第2次百年戦争
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第2次百年戦争(だいにじひゃくねんせんそう、Second Hundred Years' War、1689年~1815年)は、ヨーロッパ内の国境紛争と王位継承、主に北アメリカ大陸を舞台として南アジア・アフリカをふくむ海外植民地の争奪、そして、それらに起因するアメリカの独立・フランス革命・ナポレオン帝国を背景にイギリス(イングランド)とフランスの間で繰り広げられた一連の戦争の総称である。イギリスの歴史家J.R.シーリーの命名による。一連の戦争の結果、イギリスが優位に立ち、後世「パックス・ブリタニカ」と呼ばれる繁栄の時代の基礎を築いた。
目次 |
[編集] 呼称の由来
以上の2点により、中世末の英仏百年戦争(1339年~1453年)になぞらえて呼称される。両者はともに、特定の戦争を指すのではなく、当事国同士の一連の戦争、あるいは戦争と休戦とを繰り返している状態そのものを指す呼称である点でも共通している。イギリスの歴史家ジョン・ロバート・シーリーが『英国膨張史』(1883年)のなかで名づけたのが始まりだとされている。
[編集] 前史
[編集] 海上権の推移
[編集] スペインの盛衰
1571年にレパントの海戦でオスマン帝国の海軍を撃破し、同年マニラを建設、さらに1580年にはポルトガルを併合して新旧両大陸に広大な植民地を有し「太陽の沈まぬ国」とよばれたフェリペ2世(在位:1556年 - 1598年)時代のスペインだったが、1588年にはエリザベス女王(在位:1558年 - 1603年)統治下のイングランドに上陸作戦を企てたものの、アルマダ海戦で敗北を喫した。イングランドでは1600年に東インド会社が結成され、こののちマドラス(1639年)、ボンベイ(1661年)、さらにカルカッタ(1690年)を拠点にしてインド経営に乗り出した。北米大陸では1607年ヴァージニア会社によってヴァージニア植民地がつくられ、1619年にはタバコ・プランテーションのためヴァージニア植民地に黒人奴隷を輸入した。
[編集] オランダの勃興
いっぽう15世紀以来ハプスブルク家の所領で、カルロス1世(在位:1516年 - 1556年)・フェリペ2世の時代を通してスペイン領となっていたネーデルラントでは1568年より八十年戦争がはじまった。これは無敵艦隊の敗北とともにスペイン没落の契機となった。それに代わって世界の海上権を握ったのが1581年にスペインからの独立を宣言し、三十年戦争後のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約、1648年)で正式に独立が承認されたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)であった。
オランダは1602年にオランダ東インド会社を設立して、ジャワ、スマトラ、モルッカを植民地とし、香料貿易をさかんにおこなって、その拠点をバタヴィアに置いた(1619年)。さらに、台湾南部のゼーランディア城(1624年)、北米のニューアムステルダム(1626年、西インド会社の設立は1621年)、南アフリカのケープ植民地(1652年)、南アジアではセイロン島のコロンボ(1656年)などを拠点に海外に勢力を拡大する。これによってアムステルダムはリスボンに代わって西ヨーロッパ最大の商業・金融都市として発展した。アベル・タスマンによる南太平洋探検(1642年 - 1644年)もおこなわれ、日本に対しては1609年に平戸に商館を置き、1639年のポルトガル船来航禁止(鎖国の完成)以後はヨーロッパで唯一の貿易国として対日貿易を独占した。
[編集] 英蘭の抗争とオランダの転落
その間、イングランドでは処女王エリザベスに後継者がいなかったことから、スコットランドよりステュアート家のジェームズ6世をイングランド王として招いた(ジェームズ1世、在位:1603年 - 1625年))。しかし、王権神授説の信奉者である王と議会とはしばしば対立し、1621年には「議会の大抗議」が起こって、このとき大法官フランシス・ベーコンも告発されている。なお、1623年にはアンボイナ事件が起こってマラッカ以東の東南アジア・東アジアのイングランド勢力はオランダ勢力によって駆逐され、同年、平戸商館を閉鎖して日本との交易からも撤退している。これ以後、イングランドは既述のとおりインドへの進出に専念するようになる。
次のチャールズ1世(在位:1625年 - 1649年)の代になっても権利の請願(1628年)、スコットランド反乱(1639年)、議会の大諫奏(1641年)など政治の混迷は続き、王と議会の対立はついに内戦へと発展(ピューリタン革命)、1649年には国王チャールズ1世が処刑されてオリバー・クロムウェルによる共和政が始まった。
クロムウェルは、さまざまな特権や産業統制を廃止して商工業の発展に努力し、なかでも1651年にはオランダの仲介貿易における覇権の打倒を企図して航海条例を発布し、英蘭戦争|(第1次、1652年 - 1653年)を引き起こしてオランダの海上権に打撃を与えた。
王政復古後、イングランド軍が北米オランダ植民地ニューアムステルダムを占領したことを発端として、チャールズ2世(在位:1660年 - 1685年)を戴くイングランドとヨハン・デ・ウィット率いるオランダとの間で第2次英蘭戦争(1665年 - 1667年)が起こった。戦争の結果、ニューアムステルダムはイングランド領となり(現ニューヨーク)、オランダは北米における拠点を失うこととなった。
これにより、オランダは大西洋の海上権を失い、転落傾向をみせるが、その理由としては以下の諸点が考えられる。
- オランダの主力商品であったアジアの香辛料の人気が落ちたこと
- イングランドの主力商品であったインド産の綿布(キャラコ)が大流行しはじめたこと[1]
- 3次にわたる英蘭戦争とフランスによるネーデルラント継承戦争(南ネーデルラント継承戦争とオランダ戦争)で国力を消耗したこと
- 依然として豊かなオランダ資金がイングランドの産業に投資されるようになったこと
[編集] 英蘭抗争の終結
第3次英蘭戦争(1672年 - 1674年)はフランスの始めたオランダ戦争(1672年 - 1678年)にイングランドが協力する形で始まった。1673年、イングランドとフランスは大艦隊を組織してオランダを襲ったが、オランダの名提督デ・ロイテルに撃退された。こののちオランダ総督オラニエ公ウィレム3世(のちのイングランド王ウィリアム3世)はオーストリア・スペインと同盟を結んでフランスを包囲、フランス軍を撤退させた。戦局ふるわず、財政危機に陥ったフランスは、1675年に多額の戦争資金を募り、スウェーデン=バルト帝国の参戦を促した。しかしスウェーデンのドイツ侵攻はドイツ諸侯の反感を買い、その最前線にあったブランデンブルク選帝侯はオランダと同盟を結んで対抗した。ブランデンブルク=プロイセンの興隆は、のちの英仏の両国関係にも大きく影響を及ぼすこととなる。
さらに、イングランド議会では、オランダがフランスの手に落ちればイングランドはフランス重商主義によって経済的に屈服させられる、という声が高まり、チャールズ2世に親仏路線の撤回を求めた。このため、1677年にチャールズ2世は弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)の娘メアリ(のちのメアリ2世)をウィレムに嫁がせて同盟を結んだ。
[編集] 絶対王政と議会王政
[編集] フランス絶対王政の成立
30年余におよぶユグノー戦争(1562年 - 1598年)はフランス国内を荒廃させたが、アンリ4世(在位:1589年 - 1610年)が即位してブルボン朝が始まり、1598年にナントの勅令を発布して国内の宗教対立に終止符を打った。これによりフランス絶対王政の基礎がつくられる。1604年にはフランス東インド会社が設立され、1608年にはケベック市が建設されてカナダ植民の拠点となった。
次のルイ13世(在位:1610年 - 1643年)は三十年戦争に介入、フランスは旧教国でありながら新教側に立って参戦した。この戦争は、ドイツの荒廃、主権国家体制の成立、神聖ローマ帝国の有名無実化、そしてオランダ・スイスの独立を招いた戦争であったが、ブルボン家にとっては宿敵であったオーストリア・スペイン両ハプスブルク家に対して優位性を獲得した戦争でもあった。なお、1642年にはカナダにモントリオール市が建設されている。
フランス最後の貴族の反乱となったフロンドの乱(1648年 - 1653年)が平定されたのちの1661年には、太陽王ルイ14世(在位:1643年 - 1715年]])の親政が始まり、同年ヴェルサイユ宮殿の造営も開始している。
「朕は国家なり」の言葉で知られるルイ14世は、「領土の拡大は最も気持ちの良い仕事である」と豪語して自然国境説にもとづき、たび重なる侵略戦争をおこなった。南ネーデルラント継承戦争(1667年 - 1668年)、オランダ戦争(オランダ侵略戦争、1672年 - 1678年)そして第2次百年戦争の皮切りとされるプファルツ継承戦争である。いっぽう東洋進出においても、コルベールが1664年東インド会社を再組織して本格化し、インドではシャンデルナゴル(1673年)やポンディシェリ(1674年)を根拠地としてイングランドに対抗しようとした。また、北米では1682年にミシシッピ川流域一帯のフランス領ルイジアナへの植民が始まった。「ルイジアナ」の地名は、太陽王の名にちなんでフランス人ラ・サールによって命名されたものである。
[編集] イギリス議会王政の成立
王政復古ののちもチャールズ2世はカトリック官僚を採用するなど旧教の復活を企図し、極端な反動政治を行ったため、議会は審査律(1673年)や人身保護律(1679年)を発してそれを牽制した。さらに次のジェームズ2世(在位:1685年 - 1688年)も同様の専制政治をおこなったため、ついに議会は1688年王を廃位し、プロテスタントの熱心な信者でチャールズ1世の外孫にあたるオランダ総督ウィレム3世(ウィリアム3世)とメアリ(メアリ2世)の夫婦をむかえて「権利の宣言」を認めさせた。この政変は、流血の惨事なくおこなわれたことから名誉革命と呼ばれている。ウィリアムとメアリは翌年権利の宣言を「権利章典」として発布し、イングランドはこれを機会に立憲君主国へと変貌を遂げた。
1688年、ルイ14世がドイツのプファルツ選帝侯国に対し、王弟オルレアン公の妃の継承権を主張して戦争をおこした(ファルツ継承戦争)。これに対抗してイングランド、スペイン、オランダ、オーストリアはアウグスブルク同盟を結んでフランスのプファルツ継承を阻止した。第2次百年戦争では時のイングランド王ウィリアム3世にちなんでウィリアム王戦争とも呼んでいる。
[編集] 「絶対王政」対「議会王政」
第2次百年戦争は大西洋経済の覇権をめぐる英仏間の抗争を基調とするが、政体のうえでみるとヴェストファーレン体制(主権国家体制)成立後の「絶対王政フランス」対「議会王政(立憲王政)イギリス」の戦いという見方もできる。
フランス絶対王政の特徴を以下に列挙する。
- ボシュエらの王権神授説をとる典型的な絶対主義王政
- 貴族を王の経済的保護の下に置き、かれらの政治的権力を奪うことで確立した中央集権体制
- 宰相を中心とする官僚制の整備(地方知事も中央政府の任命)
- ヨーロッパ最大の常備軍(ル・テリエとルーヴォアの兵制改革)
- 身分制議会を完全に無視(1614年以後、1789年まで三部会開かれず)
- 王室財政の安定を目的とした重商主義政策
それに対し、イギリス(イングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立)では1714年にジョージ1世が即位しハノーヴァー朝が成立すると「王は君臨すれども統治せず」の原則が成立し、1721年にはホイッグ党のウォルポール内閣が成立して議院内閣制のしくみが整った。
この両者の体制の違いは一連の英仏抗争である第2次百年戦争の帰趨にも影響を与えた。
[編集] 大西洋経済
- ヨーロッパ経済の成長
16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ経済は以下のような諸点で大きく変化した。
- 中世には地中海地域を中心としていたヨーロッパ経済は、あらたに大西洋に面する西ヨーロッパにその中心を移した。
- 「17世紀の危機」とよばれた17世紀をのぞき、この時期のヨーロッパは人口が増加し、食糧や衣服の需要が増えた。そのため、とくに農業や毛織物などの産業に熱心であったフランス・ネーデルラント・イングランドでは経済が活性化した。
- 経済活性化の背景には、大航海時代以来のヨーロッパ世界の拡大があった。とりわけ西欧を要に、アフリカやカリブ海・北アメリカを結ぶ人と物の貿易連鎖、いわゆる三角貿易のかたちをとった「大西洋経済システム」が18世紀までに成立したのである。
- 大西洋の三角貿易
北米大陸の北部にはフランス人やイングランド人が入植して、狩猟や毛皮の売買をおこない、漁業や農業を自営していたが、北米大陸の南部やカリブ海の西インド諸島では、スペイン・フランス・イングランドなどからやってきたプランター(大農場主)が、サトウキビ・コーヒーなどを先住民の強制労働を用いて、西欧人の需要のために栽培した。これがプランテーションである。先住民インディオの多くは病死し、原綿やタバコのプランテーションもおこなわれたため、その労働力としてアフリカから大量の黒人奴隷が輸入された。
当時のアフリカ西海岸では、部族間の対立が続いていた。そこに奴隷商人がきて、部族間戦争の捕虜を奴隷として買い入れ、火器や工業製品を販売した。こうして部族間の奴隷狩りを目的とする戦争は激しさを増し、アフリカ社会は荒廃し、人口は激減した。また、大西洋をわたる奴隷船では不衛生で非人道的な扱いがなされ、病死したり衰弱死したりするアフリカ人も多かった。
北米・カリブ海域のプランターや西アフリカの部族が購入した火器・織物・ラム酒・雑貨などは西欧で製造されたものであり、大西洋経済の利益は西欧の商工業にもたらされた。この利益をどの国が掌握するかをめぐり、西欧諸国のあいだで戦争が続いたのであり、そのなかでも第2次百年戦争はとくに長期にわたるものであった。
[編集] 経過
局面 | 欧州での戦争 | 北米での戦争 | その他の係争 | 講和条約・戦後処理 |
---|---|---|---|---|
1 | ファルツ継承戦争(1688年~1697年) | ウィリアム王戦争(1689年~1697年) | - | ライスワイク条約(1697年) |
2 | スペイン継承戦争(1701年~1713年) | アン女王戦争(1702年~1713年) | - | ユトレヒト条約(1713年)・ラシュタット条約(1714年) |
3 | オーストリア継承戦争(1740年~1748年) | ジョージ王戦争(1744年~1748年) | 第1次カーナティック戦争(1744年~1748年) | アーヘンの和約(1748年) |
4 | 七年戦争(1756年~1763年) | フレンチ・インディアン戦争(1755年~1763年) | プラッシーの戦い(1757年) | パリ条約(1763年)・フベルトゥスブルク条約(1763年) |
5 | - | アメリカ独立戦争(1775年~1783年) | - | パリ条約(1783年) |
6 | フランス革命戦争~ナポレオン戦争(1792年~1815年) | - | - | ウィーン議定書(1815年) |
第2次百年戦争の経過のあらましを表に示した。以下に簡単な経緯を記すが、それぞれの詳細は表中の各項目のリンク先を参照されたい。
[編集] プファルツ継承戦争/ウィリアム王戦争
フランスはストラスブールとサン・ドマング(現在のハイチ)を獲得、南インドのポンディシェリとカナダのノヴァスコシア(アカディア)を回復した。スペインはフランスに占領されたカタルーニャ・ルクセンブルクほかを回復し、長くフランス支配下にあったロレーヌ公国は神聖ローマ帝国領となる。イングランドは領土的に得たものはないが、ウィリアム3世がイングランド王として認められ、今後ルイ14世がジェームズ2世を援助しないことを約束した。スウェーデンは、プファルツ家の継承地プファルツ=ツヴァイブリュッケン公国をフランスより主権奪回した。
[編集] スペイン継承戦争/アン女王戦争
スペインとフランスが合同しないことを条件に、フェリペ5世(ルイ14世の孫)のスペイン王位継承が承認されてブルボン朝スペイン王国が成立する。スペインはジブラルタルとメノルカ島をイギリスに、ミラノ公国・ナポリ王国・サルデーニャ・南ネーデルラントをオーストリアにそれぞれ割譲し、フランスはアカディア・ハドソン湾地方・ニューファンドランド島などの北米植民地をイギリスへ譲渡した。ブルボン家としては、王冠ひとつを得るために数多くの領土を失う結果になった。ユトレヒト条約ではまた、イギリスがスペイン植民地に対する奴隷貿易独占権を獲得した。これは砂糖貿易とともに莫大な利潤を得てリヴァプールやマンチェスターに資本が蓄積されることとなった。
- この戦争に先立ち、イングランド議会とスコットランド議会が合同してグレートブリテン王国が成立している(1707年)。
[編集] オーストリア継承戦争/ジョージ王戦争
オーストリアはプロイセンにシュレージエン地方を、スペインにパルマ・ピアチェンツァを割譲、各国はマリア・テレジアの相続人としての所領の不可分を定めた国事勅令を確認した。北米では、ニューイングランド植民地軍がカナダ東部の要衝ルイズバーグ要塞を陥落させたが、アーヘンの和約によって返還。せっかくの植民地軍の奮闘もイギリス本国の国益のために無視された格好となった。
- ムガル朝インドではカーナティック戦争が英領マドラスと仏領インドの首都ポンディシェリとの間で3次にわたって繰り広げられた。南インド東海岸の貿易拠点、荷物の集散地をめぐって争われ、オーストリア継承戦争後も続いた。最終的にはイギリス側の勝利に終わり、ポンディシェリは陥落した(1763年)。
[編集] 七年戦争/フレンチ・インディアン戦争
マリア・テレジアはシュレージエン奪回を企図して外交革命をおこない、宿敵であったフランスと防御同盟(1756年)を結んでフリードリヒ2世のプロイセンに対抗したが、結果はシュレージエンのプロイセン領有を再確認にするにとどまった。北米大陸では、これより先に戦闘が始まっており、本国の支援を受けたイギリスの北米13植民地軍がインディアンと連合したフランス勢力に勝利した。1763年のパリ条約では、カナダおよびミシシッピ川以東のルイジアナがフランスからイギリスへ、フロリダがスペインからイギリスへ割譲された。なお、ミシシッピ川以西のルイジアナはフランスからスペインに割譲されている。ここに、フランスは北米植民地のすべてを失うこととなり、イギリスの大西洋での覇権が確立した。インドでも、フランスのインド提督デュプレクス召還後にイギリス東インド会社書記ロバート・クライブ率いる英軍が、フランス・ベンガル土侯連合軍を撃破してイギリスのインドでの覇権が確立した。アフリカ大陸西部のセネガルもフランスからイギリスに割譲された。
[編集] パリ条約(1763年)後の大西洋世界
- ジブラルタルとメノルカ島
- ユトレヒト条約(1713年)で地中海航行の中継地としてイギリスがスペインから獲得→メノルカ島は、アメリカ独立戦争後(1783年)にスペインに返還。ジブラルタルは現在もイギリス領。
- セネガル
- パリ条約(1763年)で奴隷の供給地としてイギリスがフランスより獲得→アメリカ独立戦争後にフランスに返還(1783年)
- ルイジアナとフロリダ
- パリ条約(1763年)でイギリスはフランスから東西ルイジアナを獲得したが、穀物の輸出地として必要なスペイン領フロリダと西ルイジアナを交換→フロリダは、アメリカ独立戦争後にスペインに返還(1783年)・西ルイジアナは、1800年ナポレオンによりフランスが奪回→アメリカ合衆国が西ルイジアナをフランスから(1803年)、フロリダをスペインから(1819年)それぞれ購入
[編集] プラッシーの戦い(1757年)後のアジア
東インド会社は設立当初から1640年頃までは貿易がおもな業務であったが、やがて植民、さらに武力による領土獲得を主とするようになり、1680年代になると徴兵権、士官任命権、土侯に対する宣戦・交戦権を獲得した。しかし、プラッシーの戦いののちは、明らかにインド人に対する統治機関へと変貌を遂げた。
1764年のブクサールの戦いでベンガル地方を制圧し、1765年のアラハバード条約によってイギリス東インド会社がベンガル・ビハール・オリッサの地租徴収権を獲得した。徴税権を与えたムガル皇帝は、その代償としてイギリス政府から年金を受けることになった。1774年には初代ベンガル総督としてヘースティングスを赴任させて首市をカルカッタに置いた。さらに、4次にわたるマイソール戦争(1767年~1799年)は南インドの、3次にわたるマラータ戦争(1775年 - 1818年)は中部インドデカン高原の植民地化を推し進めるものであった。
フランスはインドからの撤退を余儀なくされることとなり、アジアではインドシナへの転進を図る。1775年フランス人宣教師ピニョーがコーチシナに上陸、1802年にはピニョーの援助により阮福映がユエを都として阮朝越南国を建国した。
[編集] 七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)が後世に与えた影響
- 17世紀の三十年戦争において樹立された(勢力均衡機構としての)「ヴェストファーレン体制」は18世紀中葉には完全に瓦解する(ただし、主権国家体制としてのそれは姿を変えながらも今日まで続いている)。
- フランスは北米植民地とインドでの拠点を失い、イギリスの覇権が確立する(第一次大英帝国の成立)。
- 英領アメリカ13植民地はフレンチ・インディアン戦争後の国王宣言線に激しく反発し、さらに、この戦争の戦費を植民地人に負担させるため、英本国政府は13植民地に対し、砂糖法・印紙法などの諸税を課そうとした。これがアメリカ独立革命の原因となった。北米大陸におけるフランス人勢力が一掃されたことによって、かえって英領植民地は本国からの安全保障を必要としなくなってしまい、これがアメリカ独立を促した側面がある。
- ルイ15世・ルイ16世統治下のフランスでは、度重なる外征の戦費と王家の豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。逼迫した財政状況を打開するため新税を導入しようとして三部会を招集したことがフランス革命勃発のきっかけとなった。
[編集] アメリカ独立戦争
1777年のサラトガの戦いに13植民地が勝利すると、イギリスとの植民地戦争に敗れたフランス・スペイン・オランダが相次いでイギリスに宣戦布告し、独立側に立って参戦した。さらにロシアのエカチェリーナ2世の提唱する武装中立同盟が、ロシア・プロイセン・ポルトガル・スウェーデン・デンマークによって結成され、イギリスは国際的に孤立していき、最終的には1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立を承認した。
[編集] フランス革命戦争~ナポレオン戦争
ルイ16世の処刑をきっかけに第1回(1793年 - 1797年)、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際の第2回(1799年 - 1802年)、ナポレオンの皇帝即位の際の第3回(1805年)、ナポレオンのロシア遠征失敗後の第4回(1813年 - 1814年)の4度にわたって対仏大同盟[2]が結成され、そのいずれにもイギリスが加わっている。なお、第1回大同盟はイギリス首相ピットの提唱によるものである。ヨーロッパ大陸制圧後のナポレオンはトラファルガー海戦の敗北ののち、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出してイギリス封じ込めを企図するが、成功しなかった。最終的には、ライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンが退位、ウィーン会議が開かれ、ブルボン朝が復活する。途中ナポレオンの百日天下もあったが、再開されたウィーン会議では、フランス外相タレーランが「正統主義」を主張、ヨーロッパの秩序はフランス革命以前の状態に復することとなった。
ナポレオン戦争はまた、イギリスの覇権をより強固なものにする契機となった。オランダが革命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスはケープ植民地やセイロン島、東インド(インドネシア)などオランダ植民地を次々に占領した。イギリス船はオランダ商館が置かれた長崎にまで来航し、フェートン号事件を起こしている(1808年)。ウィーン議定書によって東インドはオランダに返還されたが、セイロンやケープ植民地は返還されず、イギリスは1815年セイロン島内陸部のカンディー王国を征服してセイロン植民地を成立させた。
[編集] 結果
[編集] イギリスの勝利
この一連の抗争では、七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)によってイギリスの優位が明らかになった。大英帝国の成立である(アメリカ独立以前を「第一次帝国」または「旧帝国」、独立以後を「第二次帝国」または「新帝国」と呼ぶことがある)。一方のフランスは北米植民地とインドでの拠点をともに失い、国内では絶対王政のゆきづまりが明らかとなって、フランス革命以後パリ・コミューンの終結に至るまで政治的激動の時代が続いた。
[編集] なぜイギリスが勝利したか
- 議会の承認により税収のほとんどを軍事費に投入できた(フランスは国王の浪費も財政に影響した)ため
- 議会が保証するイギリス国債の信用が高く、臨時の資金調達能力もすぐれていたため
- アンシャン・レジーム下のフランスでは徴税権をもつ貴族が多く、国庫収入が少なかったため
すなわち、イギリスの戦費調達能力がフランスのそれを大きく上回っていたと見なすことができる。加えて、フランスがユトレヒト条約などにみられるように王位・王権に対する執着が強く、冷静に国益を見据えた外交政策を持たなかった点も指摘できる(ただしこれには異論もある)。
[編集] 影響
- フランス革命のさなかの1791年、フランス領サン・ドマンゴではトゥーサン・ルーヴェルチュールらの黒人反乱が起こり、1804年には黒人国家ハイチがフランスから独立した(ハイチ革命)。
- 植民地への課税強化によって戦費を調達しようとしたのは英仏だけではなくスペインも同様であった。スペイン植民地ではハイチの黒人革命をおそれ、現地の白人(クリオーリョ)に譲歩することでこれを乗り切ろうとしたが、ナポレオン戦争によってスペイン本国が混乱。アメリカ独立革命やフランス革命の理念も強い影響を与えて独立運動がおこり、1811年にはパラグアイが独立、以後アルゼンチン(1816年)、チリ(1818年)、大コロンビア(1819年)、メキシコ・ペルー・グアテマラ・ホンジュラス・エルサルバドル・ニカラグア・コスタリカ(いずれも1821年)などラテンアメリカ諸国が独立した。アメリカ合衆国のモンロー宣言やイギリスのカニング外交は独立運動を後押しした(ラテンアメリカ諸国の独立)。
- フランスとの植民地獲得競争での優位を確実にしたイギリスは、植民地貿易の利潤をよりいっそう蓄積することが可能となった。このことは18世紀後半から19世紀前半にかけてイギリスで産業革命を促した要因のひとつとなった(イギリス産業革命)。
- 最初に産業革命を進めたイギリスは、植民地や他国から原綿・羊毛などを輸入し、代わりに工業製品を輸出したため「世界の工場」と呼ばれるようになり、「世界の一体化」が急速に進展した。
- 19世紀中頃、いちはやく産業革命を達成し、自由主義的諸改革を実現したイギリスはヴィクトリア朝に繁栄の時代を迎え、国際的にはパックス・ブリタニカの時代へと突入した。
- アメリカ大陸の植民地とインドにおける拠点を失ったフランスはアルジェリア、西アフリカ、インドシナへの進出を図るようになった。
- 英仏間の長い抗争を経て醸成された自由主義と国民主義の思潮は、イタリア・ドイツの統一などにも強い影響を与えた。
[編集] 覇権成立後のイギリスの海外進出
- インドで覇権を確立させたイギリスは、オランダの影響力が弱体化した東南アジアにも再び進出した。1819年にシンガポール港を創設し、1826年にはペナン、マラッカを含む海峡植民地を成立させた。イギリスはさらにマレー半島のスルタン諸国を保護領化して19世紀末には英領マラヤ(マレー連合州)を成立させた。また3次に及ぶ英緬戦争によってコンバウン王朝を破り、1886年にはビルマをインド帝国に併合した。
- イギリスは中国の広東開港によって1711年には広州に商館を設立し、中国茶を輸入する広東貿易に従事していたが、18世紀中葉以降の本国での紅茶ブームにより貿易赤字が急増したため、インドのアヘンを中国に売り込み、清朝との間でアヘン戦争(1840年 - 1842年)を引き起こした。
- 1788年に囚人植民地としてはじまったオーストラリア、「組織的移民」の行われたニュージーランドが、それぞれ1901年、1907年に自治植民地となり、カナダなどともにイギリス連邦を構成した。
[編集] その後の大国間抗争
こののちイギリスは、ヴェストファーレン体制瓦解後のヨーロッパにおいて北方および東方の覇権を確立したロシア帝国との間で「グレート・ゲーム」と呼ばれる長い抗争を繰り広げることとなる。これは主に中央アジアの覇権をめぐるイギリス帝国とロシア帝国の間の長期にわたる敵対関係と戦略的抗争を指しており、アーサー・コノリーが命名した言葉といわれている。初期のグレート・ゲームは、一般には、ナポレオンのモスクワ遠征後の1813年頃から1907年の英露協商までの期間を指している。ロシア革命(1917年)以後、英露は再び敵対することとなったが、初期ほど対立の度合いは激しくなかった。
[編集] 関連項目
[編集] 脚註
- ^ 香辛料は消費・需要が限られていた。綿製品は潜在的需要がはるかに高かったのみならず、粗布を輸入して加工・再輸出するという産業を興す基盤にもなった。もっとも、イギリス東インド会社は初めから長期的展望をあてこんでキャラコを選んだわけではなく、香辛料の買い付けから締め出され、船倉を満たすためにやむを得ず持ち帰ったキャラコが当たったのである。浅田「産業革命と東インド貿易」、第5章『香料よりキャラコへ』.
- ^ より詳細な数え方では7回となる。詳しくは対仏大同盟を参照されたい。