年、p120-p121。