若兎馬裕三
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若兎馬 裕三(わかとば ひろみ、1977年6月15日 - )は、東京都府中市出身で尾車部屋(入門当時は押尾川部屋)所属の元大相撲力士。現年寄・押尾川。本名は山田裕三(やまだ ひろみ)。身長175cm、体重135kg。趣味は音楽鑑賞。最高位は東前頭11枚目(2003年11月場所)。得意技は右四つ、寄り。明るく、勝ち気な性格である。
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[編集] 来歴
中学校時代は全国中学校相撲選手権大会に出場するなど活躍した。押尾川部屋に入門し、1993年3月場所に初土俵を踏んだ。入門当初から期待され、幕下までは順調に番付を上げた。しかし、幕下上位の壁は厚く幕下中位で長く低迷した。1999年11月場所に三段目に陥落。一時は引退も考えたが、そこから怒涛のように巻き返しが始まり、8場所連続勝ち越し2001年3月場所には東幕下2枚目まで番付を上げた。その場所も4勝3敗と勝ち越し、9場所連続勝ち越しとなって翌5月場所に十両に昇進した。
怪我なども有り、しばらく十両と幕下を往復していたが2003年1月場所に十両に復帰すると十両に定着。同年9月場所に念願の入幕を果たした。2005年4月1日押尾川部屋が部屋を閉じたため、若麒麟らと共に尾車部屋に移籍した。
2007年3月場所には幕下に陥落、翌5月場所は1勝6敗に終わり、5月26日に引退を表明したとスポーツ紙等で報じられたが、本人は公認サイトでこれを否定し、誤報であったことが明らかとなった。翌7月場所も出場したが3勝4敗と負け越した。幕下陥落後は全盛期の身体の張りが無く、相撲にも精彩を欠いていた。
2007年8月29日引退届を提出し、年寄「押尾川」を襲名。当初は元師匠の先々代・押尾川親方(元大関・大麒麟)から名跡を借りていたが、2008年3月場所後に正式に年寄「押尾川」を取得している。
[編集] エピソード
- 若兎馬の下の名前の裕三は、“ゆうぞう”でなく珍しく“ひろみ”と読む。
- 支度部屋のコメント王として知られた敷島引退後、若兎馬がその座に君臨していた。本場所中でも支度部屋の若兎馬の周りには多くの力士や顔なじみの記者達が集まり談笑していたという。当時の師匠であった先々代・押尾川親方(元大関・大麒麟)は「場所を慎しんで貰いたい」と困惑していたようである。
[編集] 主な戦績
- 通算成績:416勝406敗28休(87場所) 勝率.506
- 幕内成績:39勝66敗(7場所) 勝率.371
[編集] 改名歴
- 山田 裕三(やまだ ひろみ)1993年3月場所-2001年3月場所
- 若兎馬 裕三(わかとば -)2001年5月場所-2007年7月場所(番付は9月場所まで記載)
[編集] 年寄変遷
- 押尾川 裕三(おしおがわ ひろみ)2007年8月29日-
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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斜体は部屋付き親方、 (1) は一代年寄、 (G) は現役名年寄 | |
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