主教戦争
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主教戦争(Bishops' Wars)とは、イングランド・スコットランドで起こった宗教問題が原因でおこった戦争である。チャールズ1世がイギリス国教会の形式にもとづく祈祷書をスコットランドに強制したことが原因で、1639年(第1次)および1640年(第2次)の2度おこった。この戦争は2度ともスコットランド側の勝利に終わり、清教徒革命の原因のひとつとなった。
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[編集] 背景
宗教改革以来、その効果はブリテン島にも波及し、イングランドでは監督制による国教会、スコットランドでは長老制が有力であった。そこにチャールズは国教会形式の祈祷書を施行した。国教会と長老制の違いは、国王を頂点に大主教・主教と続く階層・階級によって統制された国教会に対し、スコットランドの長老制は一般教徒の代表を長老として全体教会で議決を行うという点にあった。
[編集] 第1次戦争
スコットランドは祈祷書施行に猛反発し、モントローズ侯らは国民盟約を結成して対抗した。祈祷書を拒否して監督制を廃止し、1639年リーヴン伯およびアーガイル侯を指揮官に指名して兵をつのって反乱を起こした。
チャールズは盟約軍を鎮圧すべく、ハミルトン公に命じて軍を集めた。このとき資金面でかなりの無理をしたといわれるが、とにもかくにも2万の軍を集めた。両軍はベリックで対峙したが、ハミルトン公は相手方の軍のほうが装備・練度・士気などあらゆる面ですぐれていることを認めざるを得なかった。結果を憂慮した国王軍は和平を申し入れ、結局両軍は剣戟をまじえずベリックの和約が締結された。
[編集] 第2次戦争
和約が締結されたものの、両者、特に事実上敗者の国王は監督制について譲らず、スコットランド盟約派も拒否の姿勢を続けた。国王は実力行使を決意し、11年ぶりに議会を召集した。この議会は短期議会といわれるように何ももたらさず3週間で解散し、チャールズはアイルランド議会の援助で軍を出した。しかし国王軍は3000余という寡兵にすぎなかった。
こうした動きを察知した盟約軍もすばやく動き、1640年8月28日、ニューバーンの戦いで両軍は激突した。この戦いは盟約軍の圧勝に終わり、チャールズは自ら和睦を申し出た。リポン条約が結ばれ、イングランドはノーサンバーランド・ダラム両州の割譲、および1日あたり850ポンドの駐留軍維持費を支払うという屈辱をみた。
[編集] 結果と影響
戦争の結果にアイルランドでプロテスタント虐殺事件が起こったという情報が誇大に喧伝され、イングランドの世論は沸騰した。チャールズには駐留軍維持費の支払いのため、議会(長期議会)を開かざるをえなくなっていた。