北瀬海弘光
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北瀬海 弘光(きたせうみ ひろみつ、1948年7月2日 - )とは大相撲の元関脇力士である。九重部屋所属。身長175cm、体重115kg。得意技は右四つ、もろ差し、寄り切り。本名・土谷孝(つちや たかし)。北海道久遠郡せたな町(旧瀬棚郡北檜山町)出身。現在は年寄・君ヶ濱として、八角部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっている。
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[編集] 略歴
1964年7月、出羽海部屋から初土俵をふむ。1967年3月、元千代の山の九重親方の独立に際して、大関北の富士たちとともに九重部屋へ移籍。その後、1969年9月に新十両を果たした。小兵であるために十両では苦戦が続いたが、1971年11月、横綱北の富士とともに幕内・十両アベック優勝を果たして上昇気流にのり、1972年3月、新入幕を飾った。その場所、前半戦から勝ち進んだので終盤には大関大麒麟や関脇三重ノ海と対戦し、三重ノ海を破った。新入幕力士が関脇に勝ったのは大鵬(1960年1月)以来のことであった。しかしこの場所、10勝5敗でありながらも三賞からもれたことが、技能賞は6回も候補にあがりながら1回の受賞にとどまったように、その後の彼の不運をあらわしたようなものであった。その後も、妙に取組運が弱く、平幕で千秋楽のこれより三役に登場することが多かった。
1976年3月、西前頭11枚目で勝ち進み、またも上位にあてられたが、11日目にこの場所優勝した横綱輪島に土をつけて12勝3敗で殊勲賞を受賞。この場所、敢闘賞の鷲羽山、優勝同点・技能賞の旭國、11勝を挙げた若獅子とあわせて、小兵力士の活躍が話題になった。翌場所新小結で10勝5敗で連続の殊勲賞、7月には関脇に昇進した。その後、1977年5月場所に左足首を負傷したこともあって幕内下位と十両を往復するようになり、1979年5月場所中に引退した。
髪が薄いことでも有名であり、大銀杏が結えるかどうかが話題になったこともあった。
[編集] 戦績
- 幕内成績:266勝310敗6休(39場所)
- 賞歴:殊勲賞2回、技能賞1回。金星1個(輪島)
[編集] 改名歴
[編集] 年寄歴
[編集] 関連記事
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斜体は部屋付き親方、 (1) は一代年寄、 (G) は現役名年寄 | |
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