オリバー・クロムウェル
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オリバー・クロムウェル Oliver Cromwell |
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護国卿(Lord Protector)
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任期: | 1653年12月16日 – 1658年9月3日 |
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出生: | 1599年4月25日 イングランド、ハンティンドン |
死去: | 1658年9月3日(満59歳没) イングランド、ホワイトホール |
政党: | 独立派 |
オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599年4月25日 - 1658年9月3日)は、イングランドの政治家、軍人であり、「共和政イングランド」(en)の初代護国卿である。
[編集] 生涯
イングランド東部・ハンティンドン州のピューリタンでありジェントリ階級の地主の家庭に生まれる。大伯父にヘンリー8世の元で「行政革命」を実施した政治家トマス・クロムウェルを持つ名家であった。ケンブリッジ大学で学び、1628年に庶民院議員となる。1629年の議会解散後、また故郷に帰って治安判事となり、1631年に土地を売ってセント・アイヴズに移り、牧場を経営したが、1638年エリーに移った。
クロムウェルは1640年の短期議会及び長期議会にはケンブリジから選出された。清教徒革命では議会派に属し、鉄騎隊を指揮してエッジヒルの戦いやマーストン・ムーアの戦いで活躍し、議会派が鉄騎隊をモデルに組織した新型軍の副司令官となり、ネイズビーの戦いで国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導いた。内乱の終結後議会は軍の解散を求めるが、クロムウェルは議会派の中でも国王との妥協を赦さない独立派に属し、妥協を求める長老派と対立しており、長老派を追放したクロムウェルは独立派議員による議会を主導、1648年に再び決起したチャールズ1世を処刑し、1649年5月に共和国(コモンウェルス、en)を成立させた。
共和国の指導者となったクロムウェルは、急進的な水平派を弾圧、中産市民の権益を擁護する姿勢を取るようになる。重商主義に基づいた政策を示し、同時に貴族や教会から没収した土地の再分配を行った。
カトリックのアイルランドやスコットランドは1649年から1651年にかけて反議会派の拠点であった。クロムウェルは総司令官兼総督に任ぜられて侵攻を始め、1649年ダブリンに上陸、続いてドロゲダ、ウェックスフォードを攻め、各地で住民の虐殺を行う。アイルランドはクロムウェルの征服により、以後はイングランドの植民地的性格が強い土地となる。1650年の後は後事をアイアトンに託して帰英し、チャールズ1世の皇太子チャールズがスコットランドに上陸したのを討つため、7月フェアファックスにかわり総司令官としてスコットランドに遠征した。
1651年の「クロムウェル航海法」とよばれる航海条例の制定には、クロムウェル自身は関わっていない。しかしこれが議会を通過したことによってオランダの中継貿易を制限することになり、英蘭戦争の引き金になった。
中産市民は王党派による反革命の可能性もあったため、クロムウェルの事実上の独裁を支持した。クロムウェルは1653年に議会を解散させて終身護国卿(護民官)となり、次のような対外政策を展開した。1654年オランダと講和し、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと通商条約を結ぶとともに、スペインに対する攻撃を開始し、ジャマイカを占領した。その後、1655年フランスと和親通商条約を結び、1657年これを同盟条約に発展させ、1658年英仏連合軍がダンケルクを占領した。
一方、国内においては成文憲法である「統治章典」に基づき1654年に招集した第一議会を1655年1月には解散させ、全国を11軍区に分けて軍政長官を派遣し、純然たる軍事的独裁を行った。議会によって国王への就任を2度にわたって望まれるが、これを拒否して護国卿の地位のまま統治にあたった。しかし1658年にクロムウェルがマラリアで死亡すると、跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルはまもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろした。
その後、長老派が1660年にチャールズ2世を国王に迎えて王政復古を行うと、クロムウェルは反逆者として墓を暴かれ、生存していた妻子は斬首刑に処された(リチャードは亡命している)。
ウェストミンスター宮殿正門前に、鎧姿で剣と聖書を持ったクロムウェルの銅像がある。
[編集] 関連項目
- ヘンリー・アイアトン(娘婿)
- クロムウェル (1970年 監督:ケン・ヒューズ)