ハーリー・レイス
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ハーリー・レイス | |
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プロフィール | |
リングネーム | ハーリー・レイス |
本名 | ハーリー・レイス |
ニックネーム | 美獣 ミスタープロレス |
身長 | 185cm |
体重 | 115kg |
誕生日 | 1943年4月11日(65歳) |
出身地 | アメリカ合衆国・ミズーリ州 |
所属 | WLW |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー | スタニスラウス・ズビスコ ドリー・ファンク・シニア |
デビュー | 1964年 |
引退 | 1995年 |
ハーリー・レイス(Harley "Leland" Race、1943年4月11日 - )は、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス出身の元プロレスラー。ニックネームは「美獣」(Handsome)。日米のリングで活躍したことから「ミスター・プロレス」とも呼ばれた。
目次 |
[編集] 来歴
高校・大学時代はレスリングの選手として活躍したという説もあるが、15歳の時に教師を殴って学校を追い出されたともいわれる。スタニスラウス・ズビスコのコーチを受け1964年にプロレスに転じた。テキサス州アマリロで修行し、ファンクスとともにトレーニングを積んでいる。デビュー戦の対戦相手はアメリカ武者修行中のアントニオ猪木であった。なお、デビュー当初は体重300kgの超巨漢レスラーハッピー・ハンフリーの弟を名乗っていたこともあるが、もちろん血縁関係はない。
1965年1月、ラリー・ヘニングとタッグを組みAWA世界タッグ王座を獲得。1968年2月に日本プロレスに参戦するため初来日。この頃はファンク一家の一員として扱われており、アントニオ猪木がドリー・ファンク・ジュニアに挑戦したNWA世界戦のビデオにドリーのセコンドとして顔を出している。1973年5月、ドリーを破りNWA世界ヘビー級王座を初獲得。同年全日本プロレスに初参戦し、それ以降全日本プロレスの常連レスラーとなりジャイアント馬場、ジャンボ鶴田等と戦いを繰り広げたほか、アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスとも日本でNWA世界戦を戦った。1970年代を代表する選手であり、彼が通算8回に渡って腰に巻いたNWA王座ベルトは通称「レイス・モデル」と呼ばれる。またNWA世界王者としてWWWF王者のスーパースター・ビリー・グラハムやボブ・バックランドとのダブル・タイトルマッチも戦っている。全日本年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦には4回出場し、中でも1984年にはニック・ボックウィンクルとの夢の帝王コンビを実現させている。
スケールの大きいプロレスをする実力者だが、スピード感に欠ける当時の「全日本プロレスのスタイルを象徴している」とする否定的な見方もある(高田純次曰く「馬場vsレイスはTVが壊れてるのかと思って日本テレビに電話した」)。現役末期にはWWF(現在のWWE)に移籍し、怪我で離脱する1989年まで在籍した。当時のWWFでは元NWA王者という肩書きは抹消され、変わりに王冠とケープを纏った「リングの王」というギミックの"キング"ハーリー・レイスを名乗った。これは同じくキングを名乗ったジェリー・ローラーへのWWFからのあてつけでもあった。WWF退団をもって事実上引退し、WCWでマネージャーとしてベイダーなどを担当した。交通事故により1995年に正式に引退した後は、アメリカ・ミズーリ州にプロレスラー養成所「WLW(ワールド・リーグ・レスリング)」を設立し後進の育成に尽力している。
日本の団体としてはNOAHがWLWと友好関係を築いており、NOAHのタイトルであるGHCの管理委員にも就いている。昨今では多くのNOAH所属日本人レスラーがレイスの元を訪れ、彼が育てている若手レスラーに指導をしている。また、2005年に小橋建太が訪れた際には、レイスが所持するNWA世界ヘビー級ベルトを小橋に与え(後に返還)、「彼こそがミスタープロレスだ」とこれ以上無い褒め言葉を投げかけた。レイス曰く「私は長らくプロレスを見てきたが、2004年7月10日に行われた東京ドーム大会の小橋vs秋山がベストバウトだ」。また、NOAHレスラーではレイス夫妻共々、丸藤正道がお気に入りであり、「日本の息子」と呼んでいる。
2004年には、それまでの功績を称えられてWWE殿堂入りを果たした。
[編集] タイトル履歴
- NWA世界ヘビー級王座
- AWA世界タッグ王座
- PWFヘビー級王座
- UNヘビー級王座
[編集] 得意技
- ダイビングヘッドバット
- パイルドライバー
- ブレーンバスター
- インディアン・デスロック(テリー・ファンクからNWA世界王座を奪ったのがこの技である)