検事総長
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検事総長(けんじそうちょう)は、最高検察庁の長として、検察官を始めとする全ての検察庁職員を指揮監督する国家公務員。また、外国の類似する役職名の訳語として用いられることもある。
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[編集] 日本の検事総長
[編集] 地位
検察官の職階の最上位。検察の公平性・中立性を保つため、検事総長は法務省の特別の機関である検察庁の職員であるにもかかわらず特別な地位を与えられており、次長検事及び検事長とともに認証官とされている。
他の省庁では、事務次官が政治的任命職を除く職員(いわゆる事務方)のトップであることが多いが、法務省における事務次官は検事総長・次長検事・検事長に至る検察官の出世ルートの一通過点の位置付けとなっており、この序列は、検事総長・次長検事・検事長は認証官であるが、法務事務次官は認証官ではないこと等からも窺い知れる。
なお、検事総長の直近上位職は法務大臣であり、法務事務次官の直近上位職も法務大臣(および法務副大臣)である。従って、検事総長、次長検事および検事長は法務事務次官より格上の地位にあるが、その上司ではなく、担当する職務・役割も異なることから、法務事務次官はその所掌事務について検事総長、次長検事および検事長の指揮・監督・命令を受けることはない。
検事総長の定年については、検察法に特則がある。検察官は年齢が63歳に達したときに退官することになっているが、検事総長のみ65歳となっている(検察庁法第22条)。
[編集] 職務
最高検察庁の長として庁務を掌理し、全国全ての検察庁の職員を指揮・監督する(検察庁法第7条第1項)。
[編集] 俸給
検察官の俸給は、「検察官の俸給等に関する法律」に規定されている。同法別表によると、検事総長の俸給額は月額151万2000円であり、国務大臣・会計検査院長・人事院総裁と同額である。
以下は参考であるが、東京高等検察庁検事長の俸給額は月額134万1000円(副大臣等と大臣政務官等の中間程度の額)、次長検事及び検事長(東京高等検察庁検事長を除く)の俸給額は123万5000円(大臣政務官等と同額)である。なお、法務事務次官の俸給額は「一般職の職員の給与に関する法律」の別表第10に定める「指定職8号棒」により月額121万1000円であるため、検事総長、次長検事及び検事長の俸給の額は、法務事務次官の俸給の額を上回る。
[編集] 法務大臣による指揮権
検察庁法第14条(注1)により、個々の事件の取調又は処分について法務大臣は検事総長を指揮する権限を持つが、これが発動されたのは1954年(昭和29年)4月21日の造船疑獄において犬養健法務大臣が佐藤榮作自由党幹事長と池田勇人政務調査会長の逮捕請求を延期させた例のみであり、世論の批判を浴びた犬養法務大臣は辞職に追い込まれた。
検察官はそれぞれが検察権を行使する独任官庁であるが、結局のところ検察権は行政権に属し、全体として統一されたものでなければならないことから、検察官は検事総長を頂点とした指揮命令系統となっている(検察官同一体の原則)。
検察官は、例外を除き起訴権限を独占する(国家訴追主義)という極めて強大な権限を有し、刑事司法に大きな影響を及ぼしているため、政治的な圧力を不当に受けないように、ある程度の独立性が認められている。端的なものが法務大臣による指揮権の制限である。検察庁は行政機関であり、その最高の長は法務大臣であるため、本来であれば当然に法務大臣が各検察官に対して指揮命令が出来るはずであるが、この指揮権については検察庁法により「検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。」として、具体的事案については検事総長を通じてのみ指揮が出来るとした。法務大臣と検事総長の意見が対立した場合に問題となり、かつては法務大臣の指揮に従わないこともありうる旨を述べた検事総長もいて国会で問題とされたものの、法的には「法務大臣の職務命令に重大かつ明白な瑕疵がない限り違法なものでも服従する義務がある」とされ、その結果是非については、指揮権を発動した際の国民世論が決定することとなる。
注1)
- 第14条 法務大臣は、検察庁法第4条(注2)及び第6条(注3)に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。
注2)
- 第4条 検察官は、刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求し、且つ、裁判の執行を監督し、又、裁判所の権限に属するその他の事項についても職務上必要と認めるときは、裁判所に、通知を求め、又は意見を述べ、又、公益の代表者として他の法令がその権限に属させた事務を行う。
注3)
- 第6条 検察官は、いかなる犯罪についても捜査をすることができる。
- 2 検察官と他の法令により捜査の職権を有する者との関係は、刑事訴訟法の定めるところによる。
[編集] 沿革
- 1875年(明治8年)6月7日、大検事岸良兼養(後に大審院長)を大審院詰とした。最上級庁に属する検察官の最上席者という点では今日の検事総長に相当する最初の例である。しかし他の検事に対する指揮監督権などを明文で有していた訳ではなく、その点で今日の検事総長とは異なる。
- この当時の検察官の官位は、大検事、権大検事、中検事、権中検事、少検事、権少検事と分かれていた。
- 1877年(明治10年)6月28日、正権の大検事・中検事・少検事の官位を廃止。勅任官たる検察官を検事長、奏任官たる検察官を検事とした。
- 岸良兼養は検事長となり、引き続き大審院詰として、検事総長相当職を継続。
- 1879年(明治12年)12月27日、検事長の官を廃止。奏任官たる検事のほかに勅任官たる検事を新設。
- 1881年(明治14年)10月24日、大審院に検事長を設置。(検事長は官名ではなく勅任検事から補される職名)
- 1886年(明治19年)5月5日、「裁判所官制」が制定され、控訴院及び大審院の検事局の長として「検事長」を設置。
- 官名は検事であり、大審院検事長と東京控訴院検事長は勅任検事の中から補する。
- 「大審院検事長ハ所属検事及控訴院検事長ヲ監督ス」(裁判所官制第32条)
- 「大審院検事長ハ其局ノ検事ヲ指揮シ及其局所轄ノ事務ヲ掌理ス」(裁判所官制第36条)
- 1890年(明治23年)11月1日、大審院検事局の長として「検事総長」という職名を創設。
- 官名は検事であり、勅任検事の中から検事総長を補する。
- 「検事総長ハ其ノ検事局及下級検事局ヲ監督ス」(裁判所構成法第135条)
- 1914年(大正3年)5月1日、検事総長を勅任検事の中から親補する勅任官親補職に格上げ。(親任官待遇)
- 1921年(大正10年)6月1日、親任検事を創設し、検事総長を親任検事の中から親補する親任官親補職に格上げ。
- 1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法施行と同時に裁判所法・検察庁法施行。検察組織は裁判所から分離。
- 「検事総長」を官名と職名とが一致する官職として創設。認証官とする。
- 「検事総長は、最高検察庁の長として、庁務を掌理し、且つ、すべての検察庁の職員を指揮監督する。」(検察庁法第7条第1項)
[編集] 歴代検事総長
- 検事総長職に相当する前身各職
大検事(大審院詰)/検事長(大審院詰)/勅任検事(大審院詰) | ||
氏 名 | 在 任 期 間 | 退任後の要職 |
岸良兼養 | 1875年6月7日 - 1880年10月25日 | 大審院長 |
鶴田皓 | 1880年7月22日 - 1881年10月21日 | |
大審院検事長 | ||
渡邊驥 | 1881年10月24日 - 1886年1月21日 | |
名村泰藏 | 1886年1月21日 - 1890年8月21日 | 大審院部長、大審院長心得 |
三好退藏 | 1890年8月21日 - 1890年10月31日 | ( → 検事総長へ) |
- 検事総長職創設後
検事総長 | ||
氏 名 | 在 任 期 間 | 退任後の要職 |
三好退藏 | 1890年11月1日 - 1891年6月3日 | 大審院長 |
松岡康毅 | 1891年6月5日 - 1892年8月20日 | 行政裁判所長官、農商務大臣、 枢密顧問官、日本大学総長 |
春木義彰 | 1892年8月22日 - 1898年6月28日 | 貴族院議員 |
横田國臣 | 1898年6月28日 - 1898年10月15日 | |
野崎啓造 | 1898年11月4日 - 1904年4月7日 | 貴族院議員 |
横田國臣 | 1904年4月7日 - 1906年7月3日 | 大審院長 |
松室致 | 1906年7月12日 - 1912年12月21日 | 司法大臣 |
平沼騏一郎 | 1912年12月21日 - 1914年4月30日 | ( → 親補職へ) |
平沼騏一郎 | 1914年5月1日 - 1921年5月31日 | ( → 親任官へ) |
平沼騏一郎 | 1921年6月1日 - 1921年10月5日 | 大審院長、日本大学総長、 司法大臣、枢密院議長、内閣総理大臣 |
鈴木喜三郎 | 1921年10月5日 - 1924年1月7日 | 司法大臣、内務大臣、貴族院議員、 立憲政友会総裁 |
小山松吉 | 1924年1月7日 - 1932年5月26日 | 司法大臣、法政大学総長 |
林頼三郎 | 1932年5月28日 - 1935年5月13日 | 大審院長、司法大臣、貴族院議員、 枢密顧問官、中央大学総長 |
光行次郎 | 1935年5月13日 - 1936年12月18日 | 貴族院議員 |
泉二新熊 | 1936年12月18日 - 1939年2月15日 | 大審院長、枢密顧問官 |
木村尚達 | 1939年2月15日 - 1940年1月16日 | 司法大臣 |
岩村通世 | 1940年1月17日 - 1941年7月25日 | 司法大臣、弁護士 |
松阪廣政 | 1941年7月29日 - 1944年7月22日 | 司法大臣、弁護士 |
中野並助 | 1944年7月24日 - 1946年2月8日 | 弁護士 |
木村篤太郎 | 1946年2月8日 - 1946年5月22日 | 司法大臣、法務総裁、法務大臣、 参議院議員、保安庁長官、防衛庁長官 |
福井盛太 | 1946年6月19日 - 1947年5月2日 | ( → 認証官へ) |
福井盛太 | 1947年5月3日 - 1950年7月13日 | 日本プロ野球コミッショナー |
佐藤藤佐 | 1950年7月14日 - 1957年7月23日 | 秋田経済大学学長 |
花井忠 | 1957年7月23日 - 1959年5月12日 | 弁護士、中央大学教授 |
清原邦一 | 1959年5月12日 - 1964年1月8日 | 日本プロ野球コミッショナー委員会委員 |
馬場義續 | 1964年1月8日 - 1967年11月2日 | 弁護士 |
井本臺吉 | 1967年11月2日 - 1970年3月31日 | 弁護士 |
竹内壽平 | 1970年3月31日 - 1973年2月2日 | 弁護士、日本プロ野球コミッショナー |
大澤一郎 | 1973年2月2日 - 1975年1月25日 | 弁護士 |
布施健 | 1975年1月25日 - 1977年3月20日 | 弁護士 |
神谷尚男 | 1977年3月22日 - 1979年4月16日 | 弁護士 |
辻辰三郎 | 1979年4月17日 - 1981年7月22日 | 弁護士 |
安原美穗 | 1981年7月23日 - 1983年12月2日 | 弁護士、(財)国際研修協力機構理事長、 (財)矯正協会会長 |
江幡修三 | 1983年12月2日 - 1985年12月19日 | 弁護士 |
伊藤榮樹 | 1985年12月19日 - 1988年3月24日 | |
前田宏 | 1988年3月24日 - 1990年5月10日 | 弁護士、(財)矯正協会会長 |
筧榮一 | 1990年5月10日 - 1992年5月26日 | 弁護士、(財)国際研修協力機構理事長 |
岡村泰孝 | 1992年5月27日 - 1993年12月12日 | 弁護士、(財)国際民商事法センター理事長、 トヨタ自動車監査役、三井物産監査役 |
吉永祐介 | 1993年12月13日 - 1996年1月16日 | 弁護士、東京海上火災保険監査役、大丸監査役、 ベネッセ監査役 |
土肥孝治 | 1996年1月16日 - 1998年6月23日 | 弁護士、関西電力監査役、積水ハウス監査役、 小松製作所監査役、阪急電鉄監査役、 阪急阪神ホールディングス監査役 |
北島敬介 | 1998年6月23日 - 2001年7月2日 | 弁護士、(財)矯正協会会長、 日本郵船監査役、大和証券グループ本社取締役 |
原田明夫 | 2001年7月2日 - 2004年6月25日 | 弁護士、住友商事監査役、資生堂監査役、 セイコー取締役、東京女子大学理事長、 (財)国際民商事法センター理事長 |
松尾邦弘 | 2004年6月25日 - 2006年6月30日 | |
但木敬一 | 2006年6月30日 - |
[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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