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河野広中 - Wikipedia

河野広中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

河野広中(こうの ひろなか、嘉永2年7月7日1849年8月24日) - 大正12年(1923年12月29日)は、明治大正時代政党政治家。第10代衆議院議長

[編集] 生い立ち

1849年8月24日、陸奥国三春藩郷士河野広可・リヨ子の三男として生まれる。河野家は100石を給せられる他、呉服商、酒造業、魚問屋などを手広く営んでいた。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになった。戊辰戦争にあたっては、三春藩は、当初、奥羽越列藩同盟に加盟していたが、河野は、兄広胖らとともにあって、明治政府への帰順を工作し、東山道先鋒総督府参謀であった板垣退助に会見した。藩が帰順した後、土佐藩兵に合流し、二本松藩攻略、会津戦争に参加した。

[編集] 自由民権運動への参加

明治維新後は、地元で若松県権少属、戸長、区長などを歴任した。明治6年(1873年)2月には磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)副戸長に任命されるが、この頃ジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み、自由民権運動に開眼する。同10月には同区の戸長になり、河野は地元で全国に率先して民会を興し、区内の民政について審議せしめた。

明治8年(1875年)に石川(のちの福島県石川町)の区長に転じた河野は地方官会議を傍聴するために上京。国会開設の建白をしたが政府の容れるところではなかった。郷里に戻り、任地である福島県石川町で石陽社を設立し、東北地方の自由民権運動のさきがけとなった。明治10年(1877年西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議した。帰郷後、三春に三師社を結成し、同時に福島県で民会規則の起草、県会開会の準備にあたった。

明治11年(1878年)福島県庁に辞表を提出し、東北地方での民権運動に力を注ぐことになる。明治12年(1879年大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加。明治13年(1880年)4月第4回愛国社大会は国会開設を政府に訴えることを決議し、片岡健吉とともに、全国から集まった8万7000名余りの署名を代表して太政官元老院に国会開設の請願を提出したが、却下される。明治14年(1881年)10月自由党結成に参加。自由党幹部として、中央政界の傍ら福島県会議員、県会議長として県議会においても指導的立場にあった。

しかし、明治15年(1882年)福島県令三島通庸の暴政に対して福島事件がおきる。河野は、同志田母野秀顕らと藩閥専制政府に対抗する連判状を取り交わしていたため、内乱陰謀の容疑で明治15年12月に検挙され、明治16年(1883年)高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告された。明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって出獄を許された。牢から出た河野は、後藤象二郎の自由民権派を糾合する大同団結運動に参加し、大同倶楽部結成に参画する。

[編集] 衆議院議員時代

明治23年(1890年第1回衆議院議員総選挙に出馬、初当選を飾る。以後、大正9年(1920年)の第14回衆議院議員総選挙まで連続当選した。河野は当初、自由党に所属し、東北派の領袖として党内に一大勢力を築いた。第四議会では、院内総理として自由党を指導し、予算をめぐり、第2次伊藤博文内閣と対立した。しかし、次第に伊藤内閣とは協調路線をとるようになり党内で星亨竹内綱ら土佐派と対立するようになっていった。その結果、明治30年(1897年)自由党を脱党した。

明治31年(1898年)6月自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見た。しかし、すぐに憲政党は分裂し河野は古巣の旧自由党ではなく、旧改進党系の憲政本党結成に参加した。その後も、藩閥政府を批判し普通選挙運動と対露強硬外交を主張した。

明治36年(1903年)、第10代衆議院議長に選ばれたが、12月第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂太郎内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至った(奉答文事件)。明治38年(1905年ポーツマス条約に反対し、9月日比谷公園で講和条約反対を目的に開かれた国民大会の議長をして、日比谷焼打事件をおこし、兇徒聚衆罪に問われたが、明治39年(1906年)無罪判決が出された。

このあとは、反立憲政友会陣営の雄として、衆議院小会派をいくつか渡り歩いた後、立憲国民党の結成に参加。次いで桂新党運動に参加・立憲同志会を結成。さらに憲政会に所属した。大正4年(1915年)第二次大隈重信内閣の農商務大臣に就任。

大正12年(1923年)12月29日死去。享年74。墓は東京都文京区大塚の護国寺

先代:
片岡健吉
衆議院議長
第10代: 1903
次代:
松田正久
先代:
大浦兼武
農商務大臣
1915年 - 1916年
次代:
仲小路廉


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