吉葉山潤之輔
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吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ、本名:池田 潤之輔(いけだ じゅんのすけ)、1920年(大正9年)4月3日 - 1977年(昭和52年)11月26日)は、北海道厚田郡厚田村(現、石狩市)出身の大相撲力士、第43代横綱。身長179cm、体重143kg。
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[編集] 人物
[編集] 大相撲入門
幼少時は裕福だった網元の家庭だが3年続けての業績不振により倒産、北海道製糖(現日本甜菜製糖)に就職するが、「学歴がなくては出世は無理」と考え、勉学に励もうと一念発起して列車に乗って上京、この時近くに大きな体をした少年がいたらしいが途中で姿を消してしまう。上野駅に到着すると力士2名に出迎えられ高島部屋に連れて行かれた。実はさっき姿を消した大きな少年(結局この少年は上京を中止した)が高島部屋に入門を希望していたのだが、彼と間違われて連れて行かれたのだ。部屋で人違いであることを説明したが、高島親方夫人に説得されそのまま入門した。四股名は北海道製糖に因み北糖山にした。
1938年(昭和13年)に盲腸炎(虫垂炎か?)を患い、生命も危なかったが、吉葉庄作医師の手で全快し恩に報いるべく四股名を吉葉山に改名した。だが十両昇進目前の1942年(昭和17年)に軍隊に応召し、戦地で少なくとも銃弾2発の命中を受ける。このうち1発は貫通だった。本土には死んだとの情報まで伝わり部屋の名簿からも名前が消されていたが1946年(昭和21年)6月になってようやく復員することが出来た。
[編集] 復員後
4年にわたって戦場におり、死んだとの情報が入っていたことも関係し、痩せこけて帰ってきたときは玄関番に幽霊と間違われたという。その後は胃袋とあだ名されるほどに食事を摂り、人一倍稽古もして失なわれた4年間を取り戻すべく必死だった。
1950年(昭和25年)9月場所、新三役の場所で13勝2敗の成績を挙げたが、優勝決定戦では本割でも負けた相手である照國に敗れた。翌場所も13勝2敗であったが、今度は照國が全勝した。しかし、関脇で2場所連続13勝が評価され大関になる。皆勤すれば必ず2桁勝てる実力があり横綱昇進を期待されたが、優勝がなくなかなか届かなかった。1953年(昭和28年)5月場所では14勝1敗であったが、平幕の時津山が全勝した。このように、吉葉山の土俵人生には悲劇が纏わり付いていた。
[編集] 涙の初優勝、そして横綱昇進
1954年(昭和29年)1月場所、全勝で悲願の初優勝、大雪の中の優勝行進(現在の優勝パレード)は「雪の全勝行進」と呼ばれ全国から集まったファンが大喜びでその姿を見送った。その興奮ぶりは後の貴ノ花や千代の富士の初優勝、若貴フィーバーにも匹敵するものであったという。
成長途上に兵役にとられた悲運、復員したものの兵役前の番付が考慮されなかった悲運、兵役中受けた銃創が尾を引き肝心なところで怪我に泣く悲運、小部屋の悲運、ライバル鏡里と比べて強豪と当たることの多かった(当時は系統別総当たり制だが部屋により対戦相手に違いがあった)悲運、照國と優勝決定戦になったものの大関昇進が即決されなかった悲運、14勝を挙げながら平幕下位の時津山に全勝で優勝をさらわれる悲運、これらいわゆる“7つの悲運”を乗り越え晴れて横綱になった。
しかし新横綱の場所を休場、その後も貫通銃創の後遺症と足首に入ったままの銃弾の影響で思うように白星を稼げず結局2度と賜杯を抱くことはできなかった。
当時の人気俳優・市川右太衛門ばりの美男力士として大変人気が高かった。筋骨隆々たる巨体が見せる不知火型の土俵入りは美しかった。左四つ得意だったが力任せの取り口が目立ち、蹴手繰りの奇手を見せることも多かった。
若い頃から出世を争い新大関は同時、横綱昇進も非常に近かった鏡里との対戦は、美しさなら往年の梅ヶ谷・常陸山のそれと対比され、特に人気を呼んだ。全勝優勝を決めた千秋楽の相手も鏡里だった。1958年(昭和33年)1月場所、この場所絶不調の吉葉山は中日を終えて3勝5敗、そのまま引退した。この時5勝3敗だった鏡里は「10番勝てなかったらやめる」と発言、9勝6敗で終わり惜しむ声もある中で本当に引退、偶然にも2人の引退は同時となった。
[編集] 引退後
現役時代から当時の一代年寄制度を利用して総檜造の吉葉山相撲道場を設立した。引退後に年寄宮城野の名跡を譲られ、宮城野部屋と改称する。後進の指導には非常に熱心で、部屋の師匠として明武谷・陸奥嵐・廣川ら8人もの関取を育てた。
また日本相撲協会理事として審判部長などを務めた。若い頃から扁桃腺に持病があって、並居る力士の中でも吉葉山はとりわけ濁声で知られていたが、審判部長の職責を授かるにあたり手術に踏み切って治癒させた。
1977年(昭和52年)11月26日、腎不全のため死去。享年57歳。
日本相撲協会はその年の12月23日、吉葉山の日本相撲協会葬を執り行い、戦後の大相撲復興の象徴でもあった彼の功績を称えた。
2007年(平成19年)5月、白鵬翔が連続優勝を果たして史上69人目の横綱に昇進した際、土俵入りの型は吉葉山が行った不知火型を継承した。同年6月1日明治神宮で行われた奉納土俵入りでは、吉葉山が現役当時に着けていた三つ揃えの化粧廻しを使用した。
なお、吉葉山が道場時代から使っていた宮城野部屋の建物はその後相撲料理店「吉葉」となり、稽古土俵が現在も残っている。
この力士に関しては後に相撲解説で有名になる神風正一もその素質を認めており、新入幕の時には「もし兵隊に取られてなかったら今頃は大関だろう」と言ったと伝わる。大横綱になるべくしてなれなかった人は何人もいるが、彼はその中でも非常に惜しまれる部類に入るだろう。
[編集] 主な成績
- 幕内在位:37場所(横綱17場所、大関10場所、関脇2場所)
- 幕内通算成績:304勝151敗1分85休 勝率.668
- 横綱通算成績:109勝67敗79休 勝率.619
- 幕内最高優勝:1回(全勝)
- 同点1回、次点5回
[編集] 関連
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初代 - 10代 | 初代明石志賀之助 - 2代綾川五郎次 - 3代丸山権太左衛門 - 4代谷風梶之助 - 5代小野川喜三郎 - 6代阿武松緑之助 - 7代稲妻雷五郎 - 8代不知火諾右衛門 - 9代秀ノ山雷五郎 - 10代雲龍久吉 |
11代 - 20代 | 11代不知火光右衛門 - 12代陣幕久五郎 - 13代鬼面山谷五郎 - 14代境川浪右衛門 - 15代梅ヶ谷藤太郎 (初代) - 16代西ノ海嘉治郎 (初代) - 17代小錦八十吉 - 18代大砲万右エ門 - 19代常陸山谷右エ門 - 20代梅ヶ谷藤太郎 (2代) |
21代 - 30代 | 21代若嶌權四郎 - 22代太刀山峯右エ門 - 23代大木戸森右エ門 - 24代鳳谷五郎 - 25代西ノ海嘉治郎 (2代) - 26代大錦卯一郎 - 27代栃木山守也 - 28代大錦大五郎 - 29代宮城山福松 - 30代西ノ海嘉治郎 (3代) |
31代 - 40代 | 31代常ノ花寛市 - 32代玉錦三右エ門 - 33代武藏山武 - 34代男女ノ川登三 - 35代双葉山定次 - 36代羽黒山政司 - 37代安藝ノ海節男 - 38代照國万藏 - 39代前田山英五郎 - 40代東富士欽壹 |
41代 - 50代 | 41代千代の山雅信 - 42代鏡里喜代治 - 43代吉葉山潤之輔 - 44代栃錦清隆 - 45代若乃花幹士 (初代) - 46代朝潮太郎 - 47代柏戸剛 - 48代大鵬幸喜 - 49代栃ノ海晃嘉 - 50代佐田の山晋松 |
51代 - 60代 | 51代玉の海正洋 - 52代北の富士勝昭 - 53代琴櫻傑將 - 54代輪島大士 - 55代北の湖敏満 - 56代若乃花幹士 (2代) - 57代三重ノ海剛司 - 58代千代の富士貢 - 59代隆の里俊英 - 60代双羽黒光司 |
61代 - 69代 | 61代北勝海信芳 - 62代大乃国康 - 63代旭富士正也 - 64代曙太郎 - 65代貴乃花光司 - 66代若乃花勝 - 67代武蔵丸光洋 - 68代朝青龍明徳 - 69代白鵬翔 |
無類力士 | 雷電爲右エ門 |
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