タイガー・ジェット・シン
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タイガー・ジェット・シン | |
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プロフィール | |
リングネーム | タイガー・ジェット・シン タイガー・ジート・スィン |
本名 | ジャグジート・スィン・ハンス |
ニックネーム | インドの狂える虎 インドの猛虎 サーベルタイガー |
身長 | 190cm |
体重 | 120kg |
誕生日 | 1944年(1947年との説もある) |
出身地 | インド・ルディヤーナー |
トレーナー | フレッド・アトキンス |
デビュー | 1964年 |
タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh、1944年(1947年説も) - )は、インド・パンジャーブ州のルディヤーナー出身(カナダ・トロント出身説あり)のプロレスラー。なお、日本以外での正式なリングネームはタイガー・ジート・スィンである。シク教徒。
本名はジャグジート・スィン・ハンス(Jagjit singh hans)。
目次 |
[編集] 概略
彼はフェンシングのサーベルを振りかざす姿で一世を風靡した悪役レスラーのイメージが強いが、ここぞという場面では正統派レスリングでアントニオ猪木ら、トップクラスの相手に勝つ実績を残している。単なる悪役にあらず、言動には独自の哲学を徹底して貫いており、多くの関係者から一目置かれる存在となっている。
「インドの猛虎(狂虎)」、「狂える虎」という異名で呼ばれた。息子のタイガー・アリ・シン(本名グルジート・スィン)もWWEのリングで活躍したプロレスラー。
海外や地元トロントではベビーフェイスとして活躍を続ける一方、プロレス以外の様々な事業を経営している。その手腕には定評があり、プロレス業界のみならず、財界、政界とも太い繋がりがあり、北米インド人社会でもトップクラスの人物。
[編集] 経歴
[編集] 来日前(~1973年)
1964年にシンガポールでデビューし、その後カナダに渡ったという説があるが定かではない。インドのプロレスラーダラ・シンにあやかって「シン」を名乗っているがインドと地縁・血縁はない[要出典]とも言われている。
ジャイアント馬場のアメリカ修行時代の師匠で知られたフレッド・アトキンスに正統派レスリングを徹底的に叩き込まれ、1965年にトロントでデビュー(ここからのプロフィールははっきりしている)。翌年には早くもNWA世界王者ジン・キニスキーに1度、WWWF(現WWE)世界王者ブルーノ・サンマルチノに2度挑戦している。しかしメインイベンターと言うには程遠く、日本では全く無名の存在であった。
[編集] 新日本プロレス参戦期(1973~1981年)
1973年5月に新日本プロレスに参戦するため初来日(後述する)。アントニオ猪木と因縁の抗争劇を繰り広げ悪役レスラーのトップとなった。1975年3月に猪木を破りNWFヘビー級王座を獲得。1976年7月には坂口征二を破り初代アジアヘビー級王座を獲得。1977年2月には上田馬之助とタッグチームを組み、坂口征二&ストロング小林組から北米タッグ王座を獲得。しかし1980年頃からスタン・ハンセンらの台頭により、人気に陰りが見えはじめてくる。
[編集] 全日本プロレス参戦期(1981~1990年)
1981年7月に全日本プロレスに移籍し、再び上田とのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインタータッグ王座を獲得。80年代前半はザ・シークやテリー・ファンクら外人選手との対戦で、シンの持ち味が発揮されることがあったが、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。輪島大士の国内デビュー戦の相手に抜擢されたり、全日本プロレスにUターンしたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの凶悪タッグを結成するものの、人気低下に歯止めがかからず、一時的な話題を提供するだけに留まった。特に80年代後半は以前と比べると流血試合が大幅に減った上に体重が増加し、シンの持ち味であるスピーディーな暴れっぷりは徐々に衰えていった。
[編集] 新日本プロレス復帰(1990~1992年)
1990年9月に行われたアントニオ猪木デビュー30周年において、永遠のライバル猪木と一夜限りの特別タッグを組み、興行に花を添えた。これを機に新日本プロレスへ復帰を果たすも体力的な衰えは隠せず、台頭してきた闘魂三銃士との試合もかみ合わずじまいで、メインからは遠退いていった。また、アントニオ猪木デビュー30周年に合わせ、グレーテスト18クラブなる親睦団体兼新タイトルが設けられ、シンは開設当初からメンバーだったものの後に除名されたり、対猪木とのシングルマッチの権利を奪われたりと不遇が重なった。ただし以前の全日本プロレス時代に比べて、シンの暴れっぷりはむしろ復活していた。シンより一~二世代若い長州力、ブラック・キャットといった当時の中堅、若手を次々と血まつりに上げたり、場外では馳浩が運転する車をバットでメッタ打ちにしたりと、シンの健在ぶりをアピールした。
[編集] インディーズ時代(1992年~)
1992年にFMWに移籍。大仁田厚が考案した様々なデスマッチの一つに公認凶器なるルールがあり、この試合形式においてシンは、水を得た魚の如く蘇り大活躍をした。ファンや関係者の間ではこの頃を第二の全盛期とする意見が多い。FMWのリングでは、大仁田厚と電流爆破デスマッチ、関ヶ原でのノーピープルデスマッチ等多数の名勝負を繰り広げ、息子のアリ・シン(当時はタイガー・ジェット・シン・ジュニアを名乗った)と組んでタッグリーグ戦に参加した。また、ザ・シークとコンビを結成後、仲間割れした。
その後、NOWで上田馬之助と抗争。IWA・JAPANでは、ミスター・ポーゴと抗争するなど、インディー団体を中心に転戦し続けた。最近の来日では、「ハッスル」で小川直也と戦い、敗れている。その後、RG、HG、坂田亘、崔領二、KUSHIDA、ウォーレン・クロマティ、マーク・コールマンなどと戦い、彼らを血祭りにあげている。
[編集] 和製タイガー・ジェット・シン~作られたヒール
- 1972年、アントニオ猪木を代表に新日本プロレスが創立されるが、しばらくはNWAと日本プロレス(後に全日本プロレス)、AWAと国際プロレスとの協定により、当時人気のあった外国人選手の殆どは、新日本プロレスへの参戦が事実上不可能であった。また、新日本プロレスは高額のギャラを払える状況ではなかった。このため創立間もない新日本プロレスは、無名の選手を育て上げるという手法に依存せざるを得なかった。
- タイガー・ジェット・シンを新日本プロレスに売り込んだのは、当時インドと独自のネットワークを築いていた吉田なる貿易商とされる。猪木が無名外国人選手のプロフィールに目を通している時に、口にナイフを咥えているタイガー・ジェット・シンの写真に注目した。この時猪木は、「ナイフじゃなくどうせならサーベルでも咥えさせてみろ」と語ったという。
- このような状況で1973年、タイガー・ジェット・シンは初来日した。但し、本来は同年7月からのシリーズに参戦する予定だったのが、新日本プロレス渉外担当者の手続きに間違いがあり、シンは二ヶ月早く来日してしまった。
- そこで同年5月4日、会場の川崎市立体育館の客席にシンを招いた。新日本プロレスにしてみれば、「手違いとはいえ、せっかく来日したのだから日本のプロレスを生で見てもらおう」という、シンに対する配慮だった。ところがこの日の山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合中、シンは突如乱入し、山本小鉄をメッタ打ちにし失神させた。この時はターバンは巻いていたが、サーベルは持っていなかった。
- この様子を見た猪木は、シンは目玉のレスラーになると読み、急遽渉外担当に命じシンを一旦香港へ向かわせ、業務用ビザを受けた後に日本へ戻るよう指示した。その間新日本プロレスは前述の猪木案を実現すべく、日本でサーベルを手配し、戻ってきたシンに与えた。ヒールとして日本で活躍することを望んでいたシンは、大いに喜んだという。
- このような経緯を経て、ターバンを巻きサーベルを振りかざすという、タイガー・ジェット・シン独自のスタイルが確立されたが、当時の新日本プロレスは、「タイガー・ジェット・シンは勝手に日本に来た。決して新日本プロレスが招いたわけでは無い」との旨のギミックでシンを売り込んだ。このギミックは当時のスポーツ新聞記事において、シンを「謎の怪人」「狂人(後述する)」等と形容していたあたりから、一応の成功を収めたと言える。後に「インドの猛虎」「狂虎」といった表現に落ち着く。なお、当時の実況で解説の遠藤幸吉が「キチガイ」と言ってしまったことがあるという。
[編集] 「襲撃事件」と「腕折り事件」
- 1973年11月、タイガー・ジェット・シンは2度目の来日中に外人レスラー数名と組み、当時の猪木夫人である倍賞美津子と買い物中だったアントニオ猪木を新宿伊勢丹前で白昼堂々と襲撃し警察沙汰となる事件を起こした。猪木は負傷・流血し警察にも通報された。
- 新日本プロレスに対する四谷警察署の対応は、「本当の喧嘩であれば猪木はシンを傷害罪で告発し、被害届を出せ。やらせであれば、道路交通法違反(道路無許可使用)で新日本プロレスを処分する」という厳しいものだった。これに対し新日本プロレスは、「やらせではない。シンは契約選手なので傷害罪で告発することは出来ないが、騒ぎを起こしたことは申し訳なく、お詫びなら幾らでもする」と始末書を提出し、事は新日本プロレスに対する厳重注意で収まった。
- この事件は各方面で報道され世間でも話題になり、シンは本当に狂っているのではないか(後述する)という印象を強く与えた。以後猪木はリング上で制裁を加えると公言し、猪木対シンの試合は「因縁の闘い」として世間の注目を集める事となった。事件直後の1973年11月16日、札幌中島スポーツセンターで超満員の中猪木と二度目の一騎打ちが実現。両者大流血の喧嘩ファイトとなった。
- それまでの猪木のファイトは正統派スタイルを売りにしていたが、対シン戦で猪木が見せた喧嘩ファイトは猪木の新たな魅力を引き出し、ファンの増加をもたらした。またシンという絶対悪が存在する限り、日本人受けが良いとされる勧善懲悪の世界を築くことができた。これら一連のシン効果により、新日本プロレスはメジャー団体への階段を昇る。
- 翌1974年6月、NWF王者猪木(当時)とシンのタイトルマッチ2連戦は、両者の遺恨がピークに達した試合と今でも語り継がれる。同年6月20日、東京・蔵前国技館の60分3本勝負において、2本目開始直後にシンは猪木の顔面に火炎攻撃を仕掛け、サーベルで猪木を滅多打ちにし流血させた。猪木はタイトルこそ防衛したものの、左目と頭部を負傷した。その傷が完治しないまま6日後、6月26日の大阪府立体育会館での60分3本勝負は、1本目がシンの徹底した反則攻撃により猪木は大流血。2本目に猪木の怒りが頂点に達し、シンの右腕に狙いを定めると鉄柱攻撃などで集中的に攻め続け、最後はショルダー・アームブリーカーを連発しシンの右腕を骨折させ、ドクターストップの末猪木がタイトルを連続防衛し、ここに両者の遺恨に一旦終止符が打たれた。なお、猪木自身は「腕を折った」と明言しているが、実際にはヒジもしくは肩の亜脱臼だという。
- 双方の攻防は、いずれも一歩間違えればレスラー生命に関わる激しいものであったが、その当時の両者には互いが共栄していくためには、超えてはならない一線を超えることも是とする暗黙の了解があったとされる。当時の猪木は日本プロレスを追放されたも同然の身で、ライバル団体の全日本プロレスに追いつき追い越したいという野望があり、シンも新天地日本でトップヒールとして開花したいという、両者の強烈なハングリー精神が共感した上で、前述の遺恨試合2連戦が展開された。特に第二戦の大阪府立体育会館においては、猪木対シンの試合開始1、2時間前から会場は超満員(8,900人)の観客で溢れ、入場出来なかった多くの熱心なファンが係員と押し問答となったり、ダフ屋では1,000円のチケットに5,000円の値がついたりと場外でも話題は尽きなかった。また、試合を生で観戦した者は「会場全体が、これから殺し合いでも始まるのではないかという異様な熱気と興奮に包まれていた」と当時の様子を回顧する。
- 後年、ミスター高橋はその著作の中で、新宿伊勢丹襲撃劇は猪木夫妻が了解済みのアングル作りであったことを明かしている。一方、シンに荷担したビル・ホワイトもやらせであったことを暴露している。但し、「我々はある程度良識の範囲内での襲撃を想定していたのだが、途中からシンが本気になってしまった」とシンの予定外の暴挙があの騒動に発展したことを明かしている。
[編集] 人物
- ミスター高橋は著書の中で、シンが狂人どころか非常に聡明で紳士的な人間であることを強調しており、ヒールとしてのキャラクターは完全に演技であることを明かしている(インドで募金活動をするなど、善意や篤志が有る)。
- 山本小鉄が巡業先のスポンサーの社長宅で、バーベキューに呼ばれたことが有った。社長は「どうせなら外人レスラーも連れてきてよ」と言い、当時外人選手係りでもあった山本小鉄は、シンと一緒に赴いた。シンはターバンにスーツという、インド式の正装であった。そのうちバーベキューの火力が強くなり、段々汗ばんできたきたシンは、「社長、上着を脱いでもよろしいでしょうか」と一言断りを入れたという。シンの紳士ぶりを象徴する一例である。
- カナダのトロント地区はインド・パキスタン系住民の多い地であり、この地でのシンは一貫してベビーフェイスである。またアメリカのデトロイトなどでザ・シークと対戦する際もベビーフェイスとして活動しており、彼がヒールとなったのは新日本参戦時が初めてである。
- ヒールとしてのモデルはやはりザ・シークであり、狂人キャラを貫く点、決してプライベートを明かさない点にそれが見える。
- リングの内外を問わず、大変な倹約家として知られる。トロントでの事業が成功した大きな要因である。
- 普段は物静かで寡黙なシンが、リングに向かう時は急変して大暴れしながら入場する。余談だが、若き日のスタン・ハンセンはこの様子を見て「シンはプロだ」と痛感。客席を暴れながら入場するスタイルなど、ハンセンがシンから受けた影響はかなり大きいと言われる。
- かつてメインをとっていた全盛期は、「会場にいる者全てが俺の敵だ、だから俺は観客でもカメラマンでも殴る」と、自身のヒール哲学を徹底的に貫いていたシンだが、体力的な衰えと嘗ての盟友だった上田馬之助の交通事故が転機となり、ファンに愛されるヒールに転向。リビングレジェンドのイメージが色濃くなった近年は、観客に暴行を加え、それで尚且つファンに敬愛されるという唯一無二のキャラクターを確立している。プロレスの楽しみ方も多様化し、70-80年代のように本気でシンを怖がって逃げるファンは減り、逆にシンに襲われることを一種のステータスと認めている次世代のファンが増えている。
- 1990年代後半からはしばしばサイン会等を行い、ファンとの交流に努めている。また、ゴージャス松野らとCDアルバム『愛が地球を救うのだ』を発表し、アニメ『妖怪人間ベム』の主題歌を熱唱したり、所ジョージ司会のバラエティ番組にゲスト出演したりと、プロレス以外のメディアでも活躍。
- 初来日時から関係者でも容易に近付けない雰囲気を放っていたが、実際は電話魔であり大の写真好き。暇さえあればカメラマンを呼び付けては自身の写真撮影を要求していた。
- 田中秀和リングアナは若い頃、新日本プロレスのリング上でプロレスラーに暴行を受けることがしばしばあった。そのことについて自身のブログで、「シンが僕を襲う場合は悪役としての、プロとしての信念や魂のようなものを感じられた。シンが襲いに来るか否かは雰囲気で分かるようになったし、襲われると分かっていても僕は逃げなかった。シンが悪役のプロなら僕はシンに襲われるプロだ。しかし、アブドーラ・ザ・ブッチャーの場合は単に殴られ損だったので、すぐに逃げた」と語る。
- 来日間もない頃は英会話が苦手であり、いわゆるブロークンイングリッシュ(片仮名で一音ずつ認識できるような発声法)で発音していたため、日本人には却って聞き取りやすかった。ある日本人プロレス記者は、「陽気にペラペラ喋りたてるアメリカンと違い、シンの英語は不思議と誠意が伝わってくる。」とも語る。
[編集] 得意技
- コブラクロー
- シンの代名詞とも称される技で、フォール勝ちの殆どをこの技で収めている。建前上は、指を2本折り曲げてVの字を作った状態で頚動脈に押し当てて相手を酸欠状態に陥れる合法的な技とされるが、実際はチョーク攻撃(反則)に過ぎなかった。
- しかし、前述の通り創立間もない頃の新日本プロレスは、営業面でシンを看板選手として売り込む必要があり、彼の残虐性と実力とをビジュアル的にアピールすべく、コブラクローを反則としない暗黙の了解があったと推察される(山本小鉄は近年のコラムで、この技の合法性に関し「あれは紛れもなく反則。だから自分がレフェリーに転身後は、あの技に対し厳しく反則をとった」などと語っている)。そのため新日本プロレスが名付け親の感が強く、それを嫌ってか、全日本プロレス移籍後はこの技を「タイガークロー」と呼ぶ解説者もいた。他にこの技の使い手は殆ど見られない。
- この技の繰り出し方は主に3通りある。
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- (1)相手がリング中央にいる時
- 相手を蹴る、あるいは殴る等をして相手が一瞬無防備になった隙に仕掛けるが、あまり決定打にはならない。
- (2)相手をロープに振ってカウンターで仕掛ける
- このパターンで多くのフォール勝ちを納めている。但し、技に入る直前のモーションが大きく、それを見抜かれて相手に交わされることもしばしばある。
- (3)ロープ際→エプロン→場外へと相手を誘う
- ファンが最も興奮するのがこのパターンとされる。まずロープ際の相手にコブラクローを仕掛ける。相手はロープを掴むので、レフェリーはロープブレイクを宣言するがシンはそれに応じない。この時点で反則には違いないので、完全なチョーク攻撃へとシフトする。反則負けとされるカウント5の直前に、一瞬手を緩め、反則カウントをリセットさせ、またチョークを仕掛ける。これを繰り返している間に、自然と両者は徐々にリングの外へと移動し、やがてエプロンへ達する。次に、エプロンからはみ出た相手の頭部を、さらに下方の場外へと向けて締め下ろし、同様に反則カウント5をとられないようにこれを繰り返し、最終的に相手が場外へ落ち、直後に場外乱闘へと発展する。
- ブレーンバスター
- 本来の意味での「脳天砕き」とは異なり、相手を大きく後方に投げる技ではあるが、しばしばこれでフォール勝ちを収めている。但し受身があまり上手くないシンは、自身の頭部もダメージを受けることを避け、1980年代からはブレーンバスターの姿勢で相手を担ぎ上げ、ボディスラム気味に投げるスタイルが多く見られた。
- 足4の字固め
- 「フィギュア・フォー・レッグ・ロック」ともいう。相手の足を4の字に固める技。正統派レスリングの時、グランドの攻防で時折使っていた。
- レッグシザース
- 「首4の字固め」ともいう。相手の首から顎にかけ、自身の足を4の字に固める技。自身のスタミナを回復出来るメリットがあり、試合中盤によく使っていた。
- 凶器攻撃
- トレードマークのサーベル、ターバンは勿論、客席のパイプ椅子攻撃が特筆される。従来は殆どのレスラーがパイプ椅子を畳んだ状態で広く平面的に殴っていたのに対し、シンは鋭利な部分で突きピンポイントにダメージを与える新たな方法をとった。サーベルは柄の部分で相手を殴ることが殆どで、剣先で刺したレスラーは大仁田厚他数えるほどしかいない。また猪木にサーベルを奪われ、自身が剣先で刺されたこともある。
- 反則技(凶器を使わない)
- 目潰し、噛み付きといったそれまで良く知られていた反則技に加え、急所攻撃が特筆される。試合中、自身が追い込まれ防戦一方と見せかけて、レフェリーの死角をつき、油断した相手の股間に一撃を加え一瞬で攻防を逆転させることがしばしば有った。因みに対猪木との最後の公式試合も、シンの急所攻撃→反則負け、である。
- アルゼンチンバックブリーカー
- 1975年に猪木からギブアップを奪った、シンの隠れたフィニッシュ・ホールド。この技は掛け手にもダメージが蓄積するため、シンが使用した後中西学が多用するまでの20年間は、この技による「ギブアップの声あるいはタップ」は無かった、と言われている[要出典]。
[編集] エピソード等
- 新日本プロレスに参戦する前に「ヒンズー・ハリケーン」のリングネームを使用した時もある。
- インド人コミュニティーが存在する南アフリカでプロレスのブッカーをしていたこともある。1987年、全日本プロレスにオファーを出し、ジャイアント馬場はそれに応えてハル薗田をブッキングした。ハル薗田とその妻は新婚旅行も兼ねて南アフリカに向かったが、その往路、南アフリカ航空295便墜落事故に遭遇し不帰の客となった。
この時ばかりはシンも沈痛な面持ちで、マスコミのインタビューには背広姿で現れ、「ソノダと彼のワイフをこの様な事故で死なせてしまったことは大変申し訳ない」と、普段のギミックからは想像も付かない様な真摯な対応を見せた。その姿はヒール姿しか知らぬ日本のプロレスファンに、薗田の事故死とはまた別の意味で大きな衝撃を与える事になった。
薗田夫妻の事故死はもちろんシンには何ら責任はないものであるが、その『償い』として犬猿の仲であるアブドーラ・ザ・ブッチャーと地上最凶悪コンビを結成し、全日本プロレスの興行に貢献したとされる。 - 1970年代半ばの新日本プロレスは、シンを中心に回っていると言っても過言では無かった。事実シンが登場する興行は飛ぶように売れ、新日本プロレスはシンが登場しない興行との抱き合わせ販売もした。またNWFがシンを介して様々な手法で新日本プロレスに揺さぶりをかけたかのように見せ、当時はマイナーなタイトルだったNWFのベルトやタイトル戦の付加価値を高めた。
- 今では当たり前のように見られるリング外の場外フェンスは、1980年から新日本プロレスがシン対策(観客の安全を確保するため)として常設したのが最初である。
- 1979年8月26日、東京スポーツ社主催「プロレス夢のオールスター戦」で、ファン投票で1位に選ばれたメインカードが、シン・ブッチャー組対猪木・馬場組であった。対戦前は「俺がブッチャーと組むくらいならむしろ猪木と組んで、ブッチャー・馬場組と対戦してやる」と、ブッチャーとのコンビを露骨に拒否したが、後年「あのオールスター戦のことはよく覚えている。もしメインが、ザ・ファンクス対馬場・猪木であれば、全日本プロレスの色が相当濃かっただろう。それを押さえて俺(シン)を含めたカードが1位で、しかもメインをとったことは今でも誇りに思う」と語っている。ちなみに馬場は引き分けで終わることを望みそれで予定はほぼ決まっていたが、試合直前に猪木から馬場へ電話があり、「俺(猪木)とシンで話がついたから」と語り、結果はシンのピンフォール負けであった。
- 新日本参戦時の試合中に、サラリーマンとおぼしき観客に傘で殴りかかられたことがある。その際には徹底的な制裁を加え、続行中の試合実況において「先ほどのお客さんは病院に搬送されました。」というリポートがあった。ただし実際の負傷の程度、賠償の有無等は不明である。
- テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』において、シンから譲り受けたサーベルに40万円の鑑定額がついたことがある。
- 札幌巡業中、ススキノで飲んで上機嫌になったシンと外人レスラー数名が、悪戯に近くに停めてあった車数台をひっくり返し、本当に警察沙汰になったことがある。
- 函館巡業中、すし屋へ行って「金魚を握ってくれ」と言ったことがある。
- ヘビが苦手である。
- リングネームは、日本語では一般的に「タイガー・ジェット・シン」と表記されるが、東京スポーツだけは1990年代中期辺りから「タイガー・ジット・シン」と表記している。本項の冒頭にある通り、ミドルネームの英語表記は“Jet”ではなく“Jeet”であり、後者の発音からすると「ジット」となるのが正しいという。そうした旨の申し入れがシン本人からあった為、以降は「ジット」と表記するようになったという。
- 2007年、茨城県つくば市にタイガー・ジェット・シンカレーハウスが開店した。シンの親戚が店長であり、シンも時々来店しては撮影会等、ファンサービスに努めている。メニューにはタイガー・ジェット・シンスペシャルなるコースが存在する。
[編集] シン語録
- 「成田(空港)でニック・ボックウィンクルとルー・テーズに会った。あいつらはバスで来ていたが、俺は(新日本プロレスの)オフィスの豪華な車だ。その時やつらは俺に6万ドルもの借金を申し込んできた。奴らは俺をフレンドと思っているようだが、俺は思ってない。」(時期不明、恐らく昭和54年10月頃と思われる。シンはブラディファイトシリーズ参加、ニックとテーズは国際プロレスのダイナマイトシリーズに参加していた)
- 「世の中には二通りの人間がいる。殴る人間と殴られる人間だ。だから俺はプロレスを選び殴る人間になった。」(時期不明)
- 「ポケットに100ドルあればその日は10ドル使うんだ。50ドルなら5ドルだ。そして残った金は全部貯金するんだ。これがビジネスの始まりさ。」(時期不明)
- 「猪木とタッグを組むことは何ら問題は無いよ。ただし猪木が試合中に裏切らなければの話だがな(笑)。俺と猪木のタッグが実現すれば、アジアでも最強のチームになるだろう。」(1990年9月アントニオ猪木デビュー30周年直前、自宅にて)
- 「私は長いこと日本でファイトを続けて来たが、日本人がどんどんアメリカ的になっていく点が残念でならない。それもアメリカの良い所ではなく、イージーゴーイングな点ばかり真似しているようだ。若い日本人はもっとアジアの歴史を知るべきじゃないかな。アジアには世界に誇る多数の文化がある。」(1998年春、「週刊プレイボーイの特集記事より)
- 「アーソーデスカ」「トモダチ」「カレーガタベターイ」「アケマシテオメデト」「オヒサシブリ」「ハヤクーハヤクー」(時期不明、所ジョージ司会のバラエティ番組にて)
- 「チョトマテクダサーイ」(1990年9月アントニオ猪木デビュー30周年、試合後のマイクパフォーマンスにて)
- 「あいつはカッコばかりつけたがる。親父の苦労が分かってないんだ。」(時期不明。それまで親子タッグを組んでいた息子のタイガー・アリ・シンが、悪役である父に反旗を翻し正統派ファイターを目指すと言った。それに対してシンの口から出た言葉であるが、この発言の後シンはプロレス記者の前で涙を流した。)
[編集] タイトル履歴
- NWF認定世界ヘビー級王座
- UWA認定世界ヘビー級王座
- モントリオール版AWA認定世界ヘビー級王座
- NWA認定インターナショナルタッグ
- WWF認定アジアヘビー級王座
- WWF認定アジアタッグ王座
- NWA認定北米タッグ王座
[編集] 来日歴
※括弧内は来日回数
- (001)1973年05月 新日本 ゴールデンファイトシリーズ
- (002)1973年10月 新日本 闘魂シリーズ第2弾
- (003)1974年05月 新日本 ゴールデンファイトシリーズ
- (004)1975年02月 新日本 ビッグファイトシリーズ
- (005)1975年05月 新日本 ゴールデンファイトシリーズ
- (006)1976年01月 新日本 新春黄金シリーズ
- (007)1976年07月 新日本 アジアリーグ戦
- (008)1977年01月 新日本 新春黄金シリーズ
- (009)1977年04月 新日本 第4回ワールドリーグ戦
- (010)1977年06月 新日本 アジアチャンピオンシリーズ
- (011)1978年01月 新日本 新春黄金シリーズ
- (012)1978年08月 新日本 ゴールデンファイトシリーズ
- (013)1979年02月 新日本 ビッグファイトシリーズ
- (014)1979年07月 新日本 サマーファイトシリーズ
- (015)1979年08月 新日本 ブラディファイトシリーズ(8.26夢のオールスター戦含)
- (016)1979年10月 新日本 闘魂シリーズ
- (017)1980年06月 新日本 サマーファイトシリーズ
- (018)1980年10月 新日本 闘魂シリーズ
- (019)1980年11月 新日本 第1回MSGタッグリーグ戦
- (020)1981年01月 新日本 新春黄金シリーズ
- (021)1981年03月 新日本 WWFビッグファイトシリーズ
- (022)1981年04月 新日本 WWFビッグファイトシリーズ第2弾
- (023)1981年05月 新日本 第4回MSGシリーズ
- (024)1981年07月 全日本 サマーアクションシリーズ
- (025)1981年10月 全日本 ジャイアントシリーズ
- (026)1981年11月 全日本 世界最強タッグリーグ戦
- (027)1982年05月 全日本 エキサイトシリーズ
- (028)1982年07月 全日本 サマーアクションシリーズ
- (029)1983年01月 全日本 新春ジャイアントシリーズ
- (030)1983年02月 全日本 エキサイトシリーズ
- (031)1983年07月 全日本 グランドチャンピオンカーニバル
- (032)1983年11月 全日本 83世界最強タッグリーグ戦
- (033)1984年05月 全日本 グランドチャンピオンカーニバル2
- (034)1984年11月 全日本 84世界最強タッグリーグ戦
- (035)1985年01月 全日本 85激突! オールスターウォーズ
- (036)1985年05月 全日本 85激震! サンダーウォーズ
- (037)1985年08月 全日本 85決戦! ダイナマイトウォーズ
- (038)1986年02月 全日本 エキサイティングウォーズ86
- (039)1986年05月 全日本 スーパーパワーシリーズ
- (040)1986年08月 全日本 86サマーアクションシリーズ
- (041)1986年10月 全日本 86ャイアントシリーズ
- (042)1987年01月 全日本 87新春ジャイアントシリーズ
- (043)1987年05月 全日本 87スーパーパワーシリーズ
- (044)1987年10月 全日本 87ジャイアントシリーズ
- (045)1988年03月 全日本 88チャンピオンカーニバル
- (046)1988年05月 全日本 88スーパーパワーシリーズ
- (047)1988年11月 全日本 88世界最強タッグリーグ戦
- (048)1989年09月 全日本 ジャイアントシリーズ
- (049)1989年11月 全日本 89世界最強タッグリーグ戦
- (050)1990年05月 全日本 スーパーパワーシリーズ
- (051)1990年09月 新日本 9.30アントニオ猪木30周年メモリアルフェスティバルIN横浜アリーナ&闘魂ツアー90
- (052)1990年10月 新日本 10.25オールスターレスリンググランプリ&ドリームツアー90
- (053)1990年12月 新日本 12.26キングオブキングスIN浜松アリーナ
- (054)1991年02月 新日本 スーパーフェブラリィ91
- (055)1991年03月 新日本 3.21 91スターケードIN闘強導夢
- (056)1991年07月 新日本 サマークラッシュ91
- (057)1991年10月 新日本 SGタッグリーグ戦
- (058)1991年12月 新日本 12.18巌流島
- (059)1992年03月 新日本 3.1超戦士IN横浜アリーナ
- (060)1992年06月 FMW 果てしなき闘い
- (061)1992年07月 FMW 「原点への旅立ち」
- (062)1992年08月 FMW 血と汗の闘い
- (063)1992年09月 FMW 9.19FMW3周年記念興行「邪道」
- (064)1992年11月 FMW 世界最強ストリートファイトタッグリーグ~生きざま~
- (065)1993年03月 FMW 歴戦の国・北に!!
- (066)1993年05月 NOW BATTLE HUNTER93
- (067)1993年06月 NOW THE GREAT BATTLE93
- (068)1993年07月 NOW BATTLE FEVER93
- (069)1993年08月 NOW RENOVATION POWER93
- (070)1994年02月 NOW NOW-SPIRITS
- (071)1994年04月 NOW ネットワーク・オブ関東94
- (072)1994年11月 平成維新軍 11・13平成維震新軍オープニング・マッチ
- (073)1994年12月 平成維新軍 平成維震軍オープニング・マッチII
- (074)1995年10月 IWA UNDER FIRE~戦士たちの宴~
- (075)1995年11月 IWA 2ND YEAR FINAL BATTLE~NWA世界タッグ・リーグ戦~
- (076)1996年01月 IWA NEW YEAR96~BOUND TO BREAK~
- (077)1996年04月 IWA GET THE GLORY TOUR96~栄光をつかめ~
- (078)1996年07月 IWA AGGRESIVE WARRIORS TOUR96~超戦士西上~
- (079)1996年11月 冴夢来 冴夢来プロジェクト11月シリーズ
- (080)1997年04月 冴夢来 闘史回天第2章
- (081)1997年07月 冴夢来 冴夢来97夏の陣
- (082)1999年09月 IWA GREATFUL TOUR99
- (083)2001年11月 IWA HAPPENING HERE 2001
- (084)2002年03月 IWA JAPAN SPRNIG BRREZE TOUR 2002
- (085)2002年07月 IWA JAPAN CAUTION SHINY SUMMER 2002
- (086)2002年09月 IWA JAPAN 8TH ANNIVERSARY SPECIAL!!
- (087?)2004年10月 ハッスル
- (088?)2007年03月 ハッスル
- (089?)2007年04月 ハッスル
- (090?)2007年05月 ハッスル
- (091?)2007年06月 ハッスル(元野球選手ウォーレン・クロマティと対戦)