大谷米太郎
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大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 - 1968年5月19日)は富山県小矢部市出身の実業家。
貧農の家庭に長男として生まれ、31歳になるまで一家を養うために農家の小作として使われる生活を送った。
31歳の時、僅かな金(20銭)を親から借りて裸一貫で上京したが、保証人もいない単身田舎から出てきた男にまともな仕事は見つからず、日雇人夫となっていた。
力自慢でならしていた米太郎は、両国に行き力士となってフンドシかつぎから幕下筆頭となったが、手の指に障害を負っていたため幕内に上る事を断念。酒屋に転身し、現金取引を優先したことで利益を上げる。その当時、米太郎は結婚し、更に儲かる仕事を求めて、田舎から上京した弟の竹次郎とともに鉄鋼圧延用のロールを作る町工場を経営するようになった。以降、米太郎は弟の竹次郎と二人三脚の事業展開を行なう事になる。
1923年9月1日、関東大震災が発生し、米太郎の町工場は焼けて跡形も無くなった。そこで米太郎は震災復興を行なう土建事業や鉄鋼事業に注目し大谷重工業を起業、その第一歩を踏んだ。戦前は満州に進出し、事業拡大を図り、当時の「鉄鋼王」とまで呼ばれた。しかし太平洋戦争の敗戦によって再び全てを失った。
ところが、戦後になり朝鮮特需の勢いに乗って米太郎の大谷重工業は息を吹き返し、巨万の富を築いた。 その後の米太郎は経営不振に陥った会社を再建する事業を行ない星製薬などの企業を再建させ、蔵前国技館の建設に協力するなどの慈善事業を行なうようになった。
1964年、東京オリンピックの開催が決まり、東京の宿泊地不足に対して米太郎はホテルニューオータニを建設。ホテルは開業したものの、直後に大谷重工業の経営不振が露呈。開業の翌年には社長の座を追われ、大谷重工業も八幡製鉄が経営支援に乗り出して実権を失う。脳腫瘍で死去、享年86。
浮世絵のコレクターでも知られ、彼のコレクションはニューオータニ美術館で見ることが出来る。
[編集] 関連項目
- ホテルニューオータニ
- 富山県立大学(元富山県立大谷技術短期大学)
- 浅草寺