吉江豊
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吉江豊 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 吉江豊 Y2P-160kg グレート・ユタ よしえちゃん |
本名 | 吉江豊 |
ニックネーム | フライング・タンク 赤城雷電 格闘モンスター |
身長 | 180cm |
体重 | 160kg |
誕生日 | 1974年1月5日(34歳) |
出身地 | 群馬県前橋市 |
所属 | ドラディション |
スポーツ歴 | 柔道 |
トレーナー | アニマル浜口 |
デビュー | 1994年12月9日 |
吉江 豊(よしえ ゆたか、1974年1月5日 - )は、日本のプロレスラー。群馬県前橋市出身。ドラディション(元無我ワールド・プロレスリング)所属。
体重160kgを誇り、かつて新日本プロレスに所属していた時は、橋本真也退団後誰もいなかったアンコ型レスラーの不動の地位を築いた。また、その体型を生かした技も使用する。
実兄はWAHAHA本舗・ラジークイーンのよしえつねお。
目次 |
[編集] 来歴
前橋三中、樹徳高校時代は柔道をしており、プロレスラーを目指すために、アニマル浜口ジムに通いトレーニングを積む。
1994年2月に新日本プロレスに入門、同年12月9日に小島聡戦でデビューする。しかしまもなく大怪我を負ってしまい、1年近くリングから遠ざかるという苦労を味わう。さらに他の第3世代よりも入門が遅くライバルに恵まれなかった事から伸び悩む時期が続いた。
1998年の長州力の引退試合(その後現役復帰し現在に至る)は長州が5人を相手にする(5試合のシングルマッチを続けざまに行う)スタイルで行われ、その2番手として登場した。
2000年に永田裕志・中西学・福田雅一(故人)らと「G-EGGS」を結成する。
2002年4月にワイルドII(森嶋猛&力皇猛(共にプロレスリング・ノア所属))の持つGHCタッグに挑戦するも、惜しくも敗れる。しかし、翌月のノアの大会で森嶋相手にシングル戦で勝利する。
棚橋弘至とタッグチームを組んで、2003年6月13日にIWGPタッグ王座を獲得。
2005年1月に棚橋弘至と組み、新日代表として世界タッグ王者決定戦に出場。太陽ケア&ジャマール組に敗れるものの、ジャマールの魅力にとりつかれ、機会があればシングルで戦ってみたいと試合後に話している。ファンは一日も早く全日本プロレスに移籍してジャマールとシングルで戦ってほしいとも思っているようだったが、ジャマールはWWEへ復帰した為、対戦は絶望的となった。その代わり、2006年1月4日にジャイアント・バーナードが新日本へ参戦したり、曙とタッグを結成するなど、新たな期待が生まれたが、後述の通り退団。新日本のマットにはしばらく上がらないことを公言していたが、2008年5月5日に行われたプレミアムに出場し、中西とシングルマッチを行った。
2006年1月19日に新日本プロレスを退団、同時に美奈夫人も勤めていた会社を辞め吉江のマネージャーとして活動を開始。フリーになって早々にZERO1-MAXの中村社長からおコメ(業界用語でお金のこと)ではなく米一俵と沖縄和牛の物品オファーを受けるが友人であるとの設定のマスクマンY2P-160kgを送り、吉江として最初に出場するのは全日本プロレスとなった。現在もZERO1-MAXではY2Pと5月19日から不定期で吉江、全日本、DRAGON GATEでは吉江として、ビッグマウス・ラウドではザ・グレート・カブキの新たなる家族というギミックとして「ザ・グレート・ユタ」という第二の化身も登場した。
2006年8月2日に「無我ワールド・プロレスリング」のプレ旗揚げ戦に参戦、当初は継続参戦への態度は保留していたが、8月28日に同団体への入団を表明した。ただし、オファーがあれば日程がバッティングしない範囲で他団体への参戦もあると明言している(2007年夏のZERO1-MAX・火祭りなど)。
2006年12月3日には、初となる吉江プロデュースの興行「吉江豊ふるさと祭り」を群馬県前橋市で開催、好評を得た。吉江プロデュース興行は、2007年12月8日にも開催され、今後も年1回のペースで開催される予定。
必要以上に自分の体重に誇りを持ち、「デブは誉め言葉」とまで言い切っている(逆に「吉江、痩せたな」と言われたらショックだそうである)。新日本時代は、なかなか上昇のチャンスを掴めなかったせいか、自虐的コメントで注目を浴びたが、現在はもっぱらポジティブな発言が目立つ。全日本プロレス参戦時は、同じアンコ型レスラーでありながら精神的な弱さを見せるブルート一生(引退)のよき兄貴分となり、タッグを組んで「デブの戦い方」を伝授していた。
リング外での言動や体型、ピンクのコスチュームなどからコミカル系レスラーと誤解されそうだが、プロレスそのものに対する態度や、リング上でのファイトはかなり真摯なものであることは特筆しておきたい。無我ワールドの出来事で言えば、川田利明との蹴りと肉弾の迫力ある試合を見せたことや、大麻を所持し廃業状態になっていた嵐が無我ワールドで復帰しようとした際に強く異を唱えたことはその表れと言える。
2007年12月13日には無我ワールド最終興行にて「DRAGON CUPトーナメント」優勝を果たした。新団体のエースの自覚も見られ、さらなる活躍が期待される。
[編集] 得意技
- ダイビングボディプレス(Y2P時:煌彩(ハムサンド))
- 裏拳
- 吉江の裏拳はどちらかと言うと前腕部をぶち当てる。走りこんでの裏拳も使用。
- ※汗っかき体質のため、夏場は「濡れダイビングボディプレス」「濡れ裏拳」などにパワーアップ?し、相手に精神的にもダメージを与える。
- フライング・ボディシザース・ドロップ
- 裏拳と共に、吉江が試合を組み立てる上で重要な役目を担う技である
- カナディアンハンマー
- 海外遠征から帰国後使用し始めた技。カナディアンバックブリーカーの体勢から走りながら、前にフェイスバスターの形で落とす技。すぐに封印されたが新日退団後に封印を解いた。
- スリーパースープレックス
- ハーフネルソンスープレックス
- 海外遠征から帰国後使用し始めた技。スリーパースープレックスは危険な為かすぐに封印され、ハーフネルソンスープレックスを使うようになったが、こちらもすぐに使わなくなった。
- 雷電ドロップ
- 仰向けで倒れている相手へのジャンプしてのヒップドロップ。元祖はサンダー杉山。
- 裏足四の字固め
- 凱旋帰国後フィニッシュとして使用していた、現在は使ってない(体重増加で足関節を取り辛くなった為)。
- 左ミドル
- 2005年のG1の際に「封印」を解いたミドルキック。
[編集] その他
- 最近はそうでもないが、G-EGGS加入当時は渦巻状の奇抜なヘアースタイルで話題を呼んだ。それ以外にも奇抜な髪形をしており、「何か無いですかね」と田中リングアナに相談したこともある。
- 新日本プロレスの新人時代は、自他共に認める宴会部長であった(辻よしなりが実況で暴露し、G-EGGS同志の永田裕志に「試合と関係ねえ事をベラベラ喋るんじゃねえ!」と罵倒され、中西学にはアイアンクロー攻撃を受ける。その吊るし上げを食らったシーンは中継された)。
- ちょっとクセのある言動とそのルックスやピンク色のアマレスタイツ姿から新日本の癒し系とも称された。
- そのピンクのコスチュームと女性の名前のような苗字からハッスルにボノちゃんが女性と思い込んでいたメル友よしえちゃんとして登場した。
- 技をかける際の掛け声は独特の、「オッケーイ」に近いものである。
- 愛称は「よっしぃ」。
- 体重のためか走るのが遅い。金沢克彦曰く、「彼のジョギング姿はせいぜい速歩き程度の速度」とのこと。
- 実兄は演劇俳優の吉江常雄(貧乏生活で『銭金』に「ビンボーさん」として出演した。現在はオフィスSAKAI所属)
- 2003年8月に結婚。美奈夫人は鈴木亜美似の美人で、正に“美女と野獣”夫婦である(が、結婚後体型が夫に似てきた、との報告あり。下記記事参照)。夫人も酒豪であるなどクセのある人物のようで、プロレス雑誌やブログなどで個性を発揮している。妻として、またマネージャーとして、(たまにツッコミを入れたり入れられたりしつつも)吉江が非常に頼れる人物といえる。
- 2007年6月25日の仰天!噂のくいしん坊家族(テレビ東京)に美奈夫人と共に出演。吉江本人の大食漢なのは勿論だが、結婚後何と15キロも太ったという美奈夫人もかなりの健啖家。1回の食事に2リットルのミネラルウォーターを何本も摂取しながら3時間ぐらいは毎日かけて食事を摂るらしい。サミットストアでレジ袋4袋の買物をし、レポーターの山崎まさやが「それ一週間分の買物?」と聞くと「いや2日分」と平然と言い、1月の食事代は20万円という。それでも多く食べる中でも自炊の中ではダイエットを考えているようで、炊飯の時に粉寒天を入れたり肉を予め湯通しし油分を落としたり、キャベツを多く摂るように(1週間で14個)心掛けてはいる様である。
[編集] 外部リンク
- お腹いっぱい夢いっぱい プロレスラー吉江豊の日記(本人執筆のブログ)