内海哲也
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内海 哲也 読売ジャイアンツ No.26 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府城陽市 |
生年月日 | 1982年4月29日(26歳) |
身長 体重 |
186cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 2003年 自由獲得枠 |
初出場 | 2004年5月25日 |
経歴 | |
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内海 哲也(うつみ てつや、1982年4月29日 - )は京都府城陽市出身のプロ野球選手(現役期間2004年 - )。読売ジャイアンツ所属の投手。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 高校~社会人時代
- 敦賀気比高ではエースとして活躍し、本格派左腕として注目された。高校時代は、田中良平、森大輔とともに「北陸三羽ガラス」と呼ばれた。高2秋(1999年)の北信越大会で優勝、明治神宮野球大会でも準優勝を飾り、翌年の第72回センバツ出場を確実としていたが、後に同校部員の仲澤忠厚が起こした不祥事が明るみとなり出場を辞退。高3夏の予選では県大会決勝で敗れ、甲子園出場は果たせなかった。当時は阪神のスカウトに「高校生では打てない」と評された大きなカーブが決め球で、MAX144km/hの速球とのコンビネーションで14個を超える奪三振率を誇り、「北陸のドクターK」の異名を取った。
- 2000年ドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブが1位指名したが、本人は祖父・五十雄が元巨人野手だったこともあり、ドラフト前から巨人以外の指名は一切拒否という姿勢を貫き、東京ガスに進んだ。社会人時代は香月良太、森大輔とともに「三羽ガラス」と呼ばれていた。
[編集] プロ入り後
2003年ドラフト会議にて自由獲得枠で巨人に入団。背番号は祖父と同じ26に決まった。
ルーキーイヤーは二軍で9勝を上げ、イースタン・リーグ最優秀防御率のタイトルを獲得。勝ち星こそつかなかったが、1軍初先発も経験した。
林昌範などと競い開幕ローテーションを勝ち取り、4月だけでプロ初勝利を含む3勝を上げるが、1軍では通用せず。防御率5点台、4勝9敗。勝敗は打線の援護に左右され、6月以降は1勝もできず。
開幕1軍入りを果たせなかったものの、4月に高橋尚成が負傷により戦線離脱したことで代役として昇格するとリリーフで結果を残し、そのまま先発に定着。スライダーを習得して飛躍の年となり、初完投勝利・初完封勝利なども記録するなど、チームトップの12勝(13敗)をマーク。オールスターや日米野球にも出場した。リーグ3位の奪三振を記録したが、暴投が多く、リーグ最多の9暴投を記録したうえ、左打者に対する被打率が悪いという課題を残した。
上原浩治の出遅れで初めて開幕投手を務め、見事勝利をおさめる。その後も安定した活躍を続け、9月25日の対中日戦では自己最多の14勝目をマーク。また、セントラル・リーグ優勝を決めた10月2日の対ヤクルト戦の先発投手でもあった(マジックナンバー1で迎えたこの試合を任されるなど、彼への首脳陣の期待や信頼が伺える)。初タイトルとなる最多奪三振を獲得。
[編集] プレースタイル
- いわゆる「アーム式投法」からストレート・スライダー・チェンジアップを投げ、ときたまカーブ・シュートなども織り交ぜる。すべての球種が三振を奪う武器となる。
- 投球テンポが早いことも特徴である。2007年7月27日の対広島戦では2時間11分で完封勝利を挙げた。
- 独特のフォームはアストロ球団のエース宇野球一に酷似している。
- 投球スタイルは高校時代から大きくモデルチェンジしている。高校時代は全身を大きく撓らせ、トルネード投法気味の捻りを加えた、豪快かつしなやかなフォームだった。しかし余りにもフォームが大き過ぎるために盗塁され易いと、社会人時代に小さなフォームに矯正されている。また当時の球種はストレートと山なりのカーブくらいしかなかったため、社会人時代・プロ入り当初は伸び悩んだ。
プロ入り2年目、前監督堀内恒夫にローテーション起用されるも、1軍では通用せず。しかしこの年シーズンを通し小谷2軍投手コーチと再三の再調整・フォーム固めを行い、高橋一三二軍監督(当時)から現在の決め球のチェンジアップを伝授されたことが、現在の投球フォーム・投球スタイルを確立する下地となった。さらにシーズン終了後にスライダーを習得、新たに就任した尾花投手総合コーチに微細な投球の指導を受け、ストレートの威力が150km/h近くまで増加、ようやくブレイクにつながった。
[編集] エピソード
- 2006年春季キャンプ中の2月14日、サンマリンスタジアム宮崎で原辰徳監督、近藤昭仁ヘッドコーチが、臨時コーチとして来訪している巨人OB会副会長の広岡達朗、金田正一とベンチ前で談笑していた時、たまたま通り掛かった内海に対して原が「この人、誰か知っているか?」と尋ねると、内海は「はい。金村さんですか」と迷うことなく即答した。さらに、慌てた原が「何勝したんだ?」と聞くと「300何勝ですよね」と答えた。原は金田・広岡に対して「すいません。教育し直します」と平謝りし、金田自身も苦笑したが、広岡が激怒し「世代の違いで済まされる問題じゃない。歴史に対する不勉強にも程がある。過去に立派な人がいて巨人軍は発展してきた。先輩に対する敬意と理解を深めなければならない。君たちは素晴らしい球団に入った。彼らの功績があって今日がある。君たちには先輩からアドバイスを聞く権利があるし、先輩が後輩を指導するのは義務なんだ」と若手選手を叱責する事態となった(あまりの広岡の激高ぶりに、金田がルーキー辻内を「杉内」と言い間違えて事態を収拾させている)。
- 内海はこの一件について、練習後に報道陣に対して「最初に名前を間違えた後、頭が真っ白になって…あとは何言ったのか、全然覚えてないんです」と答え、巨人軍OB名簿を入手して永久欠番選手の顔と名前などを学習したという。
- 同年2月21日、木の花ドームでの練習中に原がベンチ前で評論家の杉下茂、小松辰雄と談笑していた時、再びたまたま通り掛かった内海に対して「この方はどなただ?」と聞くが、2人の名前を答えられなかった。杉下は「知らなくても仕方ない。まあ、いいんじゃないの」と一笑に付したが、小松は「同じ北陸にいたのに(内海は京都府城陽市出身で、北陸にいたのは敦賀気比高校時代の3年間のみ。福井県でも敦賀市以南は近畿に分類されたりもする)名前も知らないのか。評論家の名鑑でも見せないといかんな」とお冠だった。
- 左のエースとして申し分ない成績を残しているが、尊敬している先輩の高橋尚成がいるからか、本人は一貫として「エースの自覚はない」と謙虚なコメントを言っている。
- グローブには「家族」と刺繍を入れている。あえて名前を入れずに、「家族」と入れたのは家族を守っていく、また家族からも支えてもらいたいと言う意味からで、家族には親も含まれているという。
- 2007年シーズン終了後グライシンガーの巨人入団について、あるイベントで内海は「補強するお金があるなら投手陣に回してほしい。僕ら3人(ローテーションを投げぬき2桁勝利を挙げた内海、高橋、木佐貫)は精一杯やったし、他のみんなもそう」と、球団の相次ぐ補強に物申した。こうした補強に対する反発・苦言とも取れる発言が公になることは全球団見回してももちろんほとんどない。この発言の後に内海は球団から厳重注意を受け、さらに公式サイトが予告もなしに閉鎖され、「球団批判に対する制裁行為」との批判がファンから上がっている。
- 登板時のBGMはカリートの『GO!GO!カリート』。
[編集] 年度別投手成績
年度 | 球団 | 背 番 号 |
登 板 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
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2004年 | 巨人 | 26 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 60 | 14.0 | 14 | 1 | 4 | 0 | 13 | 0 | 0 | 8 | 8 | 5.14 |
2005年 | 26 | 0 | 0 | 0 | 4 | 9 | 0 | .308 | 507 | 114.1 | 138 | 18 | 31 | 4 | 76 | 5 | 0 | 74 | 64 | 5.04 | ||
2006年 | 31 | 6 | 2 | 0 | 12 | 13 | 0 | .480 | 795 | 194.0 | 163 | 13 | 52 | 7 | 179 | 9 | 0 | 69 | 60 | 2.78 | ||
2007年 | 28 | 2 | 1 | 0 | 14 | 7 | 0 | .667 | 780 | 187.2 | 183 | 16 | 48 | 11 | 180 | 5 | 0 | 66 | 63 | 3.02 | ||
通算成績 | 88 | 8 | 3 | 0 | 30 | 29 | 0 | .508 | 2142 | 510.0 | 498 | 48 | 135 | 22 | 448 | 19 | 0 | 217 | 195 | 3.44 |
- 2007年シーズンまで
- 表中の太字はリーグ最高
[編集] タイトル・表彰・記録
[編集] 個人記録
- 初登板:2004年5月25日・対広島10回戦・サンマリンスタジアム宮崎
- 初勝利:2005年4月29日・対中日2回戦・東京ドーム
- 初完投勝利:2006年4月15日・対横浜5回戦・横浜スタジアム
- 初完封:2006年7月2日・対阪神9回戦・東京ドーム
- オールスターゲーム出場:2回(2006年・2007年)
[編集] 背番号
- 26(2004年-)
[編集] 関連項目
- 京都府出身の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表
- 李景一
- 加登脇卓真 - 同じ京都府城陽市の出身で、中学校の後輩
[編集] 外部リンク
- 内海哲也 Official Website(上記の通り現在は閉鎖)
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監督 |
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88原辰徳 |
コーチ |
78伊原春樹(ヘッド)|87尾花高夫(投手総合)|72香田勲男(投手)|81篠塚和典(打撃)| 89村田真一(打撃)|79福王昭仁(内野守備走塁)|73緒方耕一(外野守備走塁)| 74西山秀二(バッテリー)|76白坂契(トレーニング) |82木村龍治(トレーニング兼投手) |
二軍監督・コーチ |
77吉村禎章(監督)|75岡崎郁(ヘッド兼内野守備)|70小谷正勝(投手) |85斎藤雅樹(投手)|86岸川勝也(打撃)| 84金杞泰(打撃)(韓)|83西岡良洋(外野守備走塁)|97伊藤博(トレーニング)|80内藤重人(トレーニング)|98玉木重雄(育成(投手)| 112川中基嗣(育成コーチ兼運営部二軍サブマネジャー)|71藤田浩雅(バッテリー)|115中本茂樹(育成コーチ兼スカウト)|130金鍾勳(打撃) |
投手 |
11久保裕也|13林昌範|15辻内崇伸|17姜建銘|19上原浩治|20豊田清|21高橋尚成|22福田聡志| 26内海哲也|27門倉健|28金刃憲人|29グライシンガー|30西村健太朗|31バーンサイド|33野間口貴彦| 36村田透|37藤田宗一|38上野貴久|39吉武真太郎|41木佐貫洋|42クルーン|46野口茂樹| 47山口鉄也|57古川祐樹|59深沢和帆|60深田拓也|62越智大祐|63会田有志|67加登脇卓真| 68栂野雅史|90深町亮介|92木村正太|93東野峻|95竹嶋祐貴 |
捕手 |
10阿部慎之助|40村田善則|43鶴岡一成|53實松一成|56加藤健|58星孝典|96伊集院峰弘 |
内野手 |
00寺内崇幸|0木村拓也|2小笠原道大|6小坂誠|7二岡智宏|23脇谷亮太|25李承燁| 32円谷英俊|44大道典嘉|45小田嶋正邦|51古城茂幸|52岩舘学|54藤村大介|61坂本勇人 |
外野手 |
5ラミレス|8谷佳知|9清水隆行|12鈴木尚広|24高橋由伸|35亀井義行| 48矢野謙次|50加治前竜一|64松本哲也|65梅田浩|66田中大二郎|94中井大介|99隠善智也 |
育成選手 |
100佐藤弘祐(捕手)|101山本光将(外野手)|102籾山幸徳(内野手)|103西村優希(投手)|104谷内田敦士(捕手)| 105三木均(投手)|106林羿豪(投手)|109鈴木誠(投手)|110大抜亮祐(投手)|111川口容資(投手)|129オビスポ(投手) |
読売ジャイアンツ 2003年ドラフト指名選手 |
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自由獲得枠:内海哲也 / 2巡目:西村健太朗 / 4巡目:平岡政樹 / 5巡目:岩舘学 / 6巡目:山本賢寿 / 7巡目:佐藤弘祐 / 8巡目:南和彰 |
オリックス・ブルーウェーブ(現・オリックス・バファローズ) 2000年ドラフト指名選手 |
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1位:内海哲也 / 2位:大久保勝信 / 3位:上村和裕 / 4位:相木崇 / 5位:開田博勝 / 6位:高見沢考史 7位:北川智規 / 8位:高橋浩司 / 9位:庄司大介 |