白鵬翔
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白鵬翔 | |
---|---|
四股名 | 白鵬 翔 |
本名 | Mönkhbatyn Davaajargal |
生年月日 | 1985年3月11日 |
出身 | モンゴル・ウランバートル |
身長 | 192cm |
体重 | 156kg |
所属部屋 | 宮城野部屋 |
成績 | |
現在の番付 | 西横綱 |
最高位 | 第69代横綱 |
生涯戦歴 | 361勝135敗21休(44場所) |
幕内戦歴 | 267勝87敗21休(25場所) |
優勝 | 幕内優勝6回 十両優勝1回 |
賞 | 殊勲賞3回、敢闘賞1回、技能賞2回 |
データ | |
初土俵 | 2001年3月場所 |
入幕 | 2004年5月場所 |
備考 | |
金星1個(朝青龍) | |
2008年5月25日現在 | |
白鵬 翔(はくほう しょう、男性、1985年3月11日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋所属の現役大相撲力士。本名は Мөнхбатын Даваажаргал(Mönkhbatyn Davaajargal;ムンフバト・ダヴァジャルガル、Davaajargalは月曜日の幸福という意味)。得意技は右四つ、寄り、出し投げによる崩しも強烈。身長192cm、体重156kg。第69代横綱、好物は焼肉、嫌いなものはあんパン(餡が苦手)、趣味は読書、チェス、テレビゲームである、愛称は「ダヴァ」
目次 |
[編集] 来歴
父ジグジドゥ・ムンフバトはブフ(モンゴル相撲)で、5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(モンゴル相撲の横綱に相当)。メキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダリスト)となったモンゴル国の国民的英雄。母は元外科医。義父は実業家で、元朝青龍全国後援会長の和田友良。来日前にブフは10~12歳の時に遊びでやっていた程度で経験らしい経験はなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた。
大相撲で活躍していた同じモンゴル出身の旭鷲山をつてに、2000年10月25日に6人のモンゴル人と共に来日。大阪の摂津倉庫で相撲を習っていた。共に来日した猛虎浪(立浪部屋)、千昇(式秀部屋)、大河(式秀部屋)らの入門が決まるなか、小柄だった白鵬を受け入れてくれる部屋は最後までなかった。少年白鵬は当時日本語が分からなかった為か英語で"I don't want go back..."と言って泣いたという。その失意の帰国前日12月24日、彼を哀れんだ旭鷲山が師匠である大島(元大関・旭國)と会食中に相談し、大島親方は友人であった当時の宮城野(元幕内・竹葉山、現・熊ヶ谷)に受け入れを申し入れた。当時の宮城野部屋は文字通り弱小部屋だった為に厳しいしきたりも少なく、育ちの良い白鵬には伸び伸びとやれる環境で結果的に良かったのだとされる。こうした経緯から現在の師匠は宮城野(元十両・金親)だが、もともと熊ヶ谷親方の内弟子であり、故に専ら熊ヶ谷親方の指導を受けている。
こうして角界入りとなるものの、部屋の元幕下訪竜に「若くてすらっとしている子」という条件で連れてこさせた少年を見た宮城野は、父親の実績を知る由もなく、その小柄な体から大きな期待はしていなかったという。しかし一方で、大きな手足と腰、柔らかい筋肉などから、もしかしたら化けるかもしれないと思い、入門してからの2カ月間は稽古をさせず、毎日吐く程に食べさせ、牛乳を飲ませた。
四股名は、横綱大鵬と柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(十両・千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。2001年3月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌5月場所は身体の小ささもあり3勝4敗の成績で、後の横綱としては異例の序ノ口での負け越しを経験する。しかし、入門当時は身長175cm、体重68kgだった体は、食文化の違いを苦にせず大食漢だったことと熱心な稽古によって大きく成長し続けた。急激な肉体の成長と才能の開花に歩を合わせるかのように、番付を駆け上がっていく、そのスピード出世から一部では「恐ろしい子」と評された。
[編集] 十両
2003年11月場所では、東幕下9枚目で6勝1敗の好成績を上げ、関取の定員増もあり翌2004年1月場所に新十両に昇進し、翌場所、十両2場所目で追風海との優勝決定戦を制し優勝。十両はわずか2場所で通過。
[編集] 新入幕
2004年5月場所で新入幕となる。19歳1カ月での新入幕は貴花田(後の横綱・貴乃花)、北の湖、花田(後の大関・貴ノ花)に次ぐ当時史上4位の若さであった。その場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立ち合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で貴花田(後の横綱・貴乃花)の18歳 7ヶ月に次ぐ19歳 2ヶ月の若さで初三賞、敢闘賞を受賞した。新入幕での12勝は、15日制になってから歴代3位タイ。入幕を果たした際には「親方、一番強い人を倒したときの懸賞を持ってきます。待っていてください」と熊ケ谷親方と約束した。2004年九州場所11日目、白鵬は朝青龍を送り出しで破って初金星を獲得。その夜、この一番に掛かった懸賞を持って熊ケ谷親方の前にやってくると、「ここまで来られたのも親方のおかげです。受け取ってください」と差し出した。この懸賞は熊ケ谷親方の自宅の居間の一番見えるところに飾ってあるという。
[編集] 幕内
入幕1年目にして横綱最有力候補と目され、2005年3月場所には関脇に昇進し、直近の2場所で12勝・11勝を上げていた事から大関獲りの場所と目された。達成すれば貴乃花を上回る史上最年少での昇進となったものの序盤からまさかの3連敗で、終盤追い上げて8勝7敗と勝ち越しはしたものの、大関昇進を逃がした。
同年7月場所では7日目まで6勝1敗と優勝争いをしていたが、中日の普天王戦で左足関節靭帯損傷及び内反捻挫の怪我を負い、初土俵以来初めて休場し翌9月場所では、平幕落ちした。翌11月場所は、2場所ぶりに小結に復帰し9勝6敗。
[編集] 大関獲り
関脇に復帰した2006年1月場所では、12日目に朝青龍を小手投げで破る。千秋楽では大関昇進で先を越された琴欧州に寄り倒しで圧勝し、栃東との優勝決定戦を待ったが、栃東が朝青龍に勝ち優勝決定戦にはならなかった。この時初めて千秋楽まで優勝に絡んだ。
翌3月場所は、自身2度目の大関獲りの場所であった。11日目に全勝の横綱朝青龍との相星決戦で、左四つに組み合った後、左手で朝青龍の左ももを払いながらの上手出し投げで完勝し、大関昇進の基準といわれる33勝目をあげた。千秋楽では魁皇に敗れたが、優勝を争っていた朝青龍も栃東に敗れたため優勝決定戦で再び朝青龍と対戦。朝青龍に得意の右四つからの下手投げで敗れ優勝は逃したが、技能賞と殊勲賞を獲得するなど高く評価された。この一番はモンゴル国内において、瞬間視聴率は驚異の93パーセントを記録したとされる。
場所終了後の3月29日、日本相撲協会は大阪市内で番付編成会議を開き、白鵬の大関昇進を満場一致で決め、理事会で承認された。正使として友綱理事(元関脇・魁輝薫秀)、副使に春日山審判委員(元幕内・春日富士晃大)が、大阪府堺市の西本願寺堺別院に派遣された。師匠の宮城野(元十両・金親)夫妻とともに紋付き袴姿で出迎え、「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬように、全身全霊をかけて努力します。本日は誠にありがとうございます。」と昇進口上を述べた。
[編集] 大関
2006年5月場所の新大関で14勝1敗、本割で唯一負けた雅山との同点優勝決定戦で、取組前にかいた汗により雅山の突きが滑るという幸運にも恵まれて勝ち、新大関の勝ち星記録更新という快挙も成し遂げて初優勝を果たした。十二日目の帰りの車の中で「君が代」を教わり練習し、初優勝を果たした千秋楽では君が代を歌った。優勝パレードの旗手は、兄弟子の光法が務めた。
[編集] 綱獲り
2006年7月場所、初の綱獲り場所初日、朝赤龍、9日目に雅山に敗れたが、その後順調に勝ち星を積み重ね、千秋楽ではここまで全勝の朝青龍に気迫の寄り倒しで土をつけ13勝2敗で場所を終えた。
横綱昇進が有力視されたが、日本相撲協会の放駒審判部長(元大関魁傑)は、朝青龍の独走を許したという理由で、理事会の招集も横綱審議委員会への諮問も行わず、横綱推挙は見送られた。千秋楽後の朝青龍の優勝インタビューの際、NHKのアナウンサーが白鵬の横綱推挙が見送られたことを朝青龍に伝えると、会場は失望ともブーイングともつかぬ大きなため息に包まれた。番付上、東横綱・朝青龍と東大関・白鵬との対戦が組まれるのは千秋楽であるため、そこまで優勝争いがもつれなかったという意味で「独走を許した」という表現となった(14日目の時点では横綱が14勝0敗で優勝決定、白鵬が12勝2敗)。横綱昇進を見送られた白鵬は、モンゴルの温泉で疲れを取るため帰国した。
翌9月場所で再び綱獲りを目指したものの、初日に稀勢の里に敗れ、その際右膝を負傷。12日目でようやく勝ち越すが、その後千秋楽まで連敗。8勝7敗で横綱への挑戦は白紙に戻った。
翌11月場所は、場所直前の11月1日稽古場のある公園内の階段でトレーニング中つまずき、左足親指を怪我、翌日、左母趾基節骨遠位端骨折と診断され福岡市内の病院で手術(ボルトを入れ4針縫う)し入院。9日に抜糸し退院したが、同日宮城野親方が会見を開き、怪我の回復を優先させる事から休場を発表、初の全休となった。次の2007年1月場所は、自身初の角番であったが、12日目で8勝目を挙げ、角番を脱した。
3月場所は千秋楽の優勝決定戦で立合い変化で朝青龍を下し優勝。変化ということで内容が十分でないとの意見もあったが、翌5月場所は全勝優勝で満場一致の横綱推薦となり、横綱に昇進した。横綱土俵入りでは不知火型を選択、土俵入りの指導は元横綱・旭富士の安治川(当時。現在・伊勢ヶ濱)親方だった。
[編集] 横綱
7月場所は初の横綱としての土俵。16連勝でスタートしたが、10日目に琴光喜に敗れ25で連勝はストップ。12日目の魁皇戦では、土俵際で魁皇の突き落としが決まったように見えたが行司・木村庄之助の軍配は白鵬に上がった。物言いが付き差し違えとなると思われたが、放駒審判部長は取り直しと説明した。
この日の大相撲中継の解説であった北の富士勝昭、実況アナウンサーの刈屋富士雄も、魁皇の勝ちであるように見えたと発言している。この相撲で魁皇は負傷し、取り直しの一番は全く相撲にならず白鵬の勝利。翌日から魁皇は休場した。白鵬自身調子が狂ってしまったのか、翌13日目の琴欧洲と14日目の千代大海に敗れ、横綱として初の連敗を喫し、この時点で3敗に後退して3連覇の可能性が断たれた。
そして千秋楽には実に4年10か月振りとなる両横綱の対戦(2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花以来)で朝青龍に敗れ、3連敗を喫して11勝4敗に終わった。
翌9月場所はもう1人の横綱朝青龍が朝青龍自身の不祥事の為に出場停止処分となり、事実上1人横綱となった。初日に安馬に敗れ、中日までは安美錦を追う形となった。さらに11日目には豊ノ島に敗れ、新入幕の豪栄道に優勝争いのトップを明け渡してしまったものの、横綱としての責任を果たし、13勝2敗で横綱初優勝となる通算4度目の優勝を果たした。
11月場所では朝青龍の休場(出場停止)もあり、自身初の東横綱の座に就いたがこの場所も初日琴奨菊に敗れた。大関時代からなぜか初日に分が悪い。14日目に11勝2敗の相星対決で降した大関千代大海が右肘負傷により千秋楽を休場するアクシデントが発生した為、取組を待たずに5回目の優勝が決まった。その千秋楽結びの一番の琴光喜戦では下手投げで裏返しにされて敗れ、祝勝気分に自ら水を差した格好になった。なお、日本相撲協会によれば千秋楽に優勝を争う一方の力士が休場することによって幕内最高優勝が決まったのは、1927年(昭和2年)10月の不戦勝制度適用以来初めてのことだった。
2008年1月場所、初日から好調で優勝争いのトップを走った。そして西横綱朝青龍も負けじと白鵬に並走し、遂に2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花以来となる東西横綱同士の千秋楽相星決戦となった。注目の一番は白鵬が朝青龍を左上手投げで下し、3場所連続6度目の優勝を決め、幸先の良い一年のスタートとなった。
3月場所では4日目の平幕安美錦戦で早くも土がつき、12日目にも千代大海に敗れ、それまで全勝の朝青龍に引き離されていた。しかし朝青龍が12日目と13日目で土がつき、14日目の時点で両横綱共に2敗で並んだため、1995年3月 - 5月場所の貴乃花 - 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍に小手投げで敗れ、4連覇を逃した。
5月場所は9日目まで全勝だったが10日目の安馬戦で敗れた際に左足首を捻挫、その影響で再び優勝を逃して11勝4敗に終わる。尚千秋楽結びの一番で、朝青龍に引き落とされて両手を付いて敗れた後、横から駄目押しされたためか、白鵬が朝青龍に肩をぶつけ両者が睨み合うという事件を起こした。その翌日の5月26日、北の湖理事長は師匠である宮城野親方を国技館に呼び厳重注意、5月27日には当事者の白鵬と朝青龍に対してもそれぞれ口頭で厳重注意の処分となった。
[編集] 略歴
- 2001年3月場所 - 初土俵(一番出世)
- 2004年1月場所 - 新十両
- 2004年5月場所 - 新入幕
- 2005年1月場所 - 新小結
- 2005年3月場所 - 新関脇
- 2006年5月場所 - 新大関
- 2007年7月場所 - 新横綱
[編集] 幕内での場所別成績
2008年5月場所終了現在
場所 | 地位 | 勝数 | 敗数 | 休場 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
平成16年(2004年)5月 | 東前頭16枚目 | 12 | 3 | 0 | 新入幕、敢闘賞(初) |
平成16年(2004年)7月 | 東前頭8枚目 | 11 | 4 | 0 | - |
平成16年(2004年)9月 | 東前頭3枚目 | 8 | 7 | 0 | - |
平成16年(2004年)11月 | 西前頭筆頭 | 12 | 3 | 0 | 殊勲賞(初)、金星(朝青龍) |
平成17年(2005年)1月 | 西小結 | 11 | 4 | 0 | 新小結、技能賞(初) |
平成17年(2005年)3月 | 西関脇 | 8 | 7 | 0 | 新関脇 |
平成17年(2005年)5月 | 東関脇 | 9 | 6 | 0 | - |
平成17年(2005年)7月 | 東関脇 | 6 | 3 | 6 | 途中休場(左足関節靱帯損傷) |
平成17年(2005年)9月 | 西前頭筆頭 | 9 | 6 | 0 | - |
平成17年(2005年)11月 | 西小結 | 9 | 6 | 0 | - |
平成18年(2006年)1月 | 西関脇 | 13 | 2 | 0 | 殊勲賞(2) |
平成18年(2006年)3月 | 東関脇 | 13 | 2 | 0 | 殊勲賞(3)、技能賞(2) |
平成18年(2006年)5月 | 西大関3 | 14 | 1 | 0 | 新大関、優勝(初) |
平成18年(2006年)7月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | - |
平成18年(2006年)9月 | 東大関 | 8 | 7 | 0 | - |
平成18年(2006年)11月 | 西大関2 | 0 | 0 | 15 | 全休(左母趾基節骨遠位端骨折) |
平成19年(2007年)1月 | 西大関3 | 10 | 5 | 0 | 大関角番 |
平成19年(2007年)3月 | 西大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝(2) |
平成19年(2007年)5月 | 東大関 | 15 | 0 | 0 | 優勝(3) |
平成19年(2007年)7月 | 西横綱 | 11 | 4 | 0 | 新横綱 |
平成19年(2007年)9月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(4)〔横綱初優勝〕 |
平成19年(2007年)11月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝(5) |
平成20年(2008年)1月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(6) |
平成20年(2008年)3月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | - |
平成20年(2008年)5月 | 西横綱 | 11 | 4 | 0 | - |
通算 | 267 | 87 | 21 | 優勝6回、殊勲賞3回、敢闘賞1回、技能賞2回 |
[編集] 主な力士との幕内対戦成績
2008年5月場所終了現在
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|
普天王 | 6 | 1 | 旭天鵬 | 11 | 2 |
安美錦 | 8 | 2 | 琴欧洲 | 11 | 6 |
土佐ノ海 | 6 | 1 | 玉乃島 | 5 | 1 |
黒海 | 9 | 2 | 露鵬 | 5 | 0 |
豪風 | 4 | 1 | 時天空 | 10 | 1 |
北勝力 | 7 | 0 | 豊ノ島 | 6 | 1 |
高見盛 | 5 | 1 | 安馬 | 7 | 4 |
垣添 | 8 | 1 | 稀勢の里 | 8 | 3 |
出島 | 10 | 2 | 琴奨菊 | 10 | 1 |
栃乃洋 | 5 | 2 | 把瑠都 | 4 | 0 |
雅山 | 16 | 4 | 鶴竜 | 4 | 0 |
朝赤龍 | 8 | 2 | 豊真将 | 4 | 0 |
栃東 | 8(2) | 5 | 豪栄道 | 2 | 0 |
魁皇 | 14(1) | 4(1) | 海鵬 | 2 | 1 |
千代大海 | 13 | 6 | 若ノ鵬 | 2 | 0 |
武双山 | 2 | 0 | |||
琴光喜 | 13 | 8 | |||
朝青龍 | 6 | 12 | |||
岩木山 | 5 | 3 | |||
若の里 | 5 | 6 |
(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数、太字は2008年5月場所終了現在、現役力士)
[編集] 主な成績
2008年5月場所終了現在
- 通算成績:361勝135敗21休(44場所、勝率 0.728)
- 幕内成績:267勝87敗21休(25場所、勝率 0.754)
- 横綱成績:73勝17敗(6場所、勝率 0.811)
- 年間最多勝:2007年(74勝16敗)
- 三役在位:7場所(関脇5場所、小結2場所)
- 大関在位:7場所
[編集] 各段優勝
- 幕内最高優勝:6回(2006年5月場所、2007年3月場所、2007年5月場所=全勝、2007年9月場所、2007年11月場所、2008年1月場所)
- 十両優勝:1回(2004年3月場所)
[編集] 三賞・金星
- 殊勲賞:3回(2004年11月場所、2006年1月場所、2006年3月場所)
- 敢闘賞:1回(2004年5月場所)
- 技能賞:2回(2005年1月場所、2006年3月場所)
- 金星:1個(朝青龍)
[編集] 人物・エピソード
- あまりにもよく寝るため、部屋の兄弟子が「死んでいるのではないか」と心配したことがある。今でも一日16時間以上の睡眠は欠かさない。場所中以外は朝稽古の後、6時間も昼寝をする。夜も多い時には10時間寝る。初の綱獲り挑戦の2006年7月場所後は、16時間眠り続けた。
- 父のムンフバト氏によるとモンゴルの新聞では毎場所の様に、結婚の話題が出て既に20人近くと結婚した事になっている。
- 小さい頃、兄とタルバガンを獲りに行った時に、兄が獲物を銃で撃つ事に夢中で遠くに行ってしまい、羊の群れと一緒に草原に置き去りにされた。そこで羊を狙う狼とハゲワシと遭遇したが奇跡的に助かった。
- 幕下時代に朝帰りをし、宮城野親方(現熊ヶ谷親方)が激怒し破門寸前。土下座し謝り許しを得る。
- 入幕前、幕内で3場所33勝以上なら大関になれると勘違いしており、相撲記者に「三役で33勝」と教わったことがある。
- 大相撲中継で藤井康生アナウンサーが誤って熊ヶ谷親方の事を「白鵬の師匠の宮城野親方」と言い間違えた事がある。これは熊ヶ谷親方が以前宮城野を名乗っていたための間違い。また山口達也アナウンサーが「白鵬と同じ熊ヶ谷部屋で指導する」と言い間違えたこともある。それだけ師弟の関係が深いといえる。
- 週刊現代が現宮城野親方(元十両・金親和行)が朝青龍に2006年7月場所の八百長依頼をした疑惑を取り上げたが、そもそも記事内容自体白鵬が直接関与したようなものではない。この件は一連の報道の4件目の民事訴訟の告訴となった。また、協会は週刊現代の刑事告訴も行っている。
- 2007年7月よりはじまる一連の朝青龍騒動では同情的なコメントを寄せている。8月23日には朝青龍の外出について感想を求められて「いいんじゃないですか」と答え、朝青龍帰国に際しては「けがを治すなら、落ち着いてやるのがいい。体よりも心の痛みが強いと思う」と郷里の先輩を気遣った。
- 横綱になった年、本来は毎年開かれている歴代横綱親睦会が、時津風部屋の問題のあおりで中止(2000年以来2度目)になってしまった。本人は楽しみにしていた。
- 現在の妻と交際を始めた際、恋愛術の参考としていたのが「冬のソナタ」だった。
- 三段目時代の2002年名古屋場所で3勝4敗と負け越して以来、休場以外の皆勤負け越しがない、また皆勤して負け越したのは初番付の2001年夏場所と2002年名古屋場所の2場所だけである。
- 大関昇進前までは若の里に分が悪く、初顔合わせから6連敗をしていた、2008年初場所現在も対戦成績で5勝6敗と負け越している。
- また横綱昇進後は安馬に分が悪く、それまで初顔合わせから5連勝していたが横綱昇進後の成績に限ると2勝4敗となっている(2008年5月場所現在)。
- モンゴル出身力士の中では一番酒が強い力士でもある。
- 2008年4月1日のプロ野球公式戦「巨人対中日」(東京ドーム)において、始球式を務めた。背番号は第69代横綱に因んで「69」だった。
[編集] TV出演
- 2004年11月7日 - ジャンクSPORTS
- 2006年1月3日 - お正月スペシャル ものまねバトル 旭天鵬、朝赤龍と共に出演
- 2006年3月10日 - とくダネ! モンゴルの実家紹介
- 2006年4月23日 - ジャンクSPORTS
- 2006年4月23日 - ウチくる!?
- 2006年4月26日 - 横浜 - 阪神戦で始球式
- 2006年5月1日 - グレートマザー物語
- 2006年5月26日 - すぽると!
- 2006年6月13日 - BRAVO!
- 2006年6月20日 - BRAVO!
- 2006年6月22日 - 新どっちの料理ショー 〜ラーメン巌流島〜 夏の陣
- 2006年6月26日 - みのもんたの“さしのみ”
- 2006年7月28日 - にんげんドキュメント 白鵬〜“綱”に挑んだ15日〜 再放送:8月1日
- 2006年8月 - ポンキッキ タイトルコール
- 2006年10月1日 - 情熱大陸
- 2006年10月22日 - 素敵な宇宙船地球号 「台所から地球が見える」〜最強の乳酸菌を守れ!〜
- 2006年10月29日 - Music Lovers 安馬とゲスト出演
- 2006年12月18日 - Jリーグアウォーズ
- 2007年4月28日 - キャプテン☆ドみの
- 2007年7月3日 - 徹子の部屋
- 2007年8月5日 - ジャンクSPORTS
- 2008年2月4日 - SMAP×SMAP
- 2008年2月21日 - ダウンタウンDX
- 2008年5月9日 - さんまのまんま
- 2008年6月2日 - 関口宏の東京フレンドパーク2 内藤大助と登場。ホッケーでは7-1と圧勝、グランドスラム達成。パジェロ獲得。
[編集] CM出演
[編集] その他
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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初代 - 10代 | 初代明石志賀之助 - 2代綾川五郎次 - 3代丸山権太左衛門 - 4代谷風梶之助 - 5代小野川喜三郎 - 6代阿武松緑之助 - 7代稲妻雷五郎 - 8代不知火諾右衛門 - 9代秀ノ山雷五郎 - 10代雲龍久吉 |
11代 - 20代 | 11代不知火光右衛門 - 12代陣幕久五郎 - 13代鬼面山谷五郎 - 14代境川浪右衛門 - 15代梅ヶ谷藤太郎 (初代) - 16代西ノ海嘉治郎 (初代) - 17代小錦八十吉 - 18代大砲万右エ門 - 19代常陸山谷右エ門 - 20代梅ヶ谷藤太郎 (2代) |
21代 - 30代 | 21代若嶌權四郎 - 22代太刀山峯右エ門 - 23代大木戸森右エ門 - 24代鳳谷五郎 - 25代西ノ海嘉治郎 (2代) - 26代大錦卯一郎 - 27代栃木山守也 - 28代大錦大五郎 - 29代宮城山福松 - 30代西ノ海嘉治郎 (3代) |
31代 - 40代 | 31代常ノ花寛市 - 32代玉錦三右エ門 - 33代武藏山武 - 34代男女ノ川登三 - 35代双葉山定次 - 36代羽黒山政司 - 37代安藝ノ海節男 - 38代照國万藏 - 39代前田山英五郎 - 40代東富士欽壹 |
41代 - 50代 | 41代千代の山雅信 - 42代鏡里喜代治 - 43代吉葉山潤之輔 - 44代栃錦清隆 - 45代若乃花幹士 (初代) - 46代朝潮太郎 - 47代柏戸剛 - 48代大鵬幸喜 - 49代栃ノ海晃嘉 - 50代佐田の山晋松 |
51代 - 60代 | 51代玉の海正洋 - 52代北の富士勝昭 - 53代琴櫻傑將 - 54代輪島大士 - 55代北の湖敏満 - 56代若乃花幹士 (2代) - 57代三重ノ海剛司 - 58代千代の富士貢 - 59代隆の里俊英 - 60代双羽黒光司 |
61代 - 69代 | 61代北勝海信芳 - 62代大乃国康 - 63代旭富士正也 - 64代曙太郎 - 65代貴乃花光司 - 66代若乃花勝 - 67代武蔵丸光洋 - 68代朝青龍明徳 - 69代白鵬翔 |
無類力士 | 雷電爲右エ門 |