曙太郎
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曙 太郎(あけぼの たろう、1969年5月8日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身東関部屋の第64代横綱で、外国人初の横綱。2001年に大相撲の世界から引退。東関部屋所属。現在は総合格闘家(K-1ファイター)兼プロレスラー。チーム・ヨコヅナ所属。血液型O型。大相撲現役当時の体格は、身長203cm、体重233kg。
1996年に日本に帰化し、本名も四股名と同じ「曙 太郎」を名乗る。旧名は、チャド・ローウェン・ジョージ・ハヘオ(Chad George Haaheo Rowan)。力士として活動していた時期(帰化前)には、日本風に姓を頭にして本名はローウェン・チャドとしていた。なお、曙太郎と関係が深いと見られる「モンスター・ボノ」および「ボノちゃん」についても当項目で記載する。
目次 |
[編集] 名にまつわるエピソード
関脇の時までは「天下をとる」を「点をとる」になぞらえ、点のない「曙」だったが、大関になって以降は点のある「曙」で書かれている。入門当時は「大海」(たいかい)と名乗り前相撲も取ったが、三段目に大魁(たいがい)という力士がおり、混乱を避けるため改名せざるを得なくなり、「曙」となった。大魁が引退した後の1990年3月場所に曙の弟が東関部屋に入門し、その大海を名乗ることができたが、僅か3場所でハワイに帰国してしまった。
春場所への意気込みを問われた際に、よく『枕草子』の「春は曙」(春は曙が良い)と言う有名な文を引用して微笑んでいた。
[編集] 来歴
[編集] 角界
ハワイではバスケットボールをしていたが、その体格を東関親方(元高見山大五郎)に見込まれ、相撲界入り、1988年3月場所に初土俵。
同期入門は「花の六三組」と言われる横綱・若乃花(現タレント・花田勝)、貴乃花、大関・魁皇、小結・和歌乃山、前頭・力櫻(現プロレスラー・力皇猛)、十両・須佐の湖、鶴ノ富士、琴岩国、琴乃峰といった名力士の名が並ぶ。序ノ口では、貴乃花に勝ったが、琴乃峰にプロ初黒星を喫している。三段目時代の1989年3月場所前、まだ指折りの大部屋だった伊勢ヶ濱部屋に出稽古に出かけた曙は当時、1月場所で10勝をあげ自己最高位の前頭筆頭まで躍進した若瀬川に胸を借りた。相手が三段目と甘く見ていた若瀬川は2、3回軽く四股を踏んだだけで、仕切って待っている曙の前に立つと両手を広げて大きく胸を出した。曙は若瀬川の胸をめがけて頭から思い切りぶちかますと若瀬川は仰向けにひっくり返り、腰を痛めて病院に運ばれる羽目になった。初土俵からわずか一年で幕内力士を「病院送り」にした曙はこの場所6勝1敗、翌場所は早くも幕下に昇進した。ちなみに若瀬川は7日目まで休場、翌日から出場したがわずか1勝しかできず、以後二度と三役の座を手中にすることはなかった。
長身を活かした突き押しが特徴で、同期の若乃花・貴乃花のライバルとして1990年代初期から後期まで名勝負を演じた。その一方足が長い体型から下半身が脆いという致命的な弱点を持ち、舞の海など小兵の力士に懐に潜り込まれ足を取られると容易にバランスを崩され、何もできずにあっさり負けてしまうことも目立った(舞の海に三所攻めで負けた一番はその好例である。なお、このときの決まり手は三所攻めとはならなかった)。しかし、1992年には大関で2場所連続優勝を果たし横綱昇進、横綱不在を解消し、貴乃花の昇進まで一人横綱を維持し、その間にも優勝を重ね、横綱の権威を守ったことは評価されるものである。
横綱土俵入りは四股の足がほとんど上がらず、この点では貴乃花と比べて見劣りがした(しかし、四股は本来足を高く上げるものではなく、玉錦以前の四股に戻ったとも言え、本質的な問題ではない。むしろ足を高く上げ土の付いた足の裏を客に見せるのは不浄であるとするのが本来的な概念)。また土俵中央最後の左の四股の前に横に出す手は右手なのに、1993年9月場所、横綱4場所目を迎えた曙はなぜか土俵入りの際、左手を上げて左の四股を踏んだ(これは初日から4日目まで続いた)。しかしたくましい上半身が引き立つせり上がりは非常に迫力があり、NHKの大相撲放送でも度々アップで映し出されていた。前屈がひどく節度のない貴乃花のそれに比べ、総体としてみればかなり上手い土俵入りを見せた。いかつい顔も、せり上がりで正面を睨むこの時ばかりは映えた。1998年2月に行われた長野冬季オリンピックでは、当時東横綱の貴乃花が直前の同年1月場所中体調不良で途中休場となったため、欠席した貴乃花の代役として西横綱の曙が開会式のときに横綱土俵入りを演じた。
2mを超える長身といかつい容貌のため、また若貴の人気が突出していたためあるいは師匠同士の因縁のため、外国人初の横綱を張ったことなどから悪役的な位置づけをされることが多かったが、平幕力士として話題性が少なかった時期には、関取に昇進して以降ハワイの両親の元に送金を欠かさなかった(1991年に小錦に敗れ7勝8敗と1点の負け越しを喫し連続勝ち越しが途切れるまで、勝ち越しによって増額された分の給金を送金していた。このことは広く知られており、負けて負け越しとなる一番を元とした取り組みが漫画で描かれた折にも、曙をモデルとした力士がその旨を心の声として語っている)ことから「孝行息子」また、当時の東関部屋の部屋頭だったことや師匠譲りのオレンジ色の廻しを締めていたこと(後には紫や黒に変えている)から「ジェシーの一番弟子」として微笑ましく見守るファンは多く、相撲部屋を扱ったTV番組で師匠の東関親方とともに当時の高砂親方(元小結・富士錦)のもとに新年の挨拶に訪れ、お年玉をもらう姿が放映されるなど微笑ましい映像も露出しており、憎まれ役として貫徹したわけではなかった。しかし折からの「若貴ブーム」で相撲を大々的に取り上げはじめた民放スポーツ番組では、プロレス並みに若貴に対抗するヒール役としてレッテルを貼り、にわか相撲ファンはそれを真に受けた。
通算優勝回数は11回。優勝決定戦に10回出場(7勝3敗)は歴代1位で、2人決定戦(1993年九州場所、1997年夏場所、1999年名古屋場所)、3人決定戦(1993年名古屋場所、1994年春場所)、4人決定戦(1997年春場所)、5人決定戦(1996年九州場所)全てに出場するという、非常に珍しい記録の持ち主でもある。
また幕内で10回以上対戦して負け越している力士が一人もおらず(貴乃花とは21勝21敗)どのような力士に対しても実力を発揮できたことが窺える。礼儀正しさや謙虚な態度で好意を持つ親方衆が多かった。
手足の長さから重心が高く、足の故障が多かったが、1994年5月に両膝を故障した後は若貴らの活躍もあって優勝間隔が空くことが多くなり、2001年1月場所の引退までのおよそ6年間で優勝は4回に留まった。2000年7月と11月場所に優勝し年間最多勝も獲得したが、休場したその次の場所で引退した。
通算幕内優勝回数は11回を数え、若乃花・貴乃花とともに相撲人気を高めた貢献者として、引退後に日本相撲協会から功労金1億円が贈られた。
[編集] 幕内での場所別成績
場所 | 地位 | 勝数 | 敗数 | 休場 | 備考 |
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平成2年(1990年)9月 | 東前頭14枚目 | 9 | 6 | 0 | 新入幕 |
平成2年(1990年)11月 | 西前頭7枚目 | 9 | 6 | 0 | 敢闘賞(初) |
平成3年(1991年)1月 | 西前頭筆頭 | 8 | 7 | 0 | 殊勲賞(初)、金星(旭富士) |
平成3年(1991年)3月 | 東小結 | 8 | 7 | 0 | 新小結、殊勲賞(2) |
平成3年(1991年)5月 | 西関脇 | 7 | 8 | 0 | 新関脇 |
平成3年(1991年)7月 | 東前頭筆頭 | 8 | 7 | 0 | 金星(大乃国、旭富士) |
平成3年(1991年)9月 | 西小結 | 7 | 8 | 0 | |
平成3年(1991年)11月 | 西前頭筆頭 | 8 | 7 | 0 | 金星(北勝海) |
平成4年(1992年)1月 | 西小結 | 13 | 2 | 0 | 殊勲賞(3)、敢闘賞(2) |
平成4年(1992年)3月 | 東関脇 | 8 | 7 | 0 | |
平成4年(1992年)5月 | 西関脇 | 13 | 2 | 0 | 優勝(初)、殊勲賞(4) |
平成4年(1992年)7月 | 東大関 | 0 | 0 | 15 | 新大関、全休 |
平成4年(1992年)9月 | 東張出大関 | 9 | 6 | 0 | |
平成4年(1992年)11月 | 西大関 | 14 | 1 | 0 | 優勝(2) |
平成5年(1993年)1月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝(3) |
平成5年(1993年)3月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | 新横綱 |
平成5年(1993年)5月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | |
平成5年(1993年)7月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(4) |
平成5年(1993年)9月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(5) |
平成5年(1993年)11月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(6) |
平成6年(1994年)1月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | |
平成6年(1994年)3月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝(7) |
平成6年(1994年)5月 | 東横綱 | 10 | 2 | 3 | 途中休場 |
平成6年(1994年)7月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成6年(1994年)9月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成6年(1994年)11月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | |
平成7年(1995年)1月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | |
平成7年(1995年)3月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(8) |
平成7年(1995年)5月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | |
平成7年(1995年)7月 | 西横綱 | 11 | 4 | 0 | |
平成7年(1995年)9月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | |
平成7年(1995年)11月 | 西横綱 | 7 | 3 | 5 | 途中休場 |
平成8年(1996年)1月 | 西横綱 | 0 | 3 | 12 | 途中休場 |
平成8年(1996年)3月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成8年(1996年)5月 | 西横綱 | 10 | 5 | 0 | |
平成8年(1996年)7月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | |
平成8年(1996年)9月 | 西横綱 | 10 | 5 | 0 | |
平成8年(1996年)11月 | 西横綱 | 11 | 4 | 0 | 優勝同点 |
平成9年(1997年)1月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | |
平成9年(1997年)3月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝同点 |
平成9年(1997年)5月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(9) |
平成9年(1997年)7月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | |
平成9年(1997年)9月 | 西横綱 | 9 | 6 | 0 | |
平成9年(1997年)11月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成10年(1998年)1月 | 西横綱 | 10 | 5 | 0 | |
平成10年(1998年)3月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | |
平成10年(1998年)5月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | |
平成10年(1998年)7月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | |
平成10年(1998年)9月 | 西横綱 | 10 | 5 | 0 | |
平成10年(1998年)11月 | 東横綱2 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成11年(1999年)1月 | 東横綱2 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成11年(1999年)3月 | 東横綱2 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成11年(1999年)5月 | 東横綱2 | 11 | 4 | 0 | |
平成11年(1999年)7月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝同点 |
平成11年(1999年)9月 | 東横綱 | 2 | 2 | 11 | 途中休場 |
平成11年(1999年)11月 | 東横綱2 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成12年(2000年)1月 | 西横綱2 | 11 | 4 | 0 | |
平成12年(2000年)3月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | |
平成12年(2000年)5月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | |
平成12年(2000年)7月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(10) |
平成12年(2000年)9月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | |
平成12年(2000年)11月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(11) |
平成13年(2001年)1月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休、場所後引退 |
通算 | 566 | 198 | 181 | - |
[編集] 大相撲成績
- 幕内成績:566勝198敗181休 勝率.741
- 横綱成績:432勝122敗166休 勝率.780
- 幕内優勝:11回
- 幕内在位:63場所
- 横綱在位:48場所
- 年間最多勝:1993年、2000年(共に76勝14敗)
- 三賞:殊勲賞4回、敢闘賞2回
- 金星:4個(旭富士2、大乃国、北勝海)
[編集] K-1への転向
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基本情報 | |
---|---|
本名 | 曙太郎 チャド・ローウェン・ジョージ・ハヘオ |
通称 | 第64代横綱 |
階級 | スーパーヘビー級(K-1) |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1969年5月8日(39歳) |
出身地 | アメリカ合衆国 ハワイ州 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | |
プロキックボクシング戦績 | |
総試合数 | 9 |
勝ち | 1 |
KO勝ち | 0 |
敗け | 8 |
引き分け | 0 |
無効試合 | 0 |
現役引退後は曙親方として東関部屋で後輩の指導をしていたが、東関親方との関係や将来設計に不安を抱き、2003年11月、日本相撲協会を退職し、格闘技K-1に参戦することを発表。大きな話題を呼ぶ。
2003年12月31日、デビュー戦となった「K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」(ナゴヤドーム)でボブ・サップと対戦、1ラウンドKO負けを喫する。うつ伏せになって倒れているシーンの視聴率は裏番組の紅白歌合戦を上回りテレビ史上初の快挙であった。ダウン姿は、かなり衝撃的なものとなった。
2004年3月27日、「K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMA」(さいたまスーパーアリーナ)で武蔵と対戦、プッシングでスリップダウンした武蔵に対しレフェリーの制止を振り切り攻撃し続けたため反則をカウントされ、判定負けを喫する(反則による減点を差し引いてもポイントで武蔵を下回るなど、試合展開そのものも武蔵の優勢だった)。
2004年7月17日、「アジアGPトーナメント」(韓国)で中国の張慶軍(チャン・チンジュン)と対戦するも手数が出ず延長の末判定負け。
2004年8月15日、「K-1 WORLD GP 2004 in LAS VEGAS」(ラスベガス)で行われた世界最終予選でリック・ルーファスと対戦。プッシングの反則で減点を受け、0-3の判定負けを喫した。
2004年9月25日、「K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦」(日本武道館)でレミー・ボンヤスキーと対戦。右ハイキックで失神KO負けを喫した。
2005年3月19日、「K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL」(韓国)の準々決勝で角田信朗と対戦し、判定で悲願の初勝利を挙げた。しかし準決勝でチェ・ホンマンと対戦し、KO負けを喫した。
2005年7月29日、「K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII」でチェ・ホンマンと再戦したが1R2分52秒TKO負けした。プロデューサーの谷川貞治は試合後の消極的なコメントに激怒し、K-1、総合(HERO'S)における曙のオファーを再起の意欲がない限り今後一切しないと公言。K-1からの一時撤退を余儀なくされる。
「50kg減量しなければK-1への出場は認めず、追放する」と通告され、佐山聡のもとで特訓し約30kgの減量に成功したと言う触れ込みで、2006年7月30日、チェ・ホンマンと3度目の試合を行った。試合当日には体重が約10kgリバウンドしており、これまで1RでKOされていたホンマン相手に初めて2Rへ持ち込んだが、2R57秒KO負け。試合後、再起へ前向きな姿勢を見せるも、谷川プロデューサーは「K-1への参戦はこれが最後になる」とコメントした。
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | イベント名 | 開催年月日 |
× | チェ・ホンマン | 2R 0:57 KO(パンチ連打) | K-1 REVENGE 2006 K-1 WORLD GP 2006 in SAPPORO 〜アンディ・フグ七回忌追悼イベント〜 | 2006年7月30日 |
× | チェ・ホンマン | 1R 2:52 TKO(パンチ連打) | FieLDS K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII | 2005年7月29日 |
× | チェ・ホンマン | 1R 0:42 TKO(タオル投入) | K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL 【ASIA GP 準決勝】 |
2005年3月19日 |
○ | 角田信朗 | 3R終了 判定3-0 | K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL 【ASIA GP 1回戦】 |
2005年3月19日 |
× | レミー・ボンヤスキー | 3R 0:33 KO(右ハイキック) | K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦 | 2004年9月25日 |
× | リック・ルーファス | 3R終了 判定0-3 | K-1 WORLD GP 2004 in Las Vegas | 2004年8月7日 |
× | 張慶軍(チャン・チンジュン) | 延長R終了 判定0-3 | K-1 WORLD GP 2004 in SEOUL 【ASIA GP 1回戦】 |
2004年7月17日 |
× | 武蔵 | 3R終了 判定0-3 | K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMA | 2004年3月27日 |
× | ボブ・サップ | 1R 2:58 KO | K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!! | 2003年12月31日 |
[編集] 総合格闘技
曙太郎 | ||||||||
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基本情報 | ||||||||
本名 | 曙太郎 チャド・ローウェン・ジョージ・ハヘオ |
|||||||
通称 | 第64代横綱 | |||||||
国籍 | 日本 | |||||||
誕生日 | 1969年5月8日(39歳) | |||||||
出身地 | アメリカ合衆国 ハワイ州 |
|||||||
所属 | チーム・ヨコヅナ | |||||||
身長 | 203cm | |||||||
体重 | 215kg | |||||||
階級 | ヘビー級(HERO'S) | |||||||
スタイル | 相撲 | |||||||
テーマ曲 |
2004年12月31日、「K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!」でホイス・グレイシーと初の総合格闘技ルールで対戦。ホイスとの体重差は実に138kgであったが、オモプラッタからリストロックを極められ、1Rでタップアウト負けを喫する。
2005年12月31日、「K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!」でボビー・オロゴンと総合格闘技ルールで対戦し、0-3で判定負け。
2006年5月3日、HERO'Sに参戦しドン・フライと対戦。ヒットアンドアウェイを狙わず正面からの撃ち合いを望む相手に対し、前進してコーナーに追いつめ体重をかけるだけの消極的なファイト。スタミナが切れた所を倒され、2R3分50秒フロントチョークで一本負け。
2006年12月31日、4度目の大晦日格闘技参戦となる「K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!」でジャイアント・シルバと総合格闘技ルールで対戦。何もできないまま1R1分2秒アームロックで一本負け。
総合格闘技 戦績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
4 試合 | (T)KO | 一本 | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 |
0 勝 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
4 敗 | 0 | 3 | 1 | 0 |
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | イベント名 | 開催年月日 |
× | ジャイアント・シルバ | 1R 1:02 アームロック | K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!! | 2006年12月31日 |
× | ドン・フライ | 2R 3:50 フロントチョーク | HERO'S 2006 | 2006年5月3日 |
× | ボビー・オロゴン | 3R終了 判定0-3 | K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!! | 2005年12月31日 |
× | ホイス・グレイシー | 1R 2:13 リストロック | K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!! | 2004年12月31日 |
[編集] プロレス
曙太郎 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 曙 グレート・ボノ モンスター・ボノ ボノちゃん |
本名 | 曙太郎 |
ニックネーム | 第64代横綱 |
身長 | 203cm |
体重 | 215kg |
誕生日 | 1969年5月8日(39歳) |
出身地 | ハワイ州・オアフ島 |
所属 | チーム・ヨコヅナ(FEG) |
スポーツ歴 | バスケットボール 大相撲 |
トレーナー | 仲山実 武藤敬司 長州力 |
デビュー | 2005年8月4日 |
- 2005年8月4日、「WRESTLE-1」でプロレスデビューし、グレート・ムタにムーンサルト・プレスで敗れる。
- 2005年8月9日、武藤をプロレスの師匠と仰ぎ、全日本プロレスに参戦することを発表。以後全日を「武藤部屋」と呼び始める。
- 2005年9月2日、全日本プロレス次期シリーズにも全試合帯同、参戦することを武藤に直訴。
- 2005年9月23日、シリーズ最終戦にて内舘牧子(横綱審議委員会委員)が武藤からの依頼で曙の見極め役として厳しい目で試合を審査した。
- 2005年10月2日、「WRESTLE-1 GP」にて三沢光晴とタッグで対戦(パートナーは曙がスコーピオ、三沢が小川良成)。
- 2005年11月19日の全日本プロレス代々木大会で、悪の化身「グレート・ボノ」として登場することを予告し、グレートムタ対グレートルタの試合の途中にグレート・ボノ姿で登場、VOODOO-MURDERSに襲撃されていたムタを救出した。武藤と組んで参戦した同年12月からの「世界最強タッグ決定リーグ戦」で準優勝。
- 2005年度の東京スポーツ主催のプロレス大賞で「最優秀タッグ賞」&「新人賞」を受賞。
- 2006年1月8日、武藤部屋を「一時卒業」して他団体マットへの参戦を発表。4日の新日本プロレス東京ドーム大会で吉江豊、同月22日にはプロレスリング・ノア武道館大会で力皇猛と夫々タッグを組んだ。吉江とのタッグの際は、前回の試合(2005年12月31日のボビー戦)から間があまり空いてなく、しかも緊急参戦だったために、動きが鈍かったが、力皇とのタッグでは彼の好アシストに助けられ善戦した。
- 2006年3月、両国でIWGP王者(当時)ブロック・レスナーに挑戦するもDDTで敗北。
- 2006年8月、新日横浜大会に、4代目タイガーマスクのタッグパートナーとしてボノ・タイガーなる巨漢のマスクマンが登場し、邪道・外道組と対戦した。試合中にマスクを剥がされると曙に瓜二つの素顔が現れたが、ボノ・タイガー、タイガーマスクの両名とも曙とは赤の他人であり、佐山聡門下の元ガス会社社員と主張している。
- 2007年2月17日武藤の呼掛けに応じ約1年振りに全日本プロレスへ参戦。大鷲透と組み、元WWEのスモー・リキシおよびジョニー・ダン(当初、リキシのパートナーは荒谷望誉であったが、試合直前に変更)と対戦した。試合は曙が64でダンを沈めて横綱の貫禄を示した。
- 2007年8月に開催された新日「G1クライマックス」に初参戦。8月18日曙に似た「モンスター・ボノ」なるレスラーがハッスルに登場。12月31日のハッスル大晦日大会に参戦し、グレート・ムタらとコンビを組んだ(尚、曙太郎は大晦日の格闘技イベントには出場せず)。
- 2008年からはモンスター軍を離れて「ボノちゃん」と改名。3月17日にボノちゃんが川田利明とシングルで対戦した。
- 2008年3月23日、ZERO1-MAXの奉納プロレス(靖国神社相撲場)で6人タッグに参戦。大相撲時代に行った奉納相撲(2000年3月)以来8年振りの靖国神社「凱旋」であった。
[編集] WWE
- 2005年3月29日、ヒューストンで行われた「WWE スマックダウン」でエディ・ベガス(ジョバー)に勝利。
- 2005年4月3日、ロサンゼルスで行われた「レッスルマニア21」で行われた相撲マッチにて、ビッグ・ショーに勝利。
- 2005年7月2日、さいたまスーパーアリーナで行われたハウスショー「WWEスーパーショー」で、ビッグショーとのコンビでカリート、マット・モーガン組に勝利。
[編集] 得意技
- 相撲
-
- 突き、押し、右四つ、寄り
- プロレス
-
- M(マグニチュード)64
- 腰投げをしつつ倒れこみ、そのまま相手をプレスする技。64は64代目横綱に由来する。
- ランニングボディプレス
- アケボノボンバー
- スクラップバスターと同型の技。WWEではサイドウォークスラムと呼ばれる技で、突っ込んできた相手を脇に抱えてから落とす。本人の体重が加わり、この技が決まるとリングが大きく揺れる。
- 日本バックドロップ
- フラッシングエルボー
- 武藤部屋に入り、武藤とのタッグを通じて覚えた技。
- ボノロック
- うつ伏せになった相手の手足を折りたたんで動けないようにし、相手の尻に座り込む。ミラノコレクションA.T.のパラダイスロックをそのままパクった。
- リキボノスプラッシュ63(力皇猛との合体技)
- 曙の上に力皇が乗っかり、ボディプレスを行う。仕掛ける際に曙が拍手を打ち、土俵入りのような仕種をするのが特徴。63は2人が初土俵を踏んだ昭和63年に由来する。
[編集] CM出演
- ほのぼのレイク(GEコンシューマー・ファイナンス)
[編集] 著作
- 『曙』 ぴあ 2004年2月、ISBN 4835609115
[編集] その他
- 右腕に「AKEBONO」のタトゥーを、左腕に「YOKOZUNA」のタトゥーを、足に綱のタトゥーを、右腕はハワイの民族模様をモチーフにしたデザインをアメリカの有名デザイナーTOKYO HIROが手がけた。
- はいているトランクスには雲竜型の土俵入りがデザインされていて、腰のゴムバンドの部分に妻と子供の名前の頭文字である「C」を4つ入れている。チームユニフォームもTOKYO HIROによってデザインされている。
- 愛車はフランス車のルノー・アヴァンタイム。彼が日本で最初のオーナーである。
- 1990年代前半、女性タレント相原勇と交際しており、結婚寸前まで行ったことがある。しかし1997年に破局。2000年には現夫人と結婚したが、後援会など支持団体が強く反対し、個人後援会は解散。以降資金難に苦しめられ、年寄名跡を取得できなかった。現在は3人の子供に恵まれている。
- 相撲をやっていたので前回り受身はできるが、後ろ受身は出来ないと告白したことがある。
- 格闘技に関しては賛否両論があるが、プロレスについては師匠である武藤も「オレも天才と言われるが、本当の天才は曙」とコメントしている。
- 普段は寡黙なイメージの曙であるが、全日参戦時にTARUから「札幌で負けたらマケボノに改名しろ!」と挑発された際に、「オイ、お前ら、うるさいんじゃい!札幌で叩きつぶしてやるから負けたら(TARUが率いるVMを)解散しろ!」と応戦している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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初代 - 10代 | 初代明石志賀之助 - 2代綾川五郎次 - 3代丸山権太左衛門 - 4代谷風梶之助 - 5代小野川喜三郎 - 6代阿武松緑之助 - 7代稲妻雷五郎 - 8代不知火諾右衛門 - 9代秀ノ山雷五郎 - 10代雲龍久吉 |
11代 - 20代 | 11代不知火光右衛門 - 12代陣幕久五郎 - 13代鬼面山谷五郎 - 14代境川浪右衛門 - 15代梅ヶ谷藤太郎 (初代) - 16代西ノ海嘉治郎 (初代) - 17代小錦八十吉 - 18代大砲万右エ門 - 19代常陸山谷右エ門 - 20代梅ヶ谷藤太郎 (2代) |
21代 - 30代 | 21代若嶌權四郎 - 22代太刀山峯右エ門 - 23代大木戸森右エ門 - 24代鳳谷五郎 - 25代西ノ海嘉治郎 (2代) - 26代大錦卯一郎 - 27代栃木山守也 - 28代大錦大五郎 - 29代宮城山福松 - 30代西ノ海嘉治郎 (3代) |
31代 - 40代 | 31代常ノ花寛市 - 32代玉錦三右エ門 - 33代武藏山武 - 34代男女ノ川登三 - 35代双葉山定次 - 36代羽黒山政司 - 37代安藝ノ海節男 - 38代照國万藏 - 39代前田山英五郎 - 40代東富士欽壹 |
41代 - 50代 | 41代千代の山雅信 - 42代鏡里喜代治 - 43代吉葉山潤之輔 - 44代栃錦清隆 - 45代若乃花幹士 (初代) - 46代朝潮太郎 - 47代柏戸剛 - 48代大鵬幸喜 - 49代栃ノ海晃嘉 - 50代佐田の山晋松 |
51代 - 60代 | 51代玉の海正洋 - 52代北の富士勝昭 - 53代琴櫻傑將 - 54代輪島大士 - 55代北の湖敏満 - 56代若乃花幹士 (2代) - 57代三重ノ海剛司 - 58代千代の富士貢 - 59代隆の里俊英 - 60代双羽黒光司 |
61代 - 69代 | 61代北勝海信芳 - 62代大乃国康 - 63代旭富士正也 - 64代曙太郎 - 65代貴乃花光司 - 66代若乃花勝 - 67代武蔵丸光洋 - 68代朝青龍明徳 - 69代白鵬翔 |
無類力士 | 雷電爲右エ門 |