ブルーザー・ブロディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブルーザー・ブロディ | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム | ブルーザー・ブロディ フランク・グーディッシュ |
本名 | フランク・ドナルド・グーディッシュ |
ニックネーム | 超獣 インテリジェント・モンスター 哲学獣 |
身長 | 198cm |
体重 | 135kg |
誕生日 | 1946年6月18日 |
死亡日 | 1988年7月17日(満42歳没) |
出身地 | アメリカ・ニューメキシコ州 |
スポーツ歴 | アメリカンフットボール |
トレーナー | フリッツ・フォン・エリック |
デビュー | 1972年 |
引退 | 1988年(殺人死。本文参照) |
ブルーザー・ブロディ(Bruiser Brody)のリングネームで最も知られるフランク・ドナルド・グーディッシュ(Frank Goodish、1946年6月18日 - 1988年7月17日)は、アメリカ・ニューメキシコ州アルバカーキ出身のプロレスラー。身長198cm、体重135kg。ニックネームはキング・コング、超獣、哲学獣、プロレス界のイエス・キリスト、インテリジェント・モンスター他。
全日本プロレスや新日本プロレスに参戦し日本でも活躍した外国人トップレスラーのひとりであり、人気・実力共に高く評価されている。日本では、会場売りパンフレットや「プロレススーパースター列伝」などに「本名:フランク・ゴーディッシュ」と記載されていた。
目次 |
[編集] 経歴
ウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボール選手として活躍していた(同期にダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン。後輩チームメートがスタン・ハンセン、ザ・ファンクスは大学の先輩)。1968年夏、NFL球団「ワシントン・レッドスキンズ」入団。膝の故障で3年で引退。その後、「ダラス・モーニング・ニュース」の、スポーツコラム担当の記者となった。
新聞記者時代にフリッツ・フォン・エリックにスカウトされ、プロレス界に入った。1972年、ヒューストンにてプロレスデビュー(一説には、1973年デビューとも)。デビュー時のリングネームは本名「フランク・グーディッシュ」。ダラス地区中心に優遇されたが、その後、自らに挑戦するために、ダラス地区のプロモーターから離れ、オクラホマ地区に転戦した。
1974年10月、同じくレスラーとなっていたスタン・ハンセンとコンビ結成。同年12月、USタッグ王座を奪取した。1975年7月、同王座転落、及びコンビ解消。この時リングネームを「フランク・ブロディ」に改称。その後、ローカルのベルトをいくつも奪取、獲得した。
1976年夏ごろ、WWWF入りし、「ブルーザー・ブロディ」に改名。知名度も上がり、まもなく、メインイベンターとしての地位を築く。1977年、ダラス地区に凱旋。1978年9月11日、ディック・ザ・ブルーザーとの世に言われるブルーザー対決で、WWAタイトル奪取。
1979年1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績で帰国(タッグながら得意のニードロップをフィニッシュに馬場からフォール勝ちという快挙も果たす)。翌年より、常連外国人レスラーとしてシリーズ毎に何度も来日を果たすようになった。1981年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取。以後このベルトを巡ってドリー、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと名勝負を繰り広げる。1982年、スタン・ハンセンと、日本にてコンビを再結成。「超獣コンビ」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビで年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝1回・準優勝2回(準優勝2回はいずれも最終公式戦での反則負け)、また1984年に新設されたPWF世界タッグ王座でも初代王者に輝く。超獣コンビは今に至るもなお史上最強コンビの呼び声が高い。
1985年3月21日、新日本プロレスに引き抜かれる形で移籍し、来日。以前に、新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本から引き抜き、それに怒った全日本がタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを新日本から引き抜いた事も含め、日本の2大団体の関係が、さらに険悪となる。アントニオ猪木とは、7度シングルマッチで対決(2勝2敗3分け)。同年12月、IWGPタッグリーグ戦にジミー・スヌーカとのタッグで出場するが、仙台での決勝戦出場をボイコットし、突然の帰国。新日本プロレスからは、永久追放処分となる。金銭トラブルではなく、新日本プロレス側の「外国人レスラーに優勝させたくない」、「藤波辰巳&木村健吾組に勝たせたかった」、「自らが膨らませた坂口負傷アングルを反故にされた」等というブックに反発したトラブルが原因という説が有力。このように、ブロディはブッカーにとって扱いにくいレスラーであり、そのことが後の死につながる。その後、新日本プロレスと和解しかけるが、自ら来日直前にキャンセルし、再度、新日本プロレスから、永久追放を宣言される。
1987年10月2日、全日本、新日本の2大プロレス団体間の、レスラーに対する「引き抜き防止協定」が足かせになっていたが、新日本プロレス側の違反から、ブロディはリストからはずされ、全日本プロレスに復帰来日。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦ではタッグながらスタン・ハンセンとの世界初対戦(結果的に最初で最後となった)が実現した。
1988年3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣ギミックの仮面を守り通したブロディがこの時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びをわかちあい、バックステージでは涙を流しながら控え室に戻っていくという伝説のシーンが展開された。
1988年7月16日、プエルトリコ、バイヤモン市にあるバイヤモンスタジアムでの興行中、同地区のボス、カルロス・コロン(現在WWEで活躍しているカリートの実父)とのトラブル発生。カルロスの配下である、レスラー兼ブッカーの「ホセ・ゴンザレス」に、ドレッシングルームにて、腹部をナイフで刺される。刺し傷が肝臓に達し、同年7月17日、出血多量により死亡。痛み止めのために常用していたアスピリンの副作用により、出血が止まらなかったともいわれている。また、興奮剤を服用していたのが裏目に出たともいう。なお、裁判では、現場に居合わせたレスラー仲間たちが揃って証言を拒否し、結局、ホセ・ゴンザレスは無罪判決を得ている。
[編集] 人物
リング上では超獣ギミックを一貫して守ったブロディだったが、本来は家族思いの穏やかな人柄で「インテリジェント・モンスター」「哲学獣」と呼ばれるように独自のレスリング哲学を持っており、インタビューでは彼本来のクレバーさを感じさせる発言が多く見られた(超獣ギミックについてブロディは「プロレスを初めて見る子供やお年寄りに『あのチェーンをブルブル振り回す奴は誰だっけ』という印象を与えるため」という趣旨を語っている)。また、ラフファイトの裏側に隠された緻密な試合運びには定評があり馬場や鶴田も認めていた。「プロレスはチェスのようなものさ」と語っていた。
試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であったが、それらの行為は彼がプロ入り前に新聞記者を経験していたためではないかとも思われる。
一方で各地のプロモーター、ブッカーとは衝突が絶えず、WWWF時代のゴリラ・モンスーンを始めとして、ディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など、その最期に至るまでエピソードには事欠かない。トラブルが無かったのはダラス地区のフリッツ・フォン・エリックくらいであった。ハンセンによれば、若手時代に格安のギャラで働かされた頃から彼のプロモーター嫌いが始まったといい、馬場のような普通なら信頼に値するはずのプロモーターでもブロディは信じていなかったという。
また、海外遠征時代にブロディとサーキットを共にした武藤敬司は「滅多に他人を褒めなかったが、アドバイスは的確で色々と教えてもらった」と当時のことを語っている。ちなみに初めて会話した際にいきなり「お前の試合はしょっぱい」と言われたとのこと。
なお、ブロディはアメリカ遠征中の日本人レスラー・米良明久に「ダラスでヒールのできる日本人を捜している」とダラス転戦を助言、米良はダラスでヒールレスラー「ザ・グレート・カブキ」に変身し、大活躍することとなった。結果として、ザ・グレート・カブキ(及びザ・グレート・ムタ)誕生のきっかけにブロディが絡んでいることになる。
アントニオ猪木が一番扱いに困ったレスラーがブロディであったと語っている。ブロディは試合直前にギャラアップを求めることがあり、アップしないなら試合に出ないと理不尽な要求を猪木に叩きつけていた。猪木は出られないのは困るからとそれをいつも仕方なく承諾していた。のちに猪木はブロディについて「自分の物差ししかない男」と回想している。
ブロディは毛皮を巻いたレスリングシューズを使用していた。一見、超獣ギミックを演出するための手法と思われるが、馬場によると、足首に傷があり、それを保護するためだったらしい。また、ブロディは逞しい上半身や太腿に比べて膝下が細いため、それを隠すためとも言われている。
[編集] 得意技
- ブロディ・キック
- 助走をつけてのビッグ・ブーツ。別名「キングコング・キック」。
- キングコング・ニードロップ
- 右腕を高く突き上げて予告した後に助走をつけてのニー・ドロップ。ポスト最上段からのダイビング・ニー・ドロップは切り札としてよほどの相手にしか出さなかった。ちなみに、当時ブロディの試合を実況していた倉持隆夫アナが「今度からキングコング・ニードロップと名づけましょうか」と解説の竹内宏介に振ったところ「そうですね!角度、破壊力などまったく他のレスラーとは違いますからね!」と即同調。あっさり決まった。
- ギロチン・ドロップ
- 助走をつけての高角度のギロチン・ドロップ。その高さは古舘伊知郎に「無重力状態」とたとえられた。同時代のアメリカでハルク・ホーガンが同じ技をフィニッシュにしていたが、スピード・高さともブロディが完全に上回っていた。時としてポスト最上段からのダイビング・ギロチン・ドロップも使うことがあった。
- ジャイアントスイング
- 猪木戦をはじめとして、比較的軽量のレスラーに使用していた。
- フライング・ボディーアタック
- ロープに振られた際のカウンター技として使用していた。
- ワンハンド・ボディスラム(ゴリラスラム)
- 右腕一本で豪快に投げ飛ばすブロディ独特のボディスラム。自身の怪力をアピールするために開発したとされており、馬場や鶴田のような巨漢が相手でも工夫して右腕一本で投げているように見せていた。また、猪木はこの技に関して「怪我をして力が入らなくなっていた時期でも右腕一本で投げていた。あれは彼のプライドなんだろうね」と語っている。
- ブレーンバスター(ブレーンバスター・スラム)
- 独特のフォームのブレーンバスター。ビル・ゴールドバーグの「ジャックハマー」のヒントとなった技。
- パイルドライバー
- 相手が逆さになった状態で四方に見せつけるように十分タメを作ってからジャンプし、頭頂部をマットに叩き付ける。見た目にも説得力十分な大技だったが、何らかの工夫をしていたのか技が決まった際の音が非常に大きかった。
- 意外なところでは、天龍源一郎とのインターナショナルヘビー級タイトルマッチで逆さ押さえ込みでフォール勝ちしたことがある。また、巨体でありながら抜群の跳躍力をもって放たれるドロップキックも隠れた得意技の一つである。自らも「俺ほど動けて飛べる大きな男はいない!」と豪語していた。
[編集] タイトル歴
- 全日本プロレス
- インターナショナル・ヘビー級王座
- WWA世界ヘビー級王座(ミネアポリス版)
- PWF世界タッグ王座(初代王者、パートナーはスタン・ハンセン)
- NWAテキサスヘビー級王座
[編集] テーマ曲
- 全日本プロレス時代
- レッド・ツェッペリン「移民の歌」のドラマー石松元によるアレンジバージョン(ヴォーカル無し)
- 新日本プロレス時代
- 前奏ベートーヴェン「交響曲第5番運命」
- レッド・ツェッペリン「移民の歌」原曲使用