全日本プロレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | 全日本プロレス(AJPW) |
本社所在地 | 〒106-0032 東京都千代田区九段北1丁目5番地10号 岳南九段ビル6階 |
設立 | 1972年10月 |
事業内容 | プロレスリングの興行及び関連企画の運営 |
代表者 | 代表取締役社長 武藤敬司 |
資本金 | 9,000万円 |
関係する人物 | ジャイアント馬場 |
外部リンク | http://www.all-japan.co.jp |
全日本プロレス(ぜんにほんプロレス)は、1972年に設立されたプロレス団体。
略して全日(ぜんにち)、全日本(ぜんにほん)、と呼ばれる。
長らく「王道プロレス」を標榜としていた。現在は「パッケージプロレス」を看板として掲げている。旗揚げ戦は1972年10月22日東京の日大講堂で行われ、旗揚げ前夜祭が町田市体育館で行なわれている。
目次 |
[編集] 歴代代表者
- 初代:ジャイアント馬場(1972年~1981年) - 1982年から1990年までは会長職を務めた。
- 第2代:松根光雄(1982年~1990年) - 当時日本テレビ運動部長時代に、日本プロレスの放映を打ち切りにした。
- 第3代:ジャイアント馬場(1990年~1999年1月) - 馬場が現役のまま死去したため、その後3ヶ月間は三沢が代理を務めた。
- 第4代:三沢光晴(1999年5月~2000年6月)
- 第5代:馬場元子(2000年7月~2002年9月)
- 第6代:武藤敬司(2002年9月~)
[編集] 歴史
[編集] ジャイアント馬場~ジャンボ鶴田の時代
日本プロレスに所属していたジャイアント馬場中心に結成。常にアントニオ猪木率いる新日本プロレスの異種格闘技路線と比較されつつも、一貫して「王道の純プロレス」を実践。
- 初期
- 馬場が培ったアメリカ(主にNWA)での人脈を生かし、幾多のスター外国人選手を招聘して人気を得た。力道山時代の「日本人レスラー対外国人レスラー」の系譜を受け継いだものだといえる。当時は新日本プロレスの格闘技路線と比較され、動きが緩やかな印象を与えた全日本のプロレスは一段低く見られがちな風潮もあった。現在では、WWEに代表されるアメリカンプロレスの源流を日本に紹介したこと、レスラーの高度な駆け引き、プロレス特有の「受けの美学」を見せたことなどが再評価の対象となっている。この時期に、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、大仁田厚らを輩出する。またブッチャーやシークに代表される流血戦も多く、大仁田のFMWなどのインディー団体のデスマッチ路線の源流を作った、とする意見もある。
- 中期
- 1981年にスタン・ハンセンが乱入。その後、馬場が、高年齢を理由にタイトル戦線から退いた後には、「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本人選手の対戦が主軸となった。その他、中継権を持っていた日本テレビと関連が特に深い時期であり、日本テレビの役員だった松根光雄が出向の形で全日本の社長ポストに就いていた(馬場は会長ポスト、後に社長に就任)ほか、大八木賢一(後に全日本専務、現在はノア専務)など、多くの日本テレビ関係者が出向で全日本に在籍した。天龍を中心に「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられた。1984年には、新日本プロレスを離脱した長州力らジャパンプロレスの選手らが参戦したが、その後に分裂したのをきっかけに、天龍は阿修羅・原と「天龍革命」を起こし、鶴田、ハンセン、ブルーザー・ブロディらとタイトル争いを演じている。
- 他方、1987年にはハル薗田が、新婚旅行を兼ねて南アフリカへ試合の為に向かう途上、航空機の墜落事故に遭遇し、不慮の死を遂げた。薗田は31歳という、これから脂の乗ってゆく年代のレスラーであるだけに期待されており、また若手に対するコーチ役を務めていた事から組織としても小さくない痛手となった。
- 後期
- 1988年、長く待望されていた三つのヘビー級王座の統一が図られるが、決定戦のたびに引き分けや不透明決着に終わる(王座戦の決着としてはありふれた手段だった)。最初の統一戦から約1年が経過した1989年4月16日、後楽園ホール大会におけるメインイベントの鶴田対ハンセン戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥る。3冠統一は2日後鶴田により成されたが、この事件がきっかけとなって、全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが、後の鶴田対超世代軍・四天王の激戦を呼ぶ伏線となる。
- 1990年、天龍をはじめとする多くのレスラーがSWSに移籍し、存続が危惧される。だがジャンボ鶴田に、2代目タイガーマスクとして活躍していた三沢光晴率いる「超世代軍」が挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こして再生。鶴田率いる正規軍と超世代軍、外国人レスラーの戦いが主軸となる。
[編集] 三沢光晴ら四天王の時代
1992年、鶴田が病気のため、一線から退くと、戦いは四天王プロレスと呼ばれる形へ発展した。危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳細は四天王プロレス及び王道プロレスを参照とのこと)は先鋭化し続け、三沢・川田戦などはテレビ解説をしていた馬場に「高度すぎて俺には解説できない」と言わしめるほどだった。この時期に空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取る。武道館大会は1990年代全般で、プレイガイド発売即チケット完売となるほどの人気で、1998年には、東京ドームで初興行を開催。「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透した。
- 馬場夫人との軋轢~三沢以下選手26名が離脱へ
- 1999年に馬場が死去、5月7日三沢光晴が社長に就任する。馬場存命中には行わなかったビッグマッチでの大胆なカード編成を試みた。また、三沢、仲田龍らは、新日本プロレスなどで行われていた花道やレーザー光線などを使った華やかな演出を提案し続けた。しかし、伝統の保持を第一優先と主張する、馬場夫人である馬場元子との軋轢が生じ、社長を解任された。その結果、馬場元子とジャイアント馬場の姪・馬場幸子、渕正信を除く全役員が辞任した。社長解任後、三沢を含めた26名のレスラー(練習生・杉浦貴含む)と大半の職員が全日本プロレスを離脱し(経緯については三沢光晴を参照のこと)、三沢らはプロレスリング・ノアを旗揚げした。その後、日本テレビは全日本プロレス中継を終了し、所持していた全日本プロレス株も手放す。放送枠は『コロッセオ』を経て『プロレスリング・ノア中継』に切り替えた。
- 残留者による活動~武藤敬司参戦
- 一方、全日本プロレスに残留したのは、渕、川田利明、和田京平レフェリー、木原文人リングアナ、広報担当社員一人、そして馬場元子の6名であった(ただし、後に川田は馬場逝去後は全日本には実際にはフリーの立場として上がっていて、専属契約はしていないことを告白している)。その他は留学という形での参戦だったマウナケア・モスマン(現・太陽ケア)、当時選挙活動中でプロレス復帰も流動的であった馳浩のみであった。
- その後は天龍源一郎の復帰、フリーランス、他団体所属、ジャイアント馬場時代からの常連外国人レスラーの参加により運営を維持していた。また、この時期に川田と渕が新日本プロレスの興行に出場した。翌年の東京ドーム大会で武藤敬司が全日本に初登場。太陽ケアに勝利した後、共闘してBATTを結成。その後、新日本所属選手としては初となる三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座を獲得、年末のタッグリーグ戦を制するなど、2001年の日本武道館大会のメインをすべて武藤が務めることになる。
[編集] 武藤敬司の時代
2002年2月26日、武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンが新日本プロレスから、カズ・ハヤシがWWF(現WWE)から移籍し、同年9月30日には武藤敬司が社長に就任した。
- 脱「王道プロレス」から「パッケージプロレス」の浸透
- 2002年6月9日にA BATHING APEとのコラボレーションによる「BAPE STA!!PRO-WRESTLING」をZEPP TOKYOで開催。普段は見られない覆面レスラーが多数登場した。好評につき2003年~2004年にかけて開催した。また石井和義率いる株式会社ケイ・ワンと協賛で、2002年11月17日横浜アリーナでプロレス版「Dynamite!」として「WRESTLE-1」を開催、第2弾は2003年1月19日に東京ドームで行われた。武藤は「WRESTLE-1」の世界を「ファンタジーファイト」と表現した。なお、この興行の模様をフジテレビが地上波で放送した。
- 武藤の社長就任直後は、三沢社長時代と同様に株式譲渡が無く、再びオーナーとサラリーマン社長という形での軋轢が生じた。その後、和田京平と渕正信の生え抜き役員が武藤側に回り、和田・渕・川田の三名連名で武藤への株式譲渡懇願書を馬場元子に提出。武藤には無償で株式が譲渡され、馬場元子はオーナーを退き、事務所も六本木から移転。シリーズ興行の定番タイトルだった「ジャイアント・シリーズ」から「シャイニング・シリーズ」に変更するなど、馬場カラーを脱色した。
- 2005年からはTAKAみちのく率いるRO&D、TARU率いるVOODOO-MURDERSなどのフリーレスラー中心の軍団、佐々木健介・中嶋勝彦(健介office)の継続参戦、NOSAWA論外、MAZADAの東京愚連隊、元大阪プロレスの菊タロー、元新日本のAKIRA、K-1から曙が参戦により、新たなファン層の獲得にも成功した。実際はVOODOO-MURDERSが最もブーイングを浴び、それを他のユニットが退治する仕組みとなっている。
- WWEでエージェントを行っているジョニー・エースとの繋がりで、WWEを解雇されたレスラーが多く参戦し、全日の伝統である「日本人レスラー対外国人レスラー」を受け継ぎつつ、「明るく、楽しく、激しく、新しい」プロレスをメインコンセプトに、「王道プロレス」に代わる「パッケージプロレス」を提唱、実践していることが武藤時代の特徴の一つとなっている(公式HPのURLも「oudou」から「all-japan」に変更している)。フリー転向後爆発的な人気を得た佐々木健介が「今の自分がいるのは全日本があるから」と武藤に感謝している発言や、ジャマールらWWEを解雇されたレスラーをもう一度鍛え直してWWEに逆輸入の形で送り込むなど、武藤のレスラーを再生させる手腕を評し、東北楽天ゴールデンイーグルスの野村克也監督の『野村再生工場』にあやかって『武藤再生工場』という呼び名もある。
- 通常の興行以外にも江崎グリコ・プロダクトマネジャーで、全日本プロレス・コンディショニングコーチの桑原弘樹と武藤本人、ゴールドジム協力によるプロレスラー流のトレーニング方法やサプリメントなどの栄養学を、参加者に公開する「武藤塾」の開催、所属選手のテレビ出演など、新しい試みにも挑戦している。その中でもファン感謝デーや「武藤祭」は非常に好評で、芸能人を使ったF-1タッグ選手権試合など、ファンに楽しんでもらえることを中心に構成されている。2008年には、武藤が司会を務める番組「武藤敬司☆SHOW」で対談した夏目ナナによるプロデュース興行「PLAYBOY CHANNEL NIGHT 2008」が行われた。
- “ガラスの膝”と言われる武藤の現役続行の危惧、小島が正規軍を離脱したため、武藤・ケア以外の正規軍のヘビー級選手(中堅レスラー)の戦力不足若手選手の育成といった問題点を抱えるが、定期参戦している佐々木健介、鈴木みのるといった他団体やフリーの選手や、2007年10月に電撃移籍をした西村修や留学生から大飛躍と遂げたジョー・ドーリング、諏訪魔の正規軍復帰があり、問題点を補うようになっている。 近年、ジュニアの選手が充実してきたことから、ジュニア・タッグリーグ戦、ジュニア・ヘビー級リーグ戦をそれぞれ開催している。
- 日本武道館撤退、地上波TV中継の獲得
- かつては全日本プロレスの主要大会と言えば日本武道館大会であったが、資金の関係で2004年2月22日を最後に撤退している。現在は代々木第二体育館、大田区体育館を使用しており、年1~2回、両国国技館でのスペシャル興行「プロレスLOVE in 両国」としてプロレス界では初の試みとなる製作委員会方式(複数の企業から出資金を募り、一つのイベントを作り上げる方式)で開催されている。この大会にも協力してもらうサンリオとは業務提携を結んでいる。
- 2004年4月にはテレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組『プロレスLOVE ~夜のシャイニング・インパクト~』が開始された(2005年3月以降は両国大会のみ放映)。2007年4月6日より千葉テレビで『全日本プロレス マザー』が放送している。また、地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回・土曜日更新(再放映有り)で録画中継している他、サムライTVでも随時中継している。(GAORAの中継においてはサムライTVの協力を取り付けている)
[編集] 若手レスラーの育成「7番勝負」シリーズ
- 馬場→三沢が中心だった時代、若手選手に一流レスラーとの対戦で更なる実力を発揮してもらうという育成の狙いからベテランレスラーを相手にした「7番勝負」シリーズが展開され、「ジャンボ鶴田の試練の10番勝負」、「2代目タイガーマスク(三沢)の猛虎7番勝負」等を開催した。上述2名の他、秋山準らもこのシリーズを経験し、スターダムを駆け上がった。このシリーズは後に三沢が主催したプロレスリング・ノアでも行なわれた。武藤が社長に就いてからも本間朋晃や諏訪間幸平が挑戦している。宮本和志は本間朋晃をパートナーにタッグマッチで挑戦。天龍源一郎は2003年に若手レスラーを鍛える目的のシングル七番勝負を行なった。
[編集] 他団体との交流
[編集] 馬場~三沢時代
全日本プロレス旗揚げ当時、選手が足りない(当時日本プロレスはまだ健在)こともあり、国際プロレスの協力を仰いだ。その後も、そう頻繁にではないが、1970年代末まで国際プロレスとは交流があった。
ライバルである新日本プロレスとの交流はほとんど行われず、わずかに「プロレス夢のオールスター戦」(東京スポーツ主催)があるだけだった。その後、新日本から離れた長州力らジャパンプロレスと提携して交流を持つも、ジャパンプロレス崩壊後は独立姿勢を打ち出す。その後、坂口征二が新日本の社長となったことから交流が復活し、1990年2月の新日本プロレス東京ドーム大会への選手派遣、「日米レスリングサミット」(全日本、新日本、WWF:WWE)共催)などの交流があったものの、天龍らの離脱と猪木の新日本復帰により、その後は途絶えた。
プロレス多団体時代を迎え、団体交流が盛んになってからも、全日本では団体交流を行わず、「鎖国」と呼ばれる独立姿勢を保つ。しかし、1990年代も末になるとメンバーが固定していることによるマンネリ化が著しく、ついに「門戸開放」と呼ばれる他団体交流策を打ち出す。ただし、これはあくまで「他団体の選手を全日本に招請する」方針であって、UWFインターナショナル、みちのくプロレス、FMW以外の団体については、全日本のレスラーが他団体に上がることは殆ど無かった。これらの団体からでも、誰もが出場できる訳ではなく、馬場がメジャー団体として使えると判断した技術力の高い選手(垣原賢人、高山善廣、新崎人生、ハヤブサ、邪道・外道ら)だけが出場できた。また、全日本プロレスを脱退したレスラーの復帰は、裏切り者は許さないとする馬場の方針で行われなかった。
三沢が社長になってからはより積極的な団体交流を打ち出し、新日本の闘魂三銃士らとの対談がマスコミに掲載されるなどしたが、フロントとの対立であまり積極的な交流には至らなかった。
[編集] 三沢離脱~武藤時代
プロレスリング・ノア勢離脱による選手の穴埋めを図るため、かつて全日本に在籍した天龍や旧WARの選手、インディペンデントのレスラーが一気に参戦するようになる。また、新日本プロレスとの対抗戦を打ち出すことになるが、これが現在の武藤体制の誘因となったのである。「KAIENTAI-DOJO」のTAKAみちのくも定期的に参戦しており、外国人軍団「RO&D」を引っ張っていた時期もあった。
2003年、橋本真也が旗揚げしたZERO-ONEとの全面戦争が勃発。「武藤・川田vs橋本・小川」や、橋本が奪った三冠ベルトの奪還をねらう全日勢などの熱い戦いが繰り広げられた。
プロレスリング・ノアと全日本プロレス間は、お互いの方針から交流がなかった。しかし、2004年7月には、タッグマッチではあるが、三沢光晴 vs 武藤敬司の試合が行われ、2004年10月の武藤敬司デビュー20周年記念興行では、三沢と武藤がタッグを組んだ。武藤の新日本プロレス脱退、全日本プロレスの社長就任でこの両者の対戦の可能性は絶望的と考えられていたため、注目された。
2005年には新日本プロレスの提案により、全日本の三冠ヘビー級王座と新日本のIWGPヘビー級王座それぞれのベルトを賭けた、史上初のWタイトルマッチが両国国技館で行われ、小島聡が天山広吉を破り四冠統一王者になったが、5月に天山に敗れてIWGPヘビー級王座から転落。翌年には新日本プロレスG1 CLIMAX 2006に、5年ぶり7度目の出場をしたが、決勝で天山に敗れて準優勝に終わった。これらの試合を通じて、小島と天山は共闘することになり、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では、2003年1月4日以来の「天コジタッグ」を復活させて見事に優勝を果たした。
2007年1月4日の新日本プロレス東京ドーム興行に全面協力することを発表。IWGPヘビー級王座に太陽ケアが挑戦、また三冠ヘビー級王座に新日本の永田が挑戦するタイトルマッチが行われた(双方王座防衛)。また武藤・蝶野 vs 小島・天山という団体の垣根を越えた新旧世代の対決があり、試合後勝利した武藤組が闘魂三銃士の同胞であった橋本真也の生前の姿がスクリーンに映されトレードマークだった白い鉢巻を掲げるセレモニーがあった。
3月には、武藤社長がTNAとの業務提携のため単身渡米し、お互いの選手派遣、若手選手の交換留学などを実現させている。また2007年に入ってからは、武藤社長自身が世界中のプロレス団体に参戦するなどして、気に入った選手に直接オファーを出したり、選手から参戦を直訴されることも多くなっている。
[編集] タイトルホルダー
全日本プロレスで行われるタイトルマッチやリーグ戦はすべてPWFが認定している。
PWFが認定する王座と保持者(2008年5月25日現在)
タイトル | 保持者 | 歴代 | 防衛回数 |
---|---|---|---|
三冠ヘビー級王座 | 諏訪魔 | 第37代 | |
世界タッグ王座 | 武藤敬司 & ジョー・ドーリング | 第54代 |
1
|
世界ジュニアヘビー級王座 | 土方隆司 | 第26代 |
1
|
アジアタッグ王座 | 空位 |
全日本プロレスが開催するリーグ戦と覇者(2008年06月現在)
タイトル | 覇者 | 年代 | 日時・シリーズ名 |
---|---|---|---|
チャンピオン・カーニバル | 諏訪魔 | 2008年度 |
4月5日~4月9日
|
世界最強タッグ決定リーグ戦 | 武藤敬司 & ジョー・ドーリング | 2007年度 |
11月23日~12月9日
|
ジュニア・ヘビー級リーグ戦 | クリス・セイビン | 2007年度 |
CROSS OVER'07
|
ジュニア・タッグリーグ戦 | 土方隆司&中嶋勝彦 | 2008年度 |
HOLD OUT TOUR 2008
|
[編集] 現在の所属&参戦選手
[編集] 正規軍
[編集] 健介ファミリー
健介officeも参照
[編集] VOODOO-MURDERS
詳細はVOODOO-MURDERSを参照
[編集] GURENTAI
[編集] 他団体&フリー参戦選手
[編集] 参加外国人選手
- ジョー・ドーリング
- ハワイアン・ライオン
- アブドーラ・ザ・ブッチャー
- CJオーティス(TNA)
[編集] 出場限定レスラー
[編集] レフェリー
[編集] リング・アナウンサー
- 木原文人
- 阿部誠
[編集] PWF会長
[編集] 過去の主な所属選手&スタッフ
[編集] 故人
[編集] 引退(他団体で復帰した選手を除く)
[編集] 他団体移籍
下記以外は、FMW、SWS、プロレスリング・ノアを参照。
[編集] フリー
[編集] 役員
- 青木謙治(⇒キングスロード⇒ファースト・オン・ステージ)
- 高橋英樹(⇒キングスロード⇒ファースト・オン・ステージ)
[編集] 主な歴代来日選手(全日本マット初来日順)
[編集] 馬場~三沢時代
- ブルーノ・サンマルチノ〔1972年10月全日本初来日〕
- フレッド・ブラッシー〔1972年10月全日本初来日〕
- テリー・ファンク〔1972年10月全日本初来日〕
- ザ・デストロイヤー〔1972年12月全日本初来日〕
- アブドーラ・ザ・ブッチャー〔1972年12月全日本初来日〕
- ドン・レオ・ジョナサン〔1973年1月全日本初来日〕
- ウイルバー・スナイダー〔1973年1月全日本初来日〕
- ハーリー・レイス〔1973年2月全日初来日〕
- パット・オコーナー〔1973年2月全日本初来日〕
- ボボ・ブラジル〔1973年2月全日本初来日〕
- マーク・ルーイン〔1973年3月全日本初来日〕
- キング・イヤウケア〔1973年3月全日本初来日〕
- ザ・シーク〔1973年4月全日初来日〕
- キラー・カール・コックス〔1973年6月全日本初来日〕
- ドリー・ファンク・ジュニア〔1973年7月全日本初来日〕
- ディック・マードック〔1973年10月全日本初来日〕
- ミル・マスカラス〔1973年10月全日本初来日〕
- キラー・コワルスキー〔1973年12月全日本初来日〕
- フリッツ・フォン・エリック〔1973年12月全日本初来日〕
- ジャック・ブリスコ〔1974年1月全日本初来日〕
- ジン・キニスキー〔1974年2月全日本初来日〕
- ペドロ・モラレス〔1974年5月全日本初来日〕
- ダニー・ホッジ〔1974年7月全日本初来日〕
- ディック・スレーター〔1974年8月全日本初来日〕
- ジミー・スヌーカ〔1974年11月全日本初来日〕
- ディック・ザ・ブルーザー〔1975年4月全日本初来日〕
- チャボ・ゲレロ〔1975年7月全日本初来日〕
- スタン・ハンセン〔1975年9月全日本初来日〕
- ダスティ・ローデス〔1975年11月全日本初来日〕
- バロン・フォン・ラシク〔1975年12月全日本初来日〕
- ホースト・ホフマン〔1975年12月全日本初来日〕
- ワフー・マクダニエル〔1976年2月全日本初来日〕
- バーン・ガニア〔1976年3月全日本初来日〕
- ビル・ロビンソン〔1976年7月全日本初来日〕
- テッド・デビアス〔1976年8月全日本初来日〕
- リック・フレアー〔1978年4月全日本初来日〕
- キラー・トーア・カマタ〔1978年5月全日本初来日〕
- ドス・カラス〔1978年8月全日本初来日〕
- ニック・ボックウィンクル〔1978年12月全日本初来日〕
- ブルーザー・ブロディ〔1979年1月全日本初来日〕
- ケビン・フォン・エリック〔1979年5月全日本初来日〕
- デビッド・フォン・エリック〔1979年5月全日本初来日〕
- リック・マーテル〔1980年2月全日本初来日〕
- リッキー・スティムボート〔1980年11月全日本初来日〕
- タイガー・ジェット・シン〔1981年7月全日本初来日〕
- ジプシー・ジョー〔1981年8月全日本初来日〕
- トミー・リッチ〔1983年2月全日本初来日〕
- ケリー・フォン・エリック〔1983年3月全日本初来日〕
- テリー・ゴディ〔1983年8月全日本初来日〕
- バリー・ウインダム〔1983年11月全日本初来日〕
- ダイナマイト・キッド〔1984年11月全日本初来日〕
- デイビーボーイ・スミス〔1984年11月全日本初来日〕
- ホーク・ウォリアー〔1985年3月全日本初来日〕
- アニマル・ウォリアー〔1985年3月全日本初来日〕
- ジャイアント・キマラ〔1985年8月全日本初来日〕
- ジョン・テンタ〔1986年7月全日本入団〕
- シルバー・キング(ドクトル・ワグナー・ジュニア(弟))〔1987年10月全日本初来日〕
- ダニー・スパイビー〔1988年5月全日本初来日〕
- ジョニー・エース〔1988年8月全日本初来日〕
- ダニー・クロファット〔1988年10月全日本初来日〕
- ダグ・ファーナス〔1988年10月全日本初来日〕
- ジョニー・スミス〔1989年2月全日本初来日〕
- スティーブ・ウィリアムス〔1990年2月全日本初来日〕
- アンドレ・ザ・ジャイアント〔1990年4月全日本初来日〕
- ジャイアント・キマラ(II)〔1990年9月全日本初来日〕
- ジョージ・ハインズ〔1992年1月全日本初来日〕
- パトリオット〔1992年5月全日本初来日〕
- ロブ・ヴァン・ダム〔1993年2月全日本初来日〕
- ジム・スティール〔1994年11月全日本初来日〕
- ゲーリー・オブライト〔1995年10月全日本初来日〕
- ベイダー〔1998年5月全日本初来日〕
- ザ・グラジエーター〔1998年5月全日本初来日〕
- マイク・バートン〔1998年11月全日本初来日〕
- スコーピオ〔1999年8月全日本初来日〕
[編集] 三沢離脱~武藤時代
- バンピーロ〔2001年8月全日本初来日〕
- ハリス・ブラザーズ(ドン・ハリス&ロン・ハリス)〔2001年11月全日本初来日〕
- ジミー・ヤン〔2002年3月全日本初来日〕
- ブライアン・アダムス〔2002年7月全日本初来日〕
- ブライアン・クラーク〔2002年7月全日本初来日〕
- ビル・ゴールドバーグ〔2002年8月全日本初来日〕
- フエゴ(スプリンガン)(ミステリオ・レッド)(スプリガン)〔2003年1月全日本初来日〕
- ドン・フライ〔2003年10月全日本初参戦〕
- ギガンテス〔2003年2月全日本初来日〕 ※武藤社長になって初
- ロウキー〔2003年4月全日本初来日〕
- ディーロ・ブラウン〔2003年10月全日本初来日〕
- ブキャナン〔2003年10月全日本初来日〕
- ジャマール(RO&D)〔2003年11月全日本初来日〕
- ジャスティン・クレディブル(RO&D)〔2003年11月全日本初来日〕
- ラ・パルカ〔2003年11月全日本初来日〕
- サム・グレコ〔2003年12月全日本初参戦〕
- ボブ・サップ〔2004年2月全日本初参戦〕
- ジョニー・スタンボリー(VOODOO-MURDERS)(GREAT MUTA)〔2004年11月全日本初来日〕
- デビッド・フレアー〔2005年1月全日本初来日〕
- リコ(RO&D)〔2005年2月全日本初来日〕
- チャック・パルンボ(VOODOO-MURDERS)〔2005年2月全日本初来日〕
- ジャイアント・バーナード(VOODOO-MURDERS)〔2005年3月全日本初来日〕
- レオナルド・スパンキー〔2005年6月全日本初来日〕
- 曙〔2005年8月全日本初参戦〕
- チーム3D(ババ・レイ&ディーボン)〔2005年9月全日本初来日〕
- マット・モーガン(RO&D)〔2006年3月全日本初来日〕
- RO'Z〔2006年6月全日本初来日〕
- リキシ〔2007年2月全日本初来日〕
- ハワイアン・ライオン〔2007年5月全日本初来日〕
- ジョー・ドーリング〔2007年6月留学生として全日本初来日〕
- フィル・アトラス〔2007年6月留学生として全日本初来日〕
- クリス・セイビン〔2007年6月全日本初来日〕
- スコット・スタイナー〔2007年8月全日本初来日〕
- CJオーティス〔2008年1月全日本初来日〕
[編集] テレビ放送
- チバテレビ(毎週金曜23:30~24:00)
- GAORA
- 「全日本プロレス ALLJAPAN B-Banquet」
[編集] マット・スポンサー
- 白鹿酒造(1970年代)
- オロナミンCドリンク(1970年代)
- 日本テレビ放送網(日本テレビ全日本プロレス中継・1980年 - 1993年、なんだろう・1994年 - 2000年)
- セガ(1997年、1998年世界最強タッグリーグ戦)
- コムロ美容外科(2002年 - 2004年)
- PCボンバー(2002年 - )
- 戸田競艇場(2003年 - 2004年)
- グリコパワープロダクション(2003年 - )
- あすなろ舎(2004年 - )
- タカラトミー(2006年8月27日両国大会)
- サンリオ(2006年8月27日両国大会)
- 武富士(2007年 - )
- スリーエフ(2007年8月26日両国大会)
[編集] 日本テレビで中継時のスポンサー
(これらのスポンサーは草創期のもので、当時はメインイベントを中心に試合前に両選手やレフェリーに花束贈呈があり、その際リングアナの百田義浩がこれらのスポンサーの名を呼ぶのが恒例であった)