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ホイッグ党 (イギリス) - Wikipedia

ホイッグ党 (イギリス)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ホイッグ党(ホイッグとう、またはウィッグ党Whig Party)は、イギリス政党。後の自由党、現在の自由民主党の前身にあたる。ホイッグ党の起こりはチャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであった王弟ヨーク公ジェームズの即位に反対の立場をとった人達をさして"Whiggamore"と言ったのが始まりである。因みにWhigスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。

目次

[編集] 王位継承問題

1660年清教徒革命後の王政復古を受けて即位したチャールズ2世には嫡子がおらず、次のイングランド王にはチャールズの弟、ヨーク公ジェームズが目されていた。しかしジェームズはカトリックであり、英国国教会であるイングランドではカトリックの王を頂く事に対して強い抵抗感があった。この後継問題はイングランド議会においてもジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争となった。

ここでジェームズの即位を認めるグループが認めないグループを指してWhigと呼んだのがホイッグの始まりである。"Whig"はスコットランド語の"whiggamor"から来ており、その意味は「謀反人」とか「馬泥棒」と言う意味である。一方即位を認めない者達は、即位を認める人々を指して"Tory"アイルランド語で「ならず者」、「盗賊」と言うあだ名を付けた。

ホイッグはジェームズから王位継承権を剥奪する法案を議会で通過させようと試みたが、これはトーリーの反対を受けて認められなかった。結局ジェームズの即位は認められて、1685年、イングランド王ジェームズ2世として王位についた。

なおこの時点でホイッグ、トーリーとも現在のような、綱領を採択して党として一致した政策の実現を目指す政党(Party)ではなく、あくまでもジェームズの即位問題にのみ特化されたグループである。

[編集] 名誉革命

先の王位継承問題において、トーリーのようにジェームズに対しての王位継承を認めたグループが存在した理由は、ジェームズも又、嫡子がおらず、カトリックの王もジェームズ一代限りという諦めにも似た妥協が存在した為である。カトリックの王ジェームズはカトリックに対しての保護政策を取り、既にイングランドにおいては時代遅れな絶対王政的態度を取るが、それもジェームズ一代限りと諦めるしかなかった。

しかし1688年ジェームズの王妃メアリーが王子ジェームズを生むと事態は一変し、ホイッグとトーリーは一致団結して国王ジェームズを排除する行動をとり始めた。オランダからジェームズの娘メアリーと夫であるオラニエ公ウイレムを招き寄せメアリー2世、ウィリアム3世として即位させ、ジェームズとその家族は抵抗をあきらめてフランスに亡命させられた。これが名誉革命である。

[編集] 議院内閣制の成立

メアリーの妹アンが嫡子の無いまま死去すると、ステュアート朝は断絶し、1714年血縁関係のあったドイツハノーファー王国から新しい王を迎える事になった。これが現在も名前を変えてイギリス王室として続いているハノーヴァー朝である。ハノーファーから迎えられた新国王ジョージ1世は既に54歳であり、英語を話す能力も、新しく覚える能力もなかった。又、イギリス王に即位してからもハノーファーに滞在する時間の方が多かった為、国政の一切は内閣に委ねられる事になった。

時の大蔵卿(当時のイギリス内閣のトップ)はホイッグのリーダーロバート・ウォルポールで、事実上の首相として21年間内閣の指揮をとった。現在ではウォルポールがイギリスの初代首相と見なされている。この時代は内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う議院内閣制が発達した時代で、ウォルポールは総選挙に敗れて首相の座を退任している。またホイッグが政党としてのホイッグ党としての体裁を取り始めた時代でもある。

ホイッグ党はウォルポールの下で近代的なイギリス議会の最初の政権党としてスタートし、ウォルポール以降短期間のトーリー党内閣を経て1762年まで政権の中枢にあった。初期のイギリス議会ではホイッグ党が優勢だったわけである。

ホイッグとトーリーという2大勢力が発展したことによって、イギリス議会ではホイッグとトーリーが交代で政権を運営する2大政党制が発達した。このころのホイッグの政策は自由主義に裏打ちされるもので、資本主義の発達を促すブルジョワジーを優遇し、自由貿易を促進し、その障壁となるものを撤廃しようとする政策を取っていた。この最たるものが穀物法の撤廃である。以降イギリスでは「ホイッグ」を指して「自由主義」そのものと取れるようなテキストの使われ方が為されるようになる。ホイッグ史観などはその典型である。

[編集] ホイッグから自由党へ

1830年代から1860年代にかけて都市において工場労働者が増大し、彼らはチャーティスト運動と呼ばれる、選挙権の拡大、選挙法の改正、生活向上の要請運動を展開し始めた。又1868年には第二回選挙法改正によって彼らの要求が認められ、都市労働者に対して選挙権が与えられた。これら労働者の運動は議会政治の場にも影響をあらわしはじめ、1830年代以降のイギリス議会政治は政界再編の場となった。ホイッグ党ではパーマストン子ヘンリー・ジョン・テンプルの頃にホイッグ党から自由党への名称の変更が行われた。


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