野口英世
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野口 英世(のぐち ひでよ、明治9年(1876年)11月9日 - 昭和3年(1928年)5月21日)は日本の細菌学者。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。その他、ブラウン大学、イェール大学より理学博士を授与されている。称号はエクアドル共和国陸軍軍医監、名誉大佐。
黄熱病や梅毒等の研究で知られる。また、コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人ともいわれる。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して51歳で死去。
2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっている。
趣味は、浪花節、将棋、油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンに野口の設計した別荘があり、ここで油絵の多くは描かれた。
ロックフェラー大学の図書館入り口の左右には、ロックフェラー1世と、野口英世の胸像が対になって並んでいる。東京の科学博物館前にも銅像がある。
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[編集] 年譜
- 明治9年(1876年)11月9日、福島県耶麻郡翁島村(現・猪苗代町)に農業野口佐代助、シカの長男として生まれる。野口家は代々貧農の家系であった。幼名は清作。
- 1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷する。医師にかかることが出来ず癒着
- 明治22年(1889年)、猪苗代高等小学校教頭、小林栄にその成績を認められ、猪苗代高等小学校に入学。
- 明治24年(1891年)、同級生・八子弥寿平らの募金により、洋航帰りの医師・渡部鼎の下、左手の大手術を受ける。
- 明治26年(1893年)、猪苗代高等小学校卒業後、上京。歯科医であり高山歯科医学院(現東京歯科大学)創立者の一人血脇守之助による月額15円の援助を受け、東京の芝伊皿子坂上の同学院で雑用をしながら済生学舎(日本医科大学)で医学を学ぶ。
- 明治29年(1896年)、医学前期試験(筆記試験)に19歳で合格。同年の後期試験(臨床試験)で病名を言い当て、20歳で医師免許を取得(当時は“前期3年・後期7年”と言われた)。
- 明治30年(1897年)、順天堂病院助手となるが月額3円と学生時代に比して収入が少なく、高山歯科医学院で講師を務める。
- 明治31年(1898年)、北里伝染病研究所に勤め始める。研究所には御多聞に漏れず東京帝国大学医学部の学閥が存在した(冷遇説があるが、北里柴三郎は以後も野口に対して便宜を図っており、また野口も米国より北里に多くの論文を送っていることからこれに疑問を抱く意見もある)。また来日していたサイモン・フレクスナーの案内役を務めていた際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診、フレクスナーは半分社交辞令で応じる。
- 同年、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読み、自堕落な生活を送る主人公「野々口精作」と自分の名「野口清作」と遊郭等での放蕩経験が極めて近いことに気づき改名をする。本来戸籍名の変更は困難であるが、清作という人物に頼み込み自分の戸籍上の集落の野口家に養子に入って貰い、その上で「同一集落に野口清作が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段で戸籍名を「野口英世」と改名することに成功する。「当世書生気質」が発刊されたのは野口が9才であった明治18年(1885年)であるし「野口英世をモデルにしたのではない」という坪内の言葉が文献に記されている。また坪内は後に「キング」誌のエッセイに「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったことを光栄」との旨を記した。
- 明治32年(1899年)、横浜海港検疫所検疫官補となる。横浜港に入港したあめりか丸でペスト患者を発見診断した。このペストの日本上陸を防いだ業績から清国でのペスト対策としての国際防疫班に選ばれる。
- 明治33年(1900年)、北里柴三郎の紹介状を伝に(北里は渡米時に幾通も野口の紹介状を書いており、北里に対する野口の礼状が現存する)フレクスナーのもとペンシルバニア大学で助手の職を得て、蛇毒の研究を始める。
- 明治37年(1904年)、ロックフェラー医学研究所に職を得る。
- 明治44年(1911年)8月、「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。一躍、世界の医学界に名前を知られることになった(梅毒スピロヘータの培地による純粋培養については追試に成功したものがいないので否定的な意見がある)。同年、京都帝国大学病理学教室に論文を提出、京都大学医学博士の学位を授与される。
- 同年、メリーと結婚する。
- 大正2年(1913年)、梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示した画期的なものであった。小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定(但し、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)などの成果を発表。
- 大正3年(1914年)に東京大学より理学博士の学位を授与される。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。この年のノーベル医学賞候補となった。
- 大正4年(1915年)9月5日、15年振りに日本に帰国。帝国学士院より恩賜賞を授けられる。横浜港には、たくさんの人が出て、野口を出迎えた。世間では、野口フィーバーとも呼べる歓待で、日本各地の講演会にひっきりなしに呼ばれることになる。以後、帰国することはなかった。2度目のノーベル医学賞候補となる。
- 大正7年(1918年)、ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原菌発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。当時、開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。エクアドルに到着後、9日後(日数については諸説あり)には、黄熱病と思われる病原体を特定することに成功(この病原体は、今日ではワイル病スピロヘータであったと考えられている)。この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がる。
- 大正15年(1926年)ペルー疣とオロヤ熱の病原体(バルトネラ)の発表。
- 昭和2年(1927年)、トラコーマ病原体を発表する(ただし後年否定された)。イギリスの医学者で、西アフリカの黄熱病を研究していたストークスが、野口ワクチンはアフリカでの黄熱病に効果がないという論文を発表する。ストークス自身も黄熱病で死亡。野口はアフリカ行きを決断する。そしてこの年の10月にアフリカへ黄熱病研究のため出張する。
- 昭和3年(1928年)、アフリカガーナのアクラに研究施設を建築。アカゲザルを用いた病原体特定を開始する。しかしまもなく自身が黄熱病に感染、5月21日、アクラの病室で死亡。野口英世は「私には分からない」という言葉を口ずさみ、51年の生涯を閉じた。この年の6月15日、アメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬される。
[編集] 評価
細菌学の権威として著名な野口英世であるが、医学研究としては、徹底的な実験による実践派であった。気の遠くなるような実験パターンを全て実行してデータ収集を行っていた。アメリカでは、実験マシーンなどと揶揄されたり、日本人は睡眠を取らないなどと誤解されたりもした。下記にあるように現在でも評価が高い研究は顕微鏡観察による病理学・血清学的研究である。ただし急性灰白髄炎(小児麻痺)病原体、狂犬病病原体、黄熱病病原体等の発見特定の業績に関しては、その後ウイルスが病原体であることが判明していることから否定されており、発表された200余の論文に関して、現代において微生物学の分野で評価できるものは限られる。野口の研究時期、すでに濾過性病原体としてのウイルスの存在は示唆されていたが、光学顕微鏡で観察可能なスピロヘーターの研究方法にこだわったこと、培養方法などに技術的限界があったと考えられる。
現在でも評価される業績としてはヘビ毒によって引き起こされた溶血性変化に関するもので血管の内皮にもたらされた傷害により出血と浮腫が引き起こされる機構について最初の病理学的な詳細な記述をした。これは、その後のガラガラヘビ蛇毒の血清をヤギで作製することの基礎研究につながった。
細菌学の分野では梅毒スピロヘータを運動失調症、関節障害に至る末期神経梅毒患者(脊髄ろう)の脳標本で発見したことが著名である(抗生剤の大量投与が必要であり多発性硬化症、脊髄変性症との鑑別が重要である)。当時の顕微鏡で数万枚にもおよぶ病理組織標本の観察により確認に至ったもので神経性疾患と感染症との関連を明らかにした最初期の業績として評価が特に高い。1920年代、精神科病棟での入院患者の半数が第3期以降の梅毒患者であり、その原因を明らかにしたことが評価される。またツェツェバエにより媒介されるペルー疣(四肢に数センチに達するいぼができる)と溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱が同じバルトネラ症であることの発見(1926-1928年サイエンス誌数編)、血清学的ヘルペドモナドHERPETOMONADS とリーシュマニア LEISHMANIAS の分類(1926年サイエンス誌)などがある。前者は1885年ペルーの医学生カリオンが証明しようとしたものであるが、その後ハーバード大学により否定されたものを、野口が科学的に証明したものでその成否について大変な議論となったが結果的に野口の成果が正しいとされた。このため南米での野口の評価は高く、同地域の後進の医学研究者への影響は大きい。
(注1)梅毒スピロヘータ純粋培養による病原体特定は現代に措いても追試に成功した者がおらず、梅毒に限らずスピロヘータの培地培養は補酵素の要求が非常に難しいことがわかっており、また当時使用された培地での培養は考え難いため、現代では完全な純粋培養に成功したという点は否定されている(生体組織を混入することによる感染培養は当時でも可能である)。
(注2)野口の業績の中では黄熱病の研究が一般的には有名だが、現在、南アメリカの「黄熱病」で彼が発見したと報告した病原菌「レプトスピラ・イクテロイデス」は、黄熱病と類似した黄疸、発熱をきたすワイル病(黄疸出血性レプトスピラ症)の病原体と同一であることが示唆されており、当時の南アメリカの「黄熱病」は、アフリカにおけるウイルス原性黄熱病とは異なる疾患が含まれていた可能性が高い。1920年の論文(LEPTOSPIRA ICTEROIDES AND YELLOW FEVER、アメリカ科学アカデミー紀要PNAS 1920 Mar;6(3):110-1.)において野口は結論においてBut until the finding of Leptospira icteroides is confirmed by the investigation of cases of yellow fever in still other places, its standing as the inciting agent of yellow fever will have to be regarded as not yet certainly established.(「しかし、Leptospira icteroidesの発見はさらに他の場所において黄熱の症例の調査によって確認されるまで、その黄熱病の原因としてのその地位は確実に確立されたものと見なすべきものではない」)と述べている。またこの前後にThe journal of experimental medicineにおいて黄熱病の論文を発表している。この中で南アメリカ、アフリカの黄熱病の差異に関する直接的記載は明らかではなく、当時の研究状況などをふまえ、今後野口の黄熱病の業績に関しては科学史上十分に検討され客観的な記載が必要であろう。なおこのレプトスピラは1914年に稲田龍吉によって日本黄疸出血性スピロヘーター症の病原体として発見され1918年のエクアドルにおける野口の発見は正確には南アメリカの黄疸出血性レプトスピラ症の再発見およびワクチンの作製の可能性といえるかもしれない。
[編集] 後世への影響
- 2004年11月1日に発行された日本銀行券E千円券の肖像画になっている。
- 1970年代、小学生向けの野口英世に関する書籍が多く発刊された為、その後、医師を目指すものが多くなったとも言われている。
- 2004年9月13日、野口英世の出身地に因んで、福島県耶麻郡猪苗代町の翁島郵便局が野口英世の里郵便局と改称された。
- 野口英世アフリカ賞 - 2008年に日本で開催されるアフリカ開発会議で表彰される賞。医学者が主な受賞対象となる予定。
[編集] 系譜
- 野口氏
清太郎━━岩吉==善之助==佐代助━━清作(英世) (渡部氏)(小檜山氏)
[編集] 関連人物
[編集] 参考文献
- 『野口英世 知られざる軌跡 メリー・ロレッタ・ダージズとの出会い』 山本厚子 山手書房新社 ISBN 4841300430 (1992年)
- 『野口英世の妻』飯沼信子 新人物往来社 ISBN 4404018940 (1992年)
- 『遠き落日』 ISBN 4041307147、ISBN 4041307155 (角川文庫) - 渡辺淳一による伝記的小説
- 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 化学同人 ISBN 475980160X (1988年)
- 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 講談社 ISBN 4062575353 (2006年) - 上の書籍の新書版
- 『正伝 野口英世』北篤 毎日新聞社 ISBN 9784620316154 (2003年)
- "Noguchi and His Patrons" by Isabel Rosanoff Plesset, Fairleigh Dickinson Univ Press, ISBN 0838623476 (1980年)
- 『朝日選書389 野口英世 』 中山茂著 朝日新聞社 ISBN 4022594896 (1989年)