ザ・ファンクス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ザ・ファンクス(The FUNKS)は、プロレスのタッグチーム。通称・ファンクス。
兄ドリー・ファンク・ジュニアと弟テリー・ファンクによる兄弟チームで、日本では1970年代から1980年代にかけて日本プロレスおよび全日本プロレスで活躍した。
日本のプロレス界では、外人レスラーはヒール(悪役)というのが定番の図式だが、ファンクスは全日本プロレスに参戦していた1970年代中盤からベビーフェイス(善玉)的な役回りとなり、日本人レスラー側に立つことも多くなった。ザ・ファンクスと対抗するヒール役はザ・シークとアブドーラ・ザ・ブッチャーで、両者の対決は全日本プロレスの目玉カードになっていった。この対決が一躍大人気を得たのは1977年の世界オープンタッグ選手権の最終戦。ブッチャー組がフォークを持ち出してファンクスを血まみれにする猛攻、ブッチャーとシークが二人がかりでドリーを痛めつけているところにテリーが救出に入るシーンはファンの感動を呼び、日本プロレス史に残る名場面となった。
日本では若い女性を中心に大変な人気を得ており、二人を応援しようと女性ファンを中心とした親衛隊も結成され、全日本プロレスのリングサイドにはチアガールまで登場した。
1980年前後には「全日本のエースは馬場・鶴田でなくファンクス。新日本と全日本の差は猪木とファンクスの差」(スタン・ハンセン)といわれるほどの人気を博し、1981年に復活したインターナショナル・ヘビー級王座の新王者は馬場でも鶴田でもなくドリーであり、初防衛戦の相手は弟テリーであった。しかしこの頃からブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンの新世代に押されるようになり、1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦では、最終戦でハンセン&ブロディのミラクルパワーコンビに一方的に叩きのめされてかろうじて反則勝ちを拾って優勝という屈辱的なシーンも見られた。この衰退の一因にテリーの膝の故障があり、それを理由にテリーは1983年の引退を宣言。1983年8月31日に行われたテリー引退試合はファンクス人気の集大成となった感動的な興行となった。1984年にハンセン、ブロディとの遺恨や膝の回復からテリーは現役復帰するが、テリー引退以前のような熱狂的なファンクス人気は戻ってこなかった。
また、1980年代半ばにWWFにファンクスとして参戦し、ブリティッシュ・ブルドッグスらと抗争していた頃、テリーが怪我で欠場したのを受け、ドリーがジミー・ジャック・ファンクというレスラーを引き連れて新生ファンクスを組んだ事もある。なおジミーの正体は、当時ドリーが目をかけていたジェシー・バーである。
目次 |
[編集] 概要
- 入場テーマ曲は、日本のロックバンドクリエイション演奏の『スピニング・トーホールド』。
- 父のドリー・ファンク・シニア、門下生のディック・スレーターやスタン・ハンセン、テッド・デビアスらも含めてファンク一家と呼ぶ事もある。
- 合体攻撃として、ロープに振ってからのダブル・エルボーバットがあった。
[編集] 略歴
- 1970年8月、ファンクスとしては日本初登場(日本プロレス)。ジャイアント馬場・アントニオ猪木組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦するも敗退。
- 1971年12月、馬場・猪木組を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。
- 1973年より全日本プロレスに参加。
- 1977年世界オープンタッグ選手権で優勝。
- 1979年と1982年の2度、世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝。
- 1983年、テリーの引退でいったんチーム解散。
- 1984年、テリー現役復帰、チーム再結成。
- 2001年、新日本プロレス無我興行、東京ドーム興行でエキシビジョン参戦。
[編集] ライバル
- 日本プロレス時代はジャイアント馬場、アントニオ猪木のBI砲と名勝負を展開。
- 全日本に移籍してからは馬場・鶴田組、ブッチャー・シーク組、マスカラス兄弟らと名勝負を展開した。