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篠塚和典 - Wikipedia

篠塚和典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

篠塚 和典
読売ジャイアンツ No.81
基本情報
国籍 日本
出身地 千葉県銚子市
生年月日 1957年7月16日(50歳)
身長
体重
176cm
68kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 二塁手
プロ入り 1975年 1位
初出場 1977年8月5日
最終出場 1994年
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

篠塚 和典しのづか かずのり1957年7月16日 - )は東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手。旧名・本名は篠塚 利夫(しのづか としお)。現在は読売ジャイアンツ1軍打撃コーチ。ポジションは内野手二塁手)。

目次

[編集] 来歴・人物

千葉県立銚子商業高等学校より、1976年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。1979年秋の伊東キャンプで徹底的に鍛えられ、1980年に二塁手のレギュラーを獲得。翌年の1981年藤田平阪神タイガース)と首位打者争いし、タイトルは逃すものの現役最高の打率を残した。1984年には自身初の首位打者を獲得し、1987年にも正田耕三広島東洋カープ)と共に2度目の首位打者を獲得した。

華麗なバットコントロールと芸術的な二塁守備で鳴らし、打率3割を7回マーク。通算打率も3割を超えている。1980年代の巨人を支えた存在だったが、持病の腰痛もあって晩年は代打での起用が主となり、1994年限りで現役を引退した。

引退後は巨人の1軍打撃コーチ、1軍守備走塁コーチ、総合コーチを歴任。2004年2005年には日本テレビ野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めた。2006年に守備走塁コーチに復帰し、2007年からは打撃コーチに就いている。

映画プロデューサーの故・三上訓利・大映の女優・折原啓子は岳父・岳母(夫人の父母)で、俳優の三上博史は夫人のいとこにあたる。

[編集] 年度別打撃成績

年度

























1976年 巨人 37 一軍出場なし
1977年 3 7 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 2 0 .208
1978年 13 37 3 7 2 0 2 7 15 0 0 4 0 3 3 1 .286
1979年 6 76 90 11 25 2 2 0 31 10 1 0 1 0 6 14 7 .278
1980年 115 315 38 82 13 3 6 119 31 6 3 11 2 23 31 9 .260
1981年 116 412 51 147 21 2 7 193 45 2 5 14 1 30 39 9 .357(2)
1982年 124 467 64 147 26 6 7 206 67 5 0 11 7 38 32 10 .315(4)
1983年 115 424 79 130 21 2 13 194 56 10 2 6 4 39 42 8 .307(7)
1984年 126 461 75 154 35 2 12 229 66 7 2 9 1 53 49 7 .334(1)
1985年 122 466 57 143 21 1 8 190 54 6 2 26 1 45 45 6 .307(9)
1986年 128 485 64 141 25 3 8 196 43 3 2 17 4 23 54 8 .291(10)
1987年 115 429 69 143 25 3 7 195 49 4 1 7 3 15 52 8 .333(1)
1988年 116 414 37 131 18 1 6 169 58 2 2 8 3 31 31 12 .316(3)
1989年 119 461 59 134 28 4 4 182 38 5 4 9 2 22 38 9 .291(13)
1990年 71 232 31 66 11 1 5 94 29 1 0 4 1 16 27 5 .284
1991年 97 289 31 77 9 2 3 99 23 1 1 3 3 33 49 4 .266
1992年 67 241 22 64 10 0 0 74 21 2 1 1 1 14 35 4 .266
1993年 66 208 27 70 8 0 4 90 23 0 0 2 1 15 21 4 .337
1994年 57 147 22 35 5 0 2 46 13 0 0 3 1 10 15 5 .238
通算成績 1651 5572 739 1696 278 32 92 2314 628 55 25 132 35 415 580 115 .304
  • 太字はリーグ最高。

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] 背番号

[編集] エピソード

  • 1982年中日ドラゴンズとの首位攻防戦で無死一、二塁の場面で送りバントをした際、相手ピッチャーの郭源治が三塁へ悪送球し、外野へ転がったがそのボールをレフト大島康徳がトンネルし、さらに大島が追いかけてとったボールがサードに中継されホームへ投げたが、キャッチャー中尾孝義がとり損ない、その間に篠塚はホームインした(記録は失策)。このプレーは、フジテレビ系テレビ番組トリビアの泉』で紹介された。
  • 1987年、広島正田耕三と同率で首位打者を獲った。正田とは同じセカンドだったため、ベストナインが注目されたが、安打数・本塁打数ともに上回っていた篠塚がベストナインに輝いた。同率での首位打者はセ・リーグでは初、両リーグをあわせても2度目(1969年東映張本勲近鉄永淵洋三で、このときも打率は.333)だった。
  • 1987年8月9日の巨人対中日戦で、中日のルーキー近藤真市投手が初登板・初先発ノーヒットノーランを達成したときの最終打者である。大きく縦に割れるカーブを見逃し三振を喫したときに、選球に自信があったのか試合終了後もボールだと審判に抗議していた。
  • 線審を廃し審判6人制から4人制になった1990年の開幕戦、ヤクルトに1対3と負けていた8回裏、好投を続けていた内藤尚行からライトポール際へのフライを放ち、1塁審判が本塁打と判定した。その年のバラエティ番組で上記の疑惑の本塁打についてコメントを求められ「あれはファウルでしたね」と発言している。原因はポールがボールと類似色の白い塗料で塗られていたためであり、この事件後ポールはオレンジに塗り替えられた。
  • 1993年6月9日のヤクルト戦(石川県立野球場)では、8回まで16奪三振(無失点、被安打7)のピッチングを続けていた当時のルーキー伊藤智仁からサヨナラ本塁打を放った。2度タイムをかけて伊藤をじらせた上での狙い澄ました一撃で、試合後には「狙い通りの変化球だった」と述べている。
  • クロマティの著書「さらばサムライ野球」によれば、篠塚は成績を残すために、苦手な投手が出ると仮病を使って欠場することが多かったという。事実、毎年数試合は必ず欠場していた。また、自身の成績を確認するため、毎年シーズン終盤にはベンチに電卓を持ち込むのが常だったというエピソードもある。
  • 巨人では3番バッターや6番バッターを担当、晩年は1番なども打った。長打を狙うバッティングに瞬時に切り替える天才肌の選手だったが、バントや足などを売り物にしてはいなかったため、全盛期ではあるが2番バッターを任された1985年・1986年は成績を落としている。
  • 公式戦の通算打率は.304を記録しており、オールスターでの通算打率も.327(55打数18安打)を残している。日本シリーズでも1987年に打率.409を記録するなどしているものの、シリーズ通算打率は.292(106打数31安打)で、あと1本安打を放っていれば、公式戦、オールスター、日本シリーズ全てで通算打率3割を達成できていた(この記録を達成しているのは日本プロ野球史上、長嶋茂雄のみ)。
  • プロ野球選手は一般にいかつい体型でスーツを着込むと近寄りがたい雰囲気を生むが、プロ野球選手らしからぬ細身の体型で、高橋慶彦などと同時期の当時のプロ野球選手のファッションリーダーのひとりだった。アイビールックなどを好んで着こなし、女性人気は絶大だった。若い時分には1979年に婚約不履行が問題となり、処分を受けるような「前科」も起こしている。誰が火付け人かは謎だが、86年ごろ球界にパンチパーマが(あくまでファッションとして)大流行。篠塚自身もパンチに身を固めていたため、篠塚が火付け人という説がある。
  • 1999年10月、篠塚が取締役に名前を連ねていた自動車販売会社の社長が、不正に人気の品川ナンバーを取得する、いわゆる車庫飛ばしで逮捕された時に、篠塚も警視庁から家宅捜索を受けた。球団は一時解雇も検討したが、当時の監督・長嶋茂雄の意向もあって、厳重注意のあと球団公式行事は一切参加できない謹慎処分とした。
  • 2004年から日本テレビの野球解説者を務めたが、人前で話すのは苦手だったという。
  • 2007年、小学生との指導経験から「6歳からの広角打法」という本を出版した。
  • 元々、天才肌の打者であった為、コーチとなった現在でも「バッティングは難しいものじゃない。データは不要、来た球を打てばいい」と指導している。評論家時代、社会人選手を対象とした講習会に招かれ、そこで同様のことを語り、当時シダックスの監督だった野村克也に「やはり天才は違うね」と揶揄された。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

読売ジャイアンツ
1975年ドラフト指名選手
1位:篠塚利夫 / 2位:岡田忠雄 / 3位:中畑清 / 4位:猪口明宏 / 5位:山本功児 / 6位:柿木孝哉


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