佐山聡
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佐山聡 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 初代タイガーマスク 佐山聡 佐山サトル サミー・リー ザ・タイガー スーパータイガー タイガーキング ザ・マスク・オブ・タイガー |
本名 | 佐山聡 |
ニックネーム | 四次元殺法 伝説の虎 天才 |
身長 | 168cm |
体重 | 112kg |
誕生日 | 1957年11月27日(50歳) |
出身地 | 山口県下関市 |
所属 | リアルジャパンプロレス |
スポーツ歴 | 柔道 レスリング キックボクシング |
トレーナー | アントニオ猪木 山本小鉄 藤原喜明 カール・ゴッチ |
デビュー | 1976年5月28日 |
佐山 聡(さやま さとる、1957年11月27日- )は、日本の男性プロレスラーおよび総合格闘技・修斗の創設者、掣圏真陰流協会会長。山口県下関市出身。
マスクマン・初代タイガーマスク(しょだいタイガーマスク)としての活躍で最も知られる。日本出身で最も著名な総合格闘技の指導者のひとりである。最近は、佐山サトル名義でも活動している。
目次 |
[編集] プロレスラーとしての佐山聡
[編集] 若手時代
中学生(下関市立長府中学校)時代にレスリングや柔道の格闘技を始め、その後山口県立水産高等学校に入学するが、1年で中退して1975年7月に新日本プロレスに入門、1976年5月28日に魁勝司戦でデビュー。
1977年11月14日に行われた梶原一騎主催の「格闘技大戦争」で、マーシャルアーツミドル級第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下、対戦した。目白ジムで打撃トレーニングを積んで試合に挑んだ佐山だったがリーチの差と寝技無しのルールに苦戦し、1Rこそ果敢にバックドロップ、反り投げなどの投げ技を繰り出すが(ただし反則)ボクシンググローブ着用のため技が決まらない。2R以降はパンチ・キック・膝蹴りと一方的に攻めまくられ、毎ラウンド「ダウンしては立ち上がる」の繰り返しとなった。プロレスラーとしてのプライドで何とかKO負けこそ逃れたものの、6R終了まで良いところなく屈辱的な判定負けを喫した。
リング下ではアントニオ猪木、ストロング小林、ウィレム・ルスカらが観戦し、セコンドでは山本小鉄が檄を飛ばすというプロレスの威信をかけた試合だった。なお、この試合に負けたから打撃を取り入れた格闘技に傾倒していったのではなく、元々リアル指向で、会社に内緒で打撃の練習をしていた(そんなところからこの試合に抜擢された)。
1978年にメキシコへ渡り、「サトル・サヤマ」のリングネームで活動。慣れない環境や食生活で、体重が20kg近く減るなどの苦労をしつつも、NWA世界ミドル級王座を獲得するなど活躍した。1980年にはイギリスへ渡りブルース・リーの従弟こと「サミー・リー」のリングネームでマーシャルアーツスタイルのプロレスラーとして大活躍した(立場は完全なベビーフェイスで決め技は日本とは違い風車式のバックブリーカーを多用した)。後にイギリスへ渡った前田日明は、「サミー・リー」の弟というギミックで「クイックキック・リー」のリングネームで活躍したことからも明らかであるように、この「サミー・リー」の当地における人気は日本における「タイガーマスク」の人気に匹敵するものであった。
なお、漫画『プロレススーパースター列伝』にて描かれていた、メキシコ遠征時に名乗ったとされる、覆面レスラー「ティグレ・エン・マスカラド」や、目の回りに隈取りを施したペイントレスラー「ミスターカンフー」はフィクションであり、実際はこれらのリングネームは使われておらず、一貫して素顔で試合を行っている。
[編集] タイガーマスク誕生前夜
新日本プロレスから「タイガーマスクの映画を撮るので、帰国して欲しい」という連絡を受ける。当時イギリスでサミー・リーとして大変な人気で、マーク・ロコ(初代ブラックタイガー)とのタイトルマッチを目前に控えていた事もあり帰国を断るが、「1試合だけでいいから、アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」と説得され帰国。タイガーマスクとしてリングに上がるが、渡されたマスクやコスチュームの出来の悪さに泣きそうになったと、後に回想している(これはデビュー戦の相手を務めたダイナマイト・キッドも同様のコメントを残している)。
[編集] タイガーマスク時代
海外遠征から帰国後、梶原一騎原作の人気漫画『タイガーマスク』から現実のヒーローとして、新日本プロレスに彗星のごとく登場した。また、この時期テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、メディアミックス展開も行っている。初代タイガーマスクとしてのデビュー戦は、1981年4月23日蔵前国技館に於けるダイナマイト・キッド戦。
デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、佐山自身は漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが(事実、試合が開始されるまでは会場内から一部失笑が漏れるなど漫画チックな存在として冷ややかに見る傾向があった)、試合後の結果としてはプロレス史上に残るマスクマンの誕生となった。なお、デビュー戦ではタイガーマスクのトレードマークであるコーナートップに飛び乗り人差し指を上げるポーズはしていない。選手紹介のコールの際も両腕を上げて揺らすという地味なものだった。
新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに、マーシャルアーツ流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレ(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。そのファイトスタイルは、実況の古舘伊知郎によって「四次元プロレス」、「四次元殺法」と形容された。この頃の代表的なライバルとして、ダイナマイト・キッド、ブラックタイガー、小林邦昭が挙げられる。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していたが、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。1983年8月4日に奇しくもデビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦終了後の8月10日、新日本プロレスに契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言。その直後、テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。さらには、そのマスクを笑顔で見栄晴に被せて笑いを取るなど朗らかな面も見せ、タイガーマスクとのギャップに驚いた者も少なくなかった。
新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4カ月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はダイナマイト・キッドをフェンスアウトさせて反則負け。タッグ・シングル戦、両方含めて一度もフォール負けがなく、WWFとNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。
人気絶頂期の引退発表は各方面に衝撃を与え、プロレスマスコミで動向が注目される中1984年に第1次UWFへザ・タイガーとして参加し電撃復帰。後にスーパー・タイガーと改名し「実力NO.1」の称号を得るも、1985年9月2日、試合中の前田日明の金的蹴りがきっかけとなり離脱。実際には金的に入っていなかったが、試合中、前田の尋常ならざる精神状態を懸念した佐山が、金的をアピールしてレフェリーに試合を止めさせたのが実情である。当時のUWFは、一層の競技化を進める佐山と興行面からそれに反対する前田らとが対立していた。現在でも前田との関係は完全修復には至っていない。
修斗設立の際には一旦プロレス活動から距離を置き、その後は総合格闘技界とプロレス界では異なる立場を取りながらも、双方に関わる活動となる。
1994年5月1日、当時新日本プロレスの取締役だった永島勝司に要請され、10年ぶりの新日本登場、4年ぶりの試合となる獣神サンダー・ライガーとのエキシビジョンマッチに参加。試合中、佐山は挑発的な笑顔を浮かべていた。これは試合がエキシビジョンのため「適当にやろう」と思ったかららしい。翌年、初代タイガーマスクに名を戻し、本格的にプロレスに復帰。UWFインターナショナル、みちのくプロレス、東京プロレス、SAプロレス等に参戦。1997年にはタイガーキングに改名し、新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦する。
1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに参加。小川直也を指導し、岡田孝(現・三州ツバ吉)からの推薦により村上和成の参戦を認めた。1999年1月4日、伝説となる小川直也対橋本真也のシュートマッチ、いわゆる「1.4事変」の仕掛け人の一人となる。余談だが、この時佐山は松葉杖をついてセコンドに就いているが、これは1週間前にアレクサンダー大塚戦で負傷したからである。その後、4月に猪木と団体方針の食い違いがきっかけとなりUFOを離脱した。
その年の5月に掣圏道設立、再びプロレスから離れる。もう復帰は無いと思われたが、2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名でまたも復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。
2008年3月13日にはリアルジャパンマットで、天龍源一郎との初対決がタッグマッチで実現。
[編集] マスク剥ぎ
初代タイガーマスク時代、小林邦昭に何度もマスクを破られたり、剥ぎ取られそうになった。それまでの覆面レスラーにもマスク剥ぎがなかったわけではないが、基本的にはマスクマンのマスクには手を掛けないのが暗黙の了解で、小林のように毎試合マスクに手を掛ける行為はそれまでなかったものであり、多くのプロレスファンに衝撃を与えた。
テレビの前の子供達は、小林がタイガーのマスクに手を掛けると、小林に対して激しい怒りを向ける反面、「もしかしたら今日こそタイガーの正体が分かるかも…」というドキドキ感も味わった。「正体不明」と発表されてはいたが、正体が佐山である事は周知の事実であり、佐山の若手時代を知るファンであっても子どもたちと同様、「目の前で正体を暴かれるかもしれない」「佐山って人ではないかもしれない」という猜疑心からタイガーの危機に興奮した。
この一連のマスク剥ぎの衝撃がいかに凄かったかは、歴代タイガーマスクや、女子プロレスにおける派生キャラクター、タイガードリーム、タイガーエンジェル等の試合でもマスク剥ぎが「お約束」として必ず入っている事からも伺い知れる。後に佐山は小林と対談した際に、マスク剥ぎの事に触れて「先輩(小林)がのし上がるためならと、僕は我慢していたんですよ。」と語っているが(両者は実際には仲が良かった)、実際それ以降の小林は『虎ハンター』として完全にブレイクする。
[編集] 獲得王座
[編集] 得意技
- ただし、佐山のタイガースープレックスは、手をクラッチせずに行うものであり、俗に「佐山式」といわれる
- タイガー・ドライバー
- サマーソルトキック
- ローリングソバット
- ラウンディングボディプレス
- スペースフライングタイガードロップ
- ケブラドーラ・コン・ヒーロ
- タイガー・フェイントキック(619)
- スライディング・レッグシザーズ
[編集] 修斗
第1次UWF離脱後、シューティング(現・修斗)の創始者として日本の総合格闘技界をスタートさせたが、後にフロントとのトラブルのため、離脱(詳細は両者共に語らないが、プロとしての重要さを考える佐山と、より競技化したものを目指したいそのほかの幹部との間に溝が深まったと言われている)。
[編集] 掣圏真陰流
掣圏真陰流とは、佐山が従来から提唱してきた市街地型実戦格闘技で1999年5月に創設された。旧名・掣圏道。
[編集] 思想活動
歴史や政治思想に精通し、「武士道追求」として独自に右翼活動を展開している。以前から「天覧試合をやりたい」(当時の「天覧試合をやりたい」という発言は、修斗を、プロ野球や大相撲のように天皇に見に来てもらえるような立派なプロ競技にしたいという純粋な気持ちであって、近年の右翼的な発言とは画する。)「試合前は靖国神社におられる英霊に敬礼」「今の日本人に切腹する精神はない。こんな国では戦争には勝てない」等々の言動を繰り返し、戦前の日本軍を悪く言われると烈火のごとく怒ることは有名。佐山が20年前から使用していた八角形のリング(オクタゴン)は、天皇の玉座をイメージしたものであるという。ナチスを部分的に肯定しているとも言われる。佐山本人はこのことを否定している。佐山の師であるカール・ゴッチがナチス党員だったこと[要出典]が影響したともみられるが、ゴッチはそもそもドイツ人ではない(ドイツ人と偽ってプロレスラーとて活動していた)。
掣圏道設立後から佐山の思想活動が本格化し、2001年の第19回参議院議員通常選挙に比例代表区から自由連合公認で出馬。33,762票を獲得したが、落選した。その選挙演説の際「暴走族を撃ち殺せ!!」と発言し、市民の度肝を抜いた。この参院選では予てから親交の深かった杉山穎男(元『格闘技通信』編集長・『武道通信』編集長)も出馬するが、1,596票の得票に止まり落選している。
こうした右翼的言動から、親しい人間は畏敬の念をこめて、「極右・佐山皇帝」と呼ぶ。しかし本人は「俺を街宣車で騒いでいるような連中と一緒にするな」と言って、右翼と呼ばれることを嫌がっている。しかし、任侠系右翼団体である日本青年社との交流を公言している。
[編集] 人物
- タイガーマスク時代は華麗な空中戦で観客を魅了し、格闘技でもその高い身体能力を生かした闘いは、他を寄せ付けなかった。軽中量級の格闘技が発展した現代の総合格闘技ムーブメントには、佐山の果たした功績も大きい。
- 精神分析学にも造詣が深く、「交感神経を刺激すると、人間は達観できる」が持論。催眠術を自由に操り、ダイエットも自由自在であると称しているが、自らのダイエットには幾度となく失敗している。
- かなりの甘党。「羊羹をポッキーのように食べる」、「キックボクシングのスパーリング中、コーナーに小銭を置いておき、ラウンドが終わる度に自動販売機に向かう」、「山篭りで10kg減量したが、下山してしばらくすると元に戻ってしまった」、「小川直也と喫茶店に行き、甘いものばかり注文して1万円近く払った」等、甘い物に関するエピソード多数。このため、新日本から退いた後に体重が急増し、今日でもジュニアヘビー級の体重に戻らないままである。丸藤正道戦での記者会見で「95まで絞る」と言っているが、結局絞りきれなかった。しかし、小林邦昭戦では相手から減量の注文があったようで、116kgあった体重を100kg前後まで減量させることに成功している。
- 普段は物腰柔らかで非常に言葉遣いが優しく、笑顔を絶やさない人柄であるが、キレると鬼の如く豹変する。礼儀の知らない若者は勿論のこと、自分より体格が大きい黒人が相手であっても、である。その様な場合でも、佐山は天才的な喧嘩の腕でほとんど負けたことがなかったという。
- シューティング創設期、その練習風景がテレビ番組で放送され、弟子を竹刀で滅多打ちにする模様が流される(ちなみに、この模様は現在ネット上で広く出回っている)。後に得物は「竹刀はすぐ折れるから」という理由で、木刀になった。竹刀や木刀で思い切り殴打し流血する事もあるが全く意に介さない(後にあれはテレビ演出の為いつもより厳しく叱咤し制裁したと本人は語っているが、カメラマンに対し「撮るんじゃねぇよ」と恫喝している所もある)。のちにYouTubeなどにも勝手に流される。
- 格闘技界に幅広い人脈を持ち、特に藤原敏男は新日本時代からの親友。藤原主宰興行ではタッグ戦も行っている。
- 第1次UWF退団時、ターザン山本と共に「ケーフェイ」というプロレス本を出版、プロレスの試合において「必殺技」として使用されているウェスタン・ラリアット、延髄斬りといった技は、対戦相手の協力なくしては半永久的に成立しないことを「暴露」した。また、前田日明らが創設した第2次UWFについても、月刊誌「フルコンタクトKARATE」やミニコミ誌「格闘技探検隊」からのインタビューに答える形で、既存のプロレスの範疇を越えるものではなく、本物の格闘技であり、スポーツでもあるシューティングとは根本的に異なるものと明言した。これらが原因となり、一時期プロレス界とは絶縁状態にあった。また、修斗の主宰者時代、その試合場で新日本プロレスでの獣神サンダー・ライガー戦(実質的なプロレスマット復帰戦)を指し「新日本で試合を、いや、芝居をしてきました」と発言し、プロレスファンを怒らせた事がある。(エキシビジョンマッチだったのだから、その通りなのだが。)安生洋二とタッグを組んで奪取した、東京プロレスの「3億円ベルト」の行方に関しても、「知らぬフリ」を決め込むという金銭疑惑も浮上している。
- 独特の言語感覚を持っており、イゴール・ボブチャンチンで有名な「ロシアン・フック」の名付け親は佐山である。ちなみにボブチャンチンはウクライナ人でありロシア人ではない。その他、「未来を打つパンチ」、「タックラー」、「スワン」等、造語多数あり。
- 「大根役者だから」と本人はあまり語りたがらないが、何本か映画に出演している。真樹日佐夫原作の「六本木ソルジャー」では主演を務め、「真説・タイガーマスク」では船木誠勝と共演した。また、「ラストサムライ」のオーディションに合格していたが、「拘束時間が長いから」という理由で辞退している。
- 新日退団後、全日本からオファーを受けたが(馬場が提示した金額は1億とも2億とも言われている。この時代プロ野球でさえ1億円プレーヤーはまだ出ていなかった)、たとえ新日を辞めたとはいえ、猪木に恩を仇で返す事はできないという理由で、オファーを断った。
[編集] 入場テーマ曲
- 「バーニング・タイガー」(ブレイン・ウォッシュ・バンド) - タイガーマスクのデビュー戦で使用。ただし生演奏
- 「おまえは虎になれ」(村松とおる)
- 「タイガーマスク二世」(水木一郎)
- 「燃えろ! 吠えろ! タイガーマスク」(古舘伊知郎)
- 「バーニングタイガー」(佐山聡) - 本人歌唱。(入場曲の予定も、実際は本人が恥ずかしがって使用されず。)意外と美声。ちなみに好きな歌手はエルヴィス・プレスリー。
- 「アイ・オブ・ザ・タイガー」(サバイバー) - スーパータイガーとして旧UWF参戦時に使用。
- 「虎覇王(ヴィクトリーロード)」(ネバーランド) - スーパータイガーとして旧UWF参戦時のイメージ曲であり、入場時には使われていない。
- 「行け!タイガーマスク」(新田洋) - 現在の入場テーマ曲。