日本の鉄道史 (大正-昭和前半)
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日本の鉄道史(大正-昭和前半)では、日本の鉄道史 (明治)に引き続いて、日本の鉄道が諸施設・機関車等の国産化を果たした後の発展と、第二次世界大戦終了までの歴史をまとめて記す。
この続きは日本の鉄道史 (昭和後半)を参照。
目次 |
[編集] 概要
大正時代に入り、国産機関車が大量に生産され始めた。その後、鉄道網は全国に伸び、主要幹線は増加する輸送量に対応するように改良が行われた。国鉄においては、幹線の世界標準軌への改軌問題が時の政治と絡んで大きな議論になったが、1918年の原敬内閣にて従来軌間のままで改良することに決定した。なお、世界標準軌による新線建設としては、第二次世界大戦が始まる頃に弾丸列車計画が立案され、着工に至るものの、戦争の激化により工事は中断された。
日本における鉄道の電化第1号は、1895年に京都市・紀伊郡(後に京都市へ編入)で運転された路面電車(後述)だが、その後は本格的な軌道や鉄道にも電化が進展する。1930年代には都市近郊の国鉄や私鉄に大型高速電車が走り、東京市と大阪市では地下鉄が開業した。また、トンネル区間では蒸気機関車の煤煙が重大な問題となるため、トンネル区間の多い碓氷峠区間は第三軌条方式を採用した上で電化され(後述→#碓氷峠の電化)、長大トンネルである清水トンネルや丹那トンネルを挟む区間は、開業時からすでに電化されていた。
東海道本線では、1929年に国鉄の特別急行列車に愛称が付けられ(「富士」と「桜」)、1930年には超特急と称せられる事になる「燕」が運行を開始した。この黄金時代は、日中戦争の勃発により次第に陰りが見えはじめたものの、1941年の第二次世界大戦参戦(太平洋戦争勃発)時まで続いた。1943年以後、貨物列車・軍用列車の増加に対し、特急・急行列車を初めとする旅客列車の削減や速度の低下が行われるようになった。戦争末期には空襲による被害も増加し、終戦時には戦災と酷使と整備不良によって、車輌や施設の状況は低下し飽和状態となった。
[編集] 国産標準機の完成
最初の純国産機である6700形(1911年)の成功後、同時期に輸入した8800形等の新鋭機を参考にして、「国産標準機」と呼ばれるに相応しい機関車が生産され始めた。1913年に完成した9600形は、過飽和蒸気を使用した出力870馬力・軸配置1Dの貨物用テンダー機関車で、総計770両生産された。翌年には、旅客用に軸配置1Cのテンダー機である8620形が完成し、これも総687両が造られた(以後に記す機関車は、特に断わらない限りテンダー機である)。貨物機は、1923年に大型のD50形(軸配置1D1・出力1280馬力)が完成し、主要幹線の長大貨物列車の牽引や、東海道本線の箱根越え(丹那トンネル完成前の旧線で、現在の御殿場線)の補機として活躍した。旅客機では、1919年にC51形(軸配置2C1)が完成したが、この機関車の「軸配置2C1と動輪直径1750mm」という構成は、その後新製される旅客用蒸気機関車に受け継がれた(戦後完成した軸配置2C2タイプの機関車は全て他機種からの改造機である)。C51形は、東海道本線や山陽本線の特急列車牽引機として、その後長く使用された。
[編集] 電気運転の始まり
日本最初の電車は、1895年に京都市で走り始めた京都電気鉄道である。京都南部の伏見から京都市内まで6.6kmの区間を走った路面電車で、琵琶湖疎水の水力発電を電源としていた。この鉄道は1918年京都市に買収され、路線は京都市電の一部となった。
なおそれ以前には、1882年開業の東京馬車鉄道をはじめとして、馬車鉄道が一部の都市で都市交通機関として導入されていた。しかし糞尿や餌の問題があり、京都電気鉄道開業後しばらくして、多くが路面電車へ移行した。
[編集] 都市近郊路線の電化
蒸気機関車の運転は煙突から大量の煙や火の粉を発生させるため、家屋の建て込んだ都市内への乗り入れは反対される場合が多かった。その点、電車はそのような環境問題も無く、方向転換が簡単な上単機や短編成での運行が容易で、都市近郊のフリークェントサービスに適している。明治末から大正にかけて、都市近郊に建設された路線は最初から電化していたり、あるいは蒸気機関車運転であったものを電化する例が多数見られた。
- 1899年、大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄大師線の六郷橋駅~川崎大師駅2.5km間が、初の標準軌を採用した電気鉄道として開業。川崎大師への参拝者を運ぶ目的で建設された。
- 普通鉄道としては、1904年に甲武鉄道(現在のJR東日本中央本線)飯田町駅~中野駅間が、蒸気運転から一部移行する形で電化された。使用した電車は、台車や電機品がアメリカ製、木造車体は国産で、架線電圧は直流600Vであった。電化と同時に自動信号機を設置し、5分から10分の運転間隔で電車を走らせた。この無煙化による快適性向上とフリークェントサービスによる利便性向上で沿線人口が増え、都市化が進んだ。この後、日本各地で鉄道敷設による郊外住宅の開発・発展が進む。
- 1905年、都市間の電車鉄道が東西で開通した。関東では上記大師電気鉄道の品川駅~神奈川駅間、阪神間では阪神電気鉄道の梅田駅~三宮駅間である。阪神電気鉄道は一部道路上を走る軌道扱いであるが、開通時からボギー台車を備えた高速電車を使用し、国鉄から多くの客を奪った。
- 甲武鉄道の好評を受けて、元日本鉄道の保有路線であった山手線も、1909年に電車運転に切り替えられた(なお、環状運転化は1925年)。車両は単機運転ながらボギー台車の大型車で、使用する電力は国鉄自前の火力発電所から送られていた。
- 1910年には、関西地区で2社が電車運転を始めた。京阪電気鉄道は名前の通り京都と大阪の間(天満橋駅~三条駅間)に路線を敷設、1914年には電車で初めて「急行」を運転する。また、箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄宝塚線・箕面線)梅田駅~宝塚駅・箕面駅間も開業。当初は満足な乗客数が見込まれなかったため(ミミズ電車とも揶揄されていた)、創設者の小林一三は乗客誘致のために宝塚温泉に少女歌劇を創設、現在の宝塚歌劇団である。
- 1911年、京成電気軌道(後の京成電鉄)が押上駅~市川駅間を開業。社名の由来となった、最終目的地の成田まで延伸したのは1926年であった。
- 1913年、京王電気軌道(後の京王電鉄)が笹塚駅~調布駅間で営業開始。
- 1914年、大阪電気軌道(後の近畿日本鉄道)の上本町駅~奈良駅間が開通。
[編集] 碓氷峠の電化
信越本線において碓氷峠を控える横川駅~軽井沢駅間(1997年廃止)11.2kmは、67パーミルの急勾配と26箇所のトンネルがある、交通上の難所であった(国鉄の他線区の勾配は、板谷峠などごく一部を除き最大でも33パーミル)。1893年の開業以来、専用の歯車式アプト式蒸気機関車による運行が続いてきたが、連続するトンネル中での運転の困難さや増大する輸送量に対して、非力な蒸気機関車では対応できなくなることが重要問題とされるようになった。列車の運行を止めずに行った2年間の工事の末、碓氷峠は1912年より電気機関車による運転に切り替えられた。使用する電気機関車10000形(軸配置C・出力660kw)はドイツから輸入され、電力は横川駅の近くに3000kwの火力発電所を建設して賄った。電化によって煙による機関士の苦労が解消し、1列車あたりの重量は126tから230tに倍増し、スピードアップにより列車の大幅な増発(36本/日→54本/日)が可能となった。
[編集] 建主改従か改主建従か
1907年の鉄道国有化以後、産業の発展に伴い貨物の輸送量が増大し大正初期には貨物収入が旅客収入を上回るようになった。当時の東海道線は複線化が進んでいたものの一部に単線区間が残り、輸送力は限界に達していた。今後も伸び続けるであろう需要に対する抜本的対策として、『主要幹線を国際標準軌へ改軌する』という広軌改築案が、1910年に閣議へ提出された。一方で鉄道の利便性が広く認識された結果、鉄道未設置の地区においては新線建設の強い要望が次々と出された(当時の鉄道総延長は約8000kmで現在の半分程度であった)。国鉄は線路網の充実と既存路線の強化改善に取り組んできたが、大正時代に新線建築と既存幹線改善のどちらに重点を置くかについて、重大な政治問題に発展した。
[編集] 政治による決着
新線建設を優先すべきという方針は「建主改従」と呼ばれ、立憲政友会が主張していた。反対に主要幹線や大都市圏の鉄道の強化改善を優先すべしという方針は「改主建従」と呼ばれ、経済界・軍部・民政党が主張していた(もちろん民政党の議員も、自分の選挙区に路線を誘致する『我田引鉄』には熱心であった)。国鉄側では1908年~1911年と1916年~1918年の2回鉄道院総裁に就任した後藤新平が改軌を強く主張し、1917年には鉄道院工作局長の島安次郎らが中心となって横浜線で標準軌間への切り替え実験も実施して、改軌実行に備えていた。
しかし、1918年政友会の原敬内閣において国際標準軌への改築は見送られることが決定し、その後国鉄関係者は『狭軌のままの輸送力改善』に取り組むようになる。
なお改軌に関する論争については、日本の改軌論争も参照のこと。
[編集] 輸送力改善の施策
改軌によらない輸送力増強の施策として種々の項目が実施された。その中にはリンク式(ネジ式)連結器の自動連結器への一斉取替え(1925年)など、世界に例を見ない大規模かつ効果の大きいものもあった。これらの改善は1910年代から1920年代に行われ、その結果1930年代の『黄金時代』が到来することになる。以下、この時代に実行された施策を解説する。
- 幹線の複線化 - 主要幹線の東海道本線が1913年、山陽本線が1928年に全線複線化された。また東京や大阪の近郊区間には、並行する別線(電車線、いわゆる複々線化)が建設された。
- 急勾配区間の改良 - 最大規模のものとして、東海道本線の御殿場廻りから丹那トンネル経由への切り替えが挙げられる。勾配の改善によるスピードアップと共に、勾配用補機の連結・解結による停車も解消し東海道線の輸送力は大幅に向上した。
- 軌道強化 - レールの重軌道化(レールを重い頑丈なものに取り替えること)、バラストの砕石化(丸石よりも角のある石の方が石同士の噛み合わせが良いのでバラストに適している)等により重たい列車を高速で走らせることができるようになった。
- リンク式(ネジ式)連結器の自動連結器への一斉取替え - 1917年7月17日、全ての貨物列車を運休させて、全車両の連結器を交換した(客車は夜間に取替えて運転した)。交換した車両数は機関車約3000両、客車約6000両、貨車約25000両であった。強度と安全性に優れ連結解結が容易な自動連結器に切り替えた結果、作業の迅速化と安全化、作業性の向上などが達せられた。
- 客車や貨車への空気ブレーキの設置 - 電車は早くから圧縮空気を使う空気ブレーキを使用していたが、蒸気機関車の牽引する客車は非力な真空ブレーキを使っていた(貨車にはブレーキの装備は無く、機関車と車掌車で制動していた)。列車への空気ブレーキの設置は1922年頃から始まり、1930年には全ての客車が空気ブレーキに切り替わった。ブレーキ力の強化により運転速度を高くすることができた。貨車へのブレーキ設置は徐々に進展したが、未設置車は第二次世界大戦時まで残存した。
- 自動信号機の設置 - それまでは駅間単位の閉塞方式で、ひとつの駅間に1列車しか走れなかった。自動信号機を設置して閉塞区間を短くすれば列車運行本数を増やすことができ、増線しなくても大幅な輸送量増大が図れる。まず、1921年に横浜駅~大船駅間で腕木式自動信号機を設置、1925年以後に順次現在のような色灯式に取り替えられていった。
- 停車場の機能分化 - 鉄道が開設された当初は、ひとつの停車場が旅客扱い・貨物扱い・列車の編成組み換え・車両基地の全てを兼ねていた。しかし輸送量が増えてくると、各々の機能を分化することが必要になった。例えば大阪駅は旅客扱いのみに特化し、貨物列車の走る線路は別線(北方貨物線)が建設され、大阪駅構内に貨物列車が入らなくなった。別線から引込み線で梅田貨物駅が作られ、別線沿いに旅客車の車両基地(宮原操車場)が設けられた。少し京都寄りには貨物列車を編成する広大な吹田操車場が建設された。
- 幹線やトンネル区間の電化 - 1919年に、重点国策として「石炭資源の確保と河川の水力発電の開発」が決定された。当時の国鉄は蒸気機関車用に大量の石炭を使用しており、国策に沿って幹線やトンネル区間の電化を従来以上に進めることとなった。各区間の電化状況は次の節にて解説する。
[編集] 国鉄の電化の進展
国鉄の主要幹線の電化は、1914年の東京駅開業に合わせて建設された東京駅~高島町駅間が最初である。直流1200Vで電化された区間に、パンタグラフを装備した3両編成の大型電車を50両投入した、本格的なものであった。電車はアメリカのゼネラルエレクトリック社の電装品を使用し、最高速度80km/hの高速を誇った(それまでの電車は、せいぜい最高50km/h程度であった)。当初初期故障が多発し、一旦蒸気運転で代行した時期があったが、その後は安定して使用され、1930年代に大量進出する高速電車群のルーツとなった。
次に電化されたのは東海道線の東京駅~国府津駅間(1925年)で、長距離列車のため電車ではなく、電気機関車牽引の列車とされた。電圧は1500Vに昇圧されたが、この電圧は現在のJRにも継承されている(なおこの電圧を初めて採用したのは、1918年の大阪鉄道である)。当時の日本では電気機関車の生産実績が殆ど無いため、この区間の電化に際してはイギリス、アメリカ、ドイツ、スイスからの輸入機と、日立製作所の自主開発機が採用された。輸入機としては、イギリス製のEF50形が有名だが、当初初期故障が多くこの機関車を安定して使用するための努力が電気機関車に関する技術力向上に役立ったなどと言われた。東海道線の輸送力強化の切り札として建設された丹那トンネルは難工事のために完成まで16年かかったが、1934年に複線電化の長大トンネルとして完成した。上越線の清水トンネルは碓氷峠を通らずに首都圏から日本海側へ向かう線路として建設された。着工は丹那トンネルより遅かったが、完成は早く1931年に単線電化のトンネルとして開通した。
[編集] 戦前の黄金時代
1930年代には、国鉄の路線網が充実し幹線の輸送力強化の効果が出て特急列車の増発やスピード向上が行われた。都市間を結ぶ私鉄では国産の大型高速電車を投入して、蒸気列車をしのぐ高速運転を行った。機関車は貨物用機の決定版として1115両生産されたD51形(軸配置1D1出力1280馬力)と、急行旅客機C59形(軸配置2C1)が生産され、またEF52形等、電気機関車の本格国産化も始まった。D51を設計したのは島安次郎の息子で、後に新幹線建設に携わる島秀雄であった。
[編集] 特別急行列車
特別急行列車、略して“特急列車”の名が使われたのは、1912年の東京・下関間直通列車が最初である。1929年、これに対し列車愛称を付けることになり、一般公募から東京・下関間の1等車・2等車特急に「富士」、同区間の3等車特急に「桜」が採用された。翌1930年、超特急と呼ばれた「燕」が運行を開始。それまでの特急は東京と大阪の間を11時間かかって走っていた(表定速度51.7km/時)が、「燕」はその区間を8時間20分(表定速度66.8km/時)で結んだ。「燕」は人気が高く、後には「不定期燕」も増発され、その後も東京・神戸間に特急「鴎」が設定されるなど、特急列車の増発が行われた。1940年の東海道本線下りダイヤでは、上記5本の特急のほか、急行列車として名古屋行き(1本)、大阪行き(3本)、神戸行き(3本)、下関行き(5本)が設定されていた。このうち、名古屋行き急行を除く全ての列車には食堂車が連結されており、「燕」・「富士」・「鴎」、そして下関行き急行列車のうちの1本には、豪華な1等展望車が連結されていた。
[編集] 私鉄の発展
1930年までには、現在大手私鉄と呼ばれている鉄道会社の主要路線が開通している。現:相模鉄道以外は、この段階で既に電化されていた。私鉄の路線建設や経営に関しては、東武鉄道の根津嘉一郎、西武鉄道の堤康次郎、東京急行電鉄の五島慶太、阪急電鉄の小林一三など個性的な経営者が輩出し、鎬を削った。路線敷設の権利問題では種々の裏話もあり、「ピストル堤」(堤康次郎)や「強盗慶太」(五島慶太)など、物騒な通称で呼ばれた経営者もいた。
乗客誘致のため、沿線の宅地開発を行ったり、遊園地などの集客設備を作った例も多かった。阪神電鉄は1924年に甲子園球場を建設し、1935年にはプロ野球チーム大阪タイガース(後の阪神タイガース)を設立したが、ライバルの阪急電鉄は翌年阪急軍(後の阪急ブレーブス)を設立して対抗した。これらの施策は多くの会社で行われ、関西圏に多くの球団が存在する要因となった。
また、ターミナル駅へのデパート併設は1920年の阪急梅田駅が最初で、その後各私鉄のターミナルに次々とデパートが設置されるようになった。
[編集] 高速電車
各私鉄は、自分の路線に合った特徴ある電車を開発し乗客を誘致した。それまでの電車は、短距離の運転のみに使われる前提で製造されたため、3扉ロングシート車が主体であったが、この頃建設された観光路線や都市間の長距離路線に使われた電車には、2扉クロスシート車が充当された。以下当時の2扉クロスシートの高速電車を列記する。
- 東武鉄道は、日本を代表する観光地の日光へ直通する東武日光線にデハ10系電車を投入した。
- 京阪電気鉄道のバイパス線として作られた新京阪鉄道のP6ことデイ100形電車は、京都府の山崎駅付近で超特急「燕」と競争した。
- 参宮急行電鉄の2200系電車は、大阪市から伊勢へ長躯(137km)した。
- 阪和電気鉄道(現在の阪和線)はほぼ同じ区間を走る南海電気鉄道の後発であったが、モヨ100形電車等の高速電車を採用し、大阪の阪和天王寺駅と阪和東和歌山駅の間をノンストップで走らせて、戦前の最高表定速度である81.6km/hを記録した。
これらは後に名車と称えられる事になる画期的な車両であった。私鉄との激戦となった東海道本線京阪神間では、鉄道省(国鉄の当時の運営組織)は流線型の52系電車を製作し、高速運転をする「急行電車」(急電)を設定して私鉄に対抗したが、これは現在同地域で設定されている、「新快速」と同じ性格の列車であった。
[編集] 地下鉄と路面電車
この頃、大都市の高速輸送機関として地下鉄が建設されるようになった。東京では、1927年に東京地下鉄道(後の東京地下鉄銀座線)が上野と浅草の間を電車で結び、1935年には新橋駅まで延長した。大阪では、大阪市営地下鉄が1933年に梅田~心斎橋間(後の御堂筋線)で開業した。
地下鉄はその後、大都市に不可欠な交通機関として発達してゆく。なお、戦前に都市交通機関として開業した地下鉄路線は上記二都市のもののみであったが、郊外私鉄が地下線を採用して都心部に乗り入れたというものでは、1925年開業の宮城電気鉄道(今の仙石線)を初として、関西圏を中心にいくつかの路線が開業していた。
都市内の交通機関としては路面電車が発達した。京都(1895年)、名古屋(1898年)、東京(1903年)、大阪(1903年)等の大都市はもとより、北は旭川から南は那覇までの地方中核都市にも路面電車の軌道が敷設された。
[編集] 弾丸列車
1940年1月16日の「鉄道会議」で可決された「東京・下関間新幹線増設に関する件」は、東京から下関まで国際標準軌間の別線(複線)を建設する内容で、東海道本線と山陽本線の抜本的改善を目指すものであった。この計画は一般に弾丸列車と呼ばれた。
路線経路は現在の東海道新幹線と山陽新幹線に相当するが、現在の新幹線が国内の人的輸送に特化した電車であるのに対し、弾丸列車は下関から朝鮮半島や中国大陸への人や物資の輸送を考慮したもので、旅客以外にも高速貨物列車・荷物列車などを設定することにしており、機関車牽引を想定していた。また電化区間は一部のみで、蒸気機関車の使用も予定しており、旅客列車の最大速度は電化区間で200km/h、非電化区間で150km/hとされた。
この計画の推進には、当時中国大陸で戦火(日中戦争)を拡大していた、軍部の意向も強かったと言われている。建設工事は同年8月に新丹那トンネルと日本坂トンネルから着工されたが、第二次世界大戦で日本側の劣勢が明らかになった1943年に、日本坂トンネルと新東山トンネルを除く他の工事は中断された。この2トンネルは1944年に完成して在来線に使用され、戦時輸送や戦後の復興に貢献した。
[編集] 戦時下の輸送
1937年に始まった日中戦争の戦火が中国奥地へ拡大して行く中、鉄道は戦争遂行のための重要な手段となり、1938年に陸上交通事業調整法が制定され、国鉄・私鉄を問わず種々の統制を受けるようになった。日本海軍の航空母艦搭載機が1941年12月8日にアメリカ海軍のハワイ基地を攻撃し(真珠湾攻撃)、日本が第二次世界大戦に参戦すると、国家と軍部による統制は更に厳しくなり、貨物列車の大増発とそれによる長距離旅客列車の削減やスピード低下、貨物用機関車や軍需工場への大量動員に対応する戦時急造電車の大量生産、軍需路線の強化等が行われた。
[編集] 私鉄の統合と国鉄への買収
1940年2月25日に施行された「陸軍統制令」によって、鉄道は陸上交通機関の総動員体制に組み込まれることになり、かなりの数の私鉄や運輸事業者が地域ごとに強制的に統合され、軍需工場への通勤や資材の運搬手段とされた。
この結果、東京の地下鉄は東京地下鉄道と東京高速鉄道が統合され、帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)に一本化された。東京の西部では更に大規模な合併があり、1944年には現在の東京急行電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、京王電鉄、相模鉄道の路線がひとつになった(旧)東京急行電鉄(大東急)が出来上がった。関西では、1943年に阪神急行電鉄(阪急)と京阪電気鉄道が合併して京阪神急行電鉄、1944年に関西急行鉄道(関急)と南海鉄道が合併して近畿日本鉄道が誕生した。
また、国策輸送に必要な路線を有する会社は国による強制買収の対象にされ、前述の阪和電気鉄道(同社は1940年に南海鉄道に統合されていたため、この時は同社の山手線となっていた)や中国鉄道(現在の津山線)などといった会社の保有していた路線が、国鉄のそれに組み込まれる事になった。豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道の4社によって運営されていた路線が買収によって一本化され、飯田線となったのもこの時である。この路線は図らずも、終戦前の国鉄においては最も長い電化区間となった。
[編集] 軍事関連輸送の強化
国家の総力を挙げて戦争を遂行するため、膨大な原材料が軍需工場に運ばれ、武器や食料などが基地や戦地へ送られた。この大量の貨物を運搬するため、国鉄では様々な対策がおこなわれた。
弾丸列車計画に基づいて工事を始めた日本坂トンネル・新東山トンネルは、計画中断後も工事が継続され、東海道本線の輸送力強化のために使用された。さらに関ヶ原近辺の下り線も1943年に勾配改善工事が完了し、20~25パーミルの上り坂が10パーミルとなった。本州と九州を線路で結ぶ関門トンネルは1936年に着工され、陸軍の強い後押しにより戦争中も工事が続けられて1942年に1線、1944年に複線化が完了した。
私鉄では名古屋周辺の多数の中小私鉄を併せて1935年に名古屋鉄道が設立されたが、路線は名古屋市内の新名古屋と神宮前間で分断されていた。名古屋地区は零戦などを製造していた三菱などの軍需工場が集中しており、工員輸送の便を図るために戦争中の1944年に上記区間を開通させた。
国鉄の旅客列車はスピードダウンが目立つようになった。1943年2月頃より、軍事貨物列車を優先させるため、長距離の特急や急行列車は順次削減すると同時に、貨物列車のスピードに合わせて速度を低下させるダイヤ改正が行われた。1944年には特急列車が全廃され、1等車・寝台車・食堂車も廃止された。輸送量の増大に対して、1943年にはD51形を上回る強力な貨物用機関車D52形が完成し、D51形と共に大量生産された。1944年からは、大都市圏の軍需工場通勤用として片側4扉の63形電車が生産された。戦争末期に作られたこれらの車輌は「戦時設計車」と呼ばれ、部品の簡略化、安全設備の不備、生産工程の簡易化など、いわば“粗製濫造”相当の代物であった。
[編集] 設備の疲弊と戦争による被害
鉄道の線路や車輌は、一定の期間に定期的に整備を行わないと機能が低下する。整備には「人手」・「資材」・「資金」が必要だが、戦争中期以後男性は軍隊に招集されて人手が減り、資材も不足していた。また国鉄の収益の大部分は「臨時軍事費」という名目で国家に徴収された上、貨物用機関車の大増産を行っており、必要な整備が満足にできていなかった(1944年の国鉄の鉄道益金3億4000万円に対し臨時軍事費繰入額は2億5500万円)。
この戦争により鉄道が最初に直接被害を受けたのは、1942年4月18日にアメリカ海軍の航空母艦ホーネットから発進した爆撃機B-25による、日本初空襲であるとされる。国鉄の記録では、この日常磐線の金町駅で爆弾により信号機に被害があり、4名が軽傷を負ったとある。1944年6月からは中国大陸から飛来したB-29爆撃機による北九州地区の爆撃、同年11月からはサイパン島を基地とするB-29爆撃機による主要都市に対する空襲が始まり、被害が増大した。1945年2月16日以後、敏捷な空母搭載機による空襲が始まったが、鉄道関連施設が直接攻撃される場合も多く、青函連絡船が壊滅するなど被害は部分的ではあるが甚大であった。しかし、サイパン島から爆撃目標はあまりに遠く、昼間精密爆撃による直接攻撃では、爆撃成果があまり上がらなかったため、周辺地域を爆撃して、鉄道網に類焼させる作戦に切り替えた、しかしこれも失敗したため、職員の住む住宅地を焼失させ、鉄道網の操業を止める夜間殺戮爆撃(無差別絨毯爆撃)へ作戦を変更した。連合軍の戦略爆撃は鉄道網の破壊に失敗し、攻撃目標は、一般の木造住宅街とそこに住む幼老婦女子などの、戦災弱者に向かうことになる。これにより鉄道網は戦争を生き残り、戦後の復興に多大の貢献をした。また広島と長崎に投下された原子爆弾による損害も、広島駅で、職員926名中死者11名、重軽傷者201名を出すなど大きかった。広島では被爆当日から救難列車が仕立てられ、翌日の7日宇品線が、8日に山陽本線が開通した。長崎でも被爆直後から救難列車が仕立てられ、爆心地近くまで進入して被災者を収容し諫早や佐世保の軍病院に送り込んだ。鉄道施設の多くは爆心地から比較的はなれていたため、鉄道網の壊滅は免れた。
1947年に運輸省鉄道総局が発表した「国有鉄道の現状」では、戦争による被害は建物が20%、機関車が14%、電車が26%、等で被害総額18億円に達した。この金額は国鉄の昭和19年~20年度の2年間の全収入に相当する膨大なものであった。
[編集] 参考文献
- 日本の鉄道史セミナー 2005年 久保田博 グランプリ出版
- 東海道線130年の歩み 2002年 吉川文夫 グランプリ出版
- 鉄道史の分岐点 2005年 池田邦彦 イカロス出版
- 日本の国鉄 1984年 原田勝正 岩波新書
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