フリッツ・フォン・エリック
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フリッツ・フォン・エリック | |
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プロフィール | |
リングネーム | フリッツ・フォン・エリック |
本名 | Jack Barton Adkisson |
ニックネーム | 鉄の爪 |
身長 | 193 cm |
体重 | 118 kg |
誕生日 | 1929年8月16日 |
死亡日 | 1997年9月10日 享年68歳 |
出身地 | アメリカ合衆国 テキサス州 |
デビュー | 1958年 |
引退 | 1982年 |
フリッツ・フォン・エリック (Fritz Von Erich、1929年8月16日 - 1997年9月10日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。アメリカテキサス州ダラス出身。本名はジャック・バートン・アドキッセン (Jack Barton Adkisson、ハンス・アドキッセンとも)。ギミック上の出身地はドイツ・ベルリン。アイアンクローの開祖として知られ、「鉄の爪」はそのまま彼の異名にもなった。WCCWテリトリーのプロモーターであった。
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[編集] 経歴
13歳の時にアメリカに移住、父母ともにドイツ系ユダヤ人であり、ナチスの迫害を逃れたものだった(とされる)が、リング上のキャラクターとしては「ナチス親衛隊の生き残り」と称することもあった。
大学時代はフットボールの選手として活躍、スチュ・ハートのコーチを受け1954年にプロレスデビューする。
1963年7月27日にはバーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得、第9代王者となる。
1982年、ダラスでの対キングコング・バンディ戦を最後に現役を退いた。
生まれついて掌が大きく握力も強靭で、その握力は一説には200kgを超えていたという。「アイアンクロー」誕生の逸話としては、街で刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折、失神してしまった――という話が、真偽は別として有名(他の有力説としては、フットボール選手の頃にボールを握りしめたところ、それを破裂させたことがある経験から考案したというもの)。相手の顔面あるいは胃袋を握りつける、という単純明快な必殺技で、一躍スターダムにのぼりつめる。その「鉄の爪」はルー・テーズのバックドロップなどとともに、20世紀のプロレスを代表する必殺技に数えられる。
また、そのアイアンクローで相手選手を出血させたり、自らも試合で出血する場合があり、常に「流血」のイメージがまとわりつくようにもなった。
テキサス州ダラスを拠点にWCCWを設立してプロモーターも兼任し、1975年から1年間、プロモーターの連合体であるNWAの会長もつとめた。自らの息子たちをエースに、最盛時には「ダラスのプロレスラーはエリックのホテルに部屋を与えられ、エリックのレストランで食事をし、エリックの銀行でファイトマネーをふりこまれる」と言われたほど、経済的にも成功をおさめた。一方で、長男のハンス・アドキッセンJrが幼くして不慮の事故により夭逝して以降、デビッド、ケリー、マイク、クリスとその息子たちがことごとく夭逝、「血塗られたエリック一家」としてアメリカではたびたび繰り返される逸話にもなっている(デビッドは日本で病死、一説には急性ドラッグ中毒と言われているが、エリックファミリーは否定している。弟たちはいずれも自殺)。現在でも健在なのは次男(プロフィール上は長男)ケビンだけとなっている(ケヴィンはプロレスラーを引退し、現在は母親や妻子とともにカウアイ島在住[1])。
引退後はNWAの権威が失墜した為、自らが設立したWCCWの興行に専念するが、WWF(現WWE)との興行戦争に敗れ団体は消滅、その後、長年連れ添った夫人とも離婚し、1997年逝去する。NWA会長にまで上り詰め、一時代を築いたレスラーとしては非常に悲しく寂しい晩年であった。
[編集] 日本との関わり
1966年の初来日以降、日本にたびたび遠征し、ジャイアント馬場とはインターナショナル・ヘビー級選手権のベルトをめぐる数々の好勝負を残した。日本プロレスの崩壊後は馬場の全日本プロレスに来日するようになり、最後の来日となった1979年には馬場の弟子であるジャンボ鶴田とも戦っている。
また、プロモーター・ブッカーとして数々の選手を日本に送り込んだ。