雅山哲士
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雅山哲士 | |
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四股名 | 雅山 |
本名 | 竹内 雅人 |
生年月日 | 1977年7月28日(30歳) |
出身 | 茨城県水戸市 |
身長 | 188cm |
体重 | 183kg |
所属部屋 | 武蔵川部屋 |
成績 | |
現在の番付 | 東前頭3枚目 |
最高位 | 西大関 |
生涯戦歴 | 468勝363敗53休(60場所) |
幕内戦歴 | 428勝359敗53休(56場所) |
優勝 | 十両優勝2回 幕下優勝2回 |
賞 | 殊勲賞2回、敢闘賞4回、技能賞1回 |
データ | |
初土俵 | 1998年7月場所 |
入幕 | 1999年3月場所 |
備考 | |
金星1個(朝青龍1個) | |
2008年5月27日現在 | |
雅山 哲士(みやびやま てつし、1977年7月28日 - )は、茨城県水戸市出身で武蔵川部屋所属の現役大相撲力士。本名は竹内雅人(たけうち まさと)。身長188cm、体重183kg。趣味はパチンコ。最高位は西大関(2000年7月場所)。好きな食べ物はリンゴ、焼肉。好きな飲み物は酒、ブラックコーヒー。ZARDとやなせたかし作アンパンマンに登場するメロンパンナちゃんのファン、血液型はO型、愛称は本名のマサト。
得意技は、突き押し相撲だが、四つでも取れる。相手の顔面に向けて行なわれる小刻みな突き・腕の動きを効果的に使う取り口。腰が重い力士としては珍しく足腰が強い力士であり、対戦相手がいなしたり、出し投げを放とうとしても、その恐るべき足腰のバランス感覚でクルリと一回転して難なく相手をかわしてしまう技術は高い評価を受けているが、やはり体重の影響による足の怪我も少なくない、2008年5月場所現在幕内最重量。
目次 |
[編集] 来歴
実家は茨城交通グループのオーナー一族。武双山の父に指導を受け強くなった。子どもの頃好きだった力士は琴椿。明治大学を中退して武蔵川部屋に入門し、1998年7月場所に幕下付出で初土俵。2場所連続幕下優勝で同年11月場所に十両に昇進した。勢いは留まらず初土俵から4場所連続優勝という記録を作り、1999年3月場所には新入幕を果たした。当時は髷が結えず荒々しい風貌から「20世紀最後の怪物」と呼ばれ、右肩のコブが印象的な力士だった。
2000年5月場所後に大関に昇進したが、相撲にこれといって強みが無く勢いのみで勝ち続けた面があり、通常なら満場一致で賛成される理事会での大関昇進推挙に複数の反対者が出るなど、その行く末は当初から不安視されていた。大関を8場所務めたがその間2桁勝利は一度もなく、負傷もあって2001年9月場所後に陥落した。大関時代の通算敗北数が勝利数を上回るなどし、相撲雑誌の識者による座談会ではかつてのキャッチフレーズにかけて「21世紀最初のお荷物」などと言われる有様だった。
2003年1月場所2日目の横綱貴乃花戦では二丁投げが決まり勝利したかに見えたが、同体取り直しにされてその後敗北という不運があった。結局貴乃花には、一度も勝利することは出来なかった。
陥落後しばらくは平幕に低迷し、時折三役に上がっても勝ち越せなかったが、2004年頃から三役に定着し、再度の大関挑戦を期待されていたところ、2006年3月場所、西小結で3大関を倒す活躍で10勝をあげて関脇復帰、大関再昇進への足がかりをつかんだ。3大関撃破はこれで3場所連続となり復調を印象付けたが、続く5月場所では序盤から快進撃を見せ4大関を撃破、千秋楽まで白鵬とともに優勝争いをリードした。優勝決定戦では本割で勝った白鵬に惜しくも敗れたものの、成績は14勝1敗と大関昇進の足固めの場所となった。取組後、雅山は白鵬の汗で突っ張りが滑ったことを敗因として挙げた。続く7月場所では、序盤こそ緊張から苦戦したが、終盤5連勝し10勝5敗とし、三役で3場所34勝という成績に審判部の判断が注目されたが、不運にも昇進は見送られた(雅山を大関に復帰させると史上初の1場所6大関になり、大関に定員はないにもかかわらず審判部が渋ったとみる方が正しいといえよう)。
翌2006年9月場所で、再び大関挑戦の場所となったが、9日目までで既に5敗目を喫してしまい、結局場所後の二度目の大関昇進は果たせなかったが、白鵬に善戦するなど(本人曰く『今場所最高の相撲』)して9勝6敗とし、終盤にかけて気持ちを切らさなかったことは高く評価された。北の湖理事長は「大勝ちすれば、話題性の出てくる可能性はある。よくここまでもってきた」とコメント。大関復帰の可能性を残して11月場所に臨んだが、結局千秋楽にようやく勝ち越しの8勝7敗に終わった。さらに続く2007年1月場所では10敗を喫して、5場所連続で務めた関脇の座から陥落した。2006年5月場所から2007年1月場所まで5場所連続で琴光喜とともに関脇を務めた。5場所連続同じ力士が関脇を務めたのは131年振りであった。
平幕に下がった翌2007年3月場所2日目の朝青龍との取り組みでは、横綱の足をぐらつかせるほどの激しい突っ張りの後、寄り倒して勝った。これが意外にも自身初の金星である。朝青龍は前日の初日に小結・時天空に敗れており、これで2連敗スタートとなった。2日連続で大量の座布団が大阪府立体育館内を舞い飛んだ。雅山は自ら「荒れる春場所」の演出者となったのである。その後も7日目まで4勝3敗とまずまずの土俵だったが、7日目に旭天鵬を寄りきった際に、右の太ももを痛め、中日から休場してしまった。実質7点の負け越しである。翌5月場所は西前頭9枚目で迎え、本来の力が出せないながら、9勝6敗と3場所ぶりの勝ち越しを決めた。9月場所では西前頭5枚目で9勝6敗と勝ち越し、翌11月場所は西前頭筆頭に番付を上げ、久しぶりに上位との対戦圏内に戻ってきたが、14日目で負け越しが決まり三役復帰はならなかった。
もともと押し相撲主体ながら四つの巧さも持っており、大関陥落後は四つ主体にすべきか迷った時期もあったが、その迷いを捨てて突き押しを徹底したことが、一時期の好調の原動力になっており、相撲の内容は大関昇進から在位時代より遙かに上回っているとされた。しかし大関獲りは完全に振り出しになり、今後の奮起が望まれるところであるが、2007年3月場所以降は平幕の地位に甘んじたままの状況である。
[編集] 人物
- 普段は明るい性格で、愉快なコメントを数多く残している。豊ノ島と仲がいい。
- 雅山の四股名は、武双山の父が考えたものだが、本人は雅風と考えていた。現在でも雅風に未練が残っている。
- 玉乃島とは子どもの頃からライバル関係である。また、若兎馬(現・押尾川親方)からもライバル視されていた。千代天山とライバル関係だった時期もあった。
- 2006年7月から、好評だった部屋の公式ブログから独立する形で自身のブログを立ち上げた。しかし過去に自身のブログでファンと口論になったことがある。
- 同部屋の元横綱・武蔵丸を慕っており、武蔵丸が引退した時は大泣きしたという。武蔵丸引退土俵入りでは露払を務めた。
[編集] 幕内での場所別成績
2008年5月場所終了現在
場所 | 番付 | 勝数 | 敗数 | 休場 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
平成11年(1999年)3月 | 東前頭7枚目 | 9 | 6 | 0 | 新入幕、敢闘賞(初) |
平成11年(1999年)5月 | 西前頭2枚目 | 6 | 9 | 0 | - |
平成11年(1999年)7月 | 東前頭4枚目 | 7 | 8 | 0 | - |
平成11年(1999年)9月 | 東前頭5枚目 | 10 | 5 | 0 | - |
平成11年(1999年)11月 | 西前頭筆頭 | 8 | 7 | 0 | - |
平成12年(2000年)1月 | 西小結 | 12 | 3 | 0 | 新小結、殊勲賞(初) |
平成12年(2000年)3月 | 西関脇 | 11 | 4 | 0 | 新関脇、敢闘賞(2) |
平成12年(2000年)5月 | 東関脇 | 11 | 4 | 0 | 敢闘賞(3) |
平成12年(2000年)7月 | 西大関 | 6 | 9 | 0 | 新大関、大関皆勤負越(1) |
平成12年(2000年)9月 | 西大関2 | 8 | 7 | 0 | 大関角番(1) |
平成12年(2000年)11月 | 西大関2 | 9 | 6 | 0 | - |
平成13年(2001年)1月 | 西大関2 | 8 | 7 | 0 | - |
平成13年(2001年)3月 | 東大関2 | 7 | 8 | 0 | 大関皆勤負越(2) |
平成13年(2001年)5月 | 西大関2 | 9 | 6 | 0 | 大関角番(2) |
平成13年(2001年)7月 | 東大関2 | 7 | 8 | 0 | 大関皆勤負越(3) |
平成13年(2001年)9月 | 西大関2 | 3 | 7 | 5 | 大関角番(3)、途中休場(左足関節及び左足根骨脱臼) |
平成13年(2001年)11月 | 西関脇2 | 0 | 0 | 15 | 関脇陥落、公傷制度適用・全休 |
平成14年(2002年)1月 | 東関脇2 | 0 | 0 | 15 | 全休(右肩インピンジメント症候群及びSLAP症候群) |
平成14年(2002年)3月 | 東前頭8枚目 | 9 | 6 | 0 | - |
平成14年(2002年)5月 | 東前頭3枚目 | 10 | 5 | 0 | - |
平成14年(2002年)7月 | 東小結 | 6 | 9 | 0 | - |
平成14年(2002年)9月 | 東前頭筆頭 | 7 | 8 | 0 | - |
平成14年(2002年)11月 | 東前頭2枚目 | 8 | 7 | 0 | - |
平成15年(2003年)1月 | 西前頭筆頭 | 1 | 3 | 11 | 途中休場(右足関節外果剥離骨折) |
平成15年(2003年)3月 | 西前頭9枚目 | 9 | 6 | 0 | - |
平成15年(2003年)5月 | 東前頭5枚目 | 10 | 5 | 0 | - |
平成15年(2003年)7月 | 東前頭筆頭 | 10 | 5 | 0 | - |
平成15年(2003年)9月 | 西関脇 | 4 | 11 | 0 | - |
平成15年(2003年)11月 | 東前頭4枚目 | 6 | 9 | 0 | - |
平成16年(2004年)1月 | 西前頭7枚目 | 11 | 4 | 0 | - |
平成16年(2004年)3月 | 東前頭筆頭 | 8 | 7 | 0 | - |
平成16年(2004年)5月 | 東小結 | 3 | 12 | 0 | - |
平成16年(2004年)7月 | 東前頭7枚目 | 12 | 3 | 0 | - |
平成16年(2004年)9月 | 西関脇 | 9 | 6 | 0 | - |
平成16年(2004年)11月 | 西関脇 | 9 | 6 | 0 | - |
平成17年(2005年)1月 | 西関脇 | 9 | 6 | 0 | - |
平成17年(2005年)3月 | 東関脇 | 5 | 10 | 0 | - |
平成17年(2005年)5月 | 東前頭3枚目 | 8 | 7 | 0 | - |
平成17年(2005年)7月 | 西小結 | 7 | 8 | 0 | - |
平成17年(2005年)9月 | 東前頭筆頭 | 6 | 9 | 0 | - |
平成17年(2005年)11月 | 東前頭4枚目 | 10 | 5 | 0 | 敢闘賞(4) |
平成18年(2006年)1月 | 東前頭筆頭 | 8 | 7 | 0 | - |
平成18年(2006年)3月 | 西小結 | 10 | 5 | 0 | - |
平成18年(2006年)5月 | 西関脇 | 14 | 1 | 0 | 優勝決定戦で敗退、殊勲賞(2)、技能賞(初) |
平成18年(2006年)7月 | 東関脇 | 10 | 5 | 0 | - |
平成18年(2006年)9月 | 東関脇 | 9 | 6 | 0 | - |
平成18年(2006年)11月 | 東関脇 | 8 | 7 | 0 | - |
平成19年(2007年)1月 | 西関脇 | 5 | 10 | 0 | - |
平成19年(2007年)3月 | 東前頭3枚目 | 4 | 4 | 7 | 金星(朝青龍)、途中休場(右大腿四頭筋挫傷など) |
平成19年(2007年)5月 | 西前頭9枚目 | 9 | 6 | 0 | - |
平成19年(2007年)7月 | 東前頭5枚目 | 7 | 8 | 0 | - |
平成19年(2007年)9月 | 西前頭5枚目 | 9 | 6 | 0 | - |
平成19年(2007年)11月 | 西前頭筆頭 | 7 | 8 | 0 | - |
平成20年(2008年)1月 | 西前頭2枚目 | 7 | 8 | 0 | - |
平成20年(2008年)3月 | 西前頭2枚目 | 7 | 8 | 0 | - |
平成20年(2008年)5月 | 東前頭3枚目 | 6 | 9 | 0 | - |
通算 | 428 | 359 | 53 | 殊勲賞2回、敢闘賞4回、技能賞1回、金星1個 |
[編集] 主な成績
2008年5月場所終了現在
- 通算成績:468勝363敗53休(60場所)
- 幕内成績:428勝359敗53休
- 幕内在位:56場所
- 大関在位:8場所
- 三役在位:19場所(関脇14場所、小結5場所)
[編集] 三賞・金星
- 三賞:7回
- 殊勲賞:2回(2000年1月場所、2005年11月場所)
- 敢闘賞:4回(1999年3月場所、2000年3月場所、2000年5月場所、2006年5月場所)
- 技能賞:1回(2006年5月場所)
- 金星:1個
- 朝青龍1個(2007年3月場所)
[編集] 各段優勝
- 十両優勝:2回(1998年11月場所、1999年1月場所)
- 幕下優勝:2回(1998年7月場所、1998年9月場所)
[編集] 改名歴
- 竹内 雅人(たけうち まさと)1998年7月場所-1998年9月場所
- 雅山 哲士(みやびやま てつし)1998年11月場所-