照國万藏
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照國 万藏(てるくに まんぞう、1919年1月10日 - 1977年3月20日)は、大相撲の第38代横綱。秋田県雄勝郡雄勝町(現湯沢市)出身。本名は菅 萬藏(のちに大野 萬藏)。全盛期の体格は173cm、161kg。
当時数多くの最年少記録を書き換えた名横綱である。四股名は同郷で同部屋の國光を逆にしたのが元であるという。最初はなかなか番付が上がらず苦労していたが、兄弟子にエビオスの服用を勧められてから強くなったらしい。それからは師匠伊勢ヶ濵と兄弟子幡瀬川の指導で順調に出世した。入門後しばらく清美川とともに幡瀬川の家に住み、のちに幡瀬川の養子となるが、その幡瀬川は「照国は私の最高の芸術作品だよ」と周囲に語ったという。照國は清瀬川の縁戚だったことから、養子縁組を聞いた清瀬川は激怒したと伝わる。
昭和14年(1939年)1月場所で新入幕、11勝4敗の好成績で注目される。翌場所横綱男女ノ川から金星を奪い12勝3敗、入幕から僅か所要2場所で小結を飛び越して関脇になった。それから3場所を11勝4敗、12勝3敗、13勝2敗で大関、新大関でも12勝3敗の好成績を上げた。大関2場所目この場所の番付を見た照國は仰天した。それまで双葉山と同じ片屋にいたがこの場所は反対側に回されていた。本人いわく「こっちに回ったら双葉山に勝たないと横綱にはなれない、でも自分には到底勝てそうにない」ということだったらしいが14日目、その双葉山をすくい投げで倒して12勝2敗、番付上位優勝の時代であり千秋楽を迎えた時点で張出大関の照國に優勝の可能性はもうなかった。結局1敗の正位大関安藝ノ海と2敗の横綱双葉山の対戦で優勝が決まることになり双葉山が勝って両者13勝2敗となり双葉山の優勝、照國は前田山を倒して13勝2敗、安藝ノ海と照國は優勝同点。ここまで照國に優勝経験はないが成績の安定と双葉山を倒した星が買われて事実上の優勝者と判定されたのか場所後安藝ノ海と同時に横綱免許を獲得、最年少横綱の記録を更新した。当時はまだ優勝決定戦がなく同点者は番付上位が優勝の時代、こういう考え方は過去にも多く存在した。
新横綱の場所、双葉山に負けて14勝1敗、双葉山が全勝のため惜しくも初優勝を逸する。その後も成績は安定しているが折しも第二次大戦による食糧事情の悪化に加え敗戦による影響もあって体重が激減したり糖尿病や左膝等の故障が多発し、優勝はなかなかできなかった。それでも昭和25年(1950年)9月場所、13勝2敗で関脇吉葉山との決定戦を制して悲願の初優勝、翌昭和26年(1951年)1月場所には全勝優勝、この連覇により「優勝なき横綱」の汚名を返上した。昭和26年1月の全勝優勝は優勝額復活第1号を飾ることになった。この時賜杯を抱き優勝額(全勝額)をバックに撮影された写真が現存する。その後は良かったほうの右膝が故障して優勝はなかったが最後まで成績の安定は変わらなかった。15日皆勤すれば10勝できない場所など1度もなかったというのはそうそう真似のできるものではなく、10勝5敗でさえ晩年に2度(うち1度は千秋楽不戦敗)記録したのみで後は11勝以上している。見方によっては戦争の影響で15日の本場所を打てない時期と不調の時期が重なったと言えなくもない。
相撲人形のような色白の巨体が徐々に赤みをさしていく様とリズミカルな取り口から「桜色の音楽」と呼ばれた。太鼓腹が土俵につきそうなほどに低い平蜘蛛型の仕切りからの突き押しと出足は双葉山でも捌くのに苦労した程で、対双葉山戦3勝2敗という対戦成績にも現れている。双葉山が若い頃の第一人者で、双葉山が横綱免許を獲得した翌年に亡くなった玉錦と、横綱時代は休場ばかりだった武藏山を除けばただ1人双葉山に勝ち越した力士である。双葉山が横綱になってから3回負けたのも横綱同士の対戦で負けたのも彼だけだった。重心が低く足腰が柔らかく、下手に吊り上げたりすれば43貫(161kg)の体重が相手に被さり押し潰されてしまったという。もし戦前から三賞があれば大関になるまでの5場所中3~4場所は間違いなく受賞していたことだろう。ただし羽黒山には少々分が悪かったらしい。肥満体になったのは三段目の頃に心臓病を患い、医師から激しい稽古を止められたためとも言われている。
優勝回数は力士の強さを表すのによく用いられる指標だが、照國はその数字よりずっと強かったことは誰しも認めざるを得ないと思われる。
照國は人気も高かったがそれを表すものの中にあだ名の多さがある。ただし中には嬉しくないものもあった。その1つとして「ゆるふん」がある。取組の最中にまわしが緩みやすいことからつけられたのだがそれでも本人曰くよく締まるように水の含ませ方にも注意してきつく締めているのだという。また、現役時代に、漫画サザエさんで当時の横綱として描かれたことがあった。
引退後は年寄荒磯を襲名、師匠から全弟子を譲り受けて荒磯部屋の看板を掲げ、師匠の停年後は伊勢ヶ濱の名跡ももらいうけ、伊勢ヶ濱部屋を経営した。稽古土俵を2面設けるなどの新しい方式を打ち出すなど、部屋の興隆につくし、また郷里秋田県を中心にスカウト活動も広げ、秋田県出身の大関清國勝雄、関脇開隆山勘之亟をはじめとして何人もの幕内力士を育てた。協会理事としても、長く大阪場所部長をつとめた。
[編集] 主な成績
- 幕内在位: 32場所(関脇3場所、大関2場所、横綱25場所)
- 幕内通算成績: 271勝91敗74休 勝率.749
- 横綱通算成績: 187勝70敗74休 勝率.728
- 幕内最高優勝: 2回(全勝1回)
- 金星: 1個(男女ノ川)
[編集] 関連項目
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初代 - 10代 | 初代明石志賀之助 - 2代綾川五郎次 - 3代丸山権太左衛門 - 4代谷風梶之助 - 5代小野川喜三郎 - 6代阿武松緑之助 - 7代稲妻雷五郎 - 8代不知火諾右衛門 - 9代秀ノ山雷五郎 - 10代雲龍久吉 |
11代 - 20代 | 11代不知火光右衛門 - 12代陣幕久五郎 - 13代鬼面山谷五郎 - 14代境川浪右衛門 - 15代梅ヶ谷藤太郎 (初代) - 16代西ノ海嘉治郎 (初代) - 17代小錦八十吉 - 18代大砲万右エ門 - 19代常陸山谷右エ門 - 20代梅ヶ谷藤太郎 (2代) |
21代 - 30代 | 21代若嶌權四郎 - 22代太刀山峯右エ門 - 23代大木戸森右エ門 - 24代鳳谷五郎 - 25代西ノ海嘉治郎 (2代) - 26代大錦卯一郎 - 27代栃木山守也 - 28代大錦大五郎 - 29代宮城山福松 - 30代西ノ海嘉治郎 (3代) |
31代 - 40代 | 31代常ノ花寛市 - 32代玉錦三右エ門 - 33代武藏山武 - 34代男女ノ川登三 - 35代双葉山定次 - 36代羽黒山政司 - 37代安藝ノ海節男 - 38代照國万藏 - 39代前田山英五郎 - 40代東富士欽壹 |
41代 - 50代 | 41代千代の山雅信 - 42代鏡里喜代治 - 43代吉葉山潤之輔 - 44代栃錦清隆 - 45代若乃花幹士 (初代) - 46代朝潮太郎 - 47代柏戸剛 - 48代大鵬幸喜 - 49代栃ノ海晃嘉 - 50代佐田の山晋松 |
51代 - 60代 | 51代玉の海正洋 - 52代北の富士勝昭 - 53代琴櫻傑將 - 54代輪島大士 - 55代北の湖敏満 - 56代若乃花幹士 (2代) - 57代三重ノ海剛司 - 58代千代の富士貢 - 59代隆の里俊英 - 60代双羽黒光司 |
61代 - 69代 | 61代北勝海信芳 - 62代大乃国康 - 63代旭富士正也 - 64代曙太郎 - 65代貴乃花光司 - 66代若乃花勝 - 67代武蔵丸光洋 - 68代朝青龍明徳 - 69代白鵬翔 |
無類力士 | 雷電爲右エ門 |