チャールズ1世 (イングランド王)
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チャールズ1世(Charles I, 1600年11月19日 - 1649年1月30日)は、イングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1625年 - 1649年)。ジェームズ1世の次男としてスコットランドのダンファームリンに生まれた。兄ヘンリー・フレデリック・ステュアートが亡くなったため、1611年にプリンス・オブ・ウェールズに叙位された。
1625年3月、父ジェームズ1世の死去に伴い王位を継承。6月にはフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアと結婚した。しかし、カトリック信者を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった。
チャールズは父同様王権神授説を信奉し、議会と対立した。1628年、議会に「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。これに対しチャールズは一旦は請願受託の署名を行うが、翌年議会を解散、議会の指導者を投獄し、専制政治を行った。
この間チャールズは、カンタベリー大主教ウィリアム・ロード(William Laud)の助言で国教統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧した。ロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで各地に反乱が起きた。1640年、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった(短期議会・長期議会)。1642年1月、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗。ついに議会派と王党派の内戦が勃発した(イングランド内戦、ピューリタン革命)。
内戦は当初、互角あるいは王党派が優位であったが、オリヴァー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍で王党派が各地で打ち破られた。1646年5月、チャールズはスコットランド軍に降伏し、囚われの身となった。一旦は脱出したものの、1648年11月、チャールズは再び議会軍に投降した。
1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告された。1月30日、自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で、チャールズは斬首された。
[編集] 関連項目
- ダルタニャン物語 - 『二十年後』に登場。ダルタニャンや三銃士はチャールズ1世を救おうとしたが失敗する。
- アラトリステ-1巻に登場。主人公ディエゴ・アラトリステ・イ・テノーリオに命を救われる。
先代: ジェームズ1世 |
イングランド王・アイルランド王 1625年 - 1649年 |
次代: チャールズ2世 |
スコットランド王 1625年 - 1649年 |