丸山権太左衛門
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丸山 権太左衛門(まるやま ごんだざえもん、1713年(正徳3年) - 1749年12月23日(寛延2年11月14日))は、大相撲の力士。現在公認されている横綱の中では3代目に数えられるが、順序が逆で2代目とする説もある。いずれにせよ、横綱としての実質がなかったのは2代綾川と同様である。本名は芳賀銀太夫、俳号は巴重。身長197cm、体重170kgと伝わる。手のひらの大きさは幅12.8cm、中指の先から掌底までは22.5cmもあったという。
陸前国遠田郡中津山村(現在の宮城県登米市米山町中津山)出身。元文年間頃に初土俵。家老衆の家来になって江戸見物に出たのはいいが体が重く歩くのがヘタだったため、二足用意した草鞋をすぐ踏みつぶしては徹夜で編み直すはめになり、馬に乗せれば足が地に着いてしまうありさま。やっとの思いで江戸には着いたがこれでは故郷に帰るのもおぼつかない、というのが入門のいきさつだったといわれる。1749年(寛延2年)の長崎巡業の際に現役のまま没した。死因となった病気は恐らく赤痢と言われている。享年37歳。
なお、横綱免許とされている1749年は実際には吉田司家故実門人になった時を指す。実力自体は現在の基準に当てはめれば横綱でも文句がなかったほどだったと言われる。
逸話に、怪力で五斗俵(約75kg)に筆を差し込んで文字を書いたといわれる。「ひと握り いざ参らせん 年の豆」という句が知られている。
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初代 - 10代 | 初代明石志賀之助 - 2代綾川五郎次 - 3代丸山権太左衛門 - 4代谷風梶之助 - 5代小野川喜三郎 - 6代阿武松緑之助 - 7代稲妻雷五郎 - 8代不知火諾右衛門 - 9代秀ノ山雷五郎 - 10代雲龍久吉 |
11代 - 20代 | 11代不知火光右衛門 - 12代陣幕久五郎 - 13代鬼面山谷五郎 - 14代境川浪右衛門 - 15代梅ヶ谷藤太郎 (初代) - 16代西ノ海嘉治郎 (初代) - 17代小錦八十吉 - 18代大砲万右エ門 - 19代常陸山谷右エ門 - 20代梅ヶ谷藤太郎 (2代) |
21代 - 30代 | 21代若嶌權四郎 - 22代太刀山峯右エ門 - 23代大木戸森右エ門 - 24代鳳谷五郎 - 25代西ノ海嘉治郎 (2代) - 26代大錦卯一郎 - 27代栃木山守也 - 28代大錦大五郎 - 29代宮城山福松 - 30代西ノ海嘉治郎 (3代) |
31代 - 40代 | 31代常ノ花寛市 - 32代玉錦三右エ門 - 33代武藏山武 - 34代男女ノ川登三 - 35代双葉山定次 - 36代羽黒山政司 - 37代安藝ノ海節男 - 38代照國万藏 - 39代前田山英五郎 - 40代東富士欽壹 |
41代 - 50代 | 41代千代の山雅信 - 42代鏡里喜代治 - 43代吉葉山潤之輔 - 44代栃錦清隆 - 45代若乃花幹士 (初代) - 46代朝潮太郎 - 47代柏戸剛 - 48代大鵬幸喜 - 49代栃ノ海晃嘉 - 50代佐田の山晋松 |
51代 - 60代 | 51代玉の海正洋 - 52代北の富士勝昭 - 53代琴櫻傑將 - 54代輪島大士 - 55代北の湖敏満 - 56代若乃花幹士 (2代) - 57代三重ノ海剛司 - 58代千代の富士貢 - 59代隆の里俊英 - 60代双羽黒光司 |
61代 - 69代 | 61代北勝海信芳 - 62代大乃国康 - 63代旭富士正也 - 64代曙太郎 - 65代貴乃花光司 - 66代若乃花勝 - 67代武蔵丸光洋 - 68代朝青龍明徳 - 69代白鵬翔 |
無類力士 | 雷電爲右エ門 |
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