ライン宮中伯
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ライン宮中伯( - きゅうちゅうはく)は、神聖ローマ帝国の諸侯。ドイツ西部のライン地方を支配した。また、選帝侯のひとりとして国王選出権その他の特権を有した。別名プファルツ(ファルツ)選帝侯(Kurpfalz)、プファルツ(ファルツ)伯(Pfalzgraf)。
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[編集] 名称に関して
ライン宮中伯は時代によって、また人によって、様々な呼ばれ方をしている。定訳がないのではなく、そもそも定まった名称がない。
恐らく本来の名前はロートリンゲン宮中伯であった。宮中伯は皇帝によって各地に置かれた、いわば大諸侯の監視役である。ロートリンゲン宮中伯は10世紀初め頃にライン川沿いのザリエル家領がビドガウ伯のヴィゲリックという貴族に与えられて始まった。
しかしやがてその支配権は縮小し、ライン川中流域の両岸に限られるようになった。このため、11世紀末頃からはライン宮中伯の名で呼ばれるようになる。
一方、各地に置かれた宮中伯たちは、13世紀半ば頃にはライン宮中伯を除いて他の諸侯に併呑されて姿を消した。このため、単に「宮中伯」(Pfalzgraf)といえばライン宮中伯のことを指すようになる。また、同時にその領域も「プファルツ」(ファルツ)と呼ばれるようになっていった。Pfalzgrafを「プファルツ伯(またはファルツ伯)」と訳すこともあるが、「プファルツ」が地名化したため、「プファルツという土地の伯」と解されたためであろう。しかしプファルツは本来地名ではないのだから、この訳は厳密には誤りである。
ライン宮中伯は選帝侯となり、その権利は1356年の金印勅書で明文化された。このため、「宮中(伯)」を表すPfalzという言葉に「選帝侯」(Kurfürst)あるいはそれを表す接頭辞Kur-をつけて、Kurfürst von der PfalzもしくはKurpfalzと呼ばれるようになった。従って「宮中伯選帝侯」という意味であるが、日本語では「プファルツ(ファルツ)選帝侯」と訳すのが通例となっている。
[編集] 歴史
[編集] ヴィッテルスバッハ以前
[編集] ヴィッテルスバッハ家のライン宮中伯
1214年、ヴェルフェン家のハインリヒ5世の死去により、ライン宮中伯のヴェルフェン家は断絶、ヴィッテルスバッハ家のオットー2世に譲渡された。オットー2世は後に父親からバイエルン公位を相続している。その後の継承はややこしいが、結局オットー2世の長男ルートヴィヒ2世の長男アドルフの子孫がライン宮中伯位と選帝権を保持することとなった。
宗教改革においてライン宮中伯はカルヴァン派を支持、1608年にはプロテスタント諸侯を糾合して新教連合を結成、1619年にはカトリックのハプスブルク家の支配を嫌うプロテスタントのボヘミア貴族からライン宮中伯フリードリヒ5世がボヘミア王に選出された。これが三十年戦争の始まりである。しかしフリードリヒ5世は1620年に白山の戦いで敗れ、母の実家のあるオランダに亡命した。
1623年、ライン宮中伯領は皇帝軍によって占領された。皇帝フェルディナント2世は宮中伯の位を、カトリック諸侯の領袖でありフリードリヒ5世と同じヴィッテルスバッハ家のバイエルン公マクシミリアンに与えた。金印勅書によって保護されている選帝侯の位を皇帝が剥奪し、勝手に授与したこの行為は、三十年戦争長期化の原因となった。
1648年、ヴェストファーレン条約により、フリードリヒ5世の子カール1世ルートヴィヒがライン宮中伯位に復帰し、その代わりにバイエルン公も選帝侯となった(正確には、ライン宮中伯の選帝侯位をバイエルンが引き継ぎ、ライン宮中伯は新設の第8の選帝侯となった)。また、バイエルンとライン宮中伯が同君連合した場合には、ライン宮中伯の選帝権は失われることとなった。
1685年、カール1世ルートヴィヒの子カール2世が亡くなると、カール2世には嫡子はなかったため、男系で遠縁のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが継承した。ドイツでは男系にのみ継承権があったのでこの継承には問題はなかった。しかし、伝統的にライン宮中伯はカルヴァン派であったが、フィリップ・ヴィルヘルムはカトリックである、という問題があった。フランス王ルイ14世はカール2世の妹婿にあたる自らの弟オルレアン公フィリップ1世のプファルツ継承を主張し、プファルツに軍を進めた。これに対し、神聖ローマ帝国の諸侯、スウェーデン、オランダ、スペインなどからなるアウグスブルク同盟諸国が対抗し、戦争となった(プファルツ継承戦争)。戦争の結果、フィリップ・ヴィルヘルムの子ヨーハン・ヴィルヘルムはライン宮中伯位を保持(フィリップ・ヴィルヘルムは戦争中に死去。その他の戦争の結果についてはレイスウェイク条約を参照せよ)。以降、プファルツは次第にカトリック化することとなった。
1742年、ヨーハン・ヴィルヘルムの弟カール3世フィリップが死去したが嗣子がなく、ライン宮中伯位は再び遠縁のプファルツ=ズルツバッハ公カール4世フィリップ・テオドールがライン宮中伯となった。1777年にバイエルン選帝侯のヴィッテルスバッハ家が断絶すると、カール4世フィリップ・テオドールはバイエルン選帝侯位をも継承した。これによりバイエルンとライン宮中伯の両ヴィッテルスバッハ家は統合され、ヴェストファーレン条約の規定によりライン宮中伯としての選帝侯位は消滅した。
[編集] 選帝侯位消滅後のプファルツ
1777年以降、事実上バイエルンの一部となったプファルツであるが、1801年、バイエルン選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフが革命フランスにプファルツ全土を譲渡した。フランスはライン川の左岸をフランス領とし、右岸はバーデン辺境伯とヴュルテンベルク公に割譲された。のち、ウィーン会議により、フランス領であった左岸のみバイエルンに復帰。この領域は、その他のライン左岸の地域と合わせ、現在はラインラント=プファルツ州となっている。
[編集] 歴代領主一覧
[編集] ロートリンゲン宮中伯
[編集] エッツォーネン家
- ヘルマン1世痩身伯(在位:945年 - 994年)
- エッツォ(エレンフリード)(在位:994年 - 1034年)
- オットー1世(在位:1034年 - 1045年)
- ハインリヒ1世狂気伯/修道士伯(在位:1045年 - 1061年)
- ヘルマン2世(在位:1045年 - 1085年)
[編集] ライン宮中伯
[編集] マイフェルトガウ伯家
[編集] アスカニア家
[編集] カルヴ家
[編集] アスカニア家
[編集] バーベンベルク家
[編集] シュターレック家
[編集] シュタウフェン朝
[編集] ヴェルフェン家
[編集] ヴィッテルスバッハ家
- オットー2世(在位:1214年 - 1253年)
- ルートヴィヒ2世(在位:1255年 - 1294年)
- ルドルフ1世(在位:1294年 - 1319年)
- アドルフ(在位:1319年 - 1329年)
- ルドルフ2世(在位:1329年 - 1353年)
- ループレヒト1世(在位:1353年 - 1390年)
- ループレヒト2世(在位:1390年 - 1398年)
- ループレヒト3世(在位:1398年 - 1410年)
- ルートヴィヒ3世(在位:1410年 - 1436年)
- ルートヴィヒ4世(在位:1436年 - 1449年)
- フリードリヒ1世(摂政:1449年 - 1452年)(在位:1452年 - 1476年)
- フィリップ(在位:1476年 - 1508年)
- ルートヴィヒ5世(在位:1508年 - 1544年)
- フリードリヒ2世(在位:1544年 - 1556年)
- オットー・ハインリヒ(在位:1556年 - 1559年)
[編集] プファルツ=ズィンメルン家系
- フリードリヒ3世(在位:1559年 - 1576年)
- ルートヴィヒ6世(在位:1576年 - 1583年)
- フリードリヒ4世(在位:1583年 - 1610年)
- フリードリヒ5世(在位:1610年 - 1623年廃)
- (バイエルン公マクシミリアン1世のプファルツ支配:1623年 - 1648年)
- カール1世ルートヴィヒ(在位:1648年 - 1680年)
- カール2世(在位:1680年 - 1685年)
[編集] プファルツ=ノイブルク家系
- フィリップ・ヴィルヘルム(在位:1685年 - 1690年)
- ヨーハン・ヴィルヘルム(在位:1690年 - 1716年)
- カール3世フィリップ(在位:1716年 - 1742年)
[編集] プファルツ=ズルツバッハ家系
- カール4世フィリップ・テオドール(在位:1742年 - 1799年)
[編集] プファルツ=ツヴァイブリュッケン家系
- マクシミリアン・ヨーゼフ(在位:1799年 - 1805年)