議会の大諫奏
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議会の大諫奏(ぎかいのだいかんそう)または大抗議文(だいこうぎぶん)は、1641年、スコットランド反乱鎮圧の軍費入手のためにイングランド・スコットランド同君連合の君主であるチャールズ1世が召集したイングランド議会において、議会が国王に対して提出した諫奏(忠言)、抗議文。
[編集] 概要
チャールズは父イングランド王同様王権神授説を信奉し、議会と対立した。1628年、議会より「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることが求められた。これに対しチャールズはいったんは請願受託の署名をおこなったものの、翌年議会を解散、議会の指導者を投獄して"Eleven-years' Tyranny"(専制の11年間)とよばれる専制政治をおこなった。
この間チャールズは、カンタベリー大主教のウィリアム・ロードの助言で国教による国家統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧した。ロードの政策により、スコットランドにも国教を強制するにおよんでスコットランド各地で反乱が起きた。1640年、反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を召集したが、議会は国王批判の場と化し、1641年11月、議会は大諫奏を国王チャールズ1世に対して提出した。
この諫奏(抗議文)は急進的な内容をもっていたため、全議員に支持されているわけではなかった。可決したものの票差は159対148と僅差であった。これにより、議員は「国王派」と「議会派」に分裂し、つづいて12月に議会が民兵条例を可決すると、チャールズの側近はこれを「議会による絶対主義」であるとして激しく非難した。こうした状況を受けてチャールズは翌1642年1月に議会派の中心人物の逮捕を命じ、議会に対する武力干渉を開始した。ロンドン市民が議会派についたため、身の危険を感じた王がロンドンを離れると、国内は国王軍と議会軍に分かれてイングランド全土を巻き込む内戦が勃発した(清教徒革命)。