リック・フレアー
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リック・フレアー | |
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プロフィール | |
リングネーム | リック・フレアー |
本名 | リチャード・モーガン・フレイアー |
ニックネーム | ネイチャーボーイ 狂乱の貴公子 |
身長 | 185cm |
体重 | 110kg |
誕生日 | 1949年2月25日(59歳) |
出身地 | アメリカ合衆国 テネシー州メンフィス |
所属 | WWE・Smackdown! |
スポーツ歴 | レスリング アメフト |
トレーナー | バーン・ガニア |
デビュー | 1972年12月10日 |
リック・フレアー(Ric Flair、1949年2月25日 - )は、アメリカ合衆国のヘビー級の元プロレスラー。本名:リチャード・モーガン・フレイアー(Richard Morgan Fliehr)。ニックネームはネイチャーボーイ(Nature Boy)、略してネイチと愛称でよばれることもある。またその試合巧者ぶりから「業界一卑劣な男(Dirtiest Player of the Game)」の異名を取った。日本でのキャッチコピーは「狂乱の貴公子」。テネシー州メンフィス出身。最終所属はWWEのSmackdown!。
目次 |
[編集] 人物
タイプ的には対極のハルク・ホーガンと双璧をなすアメリカン・プロレスの象徴。幾度となくNWA、WCW、WWEの世界ヘビー級王座のベルトを巻き、16回の世界王者(16-time World Champion)とも呼ばれる。
歴代のNWA王者がそうであったように、正攻法で攻めるよりもずるがしこい戦法を得意とした。これは元々NWA王者が巡業の行く先々で地元の英雄を相手にする必要があったところから生じたものであり、対戦相手を引き立てつつ、数々のムーブ(試合中の動作)で観客を沸かせる術に長け、「箒相手でもプロレスができる」と形容された。跪いて相手に攻撃を躊躇させるムーブやフラフラ歩き前方に倒れるムーブは大きな見せ場となっている。そのスタイルは数々のレスラーに賞賛され、また武藤敬司は「自身のプロレスのベース」と語っている。
1980年代初期から中期にかけてNWA王者として全日本プロレスに登場していた頃、日本の観客はシリアスな試合を求める傾向にあり、フレアー独自のムーブは滑稽に映ったため好意的に受け入れられず、(NWA王者としてではなく)レスラーとしての人気はさほど高いものではなかった。しかし、現在は観客のプロレスを見る目も変わり、一連のムーブだけで会場を沸かせることができるレスラーとして認められ、人気も非常に高い。
ちなみに彼の金髪は、ラフファイトの際に流血が映えるよう、自ら染めたものである。
息子のデビッド・フレアーもプロレスラーである。
[編集] 来歴
[編集] 初期
1950年に発覚し全米を騒がせたテネシー児童福祉協会による養子縁組用の乳幼児売買事件の被害者の一人。生後一ヶ月ほどで当時デトロイトで産婦人科医を開業していた養父母の元に引き取られ、ミネソタ州ミネアポリスで少年時代を過ごす。
少年時代からプロレスファンで、特にクラッシャー・リソワスキーが好きだったと語っている。学生時代はレスリングおよびアメフトの選手であった。ミネソタ大学を退学後、保険外交員の職についていたが、バーン・ガニアのレスリング・キャンプに参加しプロレスラーとなるための訓練を受ける。このキャンプの同期にはケン・パテラ、コシロ・バジリ、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼルらがいる。1972年12月10日、師匠ガニアが経営し、ミネアポリスに拠点を置くAWAにてデビュー戦を行った。
[編集] NWA
1974年にクロケット・プロが運営するNWAミッドアトランティック地区(ノースカロライナ州周辺)に活躍の場を移した。そこでNWAミッドアトランティックタッグ王座、ミッドアトランティックTV王座、ミッドアトランティックヘビー級王座と立て続けに王座を獲得する活躍を見せる。1975年10月4日、セスナ機の事故に遭い背骨を骨折、医者から引退勧告を受けるも奇跡的にレスラーとして復帰した。この事故ではパイロットは死亡、同乗していたジョニー・バレンタインなどは半身不随となり引退している。復帰後もNWAミッドアトランティックヘビー級王座、世界タッグ王座(パートナー : グレッグ・バレンタイン)US王座など複数の王座を獲得した。「ネイチャーボーイ」の異名が定着したのも、生涯のライバルにして親友でもあるロディ・パイパーやリッキー・スティムボートらと出会ったのもこの頃である。
1981年、ダスティ・ローデスを破りNWA世界ヘビー級王座を初戴冠。後に同王座を8回(7~10回と諸説有)獲得して一時代を築く。1986年には、アーン・アンダーソン、オレイ・アンダーソン、タリー・ブランチャード、およびマネージャーのJ.J.ディロンと共に,今や伝説と化したチーム、フォー・ホースメンを結成した。
1980年代後半には、若手として台頭してきたスティング、グレート・ムタ、レックス・ルガーらとの戦いを繰り広げ、WCWの目玉カードとなった。
[編集] WWF
1991年9月に、ジム・ハード副社長との確執から,それまで所属していたNWAの流れを汲むWCWを離脱、WWFへ電撃移籍した。WCW首脳部にとってはフレアーは『すでに全盛期の過ぎた時代遅れの選手』でしかなく、ハードからは思い付きで「古代の剣闘士」スパルタカスなるキャラにギミック変更を要求されるなどの扱いを受けていた。なお離脱前の一時期にトレードマークだったロングヘアーが短くカットされたのは、このキャラチェンジ命令を完全には拒否することができずに妥協したためである。
トップ・ヒールとして迎えられたWWFではボビー・ヒーナン、カート・ヘニングと組むこととなり、かつての宿敵で親友でもあったパイパーとの抗争、その後はハルク・ホーガンとの頂上対決が組まれた。引退を考えていたホーガンとの抗争は今一つ盛り上がらなかったが、1992年1月にロイヤルランブルで優勝、およびこの試合に懸けられていたWWF世界王座を獲得した。
レッスルマニア8ではランディ・サベージを相手に王座防衛戦を戦い、敗れたもののサベージの愛妻エリザベスの唇を奪った。同年のサマースラムでタイトル奪回にも成功するが、アルティメット・ウォリアーとの試合で三半規管を損傷。欠場の必要に迫られ、ブレット・ハートに王座を明け渡した。
[編集] WCW
1993年2月にWWFを離脱、WCWへ復帰しフォー・ホースメンを再結成した。1998年に、エリック・ビショフとの対立からWCW離脱寸前までいくも、アーン・アンダーソンの働きにより残留。その後WCWには消滅まで所属していたが、ビショフら首脳陣やホーガン、ナッシュを筆頭とする主流派グループとの確執は激しく、脇役扱いも多くかつての輝きを取り戻すことはなかった。脚本家のビンス・ルッソーがWWFから移籍してからはその傾向がさらに顕著になり、精神的・肉体的な理由から一時期はセミリタイヤ状態であった。
2001年のマンデー・ナイトロ最終回ではメインイベントでスティングと戦っているが、この時もコンディションは非常に悪く、体型を隠すためにTシャツを着たまま試合を行い、かつては数々の名勝負を生んだライバルの最後の対決も凡戦も終わった。
[編集] WWE
WCW消滅後、2001年末よりWWEに所属する。50%の株式を保有するビンス・マクマホンとのWWE共同経営者というギミックを与えられ、ベビーフェイスとして活躍した。2002年のレッスルマニア18ではジ・アンダーテイカーと対戦、同年WWEがブランド分けを行った際にはRAWのオーナーとなってアンダーテイカーをドラフト1位指名し抗争を継続した。2003年には、トリプルH、バティスタ、ランディ・オートンと共にヒールのユニット、エボリューションを結成した。
その後,ランディ・オートン、バティスタらが単独でファンを沸かすことができるキャラクターに成長して次々と抜けていき(アングル上はエボリューションと抗争するための脱退)、トリプルHも休養に入ったためにエボリューションはフェードアウト。2005年8月に、ショーン・マイケルズと組んでベビーフェースにターン。カリート、クリス・マスターズと抗争後10月のWWE・ホームカミングからは旧友のトリプルHとの抗争に入った。
トリプルHとの抗争はサバイバー・シリーズまで続いた。サバイバー・シリーズ後はプライベートで起こした交通トラブルネタをエッジがあげつらった事をきっかけに抗争開始した。
2006年11月5日、サイバー・サンデーでかねてより抗争中のスピリット・スクワッド(ケニー&マイキー)の持つ世界タッグ王座にファン投票で選ばれたパートナーロディ・パイパーと組んで挑戦。足4の字固めでギブアップを奪い見事王座奪取を果たした。
2007年6月11日、RAWで行われたドラフトにより、RAWからスマックダウンに移籍。約2年ぶりにバティスタと同じブランドでの再会を果たす(リックの移籍を決めた試合を行ったのもバティスタである)。
移籍後、3ヶ月の欠場を経て11月26日にRAWで復帰し、「私は引退しない」と宣言した[1]。この時,ビンス・マクマホンから「もし1試合でも負けたら強制的に引退とする」と通告された為、以後の試合はすべて「負けたら引退」マッチとなった。
2008年本年度のWWE殿堂入り第一号として、ショーン・マイケルズに紹介された。現役レスラーの殿堂入りは初めてであった。
3月30日、米フロリダ州オーランドにて開催されたレッスルマニア24で、そのショーン・マイケルズに敗れ、引退決定。翌日のRAWの放送で引退セレモニーが行われた。
[編集] 日本との関わり
日本および日本人レスラーとの関わりも深い。初来日は1973年、国際プロレスの興行である。当時雑誌やパンフレットなどに掲載されていた写真は、汚らしい赤毛に下品な口髭、ポッコリと出た腹、とかなり冴えないスタイルだったが、実際に日本に来た時には精悍な顔に口髭はきれいに剃り落とされ、髪型もダイナマイト・キッドを彷彿とさせるショート・ヘア、腹もシェイプアップされプロレス記者らを驚かせた。以来、2008年1月までに62回来日している。
NWA王者として、全日本プロレスの興行でも来日し、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、長州力、谷津嘉章、輪島大士、テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ザ・グレート・カブキといったそうそうたる顔ぶれの挑戦を受けて全て防衛に成功している。
また、1984年に横須賀市総合体育館でケリー・フォン・エリックを破ってNWA王座を奪還。1985年には両国国技館でAWA世界王者のリック・マーテルと、史上初になるNWAとAWAの世界ダブル・タイトルマッチを闘っている(結果は両者リングアウト)。
WCWと新日本プロレスが提携していた頃は新日本にも参戦し、G1 CLIMAXに参加したほか、1995年4月には、アントニオ猪木と北朝鮮にてプロレスの試合を行っている。
2003年にWWF横浜アリーナ興行があった際に、リング上にて日本プロレス界で輝いたライバル達の名前を挙げた。順番に「ジャンボ鶴田」「天龍源一郎」「ブルーザー・ブロディ」「スタン・ハンセン」「テリー・ファンク」「ハーリー・レイス」「アントニオ猪木」「長州力」「蝶野正洋」「藤波辰爾」「ジャイアント馬場」「ザ・グレート・ムタ」の12選手である。尚、この時ゲストとして実況席にいた武藤には、フレアーが自ら手を差し向けて敬意を示した。
2008年日本公演PRのためクリス・ジェリコ,キャンディス・ミッシェルとともに来日。 司会を務めた草野仁からチョップを貰った。お返しはサイン入りのベルトだった。
[編集] 得意技
フレアーは限られたムーブで客を沸かすことが出来るという点で、極めて高い技術を持ったプロレスラーであると目されている。
- 足4の字固め
- フィニッシュで使う場合は相手の片足を掴んだ状態からフレアー・ムーヴ(アピール)を行い、技をかける。(実際には試合の流れを変える場面でよく使われる。)
- 逆水平チョップ
- 一発浴びせる毎に観客がフレアーの決め台詞「Wooooo!!」と叫ぶのが通例。
- ブレーンバスター
- 滞空時間が長いことで有名。
- 反則攻撃
- サミング、ロー・ブロー、噛み付き、ロープやタイツを掴んでのフォールなど
[編集] 全盛期の得意技
- ダブルアーム・スープレックス
- 抱え式バックドロップ
- ルーテーズ型の物とよく対比される。
- ダイビング・クロスボディ
- この技でハーリー・レイスからNWA王座を奪取
[編集] やられ技
- デッドリー・ドライブで投げられる
- フレアーがコーナーに登りダイビング攻撃を狙った所を派手に投げられるという定番ムーブ。何の技を繰り出そうとしてコーナーに登ったのかは誰も知らないとさえいわれている。投げられる際タイツをつかまれて尻が丸出しになったまま飛んでいくこともたびたびだが、本人いわく「ハウス・ショー(テレビ中継がない大会)でしかやらない」とのこと。
- 2005年にベビーターンした頃、コーナーダイビングはやられ技では無く確実に成功する技となった事がある。
- 前のめり受身(フェイス・ファースト・バンプ)
- 相手の連続攻撃を食らったあとに、2、3発パンチを空振りしてから倒れる。「顔面受け身」とも呼ばれ、倒れるモーションで観客を沸かせてしまうというフレアーならではのれっきとした「技」である。
- コーナーに投げられ、そのまま1回転して場外転落
- 現在はショーン・マイケルズなども行っている、1回転してエプロンサイドに立ち、そのままコーナーに登ることもあった。
- ビートたけしがお笑いウルトラクイズでたけし自身が空中からぶら下がり状態で巨大鍋の熱湯に肉を入れる際、顔面から突っ込みアタフタする芸はフレアーのコーナー最上段でのバタバタをまねたものである
- フレアー・ウォーク(ネイチ・ウォーク)
- 伊達男のようにかっこつけながら大げさに歩くムーブ。この後に「Woooo」と続けたり、起き上がった相手に反撃されたりする。
- Oh, No!
- 不利になったときに両膝をついて相手に許しを乞う。または後ずさりをする。
- 体勢としては両手の平を顔の前に出し、首を振る。
- この直後にサミング・急所攻撃をする事もしばしば。
[編集] タイトル履歴
- NWA
- NWA世界ヘビー級王座 : 10回
- NWA USヘビー級王座(Toronto version) : 2回
- NWA Mid-Atlantic ヘビー級王座 : 3回
- NWA/NWA Mid-Atlantic TV王座 : 2回
- NWA Missouri ヘビー級王座 : 1回
- NWA 世界タッグ王座 : 3回
- NWA Mid-Atlantic タッグ王座 : 3回
- WCW
- WCW世界王座 : 7回
- WCW インターナショナル王座 : 1回
- WCW/NWA/Mid-Atlantic US王座 : 6回
- WWE
[編集] その他
- フレアーはNWAクロケット・プロと専属契約を結んでおり、これによってクロケット・プロがNWA内での発言力を高めたために連盟内のパワーバランスが崩れ、NWA崩壊の原因となったといわれる。
- セスナ機墜落事故の恐怖により、背中から受身を取ることができなくなった。現在でもデッドリー・ドライブやショルダースルーなど落下系の技を受ける際は肩を下にして斜めに受身を取っている。
- 「16回の世界王者」と呼ばれるが、NWA王座からWCW王座の過渡期は系譜が非常に曖昧なため、実際には19回とカウントすることもできる。またWCW所属時にはWWF王座歴をカウントせずに「14回の世界王者」と名乗っていた。
- 数々の「やられ芸」を持つフレアーだが、「Oh, No!」のポーズは初代ネイチャーボーイのバディ・ロジャース、「前のめり受身」「コーナー上からのデッドリードライブ」はレイ・スティーブンス、そして「尻出し」はディック・マードックがそれぞれ得意としていたものを受け継いだものである。
- 定番アピールの「Wooooo!」は元々ジェリー・リー・ルイスが『火の玉ロック』の曲中でやっていたものを真似し、自分流にアレンジしたものである。
- フレアーはニーパッドを膝からやや下にずらして着用しているが、これは得意技の足4の字固めのグリップを高めるための工夫である。
- 2003年、3枚組のDVD、The Ultimate Ric Flair Collection が発売された。
- 2004年、ハーリー・レイスのWWE殿堂入りに際し、ハーリー・レイスへ盾を授与するプレゼンターを務めた。
- 2004年、自伝 Ric Flair: To Be The Man を発売。
- 2005年、ロディ・パイパーのWWE殿堂入りに際し、ロディ・パイパーへ盾を授与するプレゼンターを務めた。
- 日本のお笑い芸人レイザーラモンHGのギャグ「フォー!」は、フレアーの定番アピールが元ネタである。
- 梶原一騎原作の漫画「プロレススーパースター列伝」には馬場・猪木・ハンセン・ブロディら当時の人気レスラーと並んでフレアーが登場する。なお、なぜかブッチャーと友人ということになっている。