鬼面山谷五郎
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鬼面山 谷五郎(きめんざん たにごろう、文政9年(1826年、文政8年説、文政12年説も)?-明治4年7月23日(旧暦)(1871年9月7日))は、江戸後期から明治初期にかけての相撲力士。第13代横綱。明治になって初めての横綱である。身長186cm、体重140kgと伝わる。
美濃国多芸郡(現・岐阜県養老郡養老町)出身。本名は田中新一(明治以降)。石屋に奉公していたときに見出され、嘉永5年(1852年)閏2月初土俵。安政4年(1857年)正月場所新入幕。徳島藩抱え力士として、陣幕久五郎、大鳴門灘右衛門、虹ヶ嶽杣右衛門とともに阿波の四天王と称された。しかし、その後同僚の陣幕が松江藩、さらに薩摩藩へと鞍替えしたため、慶応3年(1867年)4月場所7日目の鬼面山・陣幕の取組は遺恨試合の様相を呈した(詳しくは陣幕久五郎を参照)。慶応元年(1965年)11月場所3日目には当時前頭の両国梶之助との取組で仕切り直しがずっと続き大体二時間くらいしてから痛み分けという事になった(後に「仕切り帰し」と呼ばれる事になる一番)。明治2年(1869年)2月吉田司家より横綱免許。横綱免許時は43歳で、これは歴代横綱で最も高齢である。明治3年(1870年)11月場所限りで引退。幕内成績は27場所143勝24敗16分8預63休。優勝相当成績7回。引退後1年もたたずに没した。享年46歳。養老町鷲巣に生誕地の碑、埼玉県狭山市の徳林寺に墓所(子孫は武隈家を称する)がある。
温厚な人柄として知られ、その風貌には古武士の風格を漂わせていたと伝わる。「負けるのが怖くて仕掛けないのは相撲の常道ではない」というのが信条であったため、ときに取りこぼしをすることもあったが、「勝負は時の運」として意に介さなかったという。女性を近づけず酒は呑まず、稽古上がりにアサリを二百文買ってはちゃんこをするのが何よりの楽しみだったという。
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初代 - 10代 | 初代明石志賀之助 - 2代綾川五郎次 - 3代丸山権太左衛門 - 4代谷風梶之助 - 5代小野川喜三郎 - 6代阿武松緑之助 - 7代稲妻雷五郎 - 8代不知火諾右衛門 - 9代秀ノ山雷五郎 - 10代雲龍久吉 |
11代 - 20代 | 11代不知火光右衛門 - 12代陣幕久五郎 - 13代鬼面山谷五郎 - 14代境川浪右衛門 - 15代梅ヶ谷藤太郎 (初代) - 16代西ノ海嘉治郎 (初代) - 17代小錦八十吉 - 18代大砲万右エ門 - 19代常陸山谷右エ門 - 20代梅ヶ谷藤太郎 (2代) |
21代 - 30代 | 21代若嶌權四郎 - 22代太刀山峯右エ門 - 23代大木戸森右エ門 - 24代鳳谷五郎 - 25代西ノ海嘉治郎 (2代) - 26代大錦卯一郎 - 27代栃木山守也 - 28代大錦大五郎 - 29代宮城山福松 - 30代西ノ海嘉治郎 (3代) |
31代 - 40代 | 31代常ノ花寛市 - 32代玉錦三右エ門 - 33代武藏山武 - 34代男女ノ川登三 - 35代双葉山定次 - 36代羽黒山政司 - 37代安藝ノ海節男 - 38代照國万藏 - 39代前田山英五郎 - 40代東富士欽壹 |
41代 - 50代 | 41代千代の山雅信 - 42代鏡里喜代治 - 43代吉葉山潤之輔 - 44代栃錦清隆 - 45代若乃花幹士 (初代) - 46代朝潮太郎 - 47代柏戸剛 - 48代大鵬幸喜 - 49代栃ノ海晃嘉 - 50代佐田の山晋松 |
51代 - 60代 | 51代玉の海正洋 - 52代北の富士勝昭 - 53代琴櫻傑將 - 54代輪島大士 - 55代北の湖敏満 - 56代若乃花幹士 (2代) - 57代三重ノ海剛司 - 58代千代の富士貢 - 59代隆の里俊英 - 60代双羽黒光司 |
61代 - 69代 | 61代北勝海信芳 - 62代大乃国康 - 63代旭富士正也 - 64代曙太郎 - 65代貴乃花光司 - 66代若乃花勝 - 67代武蔵丸光洋 - 68代朝青龍明徳 - 69代白鵬翔 |
無類力士 | 雷電爲右エ門 |