白田山秀敏
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白田山 秀敏(しらたやま ひでとし、1943年12月25日-)は、熊本県八代郡鏡町(現・八代市)出身の大相撲力士である。高砂部屋所属。本名は白田 秀敏(しらた ひでとし)。現役時代の体格は178cm、108kg。最高位は東前頭4枚目(1971年5月場所)。得意手は左四つ、出し投げ、外掛け。現・年寄谷川。
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[編集] 来歴
地元・鏡町の中学校を卒業後、進学した八代第一高校(現・秀岳館高等学校)を僅か3ヶ月で中退して上京し、高砂部屋に入門。1959年7月場所にて初土俵を踏んだ。1968年1月場所、24歳で十両に昇進。軽量のため十両で苦労し、新十両から3年以上かかって1971年3月場所で漸く入幕を果たした。初土俵から11年8ヶ月を費やしての、悲願の新入幕であった。本来は左四つ相撲だが、軽量の体格を生かした土俵上を動き回る相撲や素早い左右への変化が得意だった。しかし幕内上位ではなかなか通じず、三役には昇進する事ができなかった。1975年7月場所を最後に幕内から陥落し、以降十両での土俵が続いた。西十両11枚目に在った1977年5月場所限り、33歳で現役を引退し、年寄・谷川を襲名。序ノ口から引退までの17年8ヶ月間で、1202回連続出場を記録した。これは序ノ口以来番付上の最終場所の千秋楽まで無休という、連続出場では当時大相撲史上1位の記録であった(その後、豊ノ海が1316回連続出場を果たし、白田山に替わって史上1位の記録保持者となる)。引退後暫くは高砂部屋の部屋付き親方として力士達を指導していたが、先代の谷川(元十両・八幡野)に倣って谷川部屋を興す事を師匠に反対され、一門の九重部屋に移った。この移籍は、現役時代から九重(元横綱・北の富士)と「手の合う」(仲の良い)仲だった事が影響している。現在は同じく一門の八角部屋に在籍し、後進の指導に当たっている。
[編集] 主な戦績
- 通算成績:594勝608敗(107場所) 勝率.494
- 幕内成績:88勝122敗(14場所) 勝率.419
- 通算連続出場:1202回(史上10位。序ノ口から引退まで休場なし)
- 各段優勝:十両1回(1971年1月場所)
[編集] 改名歴
- 白田山 秀敏(しらたやま ひでとし)1959年7月場所~1977年5月場所(※注:引退まで一度も改名しなかった。)
[編集] 年寄変遷
- 谷川 秀敏(たにがわ ひでとし)1977年5月~
[編集] 関連項目
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斜体は部屋付き親方、 (1) は一代年寄、 (G) は現役名年寄 | |
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