PWF
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PWF(太平洋レスリング連盟 Pacific Wrestling Federation ピー・ダブリュー・エフ または ピー・ダブル・エフ)は、1973年にロード・ジェームス・ブレアースを初代会長として設立されたプロレスリングのタイトル認定団体である。
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[編集] 概要
PWFは団体としての自主興行は行わず、全日本プロ・レスリング株式会社のタイトル管理部門として機能している(詳しくは後述)。
初代会長のロード・ジェームス・ブレアースは現在は名誉会長職に就任し、第2代会長をスタン・ハンセンが務め、現在は馳浩(元プロレスラー/自由民主党代議士)が2007年7月15日付で第3代会長に就任し、現在に至っている。
[編集] PWFの設立とその後
1972年に、力道山光浩の死後、百田家に保管されていたインターナショナル・ヘビー級選手権及びWWA世界ヘビー級選手権のベルトとして使用されていたチャンピオンベルトが、全日本プロレスを創立して間もないジャイアント馬場に寄贈された。
これを受け、全日本プロレスでは力道山ベルトを「世界ヘビー級選手権」のベルトとして使用することを決め、その王座争奪戦を開催した。
この新設王座争奪戦は、ジャイアント馬場とブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・デストロイヤー、ウイルバー・スナイダー、ドン・レオ・ジョナサン、パット・オコーナー、ボボ・ブラジルの八選手による勝ち抜き十番勝負という形で行われ、馬場が8勝2引分けという成績を収め(最初の対戦で引き分けたサンマルチノ、スナイダーには再戦で勝利)、初代世界ヘビー級選手権者となる。
1973年3月にハワイ州ホノルルを本部とするPWF(Pacific Wrestlimg Federation)設立を発表し、初代会長には馬場と旧知の仲であったハワイのプロモーターで元レスラーのロード・ジェームス・ブレアースが就任した。
そして、世界ヘビー級王座をPWF認定世界ヘビー級王座と改め、馬場をその初代王者に認定した。これがPWFの始まりである。
[編集] PWFの仕事
PWFは全日本プロ・レスリング株式会社の興行で行われる以下のタイトルマッチの管理と認定を行う。
外国人のロード・ジェームス・ブレアース氏及びスタン・ハンセン氏がPWF会長だった時代は、会長が年に数回、来日して直々に選手権試合に於いて試合前に認定証を読み上げ、又は試合終了後の表彰を自ら行うこともあった。会長が不在の時は全日本プロレスや関係マスコミ(日本テレビ等)の重役がPWF会長の代理人を務めるという形を取っていた。
現在は日本人の馳浩氏が会長職に在るので、基本的には馳氏が選手権試合の会場に来臨する場合には試合前の認定証の読み上げ及び試合終了後の表彰を直々に行う。
馳会長が政務等で不在の場合には、全日本プロレスの関係者が会長代理人として選手権試合に於いて一連の職務を執り行うシステムである。
- 三冠ヘビー級選手権(インターナショナル・ヘビー級王座・UN(ユナイテッド・ナショナル)ヘビー級王座・PWFヘビー級王座の統一王座)
- 世界タッグ選手権(PWF世界タッグ王座、インターナショナル・タッグ王座の統一王座)
- 世界ジュニア選手権(NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座の後継王座)
- アジアタッグ選手権
また、PWFルールと呼ばれるプロレスルールの管理も行う。PWFルールは全日本プロレスで行われる全ての試合に原則として適用される。このルールの大きな特徴は「反則裁定でも王座移動があること」である。当時の各団体のタイトルマッチは反則裁定では原則として王座移動がないものが主流であった。これはアメリカのルールが持ち込まれたもので、日本でも力道山時代には王者反則負け防衛の実例が数度存在する。
しかしジャイアント馬場が「反則でも負けは負け。王座の移動を認めるべき」と主張したことにより、PWFルールに盛り込まれた。実際、馬場自身がこのルールの適用により初代PWFヘビー級王座から陥落している(1978年6月1日に秋田県秋田市でキラー・トーア・カマタに敗れている)。場外カウントは10であり、新日本プロレスやNOAHが採用する20カウントと異なる(これはアメリカ合衆国ハワイ地区のルールと共通する)。
[編集] PWFヘビー級王座
PWF認定世界ヘビー級王座は、PWF設立後、程なくして全日本プロレスがNWAの臨時役員会にて加盟の認可がおり、『NWAテリトリーの中で「世界」を冠するタイトルは各階級1つのみ』という、NWA本部からの勧告でPWF王座から「世界」の文字を外すこととなった。ベルトは当初百田家から寄贈されたベルトがそのまま使用されていたが、これは力道山の体格に合わせて作られていたため、力道山より30cmほど長身の馬場が手に持つと玩具じみて見え、胴回りも相当苦しいものとなった。しばらくしてジャイアント馬場の身体のサイズでもしっかり目立つように作り直された。このベルトは何本かあり、その中の一本は金属部分が純金製である。
PWFヘビー級選手権への挑戦者はある程度実力のあるレスラーに厳選された。また、防衛戦も日本国内のみならず海外でも積極的に行われた。時にはNWAやAWA、WWWF(現WWE)の世界王者とダブルタイトルマッチを行うこともあった。このような選手権試合の積み重ねにより、PWFヘビー級王座は高い価値と伝統を身に付けた。
現在では三冠ヘビー級王座を構成するタイトルの一つだが、全日本プロレスの象徴としてのPWFヘビー級ベルトの価値は揺らぐことなく今日まで至っている。
なお、1970年代にはPWF認定USヘビー級王座も存在し、ザ・デストロイヤーがこれを保持して防衛戦を行っていたが、デストロイヤーの衰えとともに自然消滅していった。ミル・マスカラス、アブドーラ・ザ・ブッチャーも短期間保持していたことがある。
また、第1回のチャンピオン・カーニバルに際してマーク・ルーイン、キング・イヤウケア、カリプス・ハリケーンがそれぞれPWF認定の南半球ヘビー級、太平洋岸ヘビー級、南米ヘビー級の王者として登場したが、いずれもその後の発展はなく、この大会限りで自然消滅している。