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原辰徳 - Wikipedia

原辰徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原 辰徳
読売ジャイアンツ No.88
基本情報
国籍 日本
出身地 福岡県大牟田市
生年月日 1958年7月22日(49歳)
身長
体重
181cm
86kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 三塁手
プロ入り 1980年 ドラフト1位
初出場 1981年4月4日
最終出場 1995年
年俸 1億5000万円(2007年)
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、福岡県大牟田市出身、神奈川県厚木市相模原市育ちのプロ野球選手[1](現役期間1981年 - 1995年)、プロ野球監督2002年 - 2003年2006年 - )。現役時代は読売ジャイアンツ所属の内野手及び外野手

現在は読売ジャイアンツ監督、同球団名誉顧問。右投右打。愛称は「若大将」。「タツ」「平成の若大将」「ヤング・ミスター」「永遠の若大将」。または親しみを込めて「原さん」とも呼ばれる。「ポストON世代」の筆頭。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] 経歴

  • 1980年 ドラフト会議において、読売ジャイアンツ藤田元司新監督が4球団競合の末に1位クジを引き当て、相思相愛が実り巨人に入団。入団決定直後に日本テレビで特集番組が放映された。背番号は高田繁の引退に伴い空いた「8」を受け継ぐ。
  • 1981年 シーズン当初は二塁手として出場していたが、当時三塁手レギュラーであった中畑清の故障によりアマチュア時代からのポジションである三塁手に戻って、レギュラーに定着。22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録。
  • 1982年 最多勝利打点を獲得。
  • 1983年 MVP打点王、最多勝利打点を獲得。
  • 1986年9月24日、対広島25回戦で津田恒実の直球をファールした際に左手首の有鉤骨を骨折、残りシーズン欠場を余儀なくされた。これ以降、この時負傷した左手首に加えてアキレス腱痛などにも悩まされる。[3]
  • 1988年 2年連続3割30本を記録。
  • 1989年 藤田監督が復帰し外野手(左翼手)へ転向。
  • 1992年 再び内野手(一塁手)に転向[4]
  • 1993年 三塁手に再コンバート。複数個所の故障に悩まされ引退した年を除いてプロ入り以来最低の成績に終っている。
  • 1995年 現役引退。同年、巨人一筋15年、ON後の巨人を牽引した四番打者に対し、背番号8を“永久欠番”にとの署名が多く集まり、巨人は“準永久欠番”に制定。
  • 1996年 NHKの野球解説者に就任。プロ野球中継の解説の他、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』でメインキャスターを1999年3月まで務める。
  • 1999年 巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。
  • 2000年 ヘッドコーチに昇格。
  • 2001年9月29日 その年限りで勇退した長嶋茂雄の後任として巨人監督に就任(長嶋は10月1日の最終戦まで指揮)。一年目のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。
  • 2002年 引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、故障で一軍から遠ざかっていた河原純一のストッパー転向、長嶋政権下ではスタメンを外れることの多かった清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い選手もそれによく応え、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。2002年の日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初の無傷の4連勝という快挙でもあった。
  • 2003年 チームの4番だった松井秀喜FA宣言してニューヨーク・ヤンキースへ移籍。相次ぐ主力野手の故障、投手陣の崩壊等で阪神タイガース独走を許し、三山秀昭球団代表との確執もあり、“人事異動”の名目で監督を辞任。巨人軍特別顧問に転任した。
  • 2005年 堀内監督がチームの成績不振により引責辞任。後任として監督に再任される。
  • 2006年 開幕ダッシュには成功したものの、交流戦半ばあたりから故障者の続出や、若手選手の経験不足もあり、8連敗、10連敗、9連敗などの大型連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗等)を喫し、2年連続Bクラスとなる4位に終わり、10月10日のホームゲーム最終戦で東京ドーム創設以来初めて相手チーム(落合博満監督率いる中日ドラゴンズ)のリーグ制覇の胴上げを見ることとなった。
  • 2007年 、チームは小笠原道大谷佳知など他球団の主力の加入や高橋由伸の1番固定などにより打線の繋がり・得点力が向上。開幕投手を努めた内海哲也、復活した高橋尚成木佐貫洋の3人を中心とした先発ローテーションが安定、故障で出遅れた上原浩治のストッパー起用も奏功し、投手陣の建て直しに成功。5月2日ナゴヤドーム中日ドラゴンズ戦で創設後通算5,000勝を達成した。そして1位から3位まで大接戦であったペナントレースを制し5年ぶりのリーグ優勝を果たした。しかし、この年から始まったセ・リーグのクライマックスシリーズ2ndステージで、ペナントレース2位の中日ドラゴンズに初戦から3連敗を喫し[5]日本シリーズ出場を逃した。そのことから、リーグ優勝はしたものの記念パレードなどは一切行われなかった。

[編集] 背番号

  • 8(1981年 - 1995年)
  • 80(1999年 - 2001年)
  • 83(2002年 - 2003年)
  • 88(2006年 - )

[編集] 年度別打撃成績

年度 チーム 背番
試合 打数 得点 安打 二塁
三塁
本塁
塁打 打点 盗塁 盗塁
犠打 犠飛 四死
三振 併殺
打率
1981年 巨人 8 125 470 64 126 23 6 22 227 67 6 6 0 7 30 78 9 .268
1982年 130 494 81 136 19 1 33 256 92 11 6 0 4 44 82 6 .275
1983年 130 500 94 151 32 4 32 287 103 9 4 0 8 63 56 11 .302
1984年 130 468 72 130 19 1 27 232 81 7 3 1 4 70 58 8 .278
1985年 124 441 79 125 23 2 34 254 94 7 3 2 8 70 42 6 .283
1986年 113 406 70 115 21 3 36 250 80 7 2 1 6 54 57 8 .283
1987年 123 433 80 133 17 3 34 258 95 7 2 0 7 49 61 11 .307
1988年 126 467 79 140 24 1 31 259 81 5 6 0 0 62 63 14 .300
1989年 114 395 60 103 22 0 25 200 74 3 3 0 2 62 68 6 .261
1990年 103 366 58 111 17 1 20 190 68 6 4 0 4 55 64 4 .303
1991年 127 455 66 122 13 1 29 224 86 5 3 0 12 57 82 7 .268
1992年 117 437 61 119 17 1 28 222 77 4 3 0 3 53 71 13 .272
1993年 98 336 28 77 14 0 11 124 44 3 2 0 3 48 62 9 .229
1994年 67 200 26 58 4 1 14 106 36 0 2 2 1 24 21 5 .290
1995年 70 144 13 29 8 0 6 55 15 2 1 1 1 14 29 5 .201
通算成績 1697 6012 931 1675 273 25 382 3144 1093 82 50 7 70 755 894 122 .279
  • 太字はリーグ最高

[編集] 監督としてのチーム成績

[編集] リーグ公式戦

年度 チーム 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2002年 平成14年 巨人 83 1位 140 86 52 2 .623 - 186 .272 3.04 44歳
2003年 平成15年 3位 140 71 66 3 .518 15.5 205 .262 4.43 45歳
2006年 平成18年 88 4位 146 65 79 2 .451 23.5 134 .251 3.65 48歳
2007年 平成19年 1位 144 80 63 1 .559 - 191 .276 3.58 49歳
2008年 平成20年   50歳
※1 太字は日本一
※2 2002年から2004年までは140試合制
※3 2005年から146試合制
※4 2007年から144試合制

[編集] ポストシーズン

年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2002年 巨人 日本シリーズ 西武ライオンズ 4勝0敗
2007年 セ・リーグクライマックスシリーズ
2ndステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 0勝3敗

[編集] 監督通算成績

  • 570試合 302勝260敗8分
    • 最優秀監督賞 - 2002年、2007年

[編集] エピソード

[編集] 現役時代

  • 監督時代の応援歌は現役時代と同じ。1985年までの初代応援歌は背番号にちなんで『エイトマン』の主題歌だった。第一次政権として最後の試合となった2003年10月7日の阪神戦(甲子園)では、巨人の応援団は誰が打席に立っていても原の応援歌を流し続けた。
  • ルーキー時代の1981年、明治のプリンCM、1982年には読売新聞のCM(試合の映像を使用、ナレーション:徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー))に出演していた。
  • スバル360と同じ1958年生まれだったため、現役時代には富士重工業のイメージキャラクターに使われていたことがあり、スバル・レオーネのCMに出演し岩崎宏美と共演。
  • 1982年のファン感謝デーでは当時大人気のタケちゃんマンに扮した。ブラックデビル江川卓
  • 守備位置は主に三塁、新人時代の一時期に二塁、のち外野、一塁を守ったが、新人時代のオールスターでは掛布雅之を三塁として起用するため、遊撃として起用された。
  • 契約更改後の記者会見で、シーズンの貢献度から初の1億円の大台突破かという期待を持って臨んだが、9900万の提示で保留。「(漢字の)の字の棒(一)がとれてになっちゃったよ」という説明をした(恐らく9900万円を99歳をに見立てて同年齢を白寿と呼ぶ、その語源を引用し契約が白紙になったという結果を表現したと思われる)。
  • 1989年の日本シリーズ近鉄バファローズ戦(第5戦)において、近鉄の守護神・吉井理人は原の前の4番打者ウォーレン・クロマティを敬遠し、敢えて満塁策をとり、このシリーズ無安打で絶不調の原と勝負する作戦を試みるが、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を打つ。
  • 現役引退セレモニーは、ホームゲームの日程がセ・リーグ他球団より早く消化してしまうこととシーズン終盤まで優勝争いをしていたことから当初行なわれる予定がなかったが、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月8日に組み込まれたことにより実現した。セレモニーを含めた引退試合は東京ドームのスケジュールの都合上、当時既に珍しくなっていたデーゲームでの開催となった。現役最後の試合では、紀藤真琴から左中間スタンドへの本塁打を放つ。最終打席では、粋な計らいで大野豊がワンポイントで登板し名対決が最後に行われた(結果はレフトフライ)。

[編集] 解説者時代

[編集] 指導者時代

  • 監督としては、個々の選手の能力に頼るだけでなく選手の力を結集して戦うチームを目指し、チームのまとまりを重視する。第一次政権時の「ジャイアンツ愛」、第二次政権での「神輿」と言うフレーズや「神輿に乗っているような選手はユニフォームを脱げ」「ジャイアンツという神輿を全員で担いで、優勝を勝ち取ろう」などの発言がある。
  • スモールベースボールを目指す采配をしているものの、クリーンナップや打撃が好調な選手に対してバントのサインを出すことや、バントすべき場面においてあえてさせないなど采配に一貫性がないという批判や、解説者が首をかしげるような代打、投手起用をするという批判も一部にはある。
  • 巨人という特別なチームゆえか、監督としての権限は、現場のトップとしてのコーチ人事などはある程度掌握しているが、選手の編成権などは持っていないと思われる。1年1年チームを預かる意識からか、新聞のインタビューなどで「補強」というフレーズを「前年からのチームの変化」の意味合いで使っている場合が多い(外部戦力の加入、若手の成長を問わず補強という言葉を使っている)。[要出典]
  • 第一時政権時の背番号83は自分の現役時代の「8」と長嶋の「3」を足した数字であるので選んだと言っている。
    • ヘッドコーチ時代から二軍との連携を大事にした結果、2002年の日本一では、当時無名の斉藤宜之山田真介福井敬治鈴木尚広などは一軍に呼び寄せ即スタメンで起用、実力以上の活躍を引き出した。現在巨人で唯一走れる選手といえる鈴木尚は原のヘッドコーチ就任時に走塁センスを絶賛された選手である。彼ら無名の選手をファームで育て上げた高田繁前二軍監督や淡口憲治二軍監督、高橋一三二軍投手コーチ(当時)などが隠れた功労者となる。この年、松井秀喜と清水以外の選手は故障、翌年も怪我人の多い2年間だったものの、二軍で調子のいい選手がすぐさまスタメンで起用され、積極的にエンドランや盗塁などで結果を残した。
    • 2002年6月19日横浜戦で11回表無死一塁で打者が投手で左打者の岡島秀樹で相手投手が左投げの河原隆一の場面で、ベンチに控え野手清原和博村田善則鈴木尚広が残っているにも関わらず投手である桑田真澄を代打に指名した。桑田は初球をバスターエンドランし、見事に試合に勝利した[6]
    • 第一次政権の日本一に大きく貢献したのが、鹿取義隆ヘッドコーチの中6日を崩さないローテーションであった。工藤公康や桑田真澄などのベテランを有効に使いきり、選手の能力を十二分に発揮させた。翌年は一転、修復しようの無い投壊状態に陥った。
  • 第二次政権時の背番号は88である。前任の堀内と同じであるが、歴代の巨人監督で背番号をそのまま引継いだのは初めてである。
    • 2006年の監督就任時にあたっては、ミスを犯した人間に対して、マスコミを介して名指しで反省を促すようなこともしていくと宣言している。脇谷亮太矢野謙次亀井義行などの若手のミス、上原浩治や二岡智宏の故障、自らを含めたベンチのミスなどが、度々公式HPやマスコミなどで批判もしくは反省の対象となっている。
    • 2006年シーズン開幕前日、メディアからの「開幕戦の4番打者は誰か」という質問に大多数はキャプテンに任命された小久保裕紀だろうと予想していたが、李承燁を起用。韓国メディアはこれを大々的に報道した。
  • 2006年シーズンの巨人は、開始以降高橋由伸など怪我人が続出し、危ういチームバランスながら6月7日までは首位に留まるが、5月末に小久保が故障すると、チームの体力が崩壊。それでも李承燁と二岡智宏が孤軍奮闘するが、31年ぶりの2ケタ連敗(10連敗)を含め、前年まで球団史上で2回しかなかった9連敗を1か月足らずで2回も記録してしまう。8月4日には最下位に落ちる。シーズン終盤では李や二岡も膝の故障をおして出場するような事態となり、10月8日の甲子園での阪神戦では優勝に望みを残していた阪神を相手に勝利し、対阪神戦の負け越しも3年で止め意地を見せ、最終的に4位で終わる。オフには、黄金期西武ライオンズの頭脳であった伊原春樹が切り札として招聘された。小笠原や谷、大道が加入する一方で、小久保や仁志、桑田、工藤がチームを去る。また、2006年の選手の相次ぐ離脱を踏まえ「もういい選手はいらない、強い選手が欲しい」と発言。若手脇谷亮太の頑健さを絶賛する一方、生え抜きレギュラー陣の短期離脱が手厳しく叱責されている。
    • ほぼ完全アウェーの甲子園の雰囲気に飲まれないだけの強い精神力を持ってほしいとの想いから、「甲子園での阪神戦でどういう試合をするか」を重要視した[要出典]。2006年の甲子園では5勝6敗、阪神戦では11勝11敗と、ほぼ互角の成績を残した。2007年は東京ドームとそれ以外の他球場での勝率が逆転してしまった。
    • 2007年秋季キャンプは対象選手を伸び盛りの若手に特化。また高橋由伸と上原のポジションに関しては、上原が先発復帰(「選手が積み重ねてきたものがあるので強制はできない」としている)。かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある槙原寛己を臨時コーチに招き、守護神候補として野間口や西村の指導を依頼。新聞で2007年を「『ホップ、ステップ、ジャンプ』のホップの年くらいにはなった」と語っている。
    • 2008年はオープン戦から主力選手の調整の遅れ、大きく台頭した坂本勇人を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びを出来ず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる3月28日の東京ヤクルト戦(神宮球場)から4月2日の中日戦(東京ドーム)まで、球団ワースト記録となる5連敗を喫した。
    • 2008年4月27日の阪神戦(甲子園)において、9回裏にマーク・クルーン投手が2アウト満塁から押し出し四球を与えサヨナラ負けした。この試合について翌日に自身のブログで球審の判定をを激しく批判し、「あの球をボールと判定していては、野球界が駄目になる。」と怒りに満ちたコメントを残した。

[編集] その他

  • 電話好きで、2005年のオフには、入団交渉をしている選手によく電話をかけることで有名になった。FA宣言した野口茂樹には「同じ目標に向かって戦おう」と話し、豊田清には1日3度の電話をかけ、両者とも入団にこぎつけた。ドラフト指名選手にも辻内崇伸などに電話をかけており、「ジャイアンツ愛」にちなんで「愛のテレフォン」と呼ばれている。2006年のオフは高橋尚成に「お前は左のエースだから、来年からの背番号は21番だ」と話した。
  • 爽やかな印象とは裏腹に、鉄拳制裁も辞さない厳しい一面も併せ持つ。2003年に木佐貫洋が四球で自滅した際には「死ぬなら前のめりで死ね」と喝を入れ、2006年3月12日に行われた阪神とのオープン戦では東海大学の後輩でもある久保裕也が打ち込まれた際、鉄拳を交えた説教をした後記者団に「(鉄拳制裁について)ちょっとなでなでしただけ。彼はジャイアンツの期待の星なんだ」とコメントした。
  • 阪神の星野仙一SDと交流があり、喜怒哀楽を表に出さないためのスタイルなどを参考にしている。また、中日を戦力外となった選手(武田一浩)がテストを受けた際、星野に助言を求めている。星野は今季の大型補強に関しても、「あの『戦力』なら誰でも勝てる」などといったファン本位の声が上がるなか、「あれだけの『名前』が揃うと原もやりづらいだろう」、と数少ない原の擁護発言をしている。
  • 2006年、若手選手に楽天野村克也監督の著書を読ませ、感想文を提出させた。本を読まない巨人の二軍選手のために巨人寮には野村の著書があるという。野村を祝うイベントにも出席し、コメントを出している。
  • 2007年の中日とのクライマックスシリーズで左を苦にしない清水隆行などの左打者中心の打線を組んでいることを「左投手の先発を見抜けなかった」とスポーツ誌に報道された。証拠に、「中日スポーツの先発予想を信じた」などという冗談を本気で言ったかのように報道している(皮肉な事に中日スポーツのみが、比較的事実に近い報道を伝えた)。[要出典]
  • 2003年監督辞任の際、スピーチを阪神対巨人最終戦の試合終了後敵地阪神甲子園球場でも行った。これは親交が深い阪神・星野仙一監督の発案である。(事実、星野が『ジャンクSPORTS』に出演した時にこのセレモニーを発案したことを話していた。)同球場の観客には阪神ファンが圧倒的に多く、ライバル球団の関係者がスピーチを行うことなど前代未聞であったが、辞任に至る経緯などから、原に同情的な阪神ファンも少なくなかった。辞任挨拶の際、阪神を率いていた星野から花束を渡され、「また戻って来い」「くじけるな。また野球を一から勉強しろ」と激励され、互いに抱擁を交わした。原は感極まり、涙が止まらなかった。原は現役の頃から阪神のユニフォームを着たファンからもサインを求められることが頻繁にあり、私設応援団などから野次としての応援歌の替え歌を流されることはあったものの、阪神ファンからも好意的な印象を得ている数少ない巨人OBの一人である。2002年の甲子園での胴上げは過去の歴代監督の苦い経験から暴動が起きるのではないかと心配されたが、球場全体から大きな拍手を送られた。また、当時の小泉純一郎首相は、この解任騒動を「野球界にも権力闘争があるんだね」と評した。
  • 第一次監督就任前に川上哲治の近所に居を移したが、川上の後ろ盾がある星野仙一と監督の座を争った。
  • 冗談で「野球より好きだ」と公言するほどのゴルフ好き。
  • プロレスも日本テレビで中継をしている全日本プロレスプロレスリング・ノアの系列に造詣が深く、ゲスト解説で出演するなどもしている。これら団体の試合を会場で見ることもしばしばある。全日本プロレスでは永源遙攻撃が原、岡崎郁と一緒に観戦していた廣田浩章ジーンズの膝あたりにかかってしまった事もあった。その試合後に永源の唾攻撃を原らに目掛けてやった張本人であるラッシャー木村の十八番であるマイクパフォーマンスで「今日おいで下さった巨人軍の選手の方々。特に原選手。燃えろ!原、燃えろ!辰徳」というエールが飛び、観客は大歓声であった。ノアの三沢光晴社長や、現役引退試合の翌日に同じく東京ドームで行われた「新日本プロレスVSUWFインターナショナル全面戦争」の興行を観戦し、当時メインイベントで高田延彦に勝利した、全日本プロレスの武藤敬司社長とはプライベートでも親交を深めている。ジャイアント馬場の訃報をキャンプ地の宮崎で聞き、マスコミに対し「僕にとってのヒーローが…これ以上は勘弁してください」と言って人目をはばからずに号泣した。なお、馬場はジャイアンツの先輩格でもある。
  • ヘッドコーチ時代は長嶋茂雄同様、「ビュッと振ってバーンと当てる」といった擬態音で説明することが多く、長嶋監督のコーチ時代には本塁打を打った選手への出迎えが長嶋監督とそっくりであった。一部マスコミからは「チョーさん(長嶋)が2人いる」と揶揄され、久米宏は「マイナス掛けるマイナスはプラスだからなぁ」と評した。
  • 代走をコールするときのジェスチャーが一部で人気を集めている。
  • 球界屈指の愛犬家で、ボクサー犬をルーキー時代から現在に至るまで飼育している。1982年に出した歌『サム』は当時一緒に暮していた犬の名前。藤田元司が監督を退任した後に子犬をプレゼントしたという。
  • 現在、東海大相模高校のある相模原市に本社を置く住宅販売業「丸正産業」のイメージキャラクター(同社広告では「アドバイザー」と表記)を解説者時代から務めているが、その会社の看板では巨人によく似たユニフォームを着ている(ちなみに背番号「8」のバージョンと「88」のバージョンがある)。
  • 愛車はレクサスLS460である。

[編集]

[編集] 出演

[編集] 脚注

  1. ^ この関係もあり、プロ野球東西対抗では「神奈川県出身」として東軍で出場したこともある
  2. ^ 中学卒業間近に、原は体育の授業でサッカーか何らかで左足首を複雑骨折してしまった。診察した医師からも「このままでは、君は野球はできないかも知れないね」と告げられたことがある。当時の原は下手すれば、歩行困難あるいは後遺症などに支障する大怪我だったらしく、通常なら野球生命を絶たれる状態だった。しかし、原自身が野球を続けたい熱意が強かったため、根気よく粘ってリハビリ回復に成功し、幸いにも野球は続けられた。だが、後年のアキレス腱の悪化に間接的に繋がった。
  3. ^ しかし原は後年「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。
  4. ^ 当初、三塁への復帰も検討されていた。不安定な左翼守備、その影響で成績が下降したこと、既に若いファンの間では「原=三塁」が定着しており、コンバートによってそのイメージが損なわれてしまったこと等が理由だった。結局、アキレス腱痛の悪化などを考慮して、一塁へのコンバートが決まった。
  5. ^ 第一戦目、原は相手の先発投手を山井大介(右投手)と読んでおり、これに対応したメンバーを組んでいた。しかし実際は左の小笠原孝(左投手)。原はベンチ裏でメンバー表を投げつけた。他の首脳陣も「左投手だったんですか…。」と愕然とした。この試合に敗れた巨人は、終始中日にペースを握られたままクライマックスシリーズ3連敗を喫した。
  6. ^ 代打桑田の理由に関しては公式HPの2002年6月22日の日記に論理的な判断(左打者の岡島に左対左でバントさせるよりも右打者の代打を起用したかったため、清原は送りバントを想定している打者ではないことと足が遅いために併殺の恐れがあるため、村田は捕手・阿部慎之助が負傷した際の守備要員にする必要があったため、鈴木は代走要員であることと代打清原が出塁した後の代走を想定していたため)を掲載しているが、「野手を信頼していないから投手の桑田を代打起用した訳ではなく、残っている野手の分野を考えた」「奇策に奇策を重ねるような戦い、森祇晶監督に対して礼を逸した戦いぶりだった」と本人はあまり評価をしていない。
  7. ^ 原どこまでも巨人愛…82年発表のレコード大注目インターネット・アーカイブのミラー)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
岡田彰布
セ・リーグ新人王
1981
次代:
津田恒実
先代:
中尾孝義
セ・リーグMVP
1983
次代:
衣笠祥雄
先代:
佐野仙好
セ・リーグ最多勝利打点
1982年 - 1983年
次代:
W.クロマティ
先代:
掛布雅之
セ・リーグ打点王
1983年
次代:
衣笠祥雄
先代:
中畑清1985年 - 1989年)
日本プロ野球選手会会長
1989年 - 1992年
次代:
岡田彰布(1992年 - 1995年
先代:
松原誠
読売ジャイアンツ4番打者
第48代
次代:
レジー・スミス
先代:
中畑清
読売ジャイアンツ選手会長
第8代
次代:
岡崎郁
先代:
若松勉
正力松太郎賞
2002年
次代:
王貞治
星野仙一
先代:
長嶋茂雄1993年 - 2001年
堀内恒夫(2004年 - 2005年)
読売ジャイアンツ監督
(2002年 - 2003年)
2006年 - )
次代:
堀内恒夫2004年 - 2005年
※カッコ内は監督在任期間。
読売ジャイアンツ
1980年ドラフト指名選手
1位:原辰徳 / 2位:駒田徳広 / 3位:小原正行 / 4位:瀬戸山満年
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