ジャンボ鶴田
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ジャンボ鶴田 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 鶴田 友美 ジャンボ鶴田 |
本名 | 鶴田 友美 |
ニックネーム | 若大将 怪物 完全無欠のエース |
身長 | 196cm |
体重 | 127kg(全盛時) |
誕生日 | 1951年3月25日 |
死亡日 | 2000年5月13日(満49歳没) |
出身地 | 山梨県東山梨郡 |
所属 | 全日本プロレス |
スポーツ歴 | バスケットボール レスリング |
トレーナー | ジャイアント馬場 ドリー・ファンク・ジュニア テリー・ファンク ルー・テーズ |
デビュー | 1973年3月24日] |
引退 | 1999年3月6日 |
ジャンボ鶴田(-つるた、1951年3月25日 - 2000年5月13日)は、山梨県東山梨郡牧丘町(現:山梨市)出身のプロレスラー・元桐蔭横浜大学・中央大学・慶應義塾大学講師、元・アメリカオレゴン州ポートランド州立大学教授。本名は鶴田 友美(つるた ともみ)。血液型O型。ニックネームは「若大将」のち「怪物」。座右の銘は師であるジャイアント馬場から継承した「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」。
三冠ヘビー級王座を統一した初代王者であり、第30代AWA世界ヘビー級王者(日本人としては初のタイトル奪取)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入りまで
広大なぶどう農園を営む家に生まれる。生まれた頃は体が小さく、女の子のようだからという理由で「友美」と名付けられた。中央大学法学部1年生の頃までは、バスケットボールの選手であった。だが、バスケットボールではプロ選手になれない事や、日本のバスケットボールの実力では、予選に勝ってオリンピックに出場することができないということで、バスケットボール部を退部。そして、選手層の薄いレスリングでのオリンピック出場を目指すことにした。しかし「一つのスポーツをやりとおすことのできない奴は何をやってもダメ」と言われ、大学のレスリング部に入部することができなかった。それでもあきらめず、自衛隊のレスリング道場で練習に励み、優れた才能で僅か一年半足らずのキャリアで1971年と1972年の全日本選手権でフリー・グレコローマン両種目とも2連覇、レスリング日本代表に選ばれ、グレコローマンスタイル100kg以上級で1972年のミュンヘンオリンピックに出場する。成績は2回戦失格(予選リーグ2敗)。1972年9月16日、鶴田の父の死で自分自身で人生に挑戦しようと思い、世間の人々のプロレスに対する偏見・評価などで葛藤したが、大学の監督・先輩・マスコミなどにアドバイスを受け、最後は日本レスリング界のドン八田一朗の「プロが栄えればアマも栄える。」の言葉に励まされプロ入りを決意した。
[編集] 全日本プロレス入団
ジャイアント馬場にスカウトされ「全日本プロレスが就職するのに一番いい会社かなぁと思って…」という、いわゆる「プロレスに就職します」という言葉と共に全日本プロレス(全日)に入団(デビュー当初のリングネームは本名の鶴田友美)。若いころのニックネームは「若大将」。入団してすぐにアメリカのファンク道場へ修行に行き、スタン・ハンセンやボブ・バックランドらと共にトレーニングに励む。特にハンセンとは気があい「トミー」の愛称で親しまれ、日本から持っていったインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった(ハンセンはその味に痛く感動したようで、鶴田の為に日本から送られてくるラーメンを勝手に食べていたという話も残っている)。
1973年3月24日、テキサス州アマリロにてエル・タピア戦でプロデビュー。同年5月20日には、NWA世界ヘビー級王座に挑戦(ドリー・ファンク・ジュニア戦)するという異例の大抜擢を受けるなど、当地で約150戦を消化。
凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールに於けるムース・モロウスキー戦で国内デビュー(フォール勝ち)。3日後の10月9日に蔵前国技館で行われたザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ選手権試合(60分3本勝負、パートナーはジャイアント馬場。結果は1-1の引き分け)では、テリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ、すぐに馬場に次ぐ全日No.2の地位につく。
チャイニーズ・カンフーやローリング・ドリーマーといった入場曲も与えられ、20代の中頃までは若い女性の親衛隊もいたほどの人気振りであった。ファンからの公募により、1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。日本でも日本航空や全日空でジャンボジェット機が就航し、一般にもその名称が浸透しはじめた時期であり、師匠であるジャイアント馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった。
[編集] 1970年代中盤(ライバル達との出世争い)
1970年代中盤は、タイガー戸口(キム・ドク)との抗争や、ラッシャー木村とのエース対決、喧嘩番長ディック・スレーターをジャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝など、徐々に実績を上げていく。また、1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの雨中田園コロシアム決戦は華麗な試合としてファンの間で長く記憶をとどめることとなる。この試合はスタン・ハンセンvsアンドレ・ザ・ジャイアントと並んで田園コロシアムのベストバウトにあげる人もいる。この試合も含め、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間最高試合賞(ベストバウト)を受賞(他の2試合は1976年3月28日に蔵前国技館で行われたUNヘビー級選手権試合のジャンボ鶴田vsラッシャー木村戦と、1978年1月20日に北海道帯広市総合体育館で行われたNWA世界ヘビー級選手権試合のハーリー・レイスvsジャンボ鶴田戦)。
この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングパンツ。必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキック(ミサイルキック)を大一番で用いている。このころの好敵手にビル・ロビンソン、ハーリー・レイス、アブドーラ・ザ・ブッチャーらがいる。
[編集] 1980年代前半(世界の鶴田へ)
1980年代前半は、NWA世界ヘビー級王座(当時世界三大王座(NWA・AWA・WWF)のうちのひとつ)に対してあと一歩でタイトルを取り逃がす歯がゆい試合を続けたため「善戦マン」と呼ばれていたが、1982年のNWA戦からパンツも黒を基調としたエースらしいものに変更し、「善戦マン」からの脱却を心がけた。
1983年4月ごろ来日していたルー・テーズから必殺技のバックドロップ、フライング・ボディシザース・ドロップを継承。このとき「今のは百万ドルだな」というルー・テーズの言葉に「世界チャンピオンになったら払います」と答えた逸話が残されている。
1983年の6月にはNWA王者リック・フレアーに挑戦し、三本勝負を1-0で時間切れ勝ちはするものの、「三本勝負の場合、二本勝たなければ王座の移動はしない」というルール規定により、世界奪取はならなかった。しかし、フレアーとのNWA戦では1981年の2-1での敗北や1982年のダブルフォールでの引き分け(この試合は一本勝負)に比べるともっとも善戦しており、AWA王座を奪取するまでの間「鶴田が世界に一番近づいた日」と呼ばれていた。
この後、UNヘビー級王座を返上。1983年8月には蔵前国技館において、力道山以来の日本の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取。ジャイアント馬場から「今日からお前がエースだ」と公式に全日本プロレスのエースを襲名する。この年末の最強タッグで鶴龍コンビとして初参加、ミラクルパワーコンビに次ぐ準優勝に終わる。この年、プロレス大賞最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す鶴藤長天(格闘頂点)の中で初受賞。
1984年、入場曲を「J」に変更。2月23日に蔵前国技館で、AWA王者ニック・ボックウィンクルに挑戦。「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。AWA王座獲得後、同王座をリック・マーテルに敗れるまで16回の防衛、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。この年、プロレス大賞2連覇。
これらの活躍により同世代鶴藤長天の中では一段上の扱いとなり、実力的には馬場・猪木の後継者とされる(漫画プロレス・スターウォーズにおける鶴田の扱いなどを参照)ものの、人気では維新革命の長州力や天龍源一郎の後塵を拝す。この実力面と人気面のギャップは、「バックドロップは相手によって落とす角度を変えている」などという鶴田の発言に対し、ファンが「本気でやれ」という反応を見せるなどにその一因があったが、実際にはプロレスの本質を突いた発言が多かった。また、ライバルの長州力・天龍源一郎らはこの点をよく理解していた。
[編集] 1980年代中盤(超獣コンビ・ジャパンプロレス勢との戦い)
1980年代中盤は、プロレス界の「キングコング」と称されたブルーザー・ブロディやハンセン、ロードウォリアーズといった大型外人レスラーとの戦いがメインとなり、大型の外人と戦って見劣りしないレスリング技術は後に全日本に参戦した長州力やブロディが新日本に移籍した後対戦したアントニオ猪木との戦いとの比較の中で評価されるようになり、一部の1980年代前半の新日本プロレスのファンが1980年代後半に全日本プロレスのファンに転向するきっかけとなった。相手レスラーからの評価は高く、戦った選手の殆どは鶴田の身体的能力を絶賛している。
新日本プロレスのエースであった長州力は1984年末から全日本プロレスに参戦。長州力との1985年の大阪での一戦では、60分フルタイムドローで終わるものの、試合後ロッカールームで全く動けなかった長州に対して、鶴田はシャワーを浴びて大阪市内にそのまま飲みに出かけたなどの伝説も作る。この一戦は、鶴田はリング中央でどっしりと構え、鶴田の周りを長州が動き回るようなファイトを意識したと語っており(これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えである)、自分が格上のレスラーであると印象付けられた上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったもので、鶴田が王道プロレスを体現した試合として名高い。長州自身は対戦前は鶴田を散々酷評していたが、この対戦の後は鶴田に対しては一目置くようになりマスコミへ「彼には勝てないよ」と語った。以後は鶴田を評価する発言も行うようになる。
当時、マッチメークを聞き対戦相手がジャパンプロレス勢だと知るとバックステージでは「今日はカラータイマーだから楽だな」と言っていたという逸話もある。これは、ジャパンプロレス勢が攻めばかりで、スタミナが極端にないことを揶揄したものである。
鶴田の「怪物」としての評価が徐々に開花しつつあった。
[編集] 1980年代後半以降(天龍同盟・超世代軍との闘い)
鶴田の怪物レスラーとしての評価が高まるのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の四天王達との戦いを通してであった。
1980年代後半以降は、一般的なプロレス技で仲野信市や天龍を失神させ、寺西勇、アニマル浜口は全治数ヶ月の入院、(これは試合後半、天龍の逆水平チョップが、鶴田の喉にまともに入ったため背筋力が300キロもある鶴田が我を忘れ、加減せずに思いのほか急角度に落としてしまったため)等の怪物ぶりを発揮した。1988年6月には谷津嘉章とのコンビ(五輪コンビ)でインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座の統一し、初代世界タッグ王座となる。
1989年4月には、インター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠王者となる。これらの実力がようやく認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月の新日本プロレス主催の東京ドーム大会では、敵地にもかかわらず入場時で大量の「ツルタ、オー!」コールが爆発し、日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在となる。
天龍は新天地を求めて全日本プロレスを離脱。その後ライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴である。1990年6月のシングルマッチで三沢が鶴田越えを果たした試合は「丸め込み」合戦を制してのものであり、試合後、負けた鶴田はレフェリーに抗議、勝った三沢はリング上で倒れこんだままで、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった。それでも三沢は最初で最後の涙をリングで流し、観客が総立ちであった。
ファンの間では「普段の試合では力の差がありすぎて本当の力を出さない」「怒った時の鶴田は誰よりも強い」という鶴田最強伝説もある。また、右腕を高々と上げ「オー!」と叫ぶ決めポーズはファンの間でも話題になり、「オー! 」コールは鶴田の試合には欠かせないものとなった。
リング上で憤慨した鶴田を止められる者は誰もいなかった。1991年10月、大阪府立第二体育館での6人タッグ戦において鶴田のジャンピングニーが三沢光晴の鼻を直撃し、三沢は鼻骨骨折。しかし鼻を負傷しながらも戦った試合で徹底的に鼻に攻撃を絞り、ファンからは悲鳴が上がった。また同年1月後半の後楽園ホール大会では、川田利明から顔面へのステップキックを執拗に繰り出されたが、直後に完全に鶴田の目の色が変わってしまい、大迫力のエルボー(エルボーのみで川田をのしてしまったが、それでも鶴田の怒りは収まらず、無理矢理起こしている)、手加減を感じさせないジャンボキック、場外でのボディスラム、ステンレス部分でのイス攻撃などを川田に繰り出した(タッグパートナーの渕正信が止めに入るものの渕を突き飛ばし、解説の竹内宏介も言葉が出なくなるなど、壮絶なものであった)。和田京平によると、試合後控え室では「何でボク、あんなにキレちゃったんだろう」と普段のジャンボ鶴田に戻っていたと言うが、和田京平は「あれはお客さんに見せるものじゃない。普段の余裕のジャンボを見せたかった」と自書で語っている。
[編集] 晩年
1992年にB型肝炎を発症し長期入院を余儀なくされた。復帰後も再発の危険性があるために極端に負担のかかる第一線に立つことはなくなった(鶴田自身、その時の様子を「棺桶に片足を入れた状態」と評している。又、「一昔前なら棺桶に両足を入れていた(つまり、死んでいた)」とも発言している)。これでメインイベンターとしての鶴田の価値は消え去ったのだが、それでも馬場は鶴田の給料を下げることはしなかったという。復帰以降はリングから学問に活躍の場を求め、1994年10月に筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し、遂には非常勤講師ながら大学教員となる。
そして1999年、馬場が逝った直後に引退・全日本取締役辞任会見をキャピトル東急ホテルで行う。この後に「全盛期に前田日明と戦ってみたかった。藤波が度々対戦要求を出してきたが、マスコミ前のポーズだけで実際の交渉は一切なかった。僕はそれが大嫌いだった」とコメントしたことも話題になった(後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまった」と、FAXで謝罪した)。
同年3月6日、日本武道館にて引退セレモニーが行われ、スポーツ生理学の客員教授としてオレゴン州ポートランド州立大学に赴任することを明らかにした。鶴田がアメリカへ向かう際、成田空港に見送りに来たのは三沢、仲田龍、大八木賢一専務のたった三人であったが、仲田の著書によれば、鶴田サイドと馬場元子オーナーとの間には既に距離があり、見送りに行けない空気を振り切って来たとのことである。これが鶴田と三沢の最後の対面となったが、その際鶴田は「何かあったらすぐに言って来いよ。俺は三沢の味方だから、それだけは忘れないでくれ」と告げたと言われる。
だが、この前後よりB型肝炎は肝硬変を経て肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断、臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、かの地へ急行・手術。ところが肝臓移植手術中にショック症状を起こして大量出血という最悪の事態が発生、治療の甲斐なく5月13日17時(現地時間では16時)息を引き取った(和田京平の著書によると、鶴田は元々血を流すと止まりにくい体質であったと言う)。まだ49歳の若さだった。
[編集] 死後
かつて鶴田の付き人を務めていた三沢光晴が新団体プロレスリング・ノアを旗揚げし選手が大量離脱したことに対して、彼らが全日本で冷遇されていた事を知らぬ保子夫人は「ジャンボ鶴田・お別れの会」にて「夫は三沢くんを支持したと思う。でも、三沢くんに全日本を潰す権利は無い」と話したが、真相を知った後に自身のWebサイトで「三沢くんたちの気持ちがやっと分かった」「(馬場)元子さんは許せない」と語った。
鶴田の突然の死は各方面で大々的に報道され、2000年11月26日には『知ってるつもり?!』(日本テレビ系)で「ジャンボ鶴田、家族の絆と衝撃死の真相」と題した追悼番組が放送された。[1]
[編集] 人物・評価
現役時代から、「フォークシンガー」としても有名であった。レコードを発売したり、ファンの前でギター片手に歌ったこともある。井上陽水の「傘がない」をテレビで披露したこともある(ただし付き添った三沢曰く「(ライブで)アンコールは起きなかったですね」との事)。 穏やかな性格で、インタビューでも論理的に話す事が多かった。生前NHKのTV番組に出演した際も、鶴田の紳士的な振る舞いに魅了されてファンになったという番組スタッフの証言があった。
[編集] 主な得意技など
- バックドロップ
- この技自体は若手時代から使用していた技なのだが、当時は相手の股へ手を差し込んだ抱え式のバックドロップであった。しかし、バックドロップの祖であるルー・テーズから「臍で投げろ」とアドバイスを受けて数ヶ月のマンツーマン特訓の末、相手の胴を両手でクラッチして投げるブリッジ式のバックドロップに磨きをかけるようになる。最初はつま先をマットにつけたまま素早く低く叩きつけるスタイルだったが、観客の見栄えを意識してか徐々につま先を流しながら高く持ち上げ落下させるスタイルに変化させていく。つま先をつけたまま低い体勢で脚力を使って叩きつけるスタイルのバックドロップは後のバックドロップホールドへと昇華されていく。ニック・ボックウィンクルとのAWA戦でバックドロップホールドでフォールしてベルトを奪取して以降、鶴田の代名詞と呼ばれるようになる。相手の力量によって落とす角度を変えており、三沢光晴や川田利明に対しては、とんでもない角度で落としていた。別名「岩石落とし」。
- ジャンピング・ニーバット
- 普段は相手の顔の横を狙って放つが、怒った場合は真正面に向かって放つことがある。一時期は「鶴田が相手をロープに振ったら90%この技」といわれた。実況中継では「ニーパット」と間違えられていた。重要な一戦ではトップロープから放つ事も。技が決まった後は必ず右手を高々と掲げ「オー!」と叫ぶ。現在では秋山準が鶴田から直接教わった事を明言して使用している。バスケの経験から得た跳躍力を活かしている。気合が入ると膝のサポーターをずらして素の膝で狙うことがあるが、失敗することが多い。
- ダブルチョップ
- ダブルハンマーとも。頭上から両手を揃えて相手の背中へ張り手の様に放つチョップ。超世代軍相手に放つ事が多く、その威力と大きな音で場内がどよめく事が多かった。
- ドロップキック
- 新人時代に多用したが、キャリア中盤以降も印象的な場面でしばしば用いた。持ち前のバネを活かした打点の高さ、威力、タイミングともに随一である。若手時代にジャイアント馬場にこの技を繰り出した時には、あまりに高く飛び上がりすぎて足先が2m9cmの馬場の頭部を越えてしまったこともある。
- 4種のスープレックス
- ジャーマン、ダブルアーム、フロント、サイドの4種類のスープレックスを使いこなし、特にジャーマンのブリッジは真円を描くかのごとく美しかった。しかし、鶴田のジャーマンスープレックスは恐ろしい威力を誇り危険であり調節も難しいため、1982年のリック・フレアーとのNWA戦を最後に封印される。
- ジャンボラリアット
- スタン・ハンセンのような一撃必殺技とは行かないが、試合の要所でこの技を使用することがある。キャリアが中盤になるころから使い出した技。1984年のテリー・ゴディとの一騎打ちあたりから黒いアームサポーターをしごいて放つジャンボラリアットが誕生したと言われる。鶴田のラリアットの打ち方は特徴があり、通常は下から体ごと伸び上がりながらノドを突き上げる。ただし、菊地毅のような小柄のレスラーには肘を曲げて上から体重を乗せるような打ち方をした。いずれにせよ、鶴田の身長を上手く利用した打ち方であった。また、ラリアットを放った後に腕を痛めるのはお約束のムーブ。
- フライング・ボディシザース・ドロップ(テーズ・プレス)
- ジャンプして相手に飛びついて、馬乗りになるような状態で背中から叩きつける。使い始めた時期から、ルーテーズからバックドロップを習った際についでに教わったものと見られる。そのままフォールの体勢になることが多いが、トップロープに自らの喉元を打ち付ける誤爆も多かった。また、長身でジャンプ力のある鶴田が使うと勢い余ってヒップドロップの形で落下してしまうこともあった。隠し切り札的な技であり、この技がフィニッシュムーブなることも多かった。
- パワーボム
- 天龍源一郎との1989年4月20日大阪における三冠ヘビー級選手権で、喉笛へのチョップを何度も食らったために怒った鶴田が、その天龍に対し放った技。そのパワーボムは超急角度かつ落ちるのがハイスピードなものであり、天龍は頭から落とされ泡を吹いて失神。試合は直後に相手の異変に気がついた鶴田がフォールして試合を終わらせている。(実際には鶴田のミスであり、それまではパワーボムをほとんど使用してなかったために加減が分からず「やりすぎた(鶴田・談)」)
- ショルダースルー
- この技はほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。ブルーザー・ブロディとのシングル戦では、双方がショルダースルーに行こうとしては反撃で失敗する「ダブルお約束」的シーンが見られた。
- タックル
- この技も、ほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。コーナーに投げた相手に向かってタックルをかけるべく頭から突進するがキックを食らうかもしくは自爆。決まったことは数えるほどしかない。
- 場外でのヘッドロックから鉄柱攻撃
- この技もまた、ほとんど反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。場外で相手をヘッドロックにかかえたまま相手の頭部を鉄柱に打ち当てるべく突進。頭を抜かれて自分が鉄柱に体当たりする。
- キチンシンク
- ロープに振り、戻ってきた相手の腹部に膝蹴りを入れる。2~3回ほど行うのが常だった。特に川田利明の受けっぷりは見事であった。見ている者に最も痛みを感じさせる技とも言われた。
- 拷問コブラツイスト
- 通常のコブラツイストと異なり、かけた相手の頬・側頭部を上から押さえつける。川田との拷問コブラ合戦は名場面の一つ。
- レッグラリアット
- 木村健吾の技とはまったく違い、ジャンピング・ニーバットが横に流れた形。膝ではなく、脛が相手の首にヒットする。
- 逆エビ固め(ボストンクラブ)
- キャリア前半では、ジャンピング・ニーバットからスープレックスへのつなぎ技として多用していた。キャリア終盤では、背の低い菊池毅を相手に決める際に、背の高い鶴田がやるとコの字に見えることから、コの字固めと呼ばれていた。
- ジャンボホイップ
- アトミック・ドロップの要領で抱え上げ、空中で静止させた後、前方に放り投げる荒技。菊地毅が主な犠牲者。ホイップせずにそのままアトミック・ドロップに行く事も。
- ランニングネックブリーカードロップ
- 走りこんで相手の首に腕を掛けそのままマットに叩きつける。師匠馬場の必殺技であった。
- 延髄斬り
- 相手の延髄めがけてジャンプをしながらキックを入れる。天龍が多用していた技でもある。
[編集] 生涯
- 県立日川高校時代、バスケットボール部で、全国高校選手権大会に出場。
- 中央大学時代、レスリングで全日本選手権制覇。ミュンヘンオリンピックで、レスリング グレコローマン100kg超級に出場するも、2回戦失格7位。
- ジャイアント馬場(以下、「馬場」)にスカウトされ、「全日本プロレスに就職します」とコメントし、プロレス界入り。
- 1973年3月22日、アメリカ修行。150戦消化の後、同年10月1日帰国。10月6日、日本デビュー戦(後楽園ホール)。
- 1975年、馬場と組んでの、インタータッグ選手権。相手はザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク兄弟)。
- 1976年8月28日、UNヘビー級のタイトル獲得。
- 同年3月10日~1979年1月5日まで、十番勝負。通算成績、4勝2敗4分。
- 1983年8月31日、ブルーザー・ブロディより、インターナショナルヘビー級王座獲得。第14代チャンピオンとなる。
- 1984年2月23日、蔵前国技館においてニック・ボックウィンクルとの、AWA世界ヘビー、インターナショナルヘビーのダブルタイトル戦を行い、鶴田が勝利しインターナショナルヘビー級王座防衛ともに、第30代AWA世界ヘビー級王者となる。
- 1984年9月23日、元日本航空のスチュワーデスであった、荒牧保子さんと結婚。
- 1985年11月14日、大阪城ホールでの、対長州力戦。結果は、60分時間切れ引き分け。控え室で完全にスタミナ切れを起こしていた長州を尻目に、鶴田は街へ飲みに繰り出すという伝説を残す。
- 1988年6月10日、日本武道館にてインターナショナル・タッグ王者・ロード・ウォリアーズに勝利し、PWF世界タッグと王座統一し、初代世界タッグ王者となる。(パートナーは谷津嘉章)
- 1989年4月18日、東京大田区体育館で三冠統一戦を行いハンセンを破り、インターナショナルヘビー級・PWFヘビー級・UNヘビー級の各王座を統一し、三冠統一の初代王者となる。
- 1990年4月19日、最後の対天龍源一郎戦。鶴田が勝利し、三冠王座二度目の防衛(天龍戦の通算成績は4勝3敗2分)。天龍はそれまでに日本人レスラーで唯一、馬場にピンフォール勝ち(3カウント勝ち)をしたレスラーで、それまで鶴田とも対等の闘いをしていたが、前シリーズでタッグ決別したハンセンによる試合前の襲撃(ラリアット)のダメージが回復しないまま、鶴田の勝利に終わる。シリーズ終了後に行われた新日本・全日本・WWF共催の東京ドーム大会直後、天龍は突如全日本プロレスを退団。
- 1992年11月13日、自らB型肝炎発症を告白、昭和大学病院へ長期入院。
- 1993年3月退院、同年9月23日、リング上挨拶、同年10月23日復帰戦。
- 1994年10月28日、筑波大学大学院修士課程体育研究科コーチ学、社会人特別選抜枠で受験し合格。
- 1996年4月より、慶應義塾大学、桐蔭横浜大学の講師に就任。
- 1997年3月、筑波大学大学院修了、4月より中央大学の講師となる。
- 1998年5月1日、全日本プロレス東京ドーム大会に出場。菊地毅にバックドロップを披露。
- 1998年9月11日、現役最後の試合。ジャイアント馬場&ラッシャー木村と組み、渕正信、永源遙、菊地毅組と対戦。
- 1999年2月20日、東京永田町のキャピトル東急ホテルにて、引退記者会見。全日本プロレス取締役の辞任も発表。
- 同年3月6日、引退セレモニー。
- 同年3月10日、アメリカオレゴン州ポートランド州立大学の教授に就任。スポーツ生理学。
- 2000年5月13日、マニラにて、肝臓移植手術中にショック症状、出血多量により死去。2000年5月13日(満49歳没)
- 同年6月18日、「ジャンボ鶴田メモリアル献花式」が青山葬儀場でとり行われる。
- 現在、山梨県の実家近く慶徳寺に永眠している。墓碑には「人生はチャレンジだ!!」と刻まれている。
[編集] 主なタイトル歴
- 三冠ヘビー級王座 - 3度戴冠
- AWA世界ヘビー級王座
- インターナショナル・ヘビー級王座 - 3度戴冠
- UNヘビー級王座 - 5度戴冠
- インターナショナル・タッグ王座
- PWF世界タッグ王座
- 世界タッグ王座 - 7度戴冠。パートナーは谷津嘉章(5回)、ザ・グレート・カブキ、田上明(各1回)
- NWA認定デトロイトタッグ王座 - パートナーはジャイアント馬場。1980年6月28日にアメリカ合衆国デトロイトで行われたワンナイトトーナメントで優勝して獲得したが、1度も防衛戦を行わずにタイトルを返上した。
[編集] その他
- 中央大学へはバスケットのスポーツ推薦でなく、一般入試を受け合格した。
- オリンピックで敗退したときには、アナウンサーから「泣くな鶴田」と慰めの言葉を放送でかけられている。
- レスラー時代はたまにだがバラエティー番組へも出演しており、プロレス好きの三宅裕司の番組やさんまのまんまにも出演した。また日野自動車のトラックや井関農機のコンバイン「太郎」シリーズのCMにも出演経験有。
- 常にマイペースを貫き、いつも「見られる仕事」としてプライベートでも「天龍」を演じ続けた天龍源一郎とは正反対の性格であった。若手選手と飲食店で一緒になっても別におごることはせず、プロレス界のスターでありながらコンビニの袋を抱えて宿泊宿へ戻るなど、プライベートではジャンボ鶴田ではなく、鶴田友美として過ごした(この点には賛否両論ある)。この「使い分け」は外人選手に対しても同様であったため、師匠筋にあたるテリー・ファンクも、一度目の引退前後、「馬場の次のボスは鶴田じゃない、天龍だ」と言い切っていた。
- かつて、日本テレビで放送された『番組対抗かくし芸』にて、ベルサイユのばらのオスカルや、白雪姫のコスプレを披露し、色々な意味でファンを驚愕させる(ちなみに、白雪姫の時に王子様を演じたのが大仁田厚で、目覚めのキスシーンも放送されている)。日本テレビの「かくし芸」において全日本プロレス勢が女装劇を披露するのは定例のことで、鶴田はエースとして常に主役を演じていた。
- 同じく日本テレビの番組で、『催眠術をかけられて、フォールのカウントをとられた時に返せるか?』という質問に挑戦し、催眠術をかけられ眠っている状態から、カウント2で起き上がっている(プロレスラーの本質を説明するためのヤラセと見る向きもある)。
- テレビ番組でタレントのチャック・ウイルソンと腕相撲を行い、接戦の末に負けてしまったことがある。プロレスラーとしての全盛時であり、相手が柔道や相撲などを得意とする肉体派タレントとはいえ不名誉な出来事だったはずだが、鶴田は悔しがりつつもウイルソンの強さを褒め称えた。
- ザ・グレート・カブキが後年、雑誌のインタビューで述べているが、サムソン・クツワダに誘われ、全日本を離脱して新団体を興そうとした事があるらしい。しかし、鶴田は馬場に引き止められ、待遇改善で手を打ち、クツワダは引退(実質は解雇)となった。
- 家宝は坂本竜馬の像でプロレスで得たトロフィーなどは無造作に押入れに入れられていたり、欲しがる人にあげていたと言う。
- 虫が大の苦手。セミはおろか、毛虫なんかもっての他(夫人談)
- サファリパークに家族で行った時、車が故障してライオンに取り囲まれた際、長男に「ライオンと戦える?」と聞かれて「バカな事を言うんじゃない!」と本気で怖がった。
- 非常に涙もろく、時代劇の人情モノ等を見ているとすぐ泣く事から、家族に「ほら、泣くよ。泣くよ」と言われていた。
- 全盛期は強かった事は間違いないが、その強さがあまりにも安定的だったためかえって「つまらない」と言われた時期も短くはない。しかし「超獣」ブルーザー・ブロディが鶴田を下してインターヘビー級王座を奪取した後、歓喜の涙を流し喜びの余り観客席に雪崩れ込んで行ったシーンは、ブロディにそうまでさせた鶴田の超人的強さの一端が垣間見られる。
- 同世代のレスラーに対して厳しい発言をするが、正論でもあった。ライバルのひとりとして見られていた長州に対しては海外経験などを含め「自分は世界中の強豪と戦っている」、藤波に対しては「直接話をせず、マスコミを通しての対戦要求しかしないのが嫌いだった」と述べている(後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまった」と、FAXで謝罪した)。
- 坂本竜馬の他には、山梨出身故に武田信玄を尊敬していた。鶴田の地元・牧丘は甲州武田騎馬隊発祥の地である。また、鶴田は生前カラオケで歌う歌で「武田節」と言っていた。奇しくも鶴田の命日は、信玄の命日(太陽暦に直した場合)と同じである。
- かつてチャンピオンカーニバルで当時三冠王者の鶴田が「何で三冠王者の俺が参加しなければならないんだ、優勝者が三冠王者である俺と戦うんじゃないのか」とボイコットを匂わせる発言をしたが、結局はリーグ戦に参加している(1991年)。
- ブリッジについて、主に新日ファンからは「無理矢理ブリッジを作ってる」と言われた。しかし、CC初優勝時のジャーマンやAWA奪取時のバックドロップホールドからもわかるように、体が大きいにもかかわらず全盛期にはきわめて美しいブリッジを決めている。
- 鶴田vs(マスクを脱いだ直後の)三沢のシングルでは、何度も「オー!」を繰り返しファンから「オーはもういいよ!」とヤジを飛ばされた。一方、82年ごろの馬場からのエース継承直前の時期の試合では「オー!」を連発し、解説の馬場から「こういうことしてる暇があるならもっと攻めなきゃだめですよ」と窘められたが、90年代になると馬場が一度だけ「オー!」をするに至り、長年をかけてファンとレスラーの理解と支持を得た。
- 鶴田は、1990年4月に天龍が全日本プロレスを離脱した際、ある週刊誌のインタビューで天龍に対し「僕は、5年後いや10年後、社会的地位、プロレスでの人気、収入すべての面で天龍より上に必ずいる」という発言をし天龍への怒りをぶつけていたが、皮肉にもその10年後の2000年5月に他界することとなった。
[編集] 入場テーマ
- チャイニーズ・カンフー
- ローリング・ドリーマー(作曲:川口真)
- T.T.バック・ドロップ(1983年8月31日・ブルーザー・ブロディ戦(リングアウト勝ちによりインターヘビー級奪取の試合)のみの限定使用)
- J(作曲:鈴木宏昌、1983年12月から)
[編集] レコード発売
[編集] 著作
- 『リングより愛をこめて』講談社、1981年、ISBN 4-06-127769-3
- 『熱き若武者の叫び』著:久堂一、編:ジャンボ鶴田、笠倉出版、1983年
- 『ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ』ごま書房、1996年、ISBN 4-341-01747-0
- 『ジャンボ鶴田のナチュラルパワー強化バイブル』ナツメ社、1999年、ISBN 4-8163-2533-6
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[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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