安藝ノ海節男
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安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお、1914年5月30日 - 1979年3月25日)は大相撲の第37代横綱。広島県広島市宇品町(現・広島市南区宇品御幸)出身。双葉山の70連勝を阻止、69連勝で止めた「世紀の一番」で知られるが、自身も風格ある土俵態度で人気のある名横綱となった。本名は永田節男、四股名は「せつお」だが本名は「たかお」と読む。現役時代の体格は177cm、127.5kg。
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[編集] 経歴
[編集] 打倒双葉山~研究の日々
昭和7年(1932年)2月場所に出羽海部屋から初土俵。順調に昇進して昭和11年(1936年)1月場所に新十両、昭和13年(1938年)1月場所、23歳で入幕した。
当時の出羽海部屋では、打倒双葉を目指して場所ごとに作戦会議を開いたという。当時の力士たちの語るところでは、そんなことはなかったというのだが、特別に銘打った会議を持つことはなくても、双葉山対策を入念に語り合ったのは確かだろう。
その中から、「どうやら双葉山は右に食いつかれるのを嫌がる」「無理な投げを打って体勢をくずすこともあるので、そこを掬うか足を掛けるかしてはどうか」という作戦が生まれた。
また、それまで何度も双葉山と対戦したことのある力士では、弱点もよく知られているだろうから、入幕して初の上位挑戦であり、なおかつ前年の満州巡業のときに、双葉山からけいこ相手に指名されながらも体調不良で断り、その夜のうちに入院(盲腸炎だと伝わる)して、結果的にけいこでも取り組んだことのない安藝ノ海が打倒双葉の期待を担っていたのだった。同じ場所の初日に双葉山と当たった五ツ嶋が、「俺なんかダメだが、うちの安藝ノ海は面白いよ」と語ったことも、後で「世紀の予言」と語り草になった。
[編集] 国技館が震えた~世紀の一番
昭和14年(1939年)1月場所4日目の「世紀の一番」は、まさにこの作戦会議通りの展開であった。
行司式守伊之助の軍配が返るや突っかけた安藝は頭を下げながら突っ張った。双葉も小刻みに突っ張り返して応戦、得意の右差しに持ち込み右を覗かせてきた。左差しで食い下がろうと考えていた安藝は目論見が外れたが逆に右前褌を取って食い下がる型に入った。両廻しを取れない双葉は強引に右から掬ったが、逆に腰が伸びた。
土俵下力士溜まりの笠置山は心中、「今だ、今だ!」と絶叫したという。ところがなかなか安藝ノ海の脚が飛ばない。後年、「あれだけ入念に作戦を練って、まさにその通りになっても、なかなかおもうようにいかないのだから、相撲はわからない。あの安藝ノ海をしてそうなのだから」と述懐した。が、ついにその左外掛けで双葉の牙城を崩す。二回目の掬い投げを打とうと双葉が右足を踏み込んだその瞬間、ついに安藝の左足が飛んだ。ぐらついた双葉が掛けられた足を振り払い起死回生の右下手投げを打つが、安藝は右足一本でこらえて体を浴びせ、遂に双葉が土俵中央に倒れた。
世紀の一瞬に両国国技館は比喩でなくその天井が大歓声によってふるえたという。実況を担当していたNHKアナウンサーは、後ろの席にいた先輩アナウンサーに「双葉山負けたね? 双葉山負けたね?」と繰り返し確認した後、「双葉散る! 双葉散る! 旭日昇天まさに69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭安藝ノ海の左外掛けに散る! 時に、昭和14年1月15日、双葉山70連勝ならず!まさに七十、古来やはり稀なり!」と絶叫した。
かくて双葉山の70連勝を阻止、一躍英雄となる。当時の両国国技館から出羽海部屋までは、歩いて5分ほどだったが、観衆にもまれ、たどり着くのに30分かかり、到着したときに足元を見ると雪駄が片方消えていたという。故郷には「オカアサンカツタ」の電文を打った。師匠出羽海(元小結両國)や、入門の時世話になった藤嶌からは、「勝って褒められるより、負けて騒がれるようになれ」とさとされた。なおこの一番は結び前の取り組みであることを知らなければならない。
この一番は日本スポーツ史上で最初の号外として伝えられた、と言われている。しかし、多くの好角家の捜索にもかかわらず、この号外の紙面は現存しない。
[編集] 名横綱~「世紀の一番」を糧に
「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」と稽古に励み、昭和18年(1943年)1月照國と同時に横綱昇進。のちのちまで「横綱になれたのは、あの一番があったから」と述懐した。一方で「なんとかもう一度」と挑んだ双葉には、その後9連敗と二度と勝てなかった。「双葉関は相手が誰でも変わらぬ相撲を取った人だが、自分に対してだけは特別な感情があるように感じた」とこれを誇りにした。
現役を通して唯一の金星が双葉山を倒した一番だった。また幕内在位18場所で皆勤して負け越したのは実質の最終場所になった昭和20年(1945年)11月場所と、双葉山を倒した場所だけだった。
優勝は1回だが、これは関脇時代の昭和15年(1940年)5月場所、14勝1敗で記録したものだった。ほかにも、大関時代の昭和17年(1942年)5月場所は、14日目まで13勝1敗で優勝争いの首位にいたが、千秋楽に2敗の横綱双葉山に敗れ、当時の上位優勝制度のために優勝は双葉山にさらわれてしまうということもあり、優勝決定戦があればもう少し優勝の機会もあったかもしれない。
左四つを得意とし、前褌を取って食い下がり右を押っつけながら攻める速攻相撲。突っ張りや出し投げもあり一番相撲の名人とも呼ばれた。非力だったが「相手はみんなウジ虫だと思って土俵に上った」と後年自身が語るほど負けん気の強い人物でもあった。
[編集] その後
常ノ花の娘と結婚し年寄名跡藤嶋を継承、当然次の出羽海親方の有力候補だったが離婚問題で平年寄に降格されると廃業してしまった。晩年、NHK大相撲中継のゲスト解説にたびたび登場した。
安藝ノ海の実家は、広島市の海岸沿い、宇品港の近くにあった。戦時中、日本陸軍の兵隊は皆この港から外地へ送られた。そういう人達を相手にする色街に安藝ノ海は生まれた。実家で母親が長らく駄菓子屋を営み、近所の子供達のたまり場となっていたが、近年高速道路建設による立ち退きで消失した。
[編集] 主な成績
- 幕内在位:18場所(うち横綱8場所、大関4場所、関脇2場所)
- 幕内通算成績:142勝59敗38休 勝率.706
- 横綱通算成績:38勝19敗38休 勝率.667
- 幕内最高優勝:1回(1940年1月場所)
- 金星:1個(双葉山)
[編集] 関連項目
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初代 - 10代 | 初代明石志賀之助 - 2代綾川五郎次 - 3代丸山権太左衛門 - 4代谷風梶之助 - 5代小野川喜三郎 - 6代阿武松緑之助 - 7代稲妻雷五郎 - 8代不知火諾右衛門 - 9代秀ノ山雷五郎 - 10代雲龍久吉 |
11代 - 20代 | 11代不知火光右衛門 - 12代陣幕久五郎 - 13代鬼面山谷五郎 - 14代境川浪右衛門 - 15代梅ヶ谷藤太郎 (初代) - 16代西ノ海嘉治郎 (初代) - 17代小錦八十吉 - 18代大砲万右エ門 - 19代常陸山谷右エ門 - 20代梅ヶ谷藤太郎 (2代) |
21代 - 30代 | 21代若嶌權四郎 - 22代太刀山峯右エ門 - 23代大木戸森右エ門 - 24代鳳谷五郎 - 25代西ノ海嘉治郎 (2代) - 26代大錦卯一郎 - 27代栃木山守也 - 28代大錦大五郎 - 29代宮城山福松 - 30代西ノ海嘉治郎 (3代) |
31代 - 40代 | 31代常ノ花寛市 - 32代玉錦三右エ門 - 33代武藏山武 - 34代男女ノ川登三 - 35代双葉山定次 - 36代羽黒山政司 - 37代安藝ノ海節男 - 38代照國万藏 - 39代前田山英五郎 - 40代東富士欽壹 |
41代 - 50代 | 41代千代の山雅信 - 42代鏡里喜代治 - 43代吉葉山潤之輔 - 44代栃錦清隆 - 45代若乃花幹士 (初代) - 46代朝潮太郎 - 47代柏戸剛 - 48代大鵬幸喜 - 49代栃ノ海晃嘉 - 50代佐田の山晋松 |
51代 - 60代 | 51代玉の海正洋 - 52代北の富士勝昭 - 53代琴櫻傑將 - 54代輪島大士 - 55代北の湖敏満 - 56代若乃花幹士 (2代) - 57代三重ノ海剛司 - 58代千代の富士貢 - 59代隆の里俊英 - 60代双羽黒光司 |
61代 - 69代 | 61代北勝海信芳 - 62代大乃国康 - 63代旭富士正也 - 64代曙太郎 - 65代貴乃花光司 - 66代若乃花勝 - 67代武蔵丸光洋 - 68代朝青龍明徳 - 69代白鵬翔 |
無類力士 | 雷電爲右エ門 |