トーリー党 (イギリス)
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トーリー党(とーりーとう、Tory Party)は、かつてのイギリスの政党。
現在の「保守党」の前身にあたる。
チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであった王弟ヨーク公ジェームズの即位を認める立場をとった人達をさして「Tory」と言ったのが始まりである。
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[編集] 王位継承問題
1660年に清教徒革命後の王政復古を受けて即位したチャールズ2世には嫡子がおらず、次のイングランド王にはチャールズの弟、ヨーク公ジェームズが目されていた。しかしジェームズはカトリックであり、英国国教会であるイングランドではカトリックの王を頂く事に対して強い抵抗感があった。この後継問題はイングランド議会においてもジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争となった。
ここでジェームズの即位を認めないグループが認めるグループを指してToryと呼んだのがトーリーの始まりである。「Tory」はアイルランド語の「toraidhe」から来ており、その意味は「ならず者」とか「盗賊」と言う意味である。一方即位を認める者達は、即位を認めない者達を指して「Whig」スコットランド語で「謀反人」、「馬泥棒」と言うあだ名を付けた。
ホイッグはジェームズから王位継承権を剥奪する法案を議会で通過させようと試みたが、これはトーリーの反対を受けて認められなかった。結局ジェームズの即位は認められて、1685年、イングランド王ジェームズ2世として王位についた。
なおこの時点でホイッグ、トーリーとも現在のような、綱領を採択して党として一致した政策の実現を目指す政党(Party)ではなく、あくまでもジェームズの即位問題にのみ特化されたグループである。
[編集] 名誉革命
トーリーがジェームズの即位を認めたのは、彼らが王党派であったこと以上に、ジェームズにも又嫡子がおらず、カトリックの王が即位したとしても、それはジェームズ一代限りで終わる。という諦めが在ったからである。カトリックの王ジェームズは即位するやカトリック保護政策を打ち出し、又、既にイングランドでは時代遅れになりつつあった絶対王政的な態度をとり始めた。しかし、これにもトーリー、ホイッグともにジェームズ一代限りと諦めるしかなかったのである。
ところが1688年ジェームズの王妃メアリーに王子ジェームズが生まれると事態は一変し、ジェームズの後もカトリックの王が即位する可能性が出てきてしまった。ここにジェームズの即位に応じたトーリーも反対派のホイッグと協力してジェームズをイングランドから追い出す画策をはじめる。オランダからジェームズの娘メアリーと夫であるオラニエ公ウイレムを招き寄せメアリー2世、ウィリアム3世として即位させ、ジェームズとその家族は抵抗あきらめて、フランスに亡命させられた。これが名誉革命である。
[編集] 二大政党制の確立
メアリーの妹アンが死去すると、ステュアート朝は断絶し、ハノーファー王国から新国王ジョージ1世が迎えられハノーヴァー朝が成立した。この新王ジョージの下で大蔵卿に任命されたロバート・ウォルポールの下で議院内閣制が発達する。ウォルポールは「ホイッグ」の所属であり、初期の近代的なイギリス議会はホイッグ優勢で進められた。また「トーリー」が政党としてのトーリー党と言えるような体裁を整えたのもこの時期である。
「トーリー」から初めて首相が選出されたのは1762年のビュート伯ジョン・スチュアートの時でウォルポールが選出された40年以上後の事である。その後の政権交代はトーリー党、ホイッグ党の何れかが20年から40年のロングスパンで政権を担当する形になり、現在のように定期的な政権交代と言えるようになるのは。「トーリー党」がウェリントン公アーサー・ウェルズリー、ホイッグ党がグレイ伯チャールズ・グレイを輩出した時代、1830年代になってからである。
しかし、「トーリー党」と「ホイッグ党」という二大勢力が発達した結果イギリス議会においては二大政党制が発達したという評価は万人変わらないところであろう。
[編集] Toryの政策と用法
トーリー党は大地主層を政権の支持基盤とし、大地主層の利権を保護する政策を取った。つまり保守主義である。大地主層の利権を保証する政策として当時穀物法があった。しかしこれはホイッグ党の支持基盤である自由主義貿易を信仰するブルジョワジーの反対運動によって廃止されてしまった。時の首相はトーリーのロバート・ピールで、これは政権野党にあったも政権に大きな影響力を与えうるという好例になった。
Toryは現在では「保守主義」(Conservatism)、もしくは「保守主義者」(Conservative)と言う意味ももっている。元々そのような意味は持っていなかったのだが、トーリー党が保守主義をとるためToryにも保守主義という意味が付加されたのである。
[編集] トーリーから保守党へ
トーリー党とホイッグ党が定期的な政権交代を行えるようになった1830年代以降はイギリス議会政治における政界再編期でもあった。都市における、工場労働者が、選挙権の拡大、秘密選挙、平等選挙の徹底、生活待遇の改善を求めてチャーティスト運動を展開したことは、議会政治の場にも大きな影響をもたらした。トーリー党、ホイッグ党ともに、政党としての組織変革を求められるようになった。1840年代ロバート・ピールの下で党は「保守党」に改められ、新しくスタートする事になった。ただし、現在でも新聞の見出しなどで「トーリー」と呼ばれる事はある。