ニッカウヰスキー
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種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場
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略称 | ニッカ |
本社所在地 | 日本 〒107-8616 東京都港区南青山五丁目4番31号 |
電話番号 | 03-3498-0331 (大代表) |
設立 | 1934年 |
業種 | 食料品 |
事業内容 | ウイスキー、ブランデー、リキュール類、焼酎等の製造 |
代表者 | 山下 宏(代表取締役社長) |
資本金 | 14,989百万円(2006年12月31日現在) |
売上高 | 60,289百万円(2006年1月1日 - 12月31日) |
従業員数 | 324名(2006年12月31日現在) |
主要株主 | アサヒビール株式会社 100% |
主要子会社 | 株式会社北海道ニッカサービス 株式会社仙台ニッカサービス ニッカ製樽株式会社 ベン・ネヴィス社(イギリス) 他 |
関係する人物 | 竹鶴政孝 |
外部リンク | http://www.nikka.com/ |
ニッカウヰスキー株式会社は、日本の洋酒メーカー。アサヒビールグループの一員。まれに、ニッカウ井スキーと表記する場合もある。
1934年、北海道余市郡余市町に会社の前身である「大日本果汁株式会社」を設立。「ニッカ」のブランドの由来は「大日本果汁」を略した「日果(にっか)」から来ている。 2001年、筆頭株主のアサヒビール株式会社が全株式を取得、アサヒビールの完全子会社となった。ニッカウヰスキーが製造、輸入する商品の販売をアサヒビールが行なっている。なお、サラダ油メーカーの日華油脂(ニッカサラダ油)とは一切関連がない。
目次 |
[編集] 歴史
寿屋(現在のサントリー)でウイスキー製造に従事していた竹鶴政孝が、よりスコットランドに近い気候の北海道で、よりよいウイスキー作りをするために退社し、資本を集めて北海道余市で創業したのが始まりである。最初期の筆頭株主は加賀証券社長の加賀正太郎。加賀は社内では御主人様と呼ばれ、創業者の竹鶴は専務と呼ばれた。当初、大日本果汁は社長は置かなかったため、代表取締役専務で後に初代社長になる竹鶴が実質的に会社を経営した。
ウイスキーは製造開始から出荷まで数年かかるため、最初期は余市周辺の特産品であったリンゴを原料に、リンゴジュース(商品名は日果林檎ジュース、のちに日果林檎汁)、リンゴワイン、リンゴゼリーなどを製造・販売していた。しかし、創業者竹鶴の品質へのこだわりはリンゴジュースにも及び、高価な果汁100%ジュースしか出荷しなかったためあまり売れなかったという。
1940年にウイスキーの出荷を開始。製品はリンゴジュースの商品名「日果」をカタカナにし、ニッカウヰスキーと名づけられた。又、山のように積み上がった返品のジュースを発酵させた後に蒸留し、ブランデーを製造して販売した。直後にウイスキーは統制品となり、大日本果汁は海軍監督工場となった。このときは将校への配給用の酒を製造するために優先的に原料が割り当てられたため、事業の継続ができた。
1943年、竹鶴政孝が社長に就任。
大戦が終わると、他社から相次いで低質の三級ウイスキーが発売されるが、品質にこだわり、低価格商品を投入しなかったため再度経営が苦しくなる。加賀は経営上の理由から再三、三級の発売を要求。1950年と1951年に、低質の三級ウイスキー(商品名ニッカポケット壜ウヰスキー、ニッカ角壜ウヰスキー)を発売するが、原酒を当時の税法の制限いっぱいの5%ぎりぎりまで入れた。着色料も粗悪品ではなく、わざわざ砂糖を原料に自社生産したカラメルを使用したという。
1952年、ニッカウヰスキーに商号変更し、本社を東京都中央区日本橋に移転。同年、港区麻布(現在の六本木ヒルズ所在地)に東京工場を設置した。この工場は瓶詰めを行うためのものであった。余市から東京への輸送コストを抑えるのが主目的であるが、当時、ウイスキーは出荷時に課税されていたため、輸送時の破損分への課税を防ぐためにも大消費地に瓶詰め工場を置くことが必要であった。
1954年、病床にあった加賀が死期が近いことを知り、死後の株券の散逸を防ぐために他の主要株主と共同で朝日麦酒(現アサヒビール)に保有全株式を売却。この時点で朝日麦酒は過半数の株を持つことになり、ニッカは朝日麦酒グループ入りすることになった。御主人様とまで呼ばれた事実上の社主の突然の行動にニッカ社内は騒然となるが、社長の竹鶴は、当時の朝日麦酒社長が知人であることや、ニッカの品質至上主義に対する理解が得られると信じたことから全く動じなかった。加賀は敢えて竹鶴の知人を売却相手に選んだのだと考えられている。朝日麦酒は役員1名を派遣したのみで製造には口を出さなかった。
当時、ニッカの二級ウイスキー(かつての三級ウイスキー)は他社製より高く、あまり売れていなかった。朝日麦酒から派遣された役員が、売り上げが倍になれば、品質を落とさなくても他社と同価格で販売できると竹鶴を説得。1956年、新二級ウイスキーの丸びんウヰスキー(通称、丸びんニッキー)を、業界首位の寿屋の主力商品、トリスウイスキーと同価格で発売した。積極的なセールス活動を行った結果、実際にニッカの二級ウイスキーの売り上げは1年で倍増し、ニッカの販売額も業界3位から2位に浮上した。またこれにより他社のセールス活動も激化。ウイスキー販売戦争となった。当時、洋酒ブームが起きており、ニッカ以外も含めた日本でのウイスキー消費量全体も増加した。
1959年、筆頭株主の朝日麦酒が資本投下を行い、西宮工場が竣工。(より厳密には竣工当時の西宮工場は朝日麦酒100%子会社の朝日酒造の工場で、ニッカとは同一グループ企業で社長が兼任(竹鶴政孝)というだけで、直接的な資本関係はなかった)1963年にはここでグレーンウイスキーが製造できるようになり、ブレンドの幅が広がった。なお、グレーンウイスキー製造設備は、1999年に仙台工場に移設された。
1964年、日本初のモルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドしたウイスキー、ハイニッカを発売。翌1965年には同じく2種のウイスキーをブレンドしたブラックニッカを発売する。
ハイニッカ、ブラックニッカに対し、業界首位のサントリーも対抗製品を発売して応戦。再びウイスキー販売戦争が起こった。
1969年には余市蒸留所に続いて2番目の蒸留所となる宮城峡蒸留所(仙台工場)が竣工。この工場の建設候補地を見学に来た際、創業者の竹鶴政孝が、この地を流れていた新川の流れを見て、突然、その水で水割りを作って飲みはじめ、その場で建設を決めたという。このとき、竹鶴はその川の名が新川ということを知らなかった。地元の人に川の名を尋ねると、にっかわという答えが返ってきたので、何故、既にニッカが工場を作ることが知られているのかと驚いたという逸話も残っている。
1989年、しばらく前に操業を停止していたスコットランドのベン・ネヴィス蒸溜所を買収。
2001年、過半数の株を持っていたアサヒビールがニッカの全株式を取得。完全子会社化し、ニッカは完全にアサヒビールグループの一員となった。
2002年、旭化成より酒類事業の製造部門を引き継ぐ。
2006年、協和発酵との合弁契約を解消したアサヒ協和酒類製造を合併。
[編集] ニッカウヰスキーの評価
2001年と2002年はニッカウヰスキーにとって、輝かしい年になった。
まず2001年2月、世界唯一のウイスキーの専門誌で1998年創刊の英国の「ウイスキーマガジン」主催によるウイスキーテイスティングBest of the Bestが、東京、エディンバラ(英国)、バーズタウン(米国ケンタッキー)において初めて開催され、なんとニッカシングルカスク余市10年が、錚々たる世界中のウイスキーを抑え、No. 1となった。この時、採点は投票箱に投票する方式で行われていたため、集計してみるまで誰も結果はわからなかった。その結果に関係者全員驚いたという。すなわち、これはニッカウヰスキーが世界一の評価を得たと言っていい。ちなみに、このときサントリーの響21年が第2位になっている。
続いて2002年、この結果を背景に、スコットランドのウイスキー愛好家の団体で、全世界に3万人の会員を擁する「ザ・スコッチ・モルト・ウイスキー・ソサエティ(SMWS)」が、ニッカウヰスキー余市モルトを会員頒布用のウイスキーに認定した。Cask No.は116-1から116-4まで。116は余市蒸溜所を表す固有の番号である。7月29日にエジンバラで開催された発表会で、竹鶴威相談役に頒布用第1号の記念ボトルが授与された。
テイスティングでの得点が高いことが直接その製品の優劣に結びつかないかもしれないが、SMWSで会員頒布用に余市モルトを選んだということは、ウィスキーの本場スコットランドで、本物と認められたということである。SMWSの選定基準は極めて厳しく、本場のスコッチ・ウイスキーでも簡単には認定されず、今までにスコットランド産以外で認定されたモルトは、隣国のアイルランドのブッシュミルズのみである。
さらに2007年、前述のウイスキー・マガジンの発行元であるパラグラフパブリッシング社の主催するウイスキーの国際コンテスト「ワールド・ウイスキー・アワードWWA)」において、世界最優秀賞「アワード」を受賞、ワールド・ベスト・ブレンデッド・モルト(シングルモルト)として「竹鶴21年」が選ばれ、同時にベスト・ジャパニーズ・シングルモルトとして「シングルモルト余市1986」が選ばれた。
そして2008年、WWAで最も競争の激しいシングルモルト部門で「シングルモルト余市1987」が世界最優秀賞を受賞した。
[編集] キング・オブ・ブレンダーズ
右手に大麦の穂を、左手にウイスキーのテイスティング用グラスを持つ男は、事実上、ニッカのマスコットキャラクターになっている。この男の絵は、1965年、ブラックニッカのラベルで初めて使用され、その後も数種のニッカ製ウイスキーのラベルに印刷され続けている。この男はウイスキー愛好家たちにはローリー卿と呼ばれ、17世紀の冒険家ウォルター・ローリーがモデルだといわれているが、2代目マスターブレンダーの竹鶴威によれば、実際のモデルはよくわからないという。また別の説によれば、19世紀、ウイスキーのブレンドの重要性を説いたW・P・ローリーであるともいわれている。2005年現在、ブラックニッカクリアブレンドのラベルは後者の説をとっている。像の向きは当初向かって右向きであったが、後に向かって左向きに変えられた。変えられた理由も不明だが、当時の広告に左、右を向いた2種類のウイスキーのボトルの顔が向き合う写真が使われており、ディスプレイ上の理由で2種類作られたもののうち片方が残ったものと考えられる。
[編集] 歴代マスターブレンダー
[編集] 製品一覧
[編集] ウイスキー
- 国産シングルカスクウイスキー
- 十年浪漫倶楽部 余市
- シングルカスク余市
- シングルカスク仙台宮城峡
- 国産モルトウイスキー
- シングルモルト余市
- シングルモルト宮城峡
- 竹鶴
- 国産ブレンデッドウイスキー
- 鶴
- ザ・ブレンド
- ザ・ブレンド 17年
- ザ・ブレンド セレクション
- ザ・ブレンド
- ニュー・ブレンド
- キングスランド
- スーパーニッカ
- スーパーニッカ 15年
- スーパーニッカ
- スーパーニッカ 和味(なごみ)
- フロム・ザ・バレル
- G&G白ビン
- オールモルト
- モルトクラブ
- ブラックニッカ
- ブラックニッカ 8年
- ブラックニッカ スペシャル
- ブラックニッカ クリアブレンド
- ハイニッカ
蒸留所あるいはインターネットのみでの数量限定販売となる「シングルカスク 余市」は「ウイスキーマガジン」主催のウイスキーテイスティングで高い評価を得ている。
シングルカスクウイスキーとは、1つの樽から取り出してボトルに詰めたウイスキーで、そのため樽によって個性が異なり、アルコール度数も60%(普通に売られているウイスキーは40%くらい)くらいになる。1つの樽からとれるウイスキーも限られることから市場にはあまり出回らない。
また、余市と仙台の各蒸留所で使用されている蒸留機の違いから、余市のシングルカスクは力強く、仙台のそれは柔らかくまろやかである。
ニッカでは下記の4種類の樽を使用して熟成させており、それぞれが独特な個性を引き出しているため、シングルカスクではその違いを楽しむことができる。
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- 新樽(ホワイトオーク材を使用した新品の樽)
- 活性樽(一度熟成に使用した新樽の内面を再度焦がした樽)
- バーボン樽(バーボン・ウイスキーの熟成に使用した樽)
- シェリー樽(シェリー酒の熟成に使用した樽)
[編集] ブランデー
- りんご系
- ニッカブランデーX.Oデラックス“白”
- ニッカブランデーX.O“白”
- ニッカブランデーV.S.O.P“白”
- ぶどう系
- ニッカブランデーX.Oデラックス
- ニッカブランデーX.O
- ニッカブランデーV.S.O.Pデラックス
- ドンピエールX.O.
- ドンピエールV.S.O.P.
- ドンピエールV.S.O.
- アランビック
[編集] 発泡性果実酒
[編集] チューハイ・缶カクテル
- アサヒ本チューハイ
- アサヒドライクーラー
- アサヒトロピカルサマー(夏限定)
- ブラックハイボール
- ハイリキ
- 旬果搾り
- 旬果搾りナチュリア
- カクテルパートナー
- ※ハイリキ、旬果搾りは、旭化成が製造・発売していた商品だったが、2002年に旭化成が酒類事業から撤退、アサヒビールが発売を引き継ぎ、ニッカウヰスキーが製造している。
- ※カクテルパートナーは協和発酵から引き継いだ商品で、アサヒビールと協和発酵の合弁(当初)による「アサヒ協和酒類製造」が製造していたが、2006年1月1日にニッカウヰスキーとアサヒ協和酒類製造が合併し、ニッカウヰスキーが製造権を引き継いだ。
- ※これらはアサヒビールの製品なので、工場の稼働状況によっては系列のアサヒ飲料の工場で生産される場合もある。アサヒビールの項目も参照。
[編集] 焼酎
- SAZAN(甲類焼酎)
- 2004年発売。仙台工場に於いて製造。
- 一番札(本格焼酎)
- 源氏(甲類焼酎)
- どんなもん大(甲類焼酎)
- 上記3銘柄は旭化成から引き継いだ商品。柏工場で生産する場合が多い。
- かのか(甲・乙混和焼酎。麦・米・芋の3種類)
- 玄海(本格焼酎。麦、蕎麦の2種類)
- ダイヤ(甲類焼酎)
- 大五郎(甲類焼酎)
- 上記4銘柄は協和発酵から引き継いだ商品。門司工場で生産する場合が多い。
[編集] 本社
- 東京都港区南青山五丁目4番31号
[編集] 工場
国内の工場(工場名の前の数字は商品に表示の製造所固有記号)
- 北海道工場(余市蒸留所):北海道余市郡余市町黒川町七丁目6番地[1]
- 仙台工場(宮城峡蒸留所):宮城県仙台市青葉区ニッカ1番地
- 西宮工場:兵庫県西宮市津門飯田町2番118号
- 弘前工場:青森県弘前市栄町二丁目1番1号
- 栃木工場:栃木県さくら市早乙女1765番地
- 柏工場:千葉県柏市増尾字松山967番地
- 門司工場:福岡県北九州市門司区大里元町2番1号※
- ※ - 旧協和発酵→アサヒ協和酒類製造門司工場。数字ではなく、“門司工場”、又は“M”と表示される場合がある。尚、アサヒ協和酒類製造土浦工場と旭化成大仁酒類工場(清酒、合成清酒を除く)はニッカ柏工場に統合された。
国内の工場は上記の7つだが、北海道工場と仙台工場はそれぞれ余市蒸留所(石炭を燃料とする直火炊ポットスチルを設置)、宮城峡蒸留所(ポットスチルは蒸気による加熱、また日本唯一、世界でも数少ないカフェ式蒸留機を設置)を併設しており、ニッカウヰスキーの中では重要な役割を持つ工場となっている。
この他、ニッカブランデー(ぶどう系、旧"黒"シリーズ)の原酒の一部はサントネージュワインの工場で生産される。
過去には大分県日田市に九州工場が存在したが、事業のリストラで閉鎖された。九州工場跡地は地元大分の焼酎メーカ、三和酒類の日田蒸留所になっている。
海外の工場
- ベン・ネヴィス蒸溜所(スコットランド)
- ドンピエール蒸留所(フランス、コニャック地方)
[編集] 脚注
[編集] スポーツ活動
創業者の竹鶴は地元のスポーツ発展にも力を注ぎ、スキージャンプ台の建設費用を拠出したり(現在、竹鶴の名を冠したジャンプ台がある)、自社にスキー部を設けるなどした。
スキー部には札幌オリンピック金メダリストの笠谷幸生や世界選手権代表経験のある東輝が所属していたが、1999年に廃部となった。