蝶野正洋
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蝶野 正洋 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 蝶野 正洋 |
本名 | 蝶野 正洋 |
ニックネーム |
黒のカリスマ ブラック・バタフライ 極悪バタフライ |
身長 | 186cm |
体重 | 108kg |
誕生日 | 1963年9月17日(44歳) |
出身地 | ワシントン州シアトル 東京都三鷹市 |
所属 | 新日本プロレス |
スポーツ歴 | サッカー |
トレーナー | アントニオ猪木 ルー・テーズ 山本小鉄 |
デビュー | 1984年10月5日 |
蝶野 正洋(ちょうの まさひろ、1963年9月17日 - )は、日本のプロレスラー。アメリカ合衆国シアトル生まれ、東京都三鷹市出身。新日本プロレス所属。身長186cm、体重108kg。血液型O型。
「ARISTRIST」(アリストトリスト)という、マルティナ夫人をトップとするグッズブランド・個人事務所も持つ。口ひげがトレードマーク。試合時には黒色のレッグガード付きロングタイツを着用している。「オレだけ見てりゃいいんだ、オラ!I'm CHONO!」が口癖。海外ではマサ・チョーノ(Masa Chono)と呼ばれる。
入場曲は「CLASH」(Puff Daddyの「No Way Out」と「VICTORY」(NINE INCH NAILS REMIX)、Royal Huntの「MARTIAL ARTS」のミックス)。前奏部分の肉声は「Damn. I would have never thought it ever would have been like this.(ちくしょう、俺はこんな風になるなんて思ってもみなかった。)」「Fuck you all niggaz wanna do!(お前ら、一体何がやりたいんだよ!)」となっている。
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[編集] 来歴
エリートサラリーマンの父親の海外赴任先であるワシントン州シアトルで生まれ、川崎市多摩区生田、東京都渋谷区鉢山町を経て三鷹市で育つ。その育ちの良さからか実母から「マサヒロちゃん」と呼ばれ、実の親を「パパ」「ママ」と呼んでいた(ちなみに現在は「おやじ」「おふくろ」と呼んでいる)。一方で東京都立永山高等学校ではサッカーと暴走行為に明け暮れ、その後「親が大学に行けとうるさいから」との理由で神奈川大学に進学するが、同時期に受けた新日本プロレスの新弟子試験に合格。大学に籍を置いたまま入門し、後に中退する。
1984年4月に新日本プロレスへ入門し、同年10月にプロデビュー(初戦の相手は武藤敬司)。1987年の第3回ヤングライオン杯で橋本真也を破り優勝し、後にドイツ、アメリカ合衆国へ遠征。ドイツでは現在の夫人であるマルティナ・カールスと出会い、後に結婚。アメリカではテーズ道場に短期滞在し、STFを伝授される(当時、道場にいたセッド・ジニアスが直接教えたという説あり)。
海外遠征から帰国後は武藤敬司、橋本真也とともに「闘魂三銃士」として活躍するものの、人気は武藤と橋本の後塵を拝す。しかし、1991年に新日本プロレスの夏期興行G1 CLIMAXの第1回大会を制したことを契機に注目を浴びるようになる。翌年のG1でも優勝を果たし連覇を達成。「夏男」と呼ばれるようになる。
1994年のG1優勝後、「武闘派宣言」によって入場テーマ曲も変えてヒールターン。黒を基調としたコスチュームに一新し、馳浩を大流血に追い込んだ末出血する頭部を掻きむしりながらのSTFで葬りファンに大きな衝撃を与える。テーマ曲など現在まで続くスタイルを確立した。週刊プロレスはこの蝶野を「BLACKJACK」と称した。1995年に天山広吉、ヒロ斎藤とヒールユニット狼群団を結成。1996年に新日本と提携していたWCWに参戦、ハルク・ホーガン率いるnWoに加入し、帰国後にその日本支部としてnWo JAPANを結成。その総帥としてグレート・ムタ(後に武藤敬司として活躍)ら日本人、外国人メンバーを次々と増殖し、「nWo Tシャツ」が大量に売り上げられるなど、一大ムーヴメントを起こし、同年「プロレス大賞MVP」を受賞する。1998年8月8日、大阪ドームで藤波辰爾を破り、8回目の挑戦にして遂に悲願のIWGPヘビー級王座初戴冠。しかし首の負傷により、防衛戦を行う事なく王座を返上、長期欠場に入り、メンバーであった武藤に託すが、nWoの実権を完全掌握されて、行き場を失った蝶野は武藤に反発した。
復帰後の1999年、AKIRA、ドン・フライらと共にTEAM 2000を結成。武藤率いるnWoと抗争を開始し、2000年に武藤との決着戦に勝利。nWoを消滅(実際にはWCWとの提携解除に伴いnWoの使用権が消滅したため)させ、nWoの残存勢力を吸収し組織を拡大。同年、所属選手の大半が離脱し、存続の危機に陥った全日本プロレスから渕正信が新日本に登場。蝶野がマイクパフォーマンスで応戦し、対抗戦の口火を切る。単身全日本プロレス日本武道館大会に歴史的参戦。渕とシングルマッチを行い勝利後、「お前ら家に帰ってマスでもこいてろ!」とアピールし全日本ファンを敵に回した。
2001年は武藤率いるBATTと抗争。2002年、札幌大会でアントニオ猪木に直訴し、現場責任者に就任。5月2日の東京ドーム大会でプロレスリング・ノアの三沢光晴と初対決。30分ドローに終わる。8月には4度目のG1優勝を果たす。大会後、魔界倶楽部、高山善廣、藤田和之ら外敵との抗争に入り新日本隊に合流し、TEAM 2000は自然消滅。2003年にノアに初参戦、三沢と組み小橋建太&田上明組と対戦。5月の新日本東京ドーム大会では小橋の持つGHCヘビー級王座に左足靭帯損傷の状態で挑戦。敗れるも「ミスタープロレス対ミスタープロレス」と称されたこの試合で蝶野は小橋のハーフネルソンスープレックス6発を見事に受けきって見せ、小橋と共にファンの大喝采を受けた。
2005年にはヒールユニット、ブラックニュージャパン (BNJ) を結成。8月、G1で5度目の優勝を果たし、同年に急逝した橋本真也に優勝を報告した。長州力が新日本に戻ってくると反長州を掲げ抗争を開始。2006年には新日本社長サイモン猪木と抗争を開始する。リング外では同年7月4日、マルティナ夫人との間に第1子となる長男が誕生。
2007年、G1 CLIMAXにおいて真壁に敗北をした後、リング上にて長州、越中、マシン、ライガーを呼び出し、新軍団結成を呼びかけた。
2007年9月1日~2日、幕張メッセ国際展示場・11ホールにおいて「蝶野王国2007 in 幕張」を開催。長州力率いる『LOCK UP』、藤波辰爾率いる『無我ワールド・プロレスリング』、新日本プロレスの3団体合同興行となった。これと同時に三田証券と組んでイベントを証券化することも発表された。資金調達の手法としてファンドの活用を行うことはプロレス界にとって初めてのことであり、プロレス界の復興に向けた取り組みとして注目されている。
[編集] 人物
- プロレスマットで見せるヒールさとは違い、実生活では、プロレス界とりわけ新日本プロレスきっての常識人として知られ、敵対団体の先輩レスラーに対しても敬称で呼ぶことを怠らない。この性格は新人時代からのようで、武藤敬司が雑誌の取材に対し、「俺はまともだって? 俺はやんちゃでも橋本よりは目立たなかっただけさ。蝶野が一番まともな常識人だったよ」と語っている。同期であっても年上の武藤を「武藤さん」と呼ぶ。同期の橋本は年下ではあるが、私生活では「ブッチャー」と呼ぶものの、公式の場では「橋本君」と呼んでいて、逝去後は自身の雑誌連載などで「橋本選手」、「ブッチャー」としている。ヒール転向もゲスト解説として実況席に座る事があり、常に敬語で丁寧に解説し、またアナウンサーに呼ばれ思わず「はい」と丁寧な返事をしてしまったこともある。信頼性を重視するプロレスリング・ノアの三沢光晴が新日本の関係者で唯一信頼する人物と言われる。
- 遅刻癖があり、1~2時間はおろか半日近く遅刻したケースもある。そのため本来の集合時間より早い時間を集合時間として伝えることを“蝶野時間”と言われている(PS2版レッスルキングダムクロストークDVDで暴露、収録当日も本来の集合時間より一時間早い時間を伝えられていた[1])。
- 普段は非常に穏やかな人物像が知られている。バラエティーにも多く出演しており、以下のようなエピソードがある。
- 1989年11月14日の『笑っていいとも』テレフォンショッキングに橋本真也の紹介で出演した。当時はヒールターンでブレイクする前だったので、トークでは自嘲気味に当り障りの無い話をし、お友達の紹介は女優の田中美奈子であったが何故か蝶野と田中の会話は無かった。
- 『どっちの料理ショー』に出演した際には、空腹で途中から全く喋らなくなってしまい、共演者の松本明子から「蝶野さん! 蝶野さん! 喋ってくださいよ!『I'm CHONO!!』」と言われたほどである。
- 『さんまのまんま』に、後輩の天山広吉らと一緒に出演した際にも、抗争中の選手(当時は天山と)が横にいるにもかかわらず、非常に穏やかであった。
- 『めちゃ²イケてるッ!』に出演した際には愛猫のピーちゃんと毎日ベッドで寝ている事、奥さんの前でバレエの『白鳥の湖』をよく踊る事を暴露された。
- ウソのつけない正直な性格で、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内のコーナー「食わず嫌い王決定戦」に登場した際、レバ刺しを食べたとき、対戦相手の岸本加世子に突っ込まれると、「鋭いですね」と、答えを公表してしまった事もある。
- nWo時代はよく実況アナウンサーの辻よしなりに絡んでいた。真鍋由と絡む大仁田厚に対し「オレは素人には手を出さない」と言いながらも、自身は辻のメガネを壊したり、チャンピオンベルトで殴打するなどの暴力、ワイシャツにスプレーで「nWo」と落書きしたりしていた。ただ、共著があることからもわかるように、実際には抗争していた時代から互いに信頼関係を保っていたようである。
- 高校時代にサッカーに勤しんだ事もあって無類のサッカー好き。2006年3月25日、Jリーグ横浜F・マリノス対浦和レッドダイヤモンズ戦のTV中継(副音声)にゲスト出演した際、アップで映し出された田中マルクス闘莉王選手を見て「闘莉王、髪ヤバくない? キてるよ~、ヤバいよ」と連呼、無邪気にはしゃいでいた。以降、一部サポーター間で闘莉王の頭髪ネタが定着している。
- 横浜ベイスターズの三浦大輔投手、鈴木尚典外野手と親交があり、以前はnWo時代を中心に三浦がリングサイドで観戦したり、逆に横浜スタジアムの試合前にnWo軍で激励に行ったりしていた。1998年に横浜ベイスターズが優勝した時は、三浦と鈴木尚はnWoのフェイスペインティングをしてビールかけをした。
- J sports ESPNで放送中の新日本プロレスSXWなどで実況を務めるフリーアナウンサーの鍵野威史は小学校時代の同級生。
- サインを求めに来るファンに気軽に応じることでも知られている。ヒールターン直後はファンを追い払うことも多かったが、その気持ちが変化するきっかけになったのは名古屋駅で新幹線を待っていた時にジュビロ磐田の選手達の一群を見かけたこと。当時のジュビロには「闘将」と呼ばれたブラジル代表主将・ドゥンガが在籍しており、先述のように高校時代はサッカーに明け暮れた蝶野にとって彼はまさにスターとも言える存在だった。蝶野はドゥンガにサインをもらおうと思ったが「ヒールレスラーが他のスポーツ選手にサインをもらう姿を見たらファンが何と思うだろうか…」とためらっていたところ、ジュビロのエースストライカー中山雅史が「蝶野さん、サインしてください」と近寄ってきた。何のためらいもなくサインを求めに来た中山の姿を見た蝶野は、これがきっかけで以降はファンにサインをするようになったという(中山とはこれ以降交友がある)。この話はベースボール・マガジン社から発行される隔月刊誌「スポーツカードマガジン」に掲載されたが、同誌では同時に「蝶野のカードにサインをしてもらう場合は、銀色のペイントマーカーを忘れないように」ともアドバイスしている(プロレスラーのカードは室内で撮影されるものが多く、その結果背景がどうしても暗くなってしまう上、蝶野のコスチュームが黒を基本としているため、黒のマジックではサインが分からなくなってしまうというのが理由である)。
- 2007年10月6日に公開された松竹映画『未来予想図 〜ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜』を撮った映画監督・蝶野博は、従兄弟にあたる(蝶野の父の弟の息子とのこと)。9月14日に大阪で行われた会見で、「大阪を舞台にしたアクションで」と次回作出演ラブコールを送っていた。
[編集] 主な得意技
派手な技はあまり使わず、基本的でシンプルな技を中心に試合を組み立てる。相手にやられて虫の息になったように見せかけて(いわゆる「死んだフリ」)、相手レスラーの隙を突いて攻め立てる試合が特徴である。
- ケンカキック(ヤクザキック)
- サッカー時代に培った強靭な下半身を利して相手の顔面を蹴り倒す技。元々は「ヤクザキック」と呼ばれていたが、テレビでは「ヤクザ」が放送上大っぴらに使用できない言葉のため、ケンカキックと呼ばれるようになった(木村健吾などの解説者はよく「ヤクザキック」と口を滑らせるが)。ビッグブーツと呼ばれる蹴りと異なり、当てる相手に対して体が開き、斜めに向くことが特徴。
- シャイニングケンカキック(シャイニングヤクザキック・シャイニングマフィア)
- 相手の片膝を踏み台にしてのヤクザキック。ライバルの武藤が繰り出すシャイニング・ウィザードを蝶野風にアレンジした技。近年のフィニッシュホールドであり、この技で2005年G1を制した。「シャイニングブラック」と「週刊プロレス」に記載された時期もあった。
- スライディングケンカキック(スライディングヤクザキック)
- ヤクザキックの派生技で、体勢を崩した相手の顔面へ、スライディングしながらケンカキックを打ち込む技。
- この技のコーチは『これを選手がまともに受けたら、どうなるかわからない』と言った危険度の高いキックである。
- STF(エス・ティー・エフ、Step over Toe hold with Face lock の略)
- 技の説明に関してはリンク先参照。最近は試合中盤で出す繋ぎ技・痛め技になっているが、大一番ではこれの派生技(下記)をフィニッシュとして使うことがある。この技の元祖テーズはSTFに説得力を持たせた蝶野のプロレスセンスを高く評価していた。
- クロス式STF
- 相手の両足をクロスさせ、動くことを困難にさせる。ロープエスケープが出来ないためほぼ確実にタップを取れる技であるが、滅多に出すことはない。
- STS
- フェースロックではなく、スリーパーに捉える。これは実況をするアナウンサーがこの形になったときに叫ぶ程度で一般には呼称は定着していない。最近繰り出すSTFはこの形に近くなっているようである。
- FTS
- STFを体勢そのままに相手を上に体勢を入れ替える。馳浩が繰り出した裏STFとの違いは、トーホールドが完全に決まっている状態で返している点にある。体勢を逆にするということで、技名もSTFの逆。ただし最近はFTSも裏STFと呼ばれることが多い。
- 羽根折り固め(バタフライロック)
- 尻餅をついている相手の両腕を締め上げ、首を前方へと押さえ付け、首関節・肩を極めるとともに呼吸困難にさせる技。相手のスタミナを奪う目的で使用することが多い。一時期、この技をフィニッシュホールドに使用していた(1998年4月4日、IWGPタッグ選手権など)。正式名称は羽根折固め、リバースフルネルソンだが、蝶野が使うとバタフライ・ロックと呼ばれることも多い。蝶野の苗字の一字からとったのと、かけられた相手の形が蝶の羽のように見えるからである。
- バックドロップ
- 蝶野のバックドロップはルー・テーズからアドバイスを受けたものでいわゆるヘソ投げ式のものであるが、低空で落とすまでのスピードが速く角度が鋭角である。大一番でしか繰り出さない技。ハイアングル気味に持ち上げる時は相手に切り替えされるという「お約束」もあったが、小橋建太との戦いでは危険な角度で小橋を3連続で投げ飛ばし、話題となった。
- ダイビングショルダーアタック
- トップロープから跳んで相手の肩口に向かってショルダータックルを決める技。若手時代からの得意技。この技をグレート・コキーナ(後のヨコヅナ、故人)に出したとき、コキーナの下歯が唇を突き破って出てしまい、16針縫わせる怪我を負わせたこともある。第2回G1決勝戦(対リック・ルード)においてはフィニッシュ・ホールドになった。専門誌のインタビューでも語っているが、蝶野の唯一といっていい派手な動きをする技。
- 蝶天魚雷
- 天山広吉と同時にトップロープから飛んで行うショルダータックル。タイミングを計ることが難しく、公開された当初はバラバラに行っていた。
- CTC
- 天山広吉との合体技。膝を付いた相手に対し、蝶野の膝蹴りと天山のパンチを挟み込むように当てる。Chono Tenzan Crushの略。
- ゴッチ式(ドイツ式、ジャーマン)パイルドライバー
- 股下をクラッチしたドリル・ア・ホール・パイルドライバー。抱え上げ形の技をあまり使わない蝶野にとっては珍しいリフト系の技である。
- G1パワーボム
- 最近の蝶野はパイルドライバーを多く使用するが、第1回G1の決勝で武藤を倒し優勝した際は、この技で最後粘る武藤を振り切った。そのときのインパクトから、蝶野のパワーボムは特別に「G1パワーボム」と呼ばれている。蝶野のパワーボムは、自分の両膝を着きながら相手を叩き付けている。
- マンハッタンドロップ
- 相手の股間部分や尻に打撃攻撃を与える技。ラフプレーを身上とする蝶野らしい技。
- 急所攻撃
- 厳密には反則技であるが、ヒールターン後の蝶野は試合時に股間攻撃を巧みに繰り出している。具体的にはバックを取った相手にバックヒールのような形、仰向けの敵の股間にヘッドバットや膝を落とすような形、など様々。
- エルボー
- ヒールターン直後に多用していた。実況解説から「毒針」などと呼称された事も。しかしその後は殆ど使われなくなった。
- フライングニールキック
- 大一番で稀に繰り出していたがシャイニングケンカキック等に取って代わられたのか、使われなくなった。
[編集] タイトル獲得歴
- NWA世界ヘビー級王座…第75代王者(防衛4回)
- 第2回G1優勝と共に獲得。海外で2度防衛に成功している。1992年9月23日のスティーブ・オースチンとの初防衛戦では、(蝶野曰く「変な」)パイルドライバーを受け、古傷の首を悪化させている(ちなみに数年後、オースチンもオーエン・ハートから同じ技を受け首に爆弾を抱えている)。因みにこのベルト保有期間中、UWFインターから挑戦状を叩き付けられた。
- IWGPヘビー級王座…第22代王者(防衛0回)
- 8度目の挑戦で初獲得。しかし椎間板セキ椎症を理由に王座返上。以降も3度挑戦するも獲得できず。蝶野にとっては相性の悪いベルトとなっている。
- IWGPタッグ王座…6度獲得。身内の不幸とパートナーの負傷欠場を理由に2度返上をしている。
- 第12代(防衛3回)、第33代(防衛2回):パートナーは武藤敬司。
- 第25代(防衛0回)、第28代(防衛2回)、第34代(防衛0回)、第43代(防衛7回):パートナーは天山広吉。
- HCWヘビー
- G1 CLIMAX 優勝…最多優勝記録である5回。このことから蝶野のことを「G1男」「夏男」等と呼ばれる。これに関しては別の節で後述する。
- 第7回SGタッグリーグ(1997年)優勝
[編集] 夏男・蝶野正洋
前述の通り、蝶野は新日本プロレスのシングル最強決定戦であるG1 CLIMAXを5度優勝していることから夏男とも呼ばれる。ベビーフェイス時代に3度、ヒールターンしてからは2度優勝を果たしていて、しかも5回中4回がリーグ戦形式による公式戦を勝ち上がっての優勝である。
- 第1回(1991年)では、優勝決定戦の進出を橋本真也と争い、決勝の相手は武藤敬司であったため、闘魂三銃士の時代の到来を示す重要な大会となった。ちなみに決勝戦で先に入場した選手が優勝したのはこの時だけである。
- 第2回(1992年)では、第75代NWA世界ヘビー級王座を賭けたトーナメントで当時隆盛を誇っていたWCW勢が大挙して来日し、決勝ではそのリック・ルードを破っての優勝であった。
- 第4回(1994年)では、2度もG1に優勝しながら優勝候補にあがらなかった蝶野の不満が一気に爆発、優勝決定後に武闘派転向を宣言した。
- 第12回(2002年)では、高山善廣ら外敵と新日勢という構図となり、決勝戦は高山にケンカキックを10連発で叩き込んで優勝を果たした。
- 第15回(2005年)では、7月に橋本真也が他界したのを受けて必勝を誓って出場し、公約通りに優勝を果たした。優勝決定後、リング上でのインタビューで橋本真也に優勝の報告をした。決勝戦での入場では、自身の入場テーマのイントロを「爆勝宣言」に差し替えた物を使用して凄まじい歓声を引きだしたが、当の本人は差し替えたのは知らされていなかった。蝶野は「爆勝宣言」が流れた際、「感傷的になってしまったら勝てる試合も勝てなくなる。」と思っていた。
[編集] CM出演
[編集] 著書
- 『My bible』ルー出版、1998年、ISBN 4-89778-066-7
- 『烈闘生 傷だらけの履歴書』幻冬舎 増補改訂版版 1999/04 共著:橋本真也・武藤敬司・蝶野正洋 ISBN 4-877287-22-1
- 『Gray zone』共著:蝶野正洋・辻義就、アミューズブックス、1999年、ISBN 4-906613-37-3
- 『胎動』共著:三沢光晴・蝶野正洋、アミューズブックス、1999年、ISBN 4-906613-43-8
- 『Chono bible』著:蝶野正洋、撮影:瀬古正二、BOOKMAN-SHA、2002年、ISBN 4-89308-497-6
- 『白兵武者』原案:蝶野正洋、作画:石渡治、小学館、全12巻