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花井卓蔵 - Wikipedia

花井卓蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花井 卓蔵(はない たくぞう、1868年7月31日慶応4年6月12日) - 1931年12月3日)は、明治大正に活躍した弁護士。戦後第3代検事総長・中央大学教授を勤めた花井忠の岳父。花井卓蔵の息子・立原元夫ベルリンオリンピックに出場した元サッカー日本代表選手

目次

[編集] 苦学して代言人へ

1863年備後国御調郡三原町(現広島県三原市)に誕生。士族立原四郎右衛門の四男として生まれ、その後、分家により花井姓を名乗った。幼年期から神童と謳われ、10歳の時に進学のため上京するが、経済的に困窮し3年後に帰郷する。その後、小学校の代用教員として勤務する傍ら、長谷川桜南の門下生となり、高楠順次郎らと桜南舎で学ぶ。その後3年間ほど教員を務めるが、高楠とともに自由民権運動に参加し、これが原因で教員を免職される。その後再び上京し苦学しながら、1888年英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業。翌々年の1890年12月には23歳で代言人試験に合格、当時の法曹界最年少者であった。

[編集] 刑事弁護の第一人者

足尾鉱毒事件では弾圧された農民、1901年大逆事件では幸徳秋水らを弁護するなど、現在で言ういわゆる人権派弁護士として活躍。1910年星亨暗殺事件に関する弁護では、新聞に「花井の弁論は奇警にして論理明快」と評された。その他、国民大会事件(日比谷焼き打ち事件)、シーメンス事件米騒動満鉄疑獄など多くの重大事件の弁護を担当する。

41年間にわたる弁護士活動において1万件ほどの刑事事件を担当したといわれ、貧しい平民からの依頼も積極的に引き受けた。このため、実践的な刑事法学を深く修めた刑事弁護の第一人者とも、原嘉道と並ぶ在野法曹の雄とも称された。1926年松島遊郭疑獄での被告弁護人を最後に第一線を退き、1929年7月に弁護士登録を抹消した。

[編集] 政治家として

1898年から1917年まで衆議院総選挙に計7回当選し、後に衆議院副議長を務め、1923年からは貴族院議員に勅任され、その弁論は「歴代政府の鬼門」として恐れられた。またこの間の1902年には河野広中中村弥六らとともに「何ぞ独り参政の権利を10円以上の納税者のみに制限するの理あらんや…」との理由を付したわが国はじめての普選案を衆議院に提出した(否決)。1906年には法律取調委員として刑法改正案を作成、その後、陸海軍軍法会議法や当時としては画期的な陪審法案の成立などにも関わり、審議における若槻礼次郎との丁丁発止のやり取りでも名をはせた。

こうした功績を評価され、1909年には帝国大学官立大学以外の卒業生として初の法学博士号を文部大臣より授与された(第二次世界大戦前の博士号に関しては学位参照。)。

[編集] 実務界と法理論の間

苦学時代に目をかけてくれた人物に、のちに興行界の大物で帝都の名士を集めた「常陸山会」の幹部となる山田喜久太郎がおり、浅草吉原の表と裏を知り尽くした山田は後に至るも花井の力になったとされる(『鉄砲喜久一代』より)。

またこれものちに総会屋の大物となる久保祐三郎も交流をもった一人であり、森川哲郎の『総会屋』によると、株主総会の運営を正常化するため、ワン株屋と呼ばれる人間たちの面倒を見ていた花井は、記者時代の久保に総会運営の研究を勧めたと記述している。

これらの、いわばアンダーグラウンドの世界の人士と弁護士花井との交流は、大正中頃からの社会の底辺の者たちも国家主義の看板を背負わなければ活動が難しい状況があり、彼らが抱いていた在野法曹の雄としての花井に対する何らかの期待も読み取れよう。

[編集] 逝去

晩年は、朝日新聞法律顧問を務める傍ら、法制審議会副総裁・同刑法調査委員長を務め、法曹実務よりも立法面に尽力していたが、1931年に東京・神田の自宅兼事務所の寝室にてガス中毒(就寝中に、ガス火鉢のガス管が何らかの理由で外れたため)により死去した。ちなみに、通夜・葬儀には多くの法曹関係者が駆けつけたため、いくつかの重要裁判の公判が延期となるなど、花井の法曹界における影響力がうかがえる。

なお、花井の訃報を報じる朝日新聞のコラム天声人語において、花井の人となりが次のように簡潔明瞭に記されている。

『…錆のある音声と、華やかな弁舌と、辛辣な立論と、刑事弁論の社会的地位を定めた感あり。毎議会では政府の鬼門的存在を示して、波乱を巻き、然れども怒って敵を作らず、撃ってこれを愛撫する処世の妙は、範とするに足る。「何人も見る権利あり今日の月」の名吟を残す一方、「法に涙あり」の主張が、しばしば法廷に時ならぬ涙の雨を降らせた…』(昭和6年12月5日付東京朝日新聞朝刊 ※著作権消滅)

[編集] 雄弁家として

花井は法廷や議会での活動から雄弁家としても知られ、その雄弁術は「花井式弁論」と称された。母校中央大学で教壇に立つ傍ら弁論部を組織し、後進の指導にあたった。これを記念し、かつて地元三原市では1951年から1969年にかけて三原市はじめ広島県下の中学生を対象にした「花井杯弁論大会」が催され、母校中央大学では1946年から現在も大学生を対象にした「花井卓蔵杯争奪全日本雄弁大会」が開催されている。

[編集] その他

息子・立原元夫早稲田大学在学中、サッカー日本代表選手に選出され川本泰三加茂健金容植堀江忠男らとベルリンオリンピックに出場した。堀江は花井宅に身を寄せていたドイツの老婦人に家庭教師を受けた。

[編集] 関連項目


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