夜のヒットスタジオ
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夜のヒットスタジオ | |
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ジャンル | 音楽番組 |
放送国 | 日本 |
制作局 | フジテレビジョン |
脚本 | 塚田茂(構成) 木崎徹(構成) スタッフ東京(構成) |
プロデューサー | 伊藤昭 藤森吉之 疋田拓 井上慎悟 渡邊光男 森昌行 |
出演者 | 司会者 前田武彦(初代) 芳村真理(初代~4代目) 三波伸介(2代目) 朝丘雪路(2代目) 井上順(3代目) 古舘伊知郎(4代目~6代目) 柴俊夫(5代目) 加賀まりこ(6代目) |
音声 | ステレオ放送(放送開始~1978年9月まではモノラル) |
外部リンク | フジテレビ |
夜のヒットスタジオ | |
放送時間 | 毎週月曜22:00 - 22:54(54分) |
放送期間 | 1968年11月4日~1985年3月25日 |
夜のヒットスタジオDELUXE | |
放送時間 | 毎週水曜21:02 - 22:52(110分) |
放送期間 | 1985年4月3日~1989年9月27日 |
夜のヒットスタジオSUPER | |
放送時間 | 毎週水曜22:00 - 22:54(54分) |
放送期間 | 1989年10月18日~1990年10月3日 |
夜のヒットスタジオ(よる-)はフジテレビ系列で放送された音楽番組で、通称夜ヒットとして親しまれた。現在、CS放送のスカイパーフェクTV!とe2 by スカパー!のフジテレビ721で再放送中(1976年7月放送分以降の内容から順次)。
目次 |
[編集] 番組概要
1968年11月4日から1990年10月3日まで約22年に渡って、月曜22時から23時(1985年4月3日より「夜のヒットスタジオDELUXE」に改題し、水曜21時から23時に、1989年10月より番組を4分割、DX版の流れを継承する「夜のヒットスタジオSUPER」は水曜22時~23時に放送時間を短縮)放送された長寿番組の1つ。
1970年代前半までは異色の「歌謡バラエティー」番組として、1970年代後半以降は、アイドル歌手・演歌歌手からテレビ出演に消極的であったニューミュージック・ロック系アーティスト、人気俳優、海外の大物アーティスト、歌なしのフュージョンバンドに至るまでオールマイティーな布陣を擁し、生演奏・フルコーラスを聴かせる本格嗜好の音楽番組として人気を集め、「ザ・ベストテン」(TBS系)と共に、音楽番組全盛時代である1970〜1980年代において音楽業界・放送業界に強い影響力を誇った番組でもある。放送終了から15年以上の年月を経た現在も尚、芳村真理、前田武彦、井上順らによる節度ある程度での自然体のMCスタイルや、音響・演出面での厳粛さなどが音楽番組制作上での「理想形」として高く評価されており、今も尚、番組の復活を熱望するフリークも少なくない(1997年を最後に正規の夜ヒット復活版が放送・製作されたことはない)。
22年の放送期間内で紹介された楽曲は実に13,000曲以上、出演したアーティストは1,000組以上にも上り、名実ともに昭和の歌謡曲黄金時代をそのまま体現した番組であった。
[編集] 番組の変遷
[編集] 歴代司会者
第1000回までは基本的に芳村真理を軸に男性パートナーが交代、第1002回目からは古舘伊知郎を軸にパートナーが交代する形で司会者が変遷した。なお、これら歴代司会者に関する詳しい記述についてはノートや芳村真理の項を参照されたい。
- 初代:前田武彦・芳村真理-1968年11月4日~1973年9月24日
- →司会者なし(ゲスト司会による輪番制)-1973年10月1日~1974年3月25日
- 2代:芳村真理・三波伸介・朝丘雪路-1974年4月1日~1974年7月
- →芳村真理・三波伸介-1974年7月~1976年3月29日
- 3代:芳村真理・井上順-1976年4月5日~1985年9月25日
- 4代:芳村真理・古舘伊知郎-1985年10月2日~1988年2月10日
- 5代:古舘伊知郎・柴俊夫-1988年2月24日~1989年9月27日
- 6代:古舘伊知郎・加賀まりこ-1989年10月18日~1990年10月3日
※ヒットスタジオ4分割後の「SUPER」以外の司会者は各章を参照の事。
[編集] 歴代プロデューサー・ディレクター・構成作家
- 塚田茂(作・構成)-1968年~番組終了まで構成を担当。但し、1980年代以降は現場で直接指揮を執る形ではなく、総合監修的な役割で番組に参加しており、実際の現場指揮はスタッフ東京(後述)のメンバーが当たっていた。
- 木崎徹(構成)-1987年~番組終了まで構成を担当。
- 伊藤昭(初代プロデューサー)-1968~1973年まで担当。
- 藤森吉之(ディレクター⇒2目プロデューサー)-1973年~1978年までプロデューサーを担当
- 疋田拓(ディレクター⇒3代目プロデューサー)-1976年~1987年までプロデューサーを担当。実験的とも言える演出方法を多用し、「総合音楽番組」としてのヒットスタジオの番組カラーの構築に大きく寄与。
- 井上信悟(ディレクター)-1979年より番組制作に参加。番組エンディング時のクレジットでは「ディレクター」として扱われていたが、実際上は疋田とともに番組演出の中心的な役割を演じた。
- 森正行(4代目プロデューサー)-1987年~番組終了まで担当。
- 渡邊光男(4代目プロデューサー)-1987年~番組終了まで担当。
- 水口昌彦(番組終期のディレクター・現お台場明石城三奉行、編成制作局バラエティ制作センター部長)
このほか、1977年より塚田が立ち上げた構成作家グループ「スタッフ東京」も構成に参加。若き日の玉井貴代志、高田文夫らも制作に参加していた。また、DX期以降には現在フジテレビの音楽番組制作を一手に引き受けている「音組」のきくち伸などもADとして制作に関わっており、現在の「音組」の基礎を築いた番組でもあった。同局の看板大型番組「FNS歌謡祭」や「新春かくし芸大会」もこれら夜ヒットスタッフが主要ブレーンとして製作の陣頭指揮を執っていた。
[編集] 演奏
- 豊岡豊とスイング・フェイス(指揮:豊岡豊) - 1968年11月~1969年3月
- モノクロ放送時代のみ演奏を担当。この当時はオケピットの配置が後年知られている並びとは大幅に異なっており、吹奏楽器(トランペットなど)演奏者と弦楽器(バイオリン)演奏者の配置は全く逆となっていた(弦楽器担当者のほうが歌手たちが座っているひな壇に近い位置に陣取っていた)。
- ダン池田とニューブリード(指揮:ダン池田) - 1969年4月~1985年3月
- カラー放送開始と同時に番組に参加。以後月曜日の放送終了までの16年間、同番組の演奏の要として活躍。夜ヒットの演奏バンドとしては最も有名。バンドマスターのダン池田は番組前期の頃は単に指揮だけでなく、「歌謡ドラマ」にも頻繁に客演するなどコメディリリーフとしても活躍、同番組を通じて自身の知名度を高めた。
- ニューブリードの起用と同時にオケピットの配置もおなじみの(ひな壇に近い順番から)吹奏楽器・ドラム及びギター・弦楽器(及びシンセサイザーなどの演奏補助<1978>)という並びに変更された。
- ザ・ニューブリードスペシャル(指揮:三原綱木) - 1985年4月~1986年3月
- 番組リニューアル、ダン池田の降板を機に、及び一部バンドメンバーの入替え・整理の上で、「ザ・ニューブリードスペシャル」として番組演奏を担当。バンドマスターの三原は、司会の井上順の誘いを受けてバンドマスターの仕事を引き受けたと言われている。三原は、指揮をしないでギターを弾いていることも多々あった。
- THE HIT SOUND SPECIAL(指揮:新井英治) - 1986年4月~1989年9月
- 三原綱木が脱退した以外メンバーの変更はなし。1988年3月30日・1987年・1988年の最終放送である「スーパーデラックス」や、1988年12月7日放送の番組20周年を記念しての前編総集編には参加していない。
- THE HIT SOUND SPECIAL(指揮:服部隆之) - 1989年10月~1990年9月
- 服部は指揮者のほか、番組の音楽監修として一部歌手の歌の編曲も担当した(それより前は広瀬健次郎や大村雅朗らが音楽監修を担当していた)。
- 三原綱木&ザ・ニューブリード(指揮:三原綱木)
- 2001年の復活版(但し純然たる復活版ではない)担当。それ以外の復活版では、1991年4月3日放送分で若干オケピットの並び方が違うが、楽譜を置く台などは当時のデザイン。
[編集] 節目・記念の回
- 第1回-1968(昭和43)年11月4日
- 第100回-1970(昭和45)年9月28日(2時間スペシャル)
- 第200回-1972(昭和47)年8月28日
- 第300回-1974(昭和49)年8月5日
- 第400回-1976(昭和51)年7月5日(~26日まで記念月間)
- 10周年(突入)-1977(昭和52)年10月3日(2時間スペシャル、実際には11月7日放送から10年目突入)
- 第500回-1978(昭和53)年6月5日(前週・5月29日に繰り上げて500回記念放送)
- 第600回-1980(昭和55)年5月12日(5月5日~26日まで記念月間)
- 第700回-1982(昭和57)年4月12日(4月5日~26日まで記念月間、26日に特別編成(前述参照))
- 15周年(突入)-1982(昭和57)年10月4日(2時間スペシャル、実際には11月1日放送から15年目突入)
- 第800回-1984(昭和59)年3月26日
- 第900回-1986(昭和61)年3月12日(26日に900回突破記念の特別編成を組む)
- 第1000回-1988(昭和63)年2月10日(3時間特番・芳村真理勇退)
- 20周年-1988(昭和63)年11月23日〜12月7日(1週目は今昔特別編、2週目は全編海外衛星中継、3週目は総集編企画。実際には11月2日放送から21年目突入)
- 第1100回-1990(平成2)年2月7日
- 第1131回(最終回)-1990(平成2)年10月3日(3時間特番)
※尚、第500回以降の回数計算はなぜか実際上は1回欠落した状態で放送されていた模様であり、特別編成もその関係でその節目の回を含む月の1週目もしくは4週目、場合によってはその月全体を特別月間として編成することが多かったが、特別企画「世界紅白歌合戦」として放送された1986年12月31日も放送回数に通算されており、1988年2月10日の第1000回放送は誤りはない。
※また、一部資料上では通算放送回数を「1133回」とするものがあるが、1990年3月28日及び4月4日の放送はなかったことから実際の通算放送回数は「1131回」である。
※10周年・15周年記念特別番組については10年目・15年目に入った時点で行われていたが、20周年に関しては満20年に到達した時点で行われた。このほか、1980年代までは毎年10~11月の間は○周年突入記念月間と銘打って、またはその間の1回を特別編成にして放送を実施している(12年目突入の1979年には10月1日、17年目突入の1984年には10月8日にそれぞれ2時間の記念編成が組まれ、通常プログラムと異なる趣向が採られた)。
[編集] 年表
※出演歌手の詳細については「夜のヒットスタジオ出演歌手一覧」を参照のこと。
年度・期間 | 番組タイトル ・放送時間 |
司会者 | 事項・初出演等 | |
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男性 | 女性 | |||
1968(昭和43年) | 夜のヒットスタジオ 毎週月曜夜10時 〜10時54分 |
前田武彦 68/11/4~73/9/24 第1回~256回 |
芳村真理 68/11/4〜73/9/24 第1回~256回 <1> |
11月4日、放送開始。当初はモノクロ放送 ・初代司会: 前田武彦・芳村真理 ・レギュラー: 鶴岡雅義と東京ロマンチカ(74年10月まで)、小林大輔アナウンサー(恋人選び担当)、・演奏: 豊岡豊とスイング・フェイス(68年11月〜69年3月) ・第1回出演者:島倉千代子・布施明・美川憲一・ピンキーとキラーズほか ・恋人選び、ご対面、他人の歌OPメドレー 11月11日、男優での第1号歌ゲスト・加山雄三初登場、森進一・青江三奈らも初登場 11月25日、伊東ゆかり・中尾ミエ初登場 12月16日、北島三郎・水前寺清子初登場 12月23日、村田英雄・橋幸夫初登場 |
1969(昭和44年) | 1月27日には中村晃子、2月24日にはいしだあゆみ、小川知子が号泣。 泣きの夜ヒットとして話題騒然 1月6日、ザ・ピーナッツ初登場「ガラスの城」 2月24日、都はるみ初登場「好きになった人」 3月17日、最高視聴率42.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録 4月より、モノクロからカラー放送へ移行 ダン池田とニューブリードがオーケストラに(69年4月〜85年3月) 3月31日、女優での第1号歌ゲストとして吉永小百合初登場 4月21日、坂本九初登場 6月9日、和田アキ子初登場「どしゃ降りの雨の中で」 7月7日、ハナ肇とクレイジーキャッツ初登場 7月14日、同番組構成の塚田茂が前田武彦の代理司会を担当。ザ・ドリフターズ、森山良子初登場 8月4日、勝新太郎初登場 8月25日、コント55号出演 10月6日、スポーツ界からの初のゲストとして大相撲の北の富士(現・NHK相撲解説者)出演 10月13日、渡哲也初登場「ギターと旅びと」 10月20日、沢田研二、ザ・タイガースのヴォーカルとして初登場 10月27日、石原裕次郎初登場 11月17日、元読売ジャイアンツ選手・金田正一が現役引退から程なく特別出演 12月8日、加藤登紀子初登場「ひとり寝の子守唄」 12月15日、藤圭子・ちあきなおみ初登場 12月22日、初の海外ゲストとしてオズモンド・ブラザーズ出演 |
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1970(昭和45年) | 1月5日、堺正章・井上順、ザ・スパイダースの一員として番組に初登場 3月30日、司会者・土居まさるが歌手として登場「ラブレター」 6月29日、司会者・大橋巨泉が歌手として登場 9月7日、藤純子(現・富司純子)、歌手として登場 9月14日、倍賞千恵子・てんぷくトリオが歌手として登場 9月28日、放送100回達成、初の2時間編成 11月9日、同年に制定された日本歌謡大賞特別企画を組む(因みに当時の同賞授与式司会は前田武彦であった)。番組史上最年少での初出演歌手・皆川おさむが出演 12月28日、歌謡界の女王・美空ひばり初登場 この年、夫婦での出演多数(井上順・青木エミ、和田浩治・梓みちよ、松山英太郎夫妻、長沢純・川口晶など) |
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1971(昭和46年) | 2月8日、初のジョイント企画放送(沢田研二×萩原健一、このジョイントを契機として同年、GSの主要バンドメンバーを集め「PYG」を結成する) 3月15日、鶴田浩二初登場「傷だらけの人生」 5月24日、、「新三人娘」の先陣を切り、小柳ルミ子初登場「わたしの城下町」 6月21日、夜ヒット最多出演記録保持者・五木ひろしが初登場「よこはま・たそがれ」 9月27日、杉良太郎が初登場。また、「新御三家」の先陣を切り、野口五郎が初登場「青いリンゴ」 11月1日、天地真理・南沙織初登場 11月15日、第2回日本歌謡大賞特集を組み、尾崎紀世彦ら各賞受賞者が受賞曲を披露 11月22日、坂本九が前田武彦の代理司会を担当 |
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1972(昭和47年) | 5月29日、石坂浩二・浅丘ルリ子夫妻(当時)が特別出演 8月14日、「花の中三トリオ」の先陣を切り、森昌子が初登場「せんせい」 8月21日、麻丘めぐみ初登場「芽ばえ」 12月4日、西城秀樹初登場「チャンスは一度」 12月25日、郷ひろみ初登場「小さな体験」 |
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1973(昭和48年) (~9月まで) |
1月1日、アグネス・チャン初登場「ひなげしの花」 5月28日、桜田淳子初登場「天使も夢みる」 6月4日、アン・ルイス初登場「わかりません」 7月30日、山口百恵初登場「としごろ 8月6日、テレビ西日本15周年記念特別番組として福岡より中継放送 9月10日、キャンディーズ初登場「あなたに夢中」 6月、前田武彦の「共産党バンザイ発言」事件起きる。9月24日に司会降板、芳村真理も同時に一時番組を離れることに |
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1973(昭和48年) (10月~74年3月) |
特定司会者なし (ゲスト歌手輪番制) 73/10/1~74/3/25 第257回~281回 |
固定のレギュラー司会者を設定せず、ゲスト歌手2組が交替で司会を務めるスタイルが採られる 74年2月11日、八代亜紀初登場「しのび恋」 74年2月18日、石川さゆり初登場 74年3月4日、チューリップ、テレサ・テン初登場 |
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1974(昭和49年) (74年4月〜7月) |
故三波伸介 74/4/1~76/3/29 第282回〜386回 |
芳村真理/朝丘雪路 74/4/1~7/? |
芳村真理が司会復帰。三波伸介、朝丘雪路が加わりトリオ司会体制に この頃よりスタジオに観客を入れての公開番組形式となる(76年3月頃まで) 歌謡ドラマ。 4月1日、布施明、ちあきなおみ「ドッキリ虚偽結婚発表」 4月22日、多岐川裕美初登場 |
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1974(昭和49年) (7月~12月) |
芳村真理 74/4/1〜88/2/10 第282回~1000回 <2> |
朝丘雪路が舞台長期出演のためレギュラー降板 8月5日、放送300回達成・大磯ロングビーチ中継 8月19日、五木ひろし、ご対面コーナーで2人の恩人との対面に涙の歌唱 11月4日、グレープ、中村雅俊が初登場 11月18日、山口百恵の応援ゲストとして映画で共演した後の夫・三浦友和が出演。 12月、同年制定された「FNS歌謡祭」特集を組む(同年年間グランプリの五木ひろしは12月9〜30日まで4週連続出演) 12月、騎手・増沢末夫が「さらばハイセイコー」で歌手として出演 |
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1975(昭和50年) (~76年3月まで) |
2月24日、スリー・ディグリーズ出演「にがい涙」「荒野のならず者」。これを契機に海外アーティストの出演機会が増え始める。 3月31日、ザ・ピーナッツ「サヨナラ」企画(初の「サヨナラ」企画) 5月5日、細川たかし初登場「心のこり」 6月16日、岩崎宏美初登場「二重唱 (デュエット)」 7月7日、千昌夫VS佐々木社会党委員長(当時)の「東北弁おしゃべり」対決 8月4日、沖縄・海洋博会場から台風直撃の中で中継 11月24日、同日開催された第6回日本歌謡大賞を組み、布施明ら各賞受賞者が受賞曲を披露。布施は久々に実父と感動の「ご対面」 12月1日、初の「4スタライブ」実施(憂歌団初登場「ひとり暮し」) 12月8日、戦前派の大物・淡谷のり子が特別出演(歴代出演歌手中最高齢での出演) 76年2月16日、桂三枝が歌手として登場 この頃より作詞者・作曲者名のクレジットが曲名・歌手名と共に併記されるようになる |
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1976(昭和51年) | 井上 順 76/4/5~85/9/25 第387回~877回 |
井上順が司会に参加。 この頃から、原則として全曲フルコーラスで歌われるようになる。また、ヒットメドレー企画・ジョイント企画が本格的に番組の看板企画として多用される。 ・ラッキーテレフォンプレゼント 4月5日、大竹しのぶ初登場「みかん」 6月21日、ジョイント―森昌子×山口百恵×桜田淳子×岩崎宏美 7月5日、放送400回突破、同月を「400回記念月間」と銘打ち放送 7月19日、あおい輝彦、かつて所属していたジャニーズメンバーと久々のご対面、即興で「太陽のあいつ」をワンコーラス披露 8月9日、アグネス・チャン「サヨナラ」企画(カナダへの一時留学による芸能活動休止) 11月8日、あおい輝彦「君が優しすぎるから」で歌の冒頭でマイクから音が出ないトラブルが発生、1番の半フレーズ近くを歌ったところで一旦演奏を打ち切り、再度歌い直しの措置がとられる 11月15日、アダモ初登場 12月6日、通常使用する第6スタジオを離れ第10スタジオより放送。特別ゲストに阪神タイガースの田淵幸一選手(当時)登場 12月20日、ピンクレディー初登場「ペッパー警部」 |
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1977(昭和52年) | 1月31日、当日出演予定のシルビア・クリステルが急病のため出演を直前でキャンセル(翌2月7日放送に代替出演) 5月16日、アグネス・チャン「おかえり」企画(カナダから一時帰国) 6月6日、ジョイント―キャンディーズ×ピンクレディー 6月27日、ジョイント-矢野顕子×山本邦山、このジョイント企画が評価され1977年度の民放祭優秀賞を受賞 7月11日、大磯ロングビーチより大雨の中での中継 7月18日、キャンディーズ引退発表会見の模様を放送 10月3日、放送10周年突入記念特番 ・ジョイント―布施明×五木ひろし×森進一×沢田研二「マイ・ウェイ」、梓みちよ×小柳ルミ子「カルメン'77」 ・花の高三トリオ×新御三家デュエット大会、ほか 11月28日、十朱幸代が歌手として初登場 12月26日、中島みゆきが登場、「わかれうた」「アザミ嬢のララバイ」を披露。このほか、この年から翌年にかけてフォーク・ニューミュージック勢の初登場が相次ぐ(7月25日:イルカ・Char、10月10日:五輪真弓、12月5日:原田真二・アリス、78年1月9日:世良公則とツイスト・渡辺真知子、2月13日:大塚博堂、5月15日:NSP、6月5日:庄野真代、7月10日:尾崎亜美、ほか) |
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1978(昭和53年) | 1月30日、沢田研二、伝説の畳バージョン「サムライ」熱唱 3月27日、石原裕次郎、8年半ぶりの出演「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜も有難う」「昭和たずねびと」 4月3日、後楽園球場よりキャンディーズ最後の熱唱 5月8日、歌舞伎俳優・市川染五郎(現・松本幸四郎)が歌手として登場 6月5日、番組放送500回達成(5月29日に前夜祭として500回記念放送) 7月31日、サザンオールスターズ初登場「勝手にシンドバッド」、番組史上初めて歌詞テロップ表示の措置を採る 9月25日、南沙織「サヨナラ」企画 10月2日、関東地区にてステレオ放送を開始(これを機にOPのファンファーレ音楽をステレオ放送対応バージョンのものに変更) 12月4日、日本ゴルフ界の第一人者・青木功が特別出演 |
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1979(昭和54年) | 2月26日、森進一、ナベプロ独立後最初の番組出演、「きみよ荒野へ」を涙の熱唱 3月5日、フジテレビ開局20年記念番組として放送、ジョイント―安奈淳×西城秀樹×郷ひろみ×野口五郎「愛あればこそ」 5月14日、小林幸子初登場「おもいで酒」 6月4日、ジョイント―萩原健一×柳ジョージ×井上尭之「大阪で生まれた女」 7月9日、ジュディ・オング、合成映像(ドライアイスの上に海の映像をかぶせたもの)の中で「魅せられて」を披露 7月30日、ミス・インターナショナル各国代表が総出演、トリの松崎しげるの歌ではバックダンサーを務める 8月13日、浜田省吾初登場「風を感じて」、敏いとうとハッピー&ブルー・田辺靖雄「よせばいいのに」競演 9月10日、松坂慶子初登場「愛の水中花」 10月8日、西武ライオンズ球場より強風の中で中継 11月12日、CHAGE&ASKA初登場 12月24日、初の聖夜週特別編成を組む |
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1980(昭和55年) | 3月10日、庄野真代「サヨナラ」企画(長期の歌手活動休止) 4月28日、松田優作・松田聖子初登場 5月12日、放送600回達成 6月2日、イエロー・マジック・オーケストラ初登場「ライディーン」「テクノポリス」 6月23日、芦ノ湖畔・箱根園庭園より中継 6月30日、吉田拓郎、待望の初登場。「いつか夜の雨が」「あの娘といい気分」の2曲を披露。また、田原俊彦・河合奈保子も初登場 8月11日、美空ひばり、1970年12月28日以来10年ぶりの出演 8月25日、第10スタジオ・第4スタジオからの放送実施 9月1日、ジョイント―アン・ルイス×竹内まりや「リンダ」 10月6日、山口百恵最後のテレビ生出演 10月20日、ポール・モーリア楽団が出演、西城秀樹と「サンタマリアの祈り」でセッション 10月27日、ノーランズ初出演 11月24日、近藤真彦初登場「スニーカーぶる〜す」 12月15日、井上陽水初登場「夢の中へ」「クレイジーラブ」 |
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1981(昭和56年) | この頃より海外アーティストの出演も増加し、衛星中継も度々行う 2月2日、ポリス出演。 2月16日、郷ひろみが井上順の代理司会を担当、RCサクセション初登場「トランジスタ・ラジオ」 3月9日、桃井かおり初登場「バイバイ子守唄」 3月30日、ピンクレディー「サヨナラ」企画 6月8日、西田敏行初登場「もしもピアノが弾けたなら」 8月17日、イモ欽トリオ初登場、萩本欽一が応援ゲストとしてスタジオに駆けつける 8月31日、石野真子「サヨナラ」企画、タモリが歌手・トランペット奏者として登場 11月2日、アリス「サヨナラ」企画 11月9日、シーナ・イーストン初出演 11月30日、重傷のため長期休養中だった河合奈保子が同番組で復帰、薬師丸ひろ子が初登場 12月14日、オリビア・ニュートンジョン出演「フィジカル」 12月21日、ジョイント-北島三郎×山本譲二(師弟競演) |
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1982(昭和57年) | 1月11日、竹下景子が芳村真理の代理司会を務める。 3月1日、デラ・セタカ&喜多郎、「千年女王」のテーマ曲で競演 3月8日、ピーター・ポール&マリー出演(春一番・PPM特集として放送) 3月22日、小泉今日子初登場「私の16才」 3月29日、アンディ・ウィリアムス出演 4月12日、番組放送700回達成、4月26日に新婚夫婦300組を招待してのディナーショー形式の記念番組を放送(東京プリンスホテルより) 5月3日、シブがき隊・三田寛子初登場。三田の歌につきマイク故障のトラブルが発生し、急遽再度歌い直しの措置が採られる 6月14日、RCサクセション「ガム吐き捨て」事件 7月12日、美空ひばり、作者の谷村新司を目の前に「昴」を熱唱 8月30日、もんたよしのりの結婚祝福企画を放送 9月20日、中森明菜初登場「少女A」 10月4日、15周年突入記念スペシャル、特別ゲスト・ジョーン・バエス 12月13日、フリオ・イグレシアス、衛星中継で初出演 12月20日、海援隊「サヨナラ」企画、THE ALFEEが初登場「別れの律動」 |
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1983(昭和58年) | 1月10日、歌舞伎俳優・先代中村勘三郎が特別出演 2月28日、井上順の代理として田原俊彦が芳村真理の相手役を務める。ジョイント―佳山明生×日野美歌「氷雨」 3月21日、映画「ブッシュマン」で話題の人となった"二カウさん"出演 3月28日、ライオネル・リッチー初出演 5月2日、長渕剛・原田知世初登場 6月13日、カルチャークラブ初出演 6月20日、「007」シリーズの「ジェームス・ボンド」役で人気のロジャー・ムーアが特別出演 7月4日、細川たかしが井上順の代理司会を担当 10月10日、代々木第一体育館より中継、海外ゲスト: リック・スプリングフィールド 11月14日、ジョイント―チョー・ヨンピル×渥美二郎、内田あかり、殿さまキングスほか「釜山港へ帰れ」 11月21日、U2・ジャッキー・チェン初出演、U2の演奏時にアンプが突然故障するハプニング発生 12月5日、ジョイント―研ナオコ×小椋佳「泣かせて」 12月19日、ポール・アンカ初出演 |
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1984(昭和59年) (~85年3月まで) |
1月16日、デュラン・デュラン初出演 1月23日、ジョイント-森昌子×円広志「越冬つばめ」 2月6日、安全地帯初登場「ワインレッドの心」 2月13日、チェッカーズ初登場「涙のリクエスト」 3月、番組放送800回達成 4月30日、「52歳の大型新人」芦屋雁之助初登場「娘よ」 7月30日、一世風靡セピア初登場 9月3日、舘ひろし初登場「泣かないで」 辻久子、前橋汀子ら、クラシック界からの出演者が登場 10月8日、2時間スペシャル ・松田聖子「あなた」、田原俊彦「BEAT IT」、中森明菜「イミテイション・ゴールド」、美空ひばり「ラブ・イズ・オーヴァー」など ・萩本欽一率いる「欽ちゃんファミリー」総出演 ・ジョイント―石川秀美×早見優×堀ちえみ「やさしい悪魔」 10月15日、ビートたけし、歌手として「たけし軍団」を率いて登場 11月19日、西城秀樹・郷ひろみ、「Careless Whisper」で「対決」 12月17日、都はるみ「サヨナラ」企画 85年1月21日、マドンナ初出演「ライク・ア・ヴァージン」 85年2月18日、プロレス界の第一人者・アントニオ猪木が特別出演、木の実ナナ×細川俊之、ミュージカル「ショーガール」の一コマを再現 この頃よりシングル(当時はEP盤)B面・アルバム(当時はLP盤)収録曲披露の機会が多くなる(松田聖子「ボン・ボヤージュ」「夏服のイブ」、小泉今日子「風のマジカル」など) |
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1985(昭和60年) (4月~9月) |
夜のヒットスタジオ DELUXE 毎週水曜夜9時2分 ~10時52分 |
曜日を月曜→水曜へ移動、2時間へ拡大 ニューブリードのバンマスがダン池田から三原綱木に交替(ザ・ニューブリードスペシャル、85年4月〜86年3月) また、この頃から、番組で芳村真理プロデュースのファッションショーがレギュラー企画化される マンスリーゲスト制(第1回目のマンスリーは小柳ルミ子) ・今夜のヒットスタジオ(事前2分番組。牧原俊幸、本間淳子(後に永真理)各アナウンサーが担当)、タイムトンネル、このほかDX初期にはビデオレター、ニュースコーナーなども存在。 4月10日、ボン・ジョヴィ初出演 4月10日、吉幾三、地元の村民とご対面(村民全員が駆けつけたとの話もある) 4月17日、フランク・シナトスタジオ出演&ティナ・ターナー衛星中継出演、とんねるず初登場 6月5日、高田みづえ「サヨナラ」企画、引退前最後のテレビ出演 6月19日、世界的トランペット奏者・渡辺貞夫がマンスリー・田原俊彦とのセッションで番組初登場 高中正義・TUBE初登場 7月24日、おニャン子クラブ・中山美穂初登場 8月7日、谷村新司・佐藤隆が「12番街のキャロル」で「対決」 8月21日、森進一、坂本九を追悼して「見上げてごらん夜の星を」絶唱 原田知世、野村宏伸、渡辺典子の当時の角川映画を代表する俳優3人が特別ユニット「BIRD」として登場 9月25日、井上順が司会卒業 |
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1985(昭和60年) (10月〜) |
古舘伊知郎 85/10/2〜90/10/3 第878回~1131回 |
元ANBアナの古舘伊知郎が司会者として参加 10月2日、ジョイント―アン・ルイス×吉川晃司「六本木心中」 10月9日、ジョイント―矢野顕子×坂本龍一(夫婦競演) 10月16日、阪神優勝の瞬間を生中継 11月13日、ホイットニー・ヒューストン初出演 11月20日、矢沢永吉、ロサンゼルスからテレビ初生出演。 12月4日、ジョイント―西城秀樹(マンスリー)×バリー・マニロウ「腕の中へ」 12月18日、逸見政孝が古舘の代役司会、ジョイント―沢口靖子×布施明 |
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1986(昭和61年) | オーケストラがTHE HIT SOUND SPECIALに(指揮: 新井英治、86年4月〜89年9月) 2月5日、露木茂、古館の代理司会を担当(芳村・露木という当時の「FNS歌謡祭」司会コンビでこの回は進行がなされた) 2月12日、本田美奈子初登場「1986年のマリリン」 3月5日、BOØWY初登場「わがままジュリエット」 4月2日、ハリー・ベラフォンテ出演。ゲスト歌手全員での「WE ARE THE WORLD」大合唱 5月28日、甲斐バンド、最初にして最後の出演、「漂泊者」などを披露 6月11日、シンディ・ローパー初出演 8月20日、ジョイント-西城秀樹×カシオペア×宇崎竜堂「約束の旅」ほか 8月27日、森昌子「サヨナラ」企画 9月24日、ジャネット・ジャクソン初登場 10月22日、ロッテオリオンズから中日ドラゴンズへと移籍したばかりの落合博満選手(現・中日監督)が歌手として登場「サムライ街道」 11月26日、ジョイント―岩崎宏美×布施明 12月31日、特別企画「世界紅白歌合戦」として放送 |
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1987(昭和62年) (〜88年2月まで) |
視聴者プレゼントの賞品がテレカに 3月4日、ジョイント―宇崎竜童(マンスリー)×内田裕也、ジョー山中、桑名正博他「ロックンロール・ウィドウ」 3月25日、ジョイント-EPO×鈴木雅之「Down Townラプソディー」 5月〜6月10日、結婚を控えた郷ひろみが6回連続の最長記録マンスリーゲストに。 5月13日、ジョイント―河合奈保子×杏里「オリビアを聴きながら」 5月27日、大相撲・大関の小錦八十吉(現・タレント)が特別出演。 6月17日、斎藤由貴、島田歌穂ら「レ・ミゼラブル」のキャストが勢揃い、「ピープルソング」を大合唱 7月29日、光GENJI・坂本冬美初登場 8月26日、久保田利伸初登場「TIMEシャワーに射たれて」、おニャン子クラブ「サヨナラ」企画 10月7日、五木ひろし、マンスリーの久保田利伸に他の歌手が歌唱中に「蹴り」を入れ、とんねるず、和田アキ子や司会の芳村真理が仲裁する一幕 10月14日、米米CLUB初登場 大物海外アーティストの出演相次ぐ(11月18日:ポール・マッカートニー、12月16日:エルトン・ジョンほか) 11月25日、「ダウン・タウン・ブギウギバンド」再結成・8年ぶりの出演 12月、渡辺謙がマンスリーゲストとして1ヶ月連続出演 12月30日、初の「スーパーデラックス」版放送 ・ジョイント―田原俊彦×久保田利伸×AMAZONS「It's BAD」、中森明菜×玉置浩二×井上陽水「飾りじゃないのよ涙は」、吉田拓郎×THE ALFEE「アジアの片隅で」 ・ザ・ブルーハーツがテレビ生番組初登場 88年1月6日、谷村新司・堀内孝雄、「アリス」再結成・同バンド名義では7年ぶりの登場 88年2月3日、999回記念・ロンドン衛星生中継を実施 88年2月10日、放送1000回達成、同時に第1回より司会を務めた芳村真理が同記念放送を以て司会を引退(3時間特番、新高輪プリンスホテルより) |
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1988(昭和63年) (88年2月~12月) |
古舘伊知郎/ 柴 俊夫 88/2/24~89/9/27 第1002回~1084回 |
― | 柴俊夫が司会に参加、男性二人制に 4月20日、泉谷しげる初登場「褐色のセールスマン」 6月22日、尾崎豊、テレビ生番組初出演 7月20日、大江千里初登場「GLORY DAYS」 7月、マンスリー・小泉今日子が10分以上の大作「夏のタイムマシーン」を前後編に分けて披露 8月、マンスリーゲスト制を休止し、特別企画として毎週異なるアーティストによる第4スタジオでの公開ライブ企画を実施(翌1989年8月期にも実施) 9月7日、所ジョージ、歌手として登場「故郷」 10月19日、志村けんが「だいじょうぶだぁ」ファミリーを率いて登場 11月、番組放送20周年 マンスリー・スタジオLIVE、恋人選びコーナー12年ぶりに復活 ・11月23日、初代司会の前田武彦・芳村真理を迎え20周年特別版放送 ・11月30日、ザルツブルクより衛星中継 ・12月7日、20周年記念今昔総集編放送 ・マンスリーに松山千春登場 12月28日、「スーパーデラックス」放送 ・ジョイント―HOUND DOG×THE ALFEE「SWEAT&TEARS+ff(フォルティシモ)」、渡辺美里×泉谷しげる×大友康平「恋したっていいじゃない」ほか |
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1989(平成元年) (〜9月まで) |
3月1日、伝説のバンド「サディスティック・ミカ・バンド」再結成・初登場「Boys&Girl」 3月29日、パリより衛星中継 4月、さだまさし、マンスリー出演 ・4月5日、「親父の一番長い日」ノーカット披露。 ・4月19日、「建具屋カトーの決心」TV放送と同時にレコーディング 5月3日、横浜アリーナ中継 7月12日、ジョイント―大江千里(7月マンスリーゲスト)×渡辺美里×TM NETWORK「ジェシオ'S BAR」、ほか 8月23日、DREAMS COME TRUE初登場「うれしはずかし朝帰り」 9月20日、宮沢りえ初登場「DREAM RUSH」 9月27日、DELUXE終了、柴俊夫が司会降板 |
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1989(10月)〜1990(平成2年) | 夜のヒットスタジオ SUPER 毎週水曜夜10時 〜10時54分 |
古舘伊知郎 | 加賀まりこ 89/10/18〜90/10/3 第1085回〜1131回 |
2時間から1時間へと放送時間短縮(番組4分割) バンマスが服部隆之に交替 89年11月8日、2日前(11月6日)に逝去した松田優作を追悼するコーナーを特別に設定、松田が出演した1980年4月28日放送分のVTRを放映し故人を追悼。 89年11月15日、菅原文太が歌手として登場 90年3月7日、B'z初登場 90年4月25日、香港から生放送。 90年8月29日、番組史上最後の初出演アーティストとしてB.B.クイーンズが登場 90年9月、22年ありがとう月間として放送。 ・マンスリーに松山千春再登場。 ・22年の最後を締めくくる歌は若手最多出演者・田原俊彦「ジャングル Jungle」 90年10月3日、22年間にわたる歴史に幕 |
[編集] 夜のヒットスタジオ
- 放送期間:1968年11月4日~1985年3月25日
- 放送時間:月曜22時~23時(現在のSMAP×SMAP枠)
[編集] 新種の歌謡バラエティー番組として人気沸騰(1968~1973)
従前、フジテレビの月曜22時枠はドラマ枠であったが、視聴率的には苦戦を強いられていた。前番組は電撃スパイ作戦である。そこで、ドラマ枠であるとの理解を前提として、3ヶ月程度の繋ぎ番組として、1968年11月、「夜のヒットスタジオ」がスタートした。第一回のネット局は、フジテレビ・東海テレビ・関西テレビ・テレビ西日本の4局ネットであった。当時クロス局であった広島テレビ・仙台放送・札幌テレビはネットしていない。1960年代における22時と言う放送枠は当時の放送業界などの認識では深夜枠に近い時間帯であり、まずこの時間に歌謡番組、しかも生放送の番組が編成されることなどはなく、初期においては局内でも「繋ぎだから視聴率が悪くても別に問題はない」といった声が支配的であったというほど、期待も薄いなかでスタートした番組だった。
構成には当時多くの人気番組を抱えていた人気構成作家の塚田茂を起用、プロデューサーにはフジテレビ朝のワイドショー番組「小川宏ショー」のスタッフであった伊藤昭が当たった。司会には塚田が構成を勤めた番組である「お昼のゴールデンショー」の司会として人気タレントとなっていた前田武彦、そして、相手役にはこのヒットスタジオ開始の約1年前に前田がDJを担当するラジオ番組(ニッポン放送「女性対男性」)のゲストパートナーを務めた際の掛け合いが塚田を初めとする同番組スタッフに評価され、またこれより前に「小川宏ショー」のホステス役を務めていた経験から伊藤とも面識の深かった芳村真理が抜擢された。このほか「小樽のひとよ」等に大ヒットで人気ムードコーラスグループとなっていた鶴岡雅義と東京ロマンチカ(1968年11月~1974年10月まで出演)と、当時フジの看板アナであった小林大輔もレギュラー出演者として名を連ねた。 第1回のゲストは島倉千代子、美川憲一、ピンキーとキラーズ、布施明、小川知子、黒木憲ほか計8組。モノクロ放送であった。
それまでは視聴者にとり「雲の上の存在」として理解されていたスター歌手の人間性を引き出す、という点をスタート当初のコンセプトとし、その趣旨を具体化するために、終了時まで続いた「ご対面」や「他人の歌オープニングメドレー」、エンディングの「ラッキーテレフォンプレゼント」(視聴者に電話をし、スロットで表示された額(10万円上限 10万円は「0」が5つそろった場合)をプレゼントするもの。過去に電話回線の不具合などのトラブルやスタジオを飛び出しての公開放送の準備の関係などでスロットを回さず当選者にそのまま10万円をプレゼントしたこともある)のほか、当時は「歌謡ドラマ」(その回のゲストが歌う曲をモチーフとしたコント形式のコーナー)、「コンピュータ恋人選び」(調査対象として指名された歌手の性格・嗜好を電子計算機にインプットし、相性の会うタレントをはじき出すもの)などが目玉企画として用意された。しかし、この当時の歌謡番組の基本形は「ロッテ 歌のアルバム」(TBS)等に象徴されるいわゆる純然たる歌謡ショー形式の番組が大半であり、その中で極めてバラエティー色の強いこれらコーナーを設置し、またあくまでも司会の前田・芳村が歌手たちと自然体の姿でやり取りをするという司会スタイルなど極めて異色の存在であった同番組に対して、人気歌手を多数抱えるレコード会社や事務所側は抵抗感を示し、出演交渉は難航した。そのため、スタートから2ヶ月間近くは低空飛行を続ける状態に陥った。
しかし、当時の局首脳陣の評価とは裏腹に塚田・伊藤などスタッフたちは「長寿番組・人気番組」へとこの番組を育てて生きたいという意気込みが強かった。その中で、夜ヒット史上でも語りづかれる「泣きの夜ヒット事件」が起きる。1969年1月27日・2月24日の放送で小川知子、中村晃子、いしだあゆみがご対面・コンピューター恋人選びのコーナーで相次いで号泣する事件がそれであり、スターが一人の人間として涙を流しながら必死で歌うという衝撃的なシーンに賛否両論が巻き起こった。このハプニングを契機に同番組の視聴率は急上昇傾向を示し、3月17日の放送では遂に最高視聴率42.2%という驚異的な視聴率をはじき出し、この時点で繋ぎ番組として恵まれないスタートを切った夜ヒットは、当時高視聴率番組が少なかった同局にあって、貴重な「ドル箱」番組としての歩みを踏み出した。そして、局内での同番組への評価が好意的になっていったことを象徴するように4月7日よりカラー放送へと転換することになり、番組は安定的な人気を保持し続ける(この夜ヒットの人気過熱に便乗するような形で、丁度カラー放送開始の1週間前の1969年3月31日からは日本テレビの「11PM」に対抗する深夜バラエティーショーとして「テレビナイトショー」をスタートさせ、この番組の月曜日担当の司会には夜ヒットからそのまま連投の形でマエタケ・芳村コンビが起用され、夜ヒットの出演歌手の多くもナイトショーにも続けて登場して歌を披露したりするなど、半ば「夜ヒット延長戦」のようなコンセプトで放送が行われていた)。また、このカラー放送への移行と同時に、番組専属の演奏バンドとして結成からまだ間もなかった「ダン池田とニューブリード」を抜擢。この番組の人気を背景に同バンドも一躍おなじみの顔として親しまれるようになっていった。
初代男性司会者・前田武彦は自らを「あだ名の名人」と称して、必ず歌手やスタッフに仇名を付け(例:芳村真理→「ナマズのおばさん」、塚田茂→「ドンドンクジラ」、小林大輔アナウンサー→「モグラのお兄さん」、布施明→「ピノキオ」、小川知子→「金太郎」、都はるみ→「海坊主」、菅原洋一→「3日前のハンバーグ」、南沙織→「チョコレートモンキー」、ちあきなおみ→「びっくり人形」等。前田自らも「カワウソおじさん」と称していた)、芳村真理もまた、「フリートークの天才」とまで評されたマエタケの、どこに投げかけてくるかもわからないアドリブの問いかけをさらり交わす堂々の司会ぶりを展開し、それまでのテレビ番組の世界では置物的色彩の強かった女性司会者の概念を一気に覆した。そして、この2人の自然体のMCスタイルと元々の個性により番組全体が「家族団らん」の雰囲気を呈するものとなり、徐々に番組のカラーが芸能関係者や視聴者にも支持されていくようになり、当初は出演を拒否していた歌手・タレントもカラー放送開始前後を機会として、続々と出演するようになった。夜ヒットの出演者人選の最大の特色の一つに「男優・女優を歌手としてゲスト出演させた」点が挙げられるが、前田・芳村時代から吉永小百合、加山雄三、勝新太郎、石原裕次郎、鶴田浩二、浅丘ルリ子など大物のスター俳優が「『堅苦しい番組だ』と気取って必要なく出演できる」という理由から、多数出演(初期の頃は、歌手としての出演以外にも特別ゲスト扱いで俳優が出演する場合もあったが、1971年頃より歌を披露するゲストとしてのみとなった)した。1969年の末には海外ゲスト第1号として、当時日本でもアイドル的存在として人気急上昇中であったオズモンド・ブラザーズ (en:The Osmonds) が出演するなど、歌手・タレントが「出演したい」番組へと変貌を遂げ、またその後も続く「バラエティーにとんだ出演者陣を網羅する」という番組の特色の土壌がこの時代に築かれた。特に新人歌手を中心に出演依頼が各芸能事務所等からも殺到していたようで、中には出演したいのに出演できない歌手も出るほど(前田武彦談)であったという。
尚、番組開始当初のコンセプトには上記の「歌手の素性を引き出す番組」としての一面以外にも、当時、集団就職等で夜遅くまで働いている若者たちが丁度落ち着いてテレビを見られる夜22時頃に歌を聴かせる番組、楽しませる番組が一つぐらいあってもいいのでは、という点もあり、DELUXE終了まで続いたその時折に沿った童謡をBGMに司会者が登場するシーンや「ご対面」などはその点を強く意識したものであると言われている(伊藤昭談)。
「夜のヒットスタジオ」の人気は他局の歌謡番組の制作方針にも大きな影響をもたらした。この番組の約1年後にスタートした「NTV紅白歌のベストテン」でも「ウソ発見器」などのコーナーで歌手の人間性を重視する構成がなされたり、歌手が自然体でMCを行う歌謡番組も多く登場するなど、当初は「異色」だった同番組はいつしか「テレビ歌謡番組の本流」として理解されるようになっていた。
[編集] 番組の挫折とバラエティー色の強化(1973~1976)
このように歌手の素性を巧く引き出しながら「家庭の茶の間にいるような雰囲気」を番組のカラーとして確立し、第一次黄金時代を築き、磐石と思われた夜ヒットであったが、1973年6月、その後の夜ヒットの運命を変える一大事件が起きる。それが前田武彦(マエタケ)による「共産党バンザイ事件」である。
前田武彦が、参議院大阪選挙区補欠選挙に立候補した日本共産党候補の沓脱タケ子の応援演説の際に「生放送中に候補者が当選した際にはバンザイを必ずやりますから見ていてください」という旨の約束を大勢の聴衆の前で行い、その候補者が当選したことから、エンディング時にバンザイのポーズをやったところ、右のような事実関係が明るみに出て、鹿内信隆フジサンケイグループ議長が激怒。これが引き金となり、最終的に9月いっぱいをもって5年間続けてきた同番組の司会を降板(事実上は解任)、他局の大半のレギュラーもこれと時同じくしてに降板させられるという憂き目に遭ったというのがこの事件の一連の経緯である。
同事件の背景には鹿内の思想や方針に少しでも反旗を翻そうとした者には徹底的な懲罰を与える(当時若手の社員が労働組合を結成した際、労組の存在を毛嫌いにしていた鹿内の逆麟にふれ、この労組の幹部達をほぼ例外なくグループの中枢から左遷する処分を採ったことがその代表的な例である。特に製作部門には労組の幹部を務めていた者が多数存在したため、一時フジテレビ本体から製作部門全体を分離し、本社社員よりも(給与・待遇あらゆる面で)一ランク低い位置に意図的に置く措置を採ったことがあった(この際に制作担当の子会社として設置されたのが「ワイドプロモーション(後に「フジ製作」に改称)」であり、この頃のヒットスタジオは厳密にはフジテレビ本体の社員ではなくこの「ワイドプロモーション」の社員が制作の陣頭指揮を採るという形式で放送が行われていた)などまさに「恐怖政治」「封建制」に近い経営体制がフジサンケイグループ全体で採られていたことが存在している。
すなわち、この「鹿内の意見に合わない、或いはそれに反する行為を採った人間は徹底排除する」という方針は各テレビ番組に出演しているタレント・アナウンサーたちにもほぼ例外なく徹底されており、この「共産党バンザイ」とのポーズも「反共」を掲げる鹿内の政治思想にそぐわない行為として鹿内初めグループ首脳部は判断、以前から物議を醸す物言いをこの番組を通じてしばしば行い、いつしかフジテレビからも「疎ましい存在」として扱われつつあったマエタケをこの事件を利用して追放させようと図り、各マスコミにマエタケをレギュラーから降ろすよう強く働きかけを行ったというのがこの「バンザイ事件」によるマエタケ追放劇の真相であった。この事件によるマエタケ司会解任が確定したと報じられるや否や、マエタケに対する徹底的な批判を行う論調がある一方で、フジサンケイと距離を置いているマスコミからはこういった封建的、恐怖政治に近いフジサンケイの社風を徹底追及する論調もあるなど、マスコミの論調は大きく二分化。単なる一司会者の解任劇という次元では片付けることができないほどに、騒動は日を追うことに大きくなっていってしまった。
当然にこの「バンザイ事件」とそれに伴う騒動はヒットスタジオにも大きなダメージを与えた。一時は事の重大性から番組打ち切りもやむなしとの意見も出たが、低視聴率に苦悩していた当時のフジテレビにとり数少ない「数字を見込める番組」であったこともあり、一応番組自体は続行されることとなり、それを前提として一応の打開策が練られることになった。
同事件により番組についてしまったダーティーなイメージからの早い時期での脱却を図る意味合いもあり、相方であった芳村真理についてもマエタケ解任と同時に、夜ヒットの司会から一時降板(尚、同時に彼女には夜ヒットスタッフによる新番組「木曜リクエストスタジオ」が用意された)。1973年10月からはあえてマエタケ・芳村コンビに代わる正規の新司会者を起用せず、'ゲストの中から男女1名ずつ司会を務めるというきわめて実験的な試みが採ることで、この苦境期を凌ぐこととなった。この時代には水前寺清子・坂本九・佐良直美・井上順など司会者としての実力もある歌手から五木ひろしや森進一、ピーター、南沙織など司会経験がほとんどない歌手に至るまで司会者として借り出されており、意外性のある人選を毎回組むことによって、注目度を維持し続けることを狙いとした。
但し、この歌手輪番制のスタイルはあくまでも暫定的なもので、実際には早い段階で芳村真理を番組の軸として、次に誰を彼女と組ませて、仕切りなおしを図るかが検討されていた。「バンザイ事件」の影響から早く脱却できうるだけの個性や明るいキャラクター性を持ったタレント、という点を考慮に入れた結果、新たな芳村のパートナーとして抜擢されたのが、当時、「笑点」(日本テレビ)の豪快な進行振りで司会者としても定評が確立しつつあった三波伸介、そして華やかさをより全面に押し出し、「バンザイ事件」のイメージを打ち消すという意味合いからもう一人の女性司会者として朝丘雪路の2人であった(※なお、芳村真理・三波伸介のコンビでの司会の第1回目は前田武彦降板の次の回に当たる「1973年9月24日」との記録があるが、当日の新聞の番組表内に記載されている内容は「さよなら前田武彦・芳村真理」とされているため、この記録は誤りである。恐らく、前田が降板直前に夏季休暇を取った際に、三波がピンチヒッターとして登場し芳村とコンビで司会を務めたことがあり、この回と前田の降板の回を誤って解釈しているものと考えられる)。
こうして、1974年4月からは、芳村・三波・朝丘のトリオ司会体制でヒットスタジオは本格的に再生への第一歩を歩みだすこととなった。当初は芳村・朝丘がコンビを組んで番組進行の全般を行い、その間に「コメディリリーフ」的な役割として三波がちょこちょこと茶化しを入れに割り込む、という当時のテレビ番組としては一風変わったMCスタイルが採られ、また、スタジオ観覧者を募っての公開番組での放送形式に転換したこともあり、番組カラーは以前以上に明朗化。こういった取り組みによって比較的早い段階で「バンザイ事件」による影響からの脱却に成功した。
この時代は上記の公開放送形式という点以外にもセットにも若干変更点があり、オーケストラの配置と階段状のセットがなぜか分離され、通常オーケストラの配置に組み込まれているレギュラーで出演していたコーラス3名も階段状セットに配置されていた円形のひな壇の上でコーラスを担当する形となっていた。
この芳村・朝丘・三波のトリオ司会体制が3ヶ月続けられたが、7月に入り、朝丘が長期の舞台公演の仕事が入ってしまったことから出演が不定期となり、当初は進行にあまり関わっていなかった三波もこれを機に番組進行に本格的に参加することが多くなっていき、75年4月からは芳村・三波でのコンビ司会体制に完全移行した(このため、後の○周年、○百回記念といった歴代司会者が集結する機会には、朝丘については「ゲスト司会者扱い」として出演しなかった)。
こうして、半年振りに夜ヒットに帰ってきた芳村であったが、やはりある程度予想されていたことではあるが、復帰当初は「初めからスタッフは芳村に関しては半年後に番組に戻すことを前提として、あえて輪番制での司会を行ったのではないか」として「出来レース」という批判が為され、マスコミや一部視聴者からは冷ややかな目で迎えられたと言われている。しかし、パートナーやゲスト歌手の存在を前面に押し出しつつ、その暴走を巧く受け流しながら番組を粛々と進行していくという彼女のMCスタイルが、その後の番組の長寿化・安定化に大きな影響をもたらし、いつしか「出来レース」といった批判は形を潜め、それに変わって「夜ヒットの看板」として歌手サイトや視聴者から高い信頼を寄せられる存在へと変化していく。
他方、新パートナーの三波はそれまで、お笑いグループ「てんぷくトリオ」をホームグラウンドとして活動し、1970年代に入ってからは「笑点」(NTV)、「お笑いオンステージ」(NHK)といった演芸・バラエティー番組の司会を単独で務めるようになるなど、一貫して「芸人」の領域で活躍してきており、この夜ヒットは彼にとり初めての本格的な歌謡番組での司会挑戦であった。マエタケ時代から「歌謡番組」を軸としてバラエティー色を盛り込む構成がとられていたが、この三波登板の時代には彼の本領を発揮するため、その回で歌われる曲を題材として繰り広げられる「歌謡ドラマ」(いわゆるコントコーナー)が最大の名物企画となり、三波はほぼ毎回といっていいほど、このコーナーに参加。東北弁で桜田淳子・和田アキ子扮するホステスを口説く中年男性や、「はげ頭」のカツラをつけて新婦役の小柳ルミ子の父親役を演じるなど、芸人としての三波の魅力が最大限このコーナーでは発揮され、また、芸人ならではの軽妙洒脱な司会進行ぶりも、番組カラーの明瞭化をアピールする上で絶大な効果を発揮した。しかしその反面で、歌謡番組を主流としている番組であるにも関わらず、お笑い色が強くなったことに対し、今度は「歌がないがしろにされている」「歌番組なのに歌が聞こえてこない」といった批判が聞こえくるようになってきた。
1975年に入ってからは、それらの批判に徐々に対応していく形で、実力派の海外アーティストスリー・ディグリーズを出演させたり、戦前〜戦後間もなくの時代を通じ女性流行歌歌手の第一人者としての位置を確立していた淡谷のり子を特別出演させ、新人のフォークグループにもいち早く出演交渉を行うようになる(バンバンやシグナルなど)などの試みもなされるようになり、この年の秋からは、それまでは省略されていた作詞・作曲者のクレジットも曲名・歌手名テロップとの併記で表示されるようになった。こうして、総合音楽番組への完全な方向転換への機運が高まり、1976年春、スタート当初からの人気コーナーだった「歌謡ドラマ」を排除するという一大決断が為される。そして、それと同時に同番組のバラエティー的要素の要として起用された三波伸介も司会就任から2年で同番組を離れ(その後、同年4月より夜ヒットスタッフによる新番組「スターどっきり(秘)報告」の司会に彼は事実上のコンバートの形で抜擢される)、「歌謡バラエティー」としての夜ヒットはこの時点で一応の区切りが付けられることとなった。
この芳村・三波司会時代の最大のハプニングといえば、1975年8月、当時沖縄で行われていた「国際海洋博覧会」からの生中継である。この中継を行う日になって、台風が沖縄全土を襲来し、特設ステージを設置したにも関わらず、殆どこのステージを使用できず、スタッフ用の手狭なブースの中で放送を行うという番組史上に残る非常事態に陥った。これ以降、西武ライオンズ球場からの中継では強風、大磯ロングビーチからの中継では大雨など、「夜ヒットが野外会場から放送するときはかならず気候に恵まれない」とのジンクスを生むきっかけとなった出来事であった。
[編集] 総合音楽番組への変容(1976~1985)
1976年4月、三波伸介降板と同時に長年人気コーナーとして親しまれてきた歌謡ドラマやバラエティー性の強いコーナーを全て廃止(但し、コンピューター恋人選びについては既に前武・芳村時代の晩期で打ち切られていたが、歌謡ドラマ廃止により空いた時間を埋めるために井上順の司会抜擢と同時に3ヶ月の期間限定という形で復活している)、従前、1回につき原則10組、1コーラス(相応のキャリアある歌手については2コーラスであったが、新人歌手あるいはデビュー2年目あたりの歌手の場合には大衆の人気を集めている歌手でない限りは1コーラスが原則であった)出演という形であったものを、出演者数については7〜8組(無名の新人歌手が2組程度登場する場合は9組)に減らし、原則としてフルコーラス曲を披露するという歌中心の本格的音楽番組の形を採り、新しい男性司会者にはマエタケ・三波時代に歌手として出演していた井上順を起用。その時折の話題の歌、そして歌手を出来る限りジャンル分け隔てなく紹介していく、という至ってシンプルな番組構成と、芳村・井上の司会コンビによりもたらされるアットホームな雰囲気で、夜ヒットはマエタケ・芳村時代に続く、第2次黄金期を迎えることとなった。
この時代には歌、そして歌手を中心に、という番組の趣旨から、「歌は3分間のドラマ」という古くから言い伝えられる名フレーズを最大限具現化させるべく、それまでは軽視されていた歌中の演出等についても様々な試みがなされている。「ザ・ベストテン」のようなスタジオ全体を覆い隠すような大セットはまだこの芳村・井上時代では登場しないが、例えば、スタジオ1面に畳を敷きつめ、その上で歌った沢田研二の「サムライ」や当時まだ珍しかった生放送での合成映像により海の上で歌っているという演出効果を行ったジュディ・オングの「魅せられて」、世良公則とツイストの「あんたのバラード」や山口百恵の「絶体絶命」などでの歌舞伎との融合、郷ひろみの「ハリウッド・スキャンダル」におけるスタジオ全体の電飾装置の配置、曲の中で風景をガラリと一変させるなど、各季節の草花や電飾装置、雨・紙吹雪、合成映像、ドライアイス等の舞台装置やバックでの客演、カメラワークを凝るなど、あくまでも歌や歌手に拘った演出が高い評価を得るようになった。
演奏オーケストラの配置についても、ステレオ放送開始に対応してか、1978年からはシンセサイザーや補助のギター演奏者が配置するブースが設けられ、ストリングスの配置人数も1980年3月からは6名から8名に増員される等、音のクオリティーの向上も頻繁に図られた。
当時の看板プロデューサー・疋田拓の総合演出の下、毎回放送前に行われるリハーサルは10時間以上に及び、若手スタッフは怒号の入り混じった製作首脳陣の指示に従い、リハーサルそして本番中でも、局舎内、そして生放送の行われていた第6スタジオ内を駆けずり回り、ほんの数十秒間の間にセット・舞台装置のチェンジを完了させるなど、相当の労力が一つ一つの演出・構成に対して注がれており、その並々ならぬ緊迫感は、宇崎竜童、和田アキ子、郷ひろみ、当時ADであったきくち伸ら当時の出演歌手や関係者の多くから「まさに夜ヒットの現場は"戦場"そのものだった」と後年形容されるほどに凄ましく厳しいものであり、歌手たちは極度の緊張感に陥ることも少なくなかったという(当時ADを務めたきくち伸の談話では、「夜ヒット」は当時局内でも一番製作現場が厳しい番組として恐れられており、そのためか若手の製作局員の中でこの番組の制作スタッフ入りを切望する者は少なかったとも伝えられている。また和田アキ子も後年「バンドの人もカメラマンの人もみんな厳しかった」と当時の現場スタッフたちの様子を回顧している)。
他方、この時代のMCスタイルは、井上が芳村、また場合によっては歌手に向けてギャグや冗談を言ったり(たとえば中森明菜初登場時に曲名をもじり「老婆A」と芳村のほうを指差してもじったり、その回に芳村が着用している衣装から連想して「カトリーヌ・ドブース」(カトリーヌ・ドヌーブのもじり)、「月見草と団子」、「月光仮面」などと冗談混じりに揶揄するパターンが一般的)、あるいは滑稽かつ派手な所作(スクールメイツなどのバックダンサーにいつの間にか紛れ込んで一緒に見よう見まねに踊りを踊ったりするなど)を行い、それによる脱線を芳村が、井上に対して茶化しに対する「応酬」を入れつつ巧みに遮り、番組本流の流れに軌道修正させ、歌手を送り出してゆく、というそれまでの司会パターンが基本的には踏襲されながらも、それまでのマエタケ〜三波時代とは異なり、女性司会者が年長であるためか「ボケ(井上)・ツッコミ(芳村)」の役割が明確化されたスタイルで進行がなされ、また、マエタケ司会時代に往々にしてあった、ブラックユーモア的なギャグや毒舌により、歌手が突然号泣してしまうという事態もほとんどなかったことから、この時代には夜22時という遅い時間帯ながら、司会スタイルの明瞭さや構成のシンプルさが受け入れられ、小学生の中にも同番組を見る者が多く現れるなど、それまではどちらかといえば「大人向け」の雰囲気のあった同番組は、この司会コンビのカラーによって「ファミリー向け」の明るいカラーの番組へと変質してゆくことになった。
このような「毒舌」の類を最小限に抑えたMCスタイルが採られた真意は、芳村・井上両者の後年の発言によれば上述のスタジオ全体を覆う厳格さ・緊迫感の中で萎縮している歌手たちの気持ちを解きほぐし、最大限の力を発揮してもらいたいという思いがあってのことであったといい(井上は当時「芳村家・井上家でホームパーティーをやる」、芳村も「歌手・出演者・スタッフ全てとお祭りをする」というコンセプトでスタッフ・歌手たちに接していたと後年回顧している)、たとえ歌手がミスなどをしてしまってもそれを逆手にとって毒舌などの手法で笑いに代えるといった手法を採るのではなく、逆にそのミスを積極的にフォローするように努めるなど、最大限歌手の歌いやすい環境を築くことを優先して司会をするように努めていた。多くのゲスト歌手が芳村、井上両人に対して高い信頼を寄せ、その信頼が、実際の現場に漂う緊迫感をアットホーム感へと見事に転化させ、そして視聴者にも絶対的な安心感をもたらし、番組の人気安定期を確立する礎を築くこととなった。 尚、両者の細かな役割分担は時期によって微妙に異なり、前期(1980年ごろまで)は細部進行を芳村が行い、井上は茶化しや盛り上げ役を担当するパターンが一般だったが、後期に入ってからは井上も細部進行を行いつつ茶化しを入れ、所々で芳村が軌道修正やフォローのための要所を締めるコメントや掛け合いを展開して歌手を送りだすことが多くなった。また、海外アーティストの来日時等に用意されたいわゆる「4スタライブ」の進行についてはこの時代は芳村、井上がそれぞれ各回で交互に担当するという形となっていた。
このような製作現場の厳格さと、それとは表裏一体を成す司会者両人を中心として築かれた柔和さとが、絶妙に調和された番組特有の雰囲気が、徐々に普段テレビで楽曲を披露することのないアーティストたちの出演交渉にも有利に働き、中島みゆき、アリス、五輪真弓らが1977年に初登場したのを皮切りとして1979年には浜田省吾、1980年には吉田拓郎、YMO、1981年には井上陽水、1983年には長渕剛などこれまでテレビ出演に消極的姿勢を採ってきたフォーク系・ニューミュージック系の一流ミュージシャンが次々と初出演(かの山下達郎にも78年頃に同番組の出演のオファーが持ちかけられ、出演する方向で交渉は進んだが、山下が希望した彼のバックバンドを出す出さないで決裂した)。また、松坂慶子、小林旭、松田優作、三浦友和、舘ひろし、田中裕子などを始めとして多くの俳優が頻繁に歌手として出演、また、前橋汀子、中村紘子などの海外でも活躍する歌手以外のアーティストも出演したり、シーナ・イーストン、フリオ・イグレシアス、ポリス、オリビア・ニュートンジョン、ジョン・デンバー、U2などの大物の海外のアーティストも1980年代に入ってから頻繁に登場したり、戸川純、シーナ&ザ・ロケッツ、VOW WOW、LOUDNESS、THE MODSなど既に熱狂的なファン層を獲得していながら、テレビにそれまで登場する機会のなかった異色・新手のバンド・ミュージシャンに対しても1980年代に入ってからは門戸を広げるようになるなど、「広いジャンルの歌を楽しめる番組」、あるいは「普段テレビで見ることができないアーティストを見られる貴重な番組」という番組イメージが確立していった。
また、人気歌手同士による"ジョイント"も歌重視路線へと転換した夜ヒットの象徴的企画として、この時代から多く組まれるようになった("花の高2トリオ"の森昌子・山口百恵・桜田淳子×岩崎宏美、小室等×矢野顕子、ダラ・セダカ×喜多郎、萩原健一×柳ジョージ×井上尭之、岩崎宏美×布施明、杏里×河合奈保子、大江千里×渡辺美里×TM NETWORK、宇崎竜童×内田裕也、THE ALFEE×HOUND DOGなど)ほか、山口百恵を筆頭に南沙織、石野真子、高田みづえなど、結婚のため歌手業を引退し、家庭に入るという選択をした歌手を大勢の仲間たちと共に送り出すという「サヨナラ」企画も多く組まれ、数多くのテレビ史上に残る名シーンを提供。これらの企画は「ヒットスタジオだからこそ実現可能な企画」と言われ、視聴者に番組の権威性をアピールする上で重要な役割を果たしていた。 そのほか、この当時の音楽業界では「夜ヒットでトリで歌を披露することは歌手にとっての一つのステータス」として広く理解されており、森進一、五木ひろし、沢田研二、山口百恵、西城秀樹、郷ひろみ、松田聖子、中森明菜など、人気・実力・話題性を兼備したアーティストのみが毎回トリに抜擢され、名シーンを数多く残していった。また、同番組への出演が曲の売り上げ、あるいはアーティスト自体の人気に好影響をもたらすことも少なくなく(特に山本譲二がこの番組で出世作となる「みちのくひとり旅」を話題曲として披露し、これを契機に曲が大ヒット、山本自身もスター歌手の仲間入りを果たした、というエピソードが有名。もんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」なども夜ヒットでの披露後に大ヒットしている)、新曲発表の際には人気歌手を多く抱える各事務所・レコード会社がこぞって夜ヒットへの出演枠を争奪しあうなど、音楽業界内においても権威ある音楽番組としての地位を揺ぎ無いものとした。
看板司会者・芳村真理の派手な服装と奇抜なヘアスタイルもこの時代になって更に顕著となり(髪に電球や鳥の羽根を入れてヘアスタイルを作ってきたり、和服に洋服のニュアンスを持ち込んだり、タキシート姿で登場するなど。花井幸子、イッセイ・ミヤケなど自身と交友の深い国内のデザイナーのもの以外にも、クリッツアやジャンポール・ゴルティエなど当時日本ではまだ浸透していなかった海外のデザイナーの服も多く着用していた)、特に女性歌手にあっては、彼女に負けないようにしなければならないという「絶対条件」の下、同番組のみの特注の衣装を何着も用意して番組に出演する歌手も多く、また特注の衣装を用意する関係上、服飾関係の知識に精通した人物の助力を借りてその衣装に似合うスタイリングを行うケースも多く見られ、この慣習がのちに「スタイリスト」という職業の存在が脚光を浴びる契機を作ったとも伝えられており、音楽界・放送界のみならず、ファッション界に対しても強い影響力を発揮した番組でもあったと言える。その一連の流れを牽引した芳村に対しては当時、「司会者の方が歌手よりも派手なのは如何なものか」といった批判も向けられていたが、あえて彼女はそれらの批判を更に派手に追求することで払拭し、この番組特有の華やかさのベースとして同番組に不可欠の要素となっていた。
しかし、1981年春より同じく月曜に放送していたNTV系「紅白歌のベストテン」が完全ランキング方式の「ザ・トップテン」に番組内容をリニューアルしたことを機に、日本テレビとの利害関係(例えば、研音などは日本テレビとの関係が強かったとされている)のある事務所の所属歌手や、日本テレビの関係会社が版権を有する曲を歌う歌手の中には夜ヒット出演を制約させられるケースが生じたり、夜ヒットの筆頭スポンサーであった資生堂と森永製菓が、それぞれライバル企業であるカネボウ化粧品(当時裏番組であったTBSの「月曜ロードショー」のスポンサー)、江崎グリコ(当時「トップテン」のスポンサー)など同業他社との間で当時の人気アーティストを起用してのCMソングによる販促合戦を活発に展開しており、同番組スポンサーと何らかの利害関係のあったカネボウやグリコなどのCMソングをヒットスタジオで披露することができない(あるいは歌う機会が大幅に制約される)というの理由で出演できないというアーティストが現れ始めた(但し、松田聖子<「硝子のプリズム」「Romance」など>や田原俊彦<「青春ひとりじめ」>、沢田研二<「バイバイジェラシー」>などB面・アルバムの曲を披露するという形で夜ヒット出演を優先させる歌手も多く、裏の「トップテン」にもチャートインしている歌手がヒットスタジオに出るために出演できない場合には大抵「スケジュールの都合によりお越しいただけません」と事情説明がなされていた)。また、1978年のザ・ベストテン(TBS)の登場により歌番組のトレンドが本格志向な音楽番組から、情報番組的な色彩を加味した、その時折に最もヒットしている歌・歌手のみを取扱うものへと移行してゆく中で、ヒットスタジオはあくまでもオールマイティーなジャンルから選んだゲストによる歌・音楽と、合間の芳村・井上によるトークのみというきわめてシンプルな内容に拘っていたことから、番組内容自体のマンネリ化は避けられず、1980年代半ばに入ると長年安定した視聴率が若干下降線を辿り始めた。そのような歌謡番組全体を取り巻く環境の変化の中で、1985年4月、放送曜日の変更・2時間枠への拡大という大刷新が図られることになった。
[編集] 夜のヒットスタジオDELUXE
- 放送期間:1985年4月3日~1989年9月27日
- 放送時間:水曜21時2分~23時
※これに先駆けて21時~21時2分までは「今夜の夜のヒットスタジオDX」と称して予告番組を放送(牧原俊幸・本間淳子・永麻理各アナウンサーが出演)。
※同番組移動に伴い、関西テレビの放送枠であった水曜22時枠は夜ヒットを放送していた月曜22時枠に入替となった(「三枝の愛ラブ!爆笑クリニック」)。
[編集] ワールドワイドな音楽情報番組として刷新(1985)
1985年4月3日よりヒットスタジオは「ワールドワイドな音楽番組として国際色をより強くし、フルコーラスの原則を徹底してより歌を楽しんでもらう」との方針から「DELUXE」として、水曜21時・22時台の2時間枠の大型番組にリニューアルされた(水曜への放送曜日移動の理由は、同局の伝統として直前の水曜19・20時台をプロ野球シーズン中にナイター中継のために使用される機会が極めて稀であり、仮にその後の21・22時台に、出演者の拘束時間などの面で何かと縛りのきつい生放送の番組を持ってきたとしても、特に問題なく、予定通りのタイムテーブルにより放送を行うことができるという判断が働いたためと伝えられている。詳しくはプロ野球中継の項を参照されたい)。
司会は月曜時代に引き続き芳村真理・井上順のコンビが続投。9時からの事前の予告ミニ番組を放送した後、9時2分から番組本編の放送を開始。オープニング映像も、それまでのスタジオ風景を背景とした、白色テロップによる極めて簡素なものから、宇宙空間をサーキットで走っていき、スタジオ風景にワープする様を描いた斬新なCG映像に変更(このOP映像の制作費は数千万かかったと言われている)。また、このDELUXEへのリニューアルを機に、司会者がハンドマイクを持つようになった(それまではスタジオ内の吊るされたスタンドマイクから司会者のやり取りの声を拾い上げていたが、そのときも放送設備のトラブル等の関係で何回か司会者がワイヤレスハンドマイクを持って放送していたときもあった)。演奏は、月曜日時代から引き続きニューブリードが務めることとなったが、1969年から16年間に渡りニューブリードのバンドマスターを務めてきたダン池田が月曜日の放送終了と同時に同バンドを離れた(因みに同年11月に発売した暴露本の内容が業界全体の反発に遭い、これを引き金として彼は芸能界を事実上追放されることとなった)ことを受け、新たにグループサウンズ出身者である三原綱木をバンドマスターに引き入れ、「ザ・ニューブリードスペシャル」としてメンバーを再編成して演奏を担当した(〜1986年3月まで。その後はいわゆる"仕込屋"と言われるオーケストラ編成、THE HIT SOUND SPECIALに交替)。多様な音楽に更に深く対応していくとの方針であったため、オーケストラの人員配置についてもこのリニューアルを機に大幅な変更がなされた(吹奏楽部門担当の人員につき、従前トランペット4名・サックス5名・トロンボーン4名、計13名の体制を採っていたものを、7名に削減、代わりにトランペット担当の演奏者が座っていた場所に、木琴・鉄琴・クラシックパーカッションなどの打楽器担当者の席が配置された<但し、演奏時間が短かかったためか、1988年3月23日の放送を以てこれも完全に撤廃され、以後はその場所は最終回まで空席状態になった>。また指揮者席も設置されて、歌手の専属バックバンドが演奏する場合などオーケストラが演奏を行わない際には指揮者はその席に座位するようになった>。またメインセットについても、番組開始以来守り続けた基本ベースは維持しながらも、階段状のセットには電飾が施され、ひし形の飾りも立体化されるなどの変更が行われている。
新生夜ヒットを最も象徴する企画が、一組のゲストに1ヶ月連続に出演してもらい、毎回異なる趣向のステージングでそのゲストアーティストの多面的な魅力を引き出すというコンセプトで設置された「マンスリーゲスト」制であった。リニューアル後最初(1985年4月)のマンスリーは小柳ルミ子が務めた。このマンスリーの中で布施明、五木ひろし等が三味線やフルートなどの楽器演奏に挑戦したり、他歌手とのジョイント、近藤真彦が歌舞伎の扮装で登場したり、中森明菜がボーカルに特殊加工を施し黒装束で妖艶に舞い踊る派手なパフォーマンスを展開したりするなど、他の音楽番組ではまず皆無のこの企画にマンスリーに抜擢された歌手たちは最大限の能力を費やし、視聴者からも評価を受けた(最多マンスリー歌手は郷ひろみ・田原俊彦の3回)。
また、マンスリーと並ぶリニューアル後の目玉として、ワールドワイドな番組を目指すというコンセプトを反映し、話題の海外アーティストを毎週生出演させるセクションを設置した。リニューアル直後の1985年4月17日には、米国ショービジネス界の雄・フランク・シナトラがスタジオ生出演、そしてティナ・ターナーが衛星生中継で出演をしたのを初めとして、エルトン・ジョン、ジャネット・ジャクソン、ポール・マッカートニー、ボン・ジョヴィ、ホイットニー・ヒューストン、シーラ・E、バリー・マニロウなど、外国の話題アーティストがほぼ毎回出演するようになった。日本の連絡先を窓口として交渉する場合や、来日時に出演交渉する場合もあったが、特に大物のアーティストについては主要スタッフが放送直前まで海外へと赴き、アーティストに直接交渉することもあったという。特に前述のフランク・シナトラ、ティナ・ターナーの回は海外のショービジネスの大物の2人を出演させるということもあって、出演料など、この1回の放送で軽く5,000万円は下らないという破格の制作費が投じられたという。この2人が生番組で会すること自体、海外の番組でも殆どないことであったために、当時は海外の音楽業界でもこの2人の出演が話題になり、これを契機に出演交渉がスムーズにいくようになったとも言われれいる。
このほか、バックでのダンス要員として振付師の西条満の弟子で、番組独自の女性ユニットDee‐Deeを結成(当初はB・G・Mというグループ名)させ、後にはエンディングテーマ用の曲でレコードデビューさせた(曲名は「YOU'VE GOTTA NAME 」)。また、ゲスト歌手の過去の出演シーンと現在の姿・歌声とを対比させる「タイムトンネル」、月曜日時代からイレギュラーに行っていた司会の芳村真理のプロデュース企画である「ファッションショー」を完全レギュラー化するなど、新企画も立ち上げられ、他の競合する歌番組と一線を画す路線が更に顕著となった。ランキング番組主流の中で、ランキングに入らなくとも恒常的な人気のあるアーティストの曲が締め出されているという「ザ・ベストテン」などへの批判を汲み、DXリニューアル当初にあった「夜ヒットはもう終った」という局内外での批判を見事に跳ね除けてみせた。
[編集] 新旧交替の時代へ-井上順、そして芳村真理の勇退、若手の積極的起用(1985~1988)
1985年9月25日、「一つのことだけを長くやることが、自分のタレントとしての可能性を狭めているのではないか」という考えから、第2次黄金期、正統歌謡番組としての夜ヒットのカラー構築に大きく貢献した井上順が降板(但し、「自らの可能性をより広める」ための降板というのは表向きの理由であり、実際上は、当時の所属事務所とCM出演の契約に関してトラブルが生じ、その混乱が夜ヒット司会の降板にも影響したとする見方が強い)。4代目の男性司会者としてテレビ朝日から独立してまだ1年しか経たない古舘伊知郎が起用された。
古舘の司会第1回目(1985年10月2日放送)は歌以外のゲストとして古舘側の来賓としてアントニオ猪木、芳村真理側の来賓として千代の富士を迎えて華々しく放送が行われた。オープニングではいつものように童謡の演奏とともに中央の階段から降りてくるのではなく、スタジオの副調整室の階段から古館の出身小学校の校歌とともに登場。この回は古舘はかなり緊張していて、顔面硬直で冷や汗をかきながら早口でまくし立てた(この時、芳村は「時間が経てば終わるのよ」と彼女らしいフォローの言葉をかけ、古舘の緊張をほぐしたと古舘が自身の著書で回顧している)。その後は大先輩である芳村にサポートされながらも、天性とも言える巧みな話術で司会を展開(彼は自身のことを当時「ストロボする言葉マシーン」と称していた)、「顔面ダブルバーガー」(ばんばひろふみに対して)、「歌うみどりの窓口」(THE ALFEEに対して)、「歌う日米半導体貿易摩擦」(TM NETWORKに対して)、「まるで人類の進化を見ているようです!」(飛鳥涼・ジャッキー・チェンらを一列に並べた様を形容)などプロレス・F1の実況中継の時と同様に過激かつ絶妙なフレーズを次々と発言し、若手司会者ながら、番組における自らのポジションを早くより確立。相手役の芳村からも司会抜擢早々から「次世代の夜ヒットを担える存在」と全幅の信頼を寄せられるようになった(後に芳村は彼と最初に組んだヒットスタジオの放送のときに「自分の中で(司会勇退に向けて)の心の整理を始めていた」「この人なら、後を任せられると思った」等と回顧している)。この古舘の起用により、それまでは井上・芳村交互で担当していた「4スタライブ」の進行も古舘が全て一手に担当することとなった。
この芳村・古舘の時代には、一部ファンからの熱狂的支持はあったものの、TV露出が少なく視聴者の認知度が極めて低かった新進気鋭のアーティストの存在に注目し、他番組に先駆けていち早く出演させたり(久保田利伸、レッド・ウォーリアーズ、今井美樹、BOØWY、ザ・ブルーハーツ、米米CLUB、尾崎豊など)、ミュージカルの1シーンの再現、人気俳優のマンスリーゲストへの起用(渡辺謙・松坂慶子ほか)、アルバム収録曲が頻繁に披露されるなど、1970年代後半からの番組の路線を更に追求していく姿勢を鮮明に打ち出し、「王道の音楽番組」らしいクオリティーの高い番組制作が試みられた(月1回ペースで出演する常連組については、スポンサーの競合関係によりシングルの曲が披露出来ない場合や、新曲発表のインターバルが半年や1年に1回という場合にB面の曲もしくはアルバムの曲を以って代替する場合もあった<例: 中山美穂「Switch On」、中森明菜「OH NO,OH YES!」、田原俊彦「アントニオのBar」、チェッカーズ「NEXT GENELATION」、菊池桃子「Dear Children」、小泉今日子「今年最後のシャーベット」など>)。 また松坂慶子が銀粉まみれの男性ダンサーと入り乱れながらの「桃色吐息」の熱演(1986年5月28日放送)、西城秀樹とバリー・マニロウのジョイントによる「腕の中へ」(1985年12月4日放送)、THE ALFEEをバックコーラスに従えての吉田拓郎による「アジアの片隅で」(1987年12月30日放送)、アン・ルイス・吉川晃司による「六本木心中」での過激なパフォーマンス(1985年10月2日放送)、宇崎竜童・内田裕也・うじきつよしらロック仲間総出での「ロックンロール・ウィドウ」(1987年3月4日放送) など、この時代には、後々もファンの間でも語り草となっている名シーンが数多く生まれ、玄人筋の音楽ファンからも一定の評価を受けるようになった。
尚、月曜日時代から続いていた「ラッキーテレフォンプレゼント」は1987年に「夜ヒットテレカ」プレゼント企画スタートのため終了している(テレカ企画始動以降、毎回テレホンカードに使用される写真の撮影時や歌手のスタンバイ完了時にはチャイム音が流れるようになった)。また、一般的に通称として使用されている「夜ヒット」の呼称も古舘が司会に起用されてから頻繁に使用されるようになった。
この井上順降板〜古舘起用を機に、これまで制作の中心的な役割を担ってきた塚田茂・疋田拓両氏が制作の一線を外れ(塚田は「作・構成」から「監修」へと一歩下がった立場となりスタジオに訪れることはほとんどなくなり、疋田は86年にフジテレビを退社、以後フリーの立場で番組プロデューサーの職を担ったが、87年夏で完全に番組制作から離れた)、代わって日本テレビ出身で古舘とは学生時代より面識があったという木崎徹、プロデューサー・ディレクターには渡邊光男・水口昌彦などの若手作家・スタッフ陣が起用され、それまで番組出演回数や貢献度などを主たる基準として選定が行われていたマンスリーゲストの枠に若手で、まだ出演2回目という久保田利伸を大抜擢する(1987年10月)など製作者や出演者に新旧交替の傾向が強くなった。その中にあっても「番組の象徴」として不変の存在であり続けた芳村真理であったが、彼女も1987年の秋、「家庭の時間を持ちたい」と事実上の芸能活動セミリタイヤ宣言と同時に放送1000回での降板を発表する(そのほかにも彼女が降板を決めた理由については幾つかあったが詳細は「ノート」を参照されたい)。
そして、年が変わり、1988年の1月には彼女の勇退記念企画を組み、そして、2月3日の日本のテレビ放送史上初のロンドンからの999回記念放送を経て、2月10日、第1000回放送を以って芳村は足がけ約20年に渡って続けた夜ヒットの司会を勇退した。この1000回放送は「芳村真理サヨナラ特番」と銘打たれ、放送時間を1時間前倒しし、夜20時からの3時間特別編成で放送され、総勢300名以上もの歴代の出演歌手と歴代3人の男性パートナー(前田武彦・井上順・古舘)がこの特別番組に出演し、芳村の最後の司会を見守った。この1000回記念放送はテレビ番組史上で司会者勇退につき膨大な費用と企画を用意した稀なケースであり、当時はバブル経済全盛期という空前の好況期で、番組予算に余裕があったという事情もあるのだが、それ以上に同番組が「バンザイ事件」による番組への信頼の失墜、裏番組との競合による出演者の確保の問題、デラックスへの改編当初における番組に対する放送関係者からの冷ややか視線など、これまでに直面した幾多の苦難を乗り越え、格上の長寿番組として成長させた大功労者である芳村への、関係者からの最大限の感謝の念を表すために用意された一大プロジェクトであった。この放送の最後に芳村真理は一列に並んだこれまでの出演歌手、そして歴代の男性パートナーから薔薇の花を一輪ずつ受け取り、「テレビの向こうにたくさんの懐かしい顔が見えます」と、すでに放送業界の一線を離れている過去の番組関係者や出演歌手らに向けたメッセージを残して、夜ヒットを去っていった。ちなみのこの時の最高視聴率は36.0%を獲得し日本のレギュラー音楽番組史上歴代2位の視聴率となった(レギュラー音楽番組の歴代1位はTBS系列のザ・ベストテンの1981年9月17日放送分の41.9%)。 [1]
この芳村の番組勇退を以て長らく続いた「構成=塚田茂、司会=芳村真理、プロデューサー=疋田拓」の言わば"三巨頭体制"は完全に終焉を迎え、夜ヒットは新たな方向性を模索する必要に迫られることになった。
[編集] 若手主導、そして方向性迷走の時代へ(1988~1989)
1987年秋、長らく番組を牽引してきた疋田拓がフジテレビを退社したことに伴い、新プロデューサーに起用された渡邊光男は兼ねてより「今は女性の時代だが、あえて男性色を出したい」との意向を示しており、また、同じく、製作の一線を完全に離れた塚田茂に代わり番組構成の事実上の実権を握ることとなった木崎徹も「それまでの「歌謡番組」というヒットスタジオのイメージを"破壊"する」というポリシーを持っていたことも重なり、芳村勇退後の新司会者人事は、基本的に男性タレント、しかも司会者としての経験が浅い意表を付く人物を起用するという方針の下で選考(※ただ、その方針は当時、当然公表されていなかったため、各メディアも芳村の後任には当然に女性タレントが就くものとの前提に立ち、竹下景子・楠田枝里子などを「有力候補」として挙げており、選考段階でも実際には楠田らの名前もスタッフの間では少なからず出ていたようである)を行い、その方針の下で、俳優の柴俊夫が古舘の新パートナーとして抜擢されることになった。
第1001回目はあえてレギュラー放送をせず、第1000回の余韻を引きずる形で総集編企画で再度番組1000回の歩みを回顧する構成を採り、第1002回目の放送に当たる1988年2月24日放送よりこの古舘・柴という異色の男性ペアにより番組の進行が行われることになった。そして、これを機に、これまでの塚田・芳村・疋田体制に代わって、「芳村真理の相手役」というポジションから「メイン格」へと完全に格上げされた司会の古舘伊知郎を含め、「構成=木崎徹、司会=古舘伊知郎、プロデューサー=渡邊光男」の"新・三巨頭体制"が確立され、この3人を中心として新たな方向性が模索されることとなった。
これと同時にエンディング時に使用されていた円形のテーブルも芳村勇退と同時に通常の平面的なものへと変わったり、オープニング時の司会者登場のシーンも、最初から両司会者がいわゆる「板付き」で既にスタンバイしている状態で番組本編が始まる、などといった具合にDX開始後もおなじみであった番組の風景にもマイナーチェンジが加えられた。
しかしながら、スタッフの期待を託されて新司会者として抜擢された柴俊夫であったが、当然に彼は司会業の経験は皆無に均しく、司会の中で自らのカラーを打ち出すことができず、緊張のためかアドリブなどを入れる余裕がなく、ほぼ台本通りの司会に収まってしまった。また相手方の古舘も萎縮気味であった柴に何度もアドリブを引き出そうと話を持っていく所作を取っていたが、柴も台本どおりの司会を過度に意識していたためかその展開にうまく乗ることができないなど、古舘・柴コンビのコンビネーションは歴代の司会コンビのそれと比較しても著しく見劣りするものであり、更には「男性2人」というこの司会コンビの構図が、毎回奇抜なファッションを身にまといながら司会を務めていた芳村真理の司会時代との比較から、「華やかさ」という点でも大きな落差があったり、そもそも柴を新司会として抜擢した当初より「なぜ柴を司会に起用する必要があったのか?」という具合で司会者人選そのものに対する不可解さが視聴者や放送関係者の間でも付きまとっていたことも影響し、新体制の下での「夜ヒット」は回を追う事に視聴者からの抵抗感を増幅させ、いつしか番組自体の勢いも減退傾向を辿るようになってしまった。
1988年11月、放送開始20周年を迎えたことを契機に低迷気味であった番組への起爆剤として、マンスリーゲストにそれまでTV出演に消極的であった松山千春を起用し、「恋」、「炎」、「旅立ち」など彼のこれまでの名曲を紹介された。また、同月第4週から12月第1週までの3回では20周年特別企画を組み、様々な形で20年間の足跡を回顧した。11月23日の夜のヒットスタジオDX20周年前夜祭では、今昔のヒットスタジオを対比するというコンセプトから、新旧の歌手が登場し、初代司会者の前田武彦と芳村真理を迎えて放送。マンスリー・松山千春は、違うスタジオでライブ。小泉今日子&中森明菜「SOS」・光GENJI&少年隊「ハッピーピープル」・松山千春&鶴岡正義「小樽の人」・南野陽子&チェッカーズ「恋の季節」等、かつての名曲を今のアイドル歌手らが挑戦するコーナーや、歌謡ドラマを復活させるなどの企画を組んだ(この他にも西城秀樹・プリンセスプリンセス・由紀さおりらが出演)。この際に行われた企画モノは視聴率向上に一役買い、この放送を契機に20周年特番だけでの復活の予定だった「恋人選び」コーナーを正式に復活させたり、総集編企画の多用や公開レコーディングの実施、マンスリー以外の歌手でもメドレー形式で歌を披露させる機会を増やすなど更に様々な企画がテコ入れとして投入された。
しかし、これら企画が恒常化していくと共に、皮肉にも起爆剤であったはずの企画モノが番組の衰退、視聴率低迷を更に加速させる結果をもたらすようになってしまった。特に1988年夏ごろから行われるようになったマンスリー歌手による別スタジオでのファン限定ライブ企画に関しては、基本的には番組内で一部しか放映されなかったことから(アーティスト側の意向により全くテレビでは非公開という形で行われるケースもあった)、テレビ番組において最も重視されて然るべき視聴者の存在を完全に軽視しているとの批判が多く出されていた。 また、出演歌手の幅も、女優・男優の出演機会や、海外アーティストの出演頻度が減り、他方ではアイドル歌手や1回につきジャニーズ系タレントが複数出演する回があるなど、一時は出たくても出られない歌手までいたという夜ヒットの持つ権威性も一気に衰退していった(それまで同番組の常連組の出演サイクルは、原則として3〜4回に1回というペースが長らく堅持されていたが、この時代になるとマンスリーゲストではないにも関わらず2週連続で出演をするというケースが続発していた<南野陽子・光GENJI・THE ALFEEなど>)。
このような製作スタンスの迷走と当初の理想との矛盾が番組衰退の勢いを決定的にし、1989年9月、更なる発展を期してスタートしたはずのDX版は僅か4年半で終了となり、同時に柴俊夫も司会を降板。10月、番組内容はジャンルにより4分割化され、これまでの本流を継承する総合番組としてのヒットスタジオは1時間番組の「SUPER」として仕切り直しが図られることになった。
[編集] 補足:ひょうきん族との関係について
このDX版の時代の水曜日は、週一回の「オレたちひょうきん族」のスタジオ収録日であって、別のスタジオで収録していた「ひょうきん族」の出演者が飛び入りで乱入する事もしばしばあった。夜のヒットスタジオ出演者の話によると、廊下に変な格好をした人が結構いたと言われているが、これはおそらく「オレたちひょうきん族」の出演者だと思われる。当時ひょうきん族ではひょうきんベストテンで歌謡ドラマをやっていたこともあり、夜のヒットスタジオと何らかの繋がりがあった。ひょうきん族の顔であった明石家さんまは、「タケちゃんマン7」の中での悪役キャラクター「パーデンネン」の変装をしている最中、当時の夜ヒット司会者・芳村真理に「さんまちゃん、派手ね〜」と毎週のように言われたというエピソードを時折紹介することがある。また、彼は85年9月18日の桑田佳祐や88年3月2日の薬師丸ひろ子に変装をして乱入しているが、87年にシングル「真赤なウソ」を発表したにもかかわらず、なぜか歌手としてはこの番組に出演することができなかった。また、キレキャラで売っていた西川のりおの楽屋が芳村真理の楽屋の隣になっていた時期があるが、あまりののりおの傍若無人な行動に耐えかねて、のりおの楽屋が芳村の当時のマネージャーや番組スタッフの要請で変更になった、ぼんちおさむが芳村の派手なヘアスタイルを見て、のりおと勘違いし頭を小突いたなど、真偽は不明だが芳村真理との関係で生じた珍事件がさんまやビートたけし、島田紳助らにより多く紹介されている。
[編集] 夜のヒットスタジオSUPER
- 放送期間:1989年10月18日~1990年10月3日
- 放送時間:水曜22時~23時(※1990年4月までは月末最終週放送日のみ、23時24分まで放送時間を拡大)
[編集] 番組の迷走決定的に、そして22年の歴史に幕(1989~1990)
視聴率の低下が始まっていた「DELUXE」版の終了に伴い、テコ入れとしてヒットスタジオは1989年秋の改編により、番組を4番組に「分割」(放送当時は「分割」という表現が用いられていたが、派生番組(後述参照)の内容変更や早期打ち切りにより本体との関連性が希薄化したため、現在では単にDX版の視聴率不振に伴う放送時間の短縮・規模の縮小と見る向きが強い)、従来の「総合音楽番組」としてのヒットスタジオの路線を継承したのがこの「SUPER」である。司会はDX版から続投の古舘伊知郎と新たに加賀まりこが参加。オープニングの司会者のトークを3分間にし、司会者登場のシーン及びトークの削除のほか、1968年の開始以来続いていた童謡の演奏によるオープニングがなくなり、オープニングの司会者のトーク、CMをはさんでオープニングメドレーに入る形式となった。1回の放送につきゲストとして出演するアーティスト数は5組〜6組という少数限定制、「神田川」、「関白宣言」、「万里の河」等かつてのヒット曲を紹介するなどの演出上のてこ入れが図られた。尚、初回に関しては月曜日時代と同じ7組でスタートした。指揮者も荒井英治から、服部隆之になる。
しかし、新たな司会となった加賀まりこは、生放送中に出演アーティストに様々な暴言を吐くなど問題行動を多発させる。例えば、B'zの稲葉浩志に対し、「すっぴんは大した事ない」、CHAGE and ASKAに「あなたCHAGEのCを取ったら"HAGE"(はげ)じゃない。」、酒井法子に「キャバクラに行けば一番になれるよ」、光GENJIの諸星和巳に「実際に見ると綺麗ね」、工藤静香のコメントに対して「あんた19歳でそれしかないの、おかしんじゃないの」、そしてプリンセス・プリンセスの奥居香に「ブタ」「生理中なんじゃないの」云々という発言をしたりと、往年の芳村真理にあった、番組に対する愛情や歌手への気配りなど全く感じられない加賀の「独りよがり」とも取られかねない言動は視聴者の反発を招き、抗議の電話が殺到したとも言われている[2]。他にも、本番中に吉幾三の頬にキスをして、吉がキスマークをつけたまま歌うなどということもあった。加賀の失態が相次ぐほど、これらのテコ入れの意味は希薄化し、延いては番組の権威失墜の勢いを更に加速させてしまうことになる。
「歯に衣着せぬ発言」が持ち味である加賀に対し、当時のスタッフはその毒舌を視聴率向上の材料としたきらいもあるが、長らく「アーティストに対する(屈服という意味ではない)配慮・温かさ」を売りの一つとしていた夜ヒットのかつての姿を知る視聴者も多く、逆にその暴言としか取れないような毒舌が番組の人気復活を完全に困難にする端緒を作ってしまうこととなった[3]。
この時代になると、歌番組に対するニーズの変化もあって[4]、前述のような司会の加賀の過激な言動[5]に対する拒絶反応から、またDX期晩期以降の番組の権威性の衰退がここにきて顕著となったことから、これまで「夜ヒット」を最重要の番組として位置付けてきた大半の芸能事務所も放送時間の短縮を機に同番組への出演を重視しない方針を取ったことによりヒットスタジオへの出演を控えるケースが増えたり、視聴率低下のため、バブル景気でフジテレビ自体の経営も安定していたにもかかわらず、同番組に用意される予算もこの時間短縮(形式的には番組内容の分割)を機に大幅に削減されたことも大きく影響し、出演料の高い大物のアーティストを簡単に出演させることができない状態に陥ってしまい[6]、これに起因して出演者も比較的ギャランティーの安かった若手バンド、あるいはロック・アイドル歌手が大半を占め、他方で演歌歌手が登場しない回もあるという偏りのある編成を採らざるを得ない状況に陥ってしまった[7]。形式的には派生番組を含め4番組全体を通じてみれば広いジャンルを従前どおり網羅していると言えるが、あくまでも総合音楽番組としての「夜のヒットスタジオ」の既定路線、そして番組名をを継承しており、かつ派生番組をも統括する番組として存在しているのが「夜のヒットスタジオSUPER」である以上、「SUPER」単体で広いジャンルを網羅するという命題に可能な限り対応する必要があったのだが、もはやその命題を難なくクリアできるだけの影響力(各事務所・レコード会社への発言力やパイプ)も、財政的な余力(歌手への出演料など)もこの当時の「夜ヒット」にはなく、この時点で「幅広いジャンルを網羅する」という部分は事実上は形骸化してしまった。
番組の権威失墜を最も象徴しているのは、アーティスト側の要請に屈する姿勢が顕著になったこと、同時に出演者の幅が狭まったことである。例えば、菅原文太が出演した際に、歌を披露したくないという思いからか、1コーラスのみにしてほしいと要望し、トーク部分を引き伸ばそうとする行動に出たり(1989年11月15日放送)、1時間の枠しかないにも関わらず、長渕剛に配慮して、3曲ノーカットで歌を披露させたり、別スタジオで曲が披露される機会が増えるなど下ことが挙げられる。月曜日時代のごとく、原則フルコーラス1曲のみ、そしてコンパクトな司会進行という形で放送されていたとすれば、曲の尺が平均的に見て1970年代のそれよりも長くなっていたといえども、7組程度の歌手を1時間であっても出演させることは可能であったはずであるが、これには、上述のように制作費の問題や出演拒否の問題がネックとなり、それだけの数の歌手を毎週のように出演させることが難しく、やむなく時間調整の意味合いからか2〜3曲を披露するアーティスト(長渕剛・松山千春・甲斐よしひろ・久保田利伸)が毎回のように最低1組は登場していたことや、司会に不慣れであり、かつ一応は「大物」として扱われていた加賀のトーク時間を配慮という点が起因して、出演者をある程度まで絞らざるを得なくなったのではないかという事情もある。
このような編成が影響し、オーケストラの演奏する機会も殆どオープニングの歌手のメドレー・外国人ゲスト登場の音楽や歌手の誕生日のときのBGM音楽のときにのみ演奏を行うという事実上の「置物」状態となってしまい、オーケストラをわざわざ置く事の存在意義にも疑問符が打たれるようになった[8]。
そして、TBS系で放映されていたクイズ特番、『オールスター激突クイズ 当たってくだけろ!』1990年4月6日放送の第2回大会に古館、加賀、古舘プロジェクトの後輩タレント松尾貴史で出場した際の失態が、番組のネームバリューの低下に止めを差してしまう。
その経緯は、まず、「夜ヒット」のメンバーは、クイズ王のオコボレの1問しか取れなかったものの同点決勝で勝ち上がり、その後漁夫の利で決勝まで進出し、当時の高得点メンバー、所ジョージ、田代まさしが補強されていた。 放送中に、加賀が自分がボタンを押せないのは配線が悪いから、と突然早押し機の配線をいじりはじめてしまった。咎める立場にあった古舘は、その際、「加賀ライト」(番組内で使用されている照明)と称して加賀の顔に照明を当てていた。また決勝の多答問題「ローリング・ストーンズの(当時の)メンバーを全て挙げてください」という問題のとき、キース・リチャーズ、ミック・ジャガー、ロン・ウッドまでは挙げられたが、2名(チャーリー・ワッツ、ビル・ワイマン)取りこぼすという、(一応)ワールドワイドな歌番組の司会者にあるまじきミスを冒し、やっつけ仕事の疑いが出るようになった。さらに古館が、「ひでぇな!!ワークスって!!」とテレビ制作会社を敵に回す等の完全にマナーの悪さが全面的に出てしまい、最終問題は松尾が誤答して0円終了になる視聴者の反感を買う最悪の結果になってしまった。その後、同番組は「夜ヒット」メンバーに出演拒否の意思を明確に表明。古舘プロジェクト所属のタレントは、松尾は3年後の最終回に出場している。
このようにして、DXの終盤期以上の番組の雰囲気の劣化と製作方針の迷走ぶりの加速が露骨に表に出れば出るほどに視聴者離れは更に深刻化し、新体制となってわずか8ヵ月後の1990年5月9日の放送では5.6%という史上最低視聴率を記録し、ライバル番組として共に一時代を築いた「ザ・ベストテン」(1989年9月終了)や「歌のトップテン」(1990年3月終了)の相次ぐ打切りの動きも含めて、「夜ヒット」も存亡の危機に直面した。わずか1年間で、かつての「構成=塚田茂、司会=芳村真理、プロデューサー=疋田拓」の構図の下で製作・放送が行われていた黄金時代には当然の如く存在していた「夜ヒット」独特の長所である「アットホームさ」「生歌・生演奏・フルコーラス」「緊張感・臨場感」「幅広いジャンル」、そして「アーティストへの強い影響力」という部分が完全に喪失してしまい、番組の雰囲気は荒廃の一途を辿った。
この様々な危機をきっかけして、これまでの同番組の曲順における「トップバッター=若手アイドル歌手、トリ=実力派アーティスト」という長年にわたり固定されてきた定式を大きく変え、トップバッターに実力派を置き、かつてのヒット曲を披露させる試みを行い、他方トリの位置に若手のバンド等を多く起用する形式を取るといった、それまでの夜ヒットが守り続けてきた「様式美」ともいうべき部分にもてこ入れがなされるものの、視聴率改善の兆しは一向に現れず、ついに8月の時点で「番組としての一つの役割を終えた」という名目で番組の完全打切りが決定。10月3日の放送を以って、足掛け22年、放送回数・1131回に渡り、テレビ史上に様々な影響を残し続けてきた夜ヒットはその歴史に幕を閉じた。
[編集] 派生番組
番組放送当時は、「夜のヒットスタジオ」を4分割し「ヒットスタジオグループ」として称されていたが、その中の一つの「演歌」が一足早く終了してしまったことや、当初は別枠だった「R&N」・「International」が一枠を形成するようになったことや、「R&N」の司会については早々に古舘伊知郎が降板してしまったことから、専らヒットスタジオとは一応別個の番組として理解されている(フジテレビ側の公式見解も、あくまでも厳密な意味で「夜のヒットスタジオ」シリーズに含まれるのは「SUPER」のみで、以下の3番組はその「派生番組」として位置づけられている)。
[編集] ヒットスタジオコンプレックス
- 放送期間:1990年4月6日~9月28日、金曜深夜(土曜未明)。
- R&NとInternationalを1枠に統合。
[編集] ヒットスタジオR&N
- 放送期間:1989年10月6日~1990年9月28日
- 放送時間:金曜24時40分~26時
- 司会:古舘伊知郎、GWINKO(途中からバブルガム・ブラザーズと戸川純。戸川の急病のため1990年7月13日~8月31日放送分は長野智子<当時はフジテレビアナウンサー>が代役を務める)
- 「R&N」は「ロック&ニューミュージック」の略。
- 1989年10月13日深夜(14日午前)放送で忌野清志郎率いる覆面バンド「タイマーズ」が、予定されていた曲ではなく、突然FM東京で放送禁止になったのに怒り、FM東京を非難する「FM東京のうた」を歌い、放送禁止用語を連発したエピソードは有名。そのときフジテレビ側では放送を中断することなくその曲の一部始終を流した(地方局の録画放送でもノーカットで放送されたが、後年のフジテレビ721の再放送では、「FM東京のうた」部分のみカットして放送された)。
- 古舘が司会を担当していた頃は出演者自身の曲ではあるが、オープニングメドレーが行われるなど、他の派生番組以上にヒットスタジオの本流である「SUPER」との関連性は高かったが、わずか数ヶ月で古舘はこの番組の司会を降板、ヒットスタジオ出演経験が少ないバブルカム・ブラザーズをメインMCに抜擢されて以降は、OPメドレーは撤廃(出演者は冒頭からいわゆる「板付き」の状態で横一列に並び、そこにバブルカム・ブラザーズと戸川純がそれぞれ別々に登場し、軽いトークをした後にすぐに最初の歌手の曲を紹介するという形に変更)し、され、番組構成も本流の夜ヒットとは大きく異なる形式が採られるようになった。
[編集] ヒットスタジオInternational
- 放送期間:1989年10月6日~1990年9月28日(金曜26時半~27時半)
- 司会:服部まこ(現在: 服部真湖)(1990年4月6日~9月28日)
[編集] ヒットスタジオ演歌
- 放送期間:1989年9月~1990年4月
- 放送時間:土曜14時30分~15時30分(月1回)
- 司会: 堀内孝雄
[編集] レギュラー放送終了後の大型スペシャル番組
- ありがとう&さよなら夜のヒットスタジオ 1990年10月3日、21:00-23:48
- 最終回特番。歴代司会者、主な出演歌手らがスタジオに集合。フジテレビなど系列8局で電話リクエストを受け付けた。
なお、関東地区では1ヵ月後、11月3日の12:00-14:55の時間帯に再放送された。
- 最終回特番。歴代司会者、主な出演歌手らがスタジオに集合。フジテレビなど系列8局で電話リクエストを受け付けた。
- 夜のヒットスタジオ大感謝祭スペシャル 1990年12月26日、1991年4月3日
- 1990年12月26日(21:00-23:24)「年末リクエスト総決算」
司会:露木茂、有賀さつき(フジテレビアナウンサー、当時)
最終回で紹介しきれなかったVTRを中心に、出演した常連歌手らがスタジオで思い出を語った。この特番からテレビ長崎もネット復帰。
主なゲスト出演者は沢田研二、石井竜也、中森明菜、工藤静香、五木ひろし、南野陽子ほか。
有賀は2年後の1993年から3年間「ミュージックステーション」(テレビ朝日系)で本格的に歌番組司会に挑戦した。 - 1991年4月3日(21:30-23:24)「青春時代編」
司会:徳光和夫、城ヶ崎祐子(フジテレビアナウンサー、当時)
出演:中森明菜、工藤静香、石川さゆり、CHAGE and ASKA。
徳光和夫、初のフジテレビ本格出演となる。
ASKAはソロ、CHAGEはMULTI MAXとしても出演。
2日前に開局した岩手めんこいテレビもこの番組からネットされている。
なお徳光は半年後の1991年10月スタートの「G-STAGE」がフジテレビ最初のレギュラー司会となった。
- 1990年12月26日(21:00-23:24)「年末リクエスト総決算」
- 島原救済緊急特別番組・夜のヒットスタジオスペシャル 1991年7月3日、21:20-23:30
- 本来21:00開始予定がプロ野球ナイター中継'91「ヤクルト×巨人」20分延長のため20分遅れで開始。
雲仙岳噴火の被災者救済のチャリティーのために急遽特番で復活。生放送開始から終了後も電話による募金を受け付けた。
司会は露木茂(フジテレビアナウンサー、当時)と古舘伊知郎。
ザ・ブルーハーツや南こうせつ、中森明菜、田原俊彦、B'z、THE ALFEEらが出演。CHAGE and ASKAや吉田拓郎なども各所から中継で登場。TMNは木根尚登が急病のため小室哲哉と宇都宮隆のみ出演。
島原市からは山中秀樹(フジテレビアナウンサー、当時)がリポートを担当したほか、鐘ヶ江管一市長(当時)が出演。
フジテレビ系列27局と青森放送でネットされた。
- 本来21:00開始予定がプロ野球ナイター中継'91「ヤクルト×巨人」20分延長のため20分遅れで開始。
- 夜のヒットスタジオ・リターンズスペシャル 1993年3月31日、21:00-23:03
- 司会:井上順、田原俊彦、八木亜希子(フジテレビアナウンサー、当時)。特別ゲストには第1〜1000回まで司会を務めた芳村真理が番組途中より参加し、彼女がセレクトした名場面のコーナーも設置された。
ゲスト歌手は田原のほか中森明菜、プリンセス・プリンセス、都はるみ、CHAGE and ASKA(コンサート会場の大阪城ホールより生中継で出演)。プリンセス・プリンセスは今野登茂子病欠のためメンバー4人だけ出演。
山形テレビ最後のネット番組。この番組は20%以上の高視聴率を挙げ、これを契機に数年間にわたり特別番組の形で夜ヒットが復活することになった。
- 司会:井上順、田原俊彦、八木亜希子(フジテレビアナウンサー、当時)。特別ゲストには第1〜1000回まで司会を務めた芳村真理が番組途中より参加し、彼女がセレクトした名場面のコーナーも設置された。
- 夜のヒットスタジオ春・秋スペシャル 1994年~1996年
- 1994年10月12日(21:00-23:03)「'94夜のヒットスタジオ超豪華秋スペシャル」司会:井上順、中井美穂(フジテレビアナウンサー、当時)。出演は田原俊彦、松田聖子、中森明菜、小泉今日子、少年隊、光GENJI SUPER5、SMAPほか。番組出演経験がなく初登場のSMAPは中継で登場。
実は当日「緊急たけし生特報スペシャル」を予定していたものの、数日前に放送中止を決定、急遽番組を変更し、決定したもの。VTRでのインタビュー出演は芳村真理、小泉今日子ほか。 - 1995年4月5日(20:00-23:14)「'95夜のヒットスタジオ・グレートアーティスト・超豪華!春のスペシャル」司会:関口宏、中井美穂。出演:田原俊彦、松田聖子、中森明菜、工藤静香、西城秀樹、藤井尚之、TRF、H Jungle with tらが登場。出演者構成を見ると、ほとんどTKファミリー中心だった。
- 1996年4月3日(21:00-23:08)「'96夜のヒットスタジオ・桜満開!超デラックス」司会:明石家さんま、近藤サト(フジテレビアナウンサー、当時)。出演:近藤真彦、中森明菜、V6、THE ALFEE、Dreams Come Trueほか。明石家さんまも1曲熱唱した。
- 1994年10月12日(21:00-23:03)「'94夜のヒットスタジオ超豪華秋スペシャル」司会:井上順、中井美穂(フジテレビアナウンサー、当時)。出演は田原俊彦、松田聖子、中森明菜、小泉今日子、少年隊、光GENJI SUPER5、SMAPほか。番組出演経験がなく初登場のSMAPは中継で登場。
- クリスマススペシャル 1994年、1995年、1996年の3回
- ザッツお台場エンターテイメント!第1夜・歌番組の38年 1997年3月31日、19:00-21:24
- 拓郎&マチャミの夜のヒットパレード 2002年8月14日、19:00-21:00
[編集] 通算出演回数
同番組最多出演歌手は五木ひろしで222回。女性歌手では、初代マンスリー歌手でもある小柳ルミ子が最も多く、144回にわたり出演している。
夜ヒットの出演枠については事務所のいわゆる「力関係」が大きく作用しており(※ランキング番組の方式を取っていない音楽番組では現在でも事務所やレコード会社の力関係によって歌手の出演枠の配分に差があるのが慣例である)、特に1970年代までは渡辺プロダクション(ナベプロ)、1980年代についてはバーニングプロダクションやジャニーズ事務所が同番組と強いパイプを持っており、新人歌手の番組初出演などにつき優遇的な扱いを受けていた。このほか、芸映・ホリプロダクション・サンミュージックについても、バーニング・ナベプロ・ジャニーズほどではないがある程度番組出演枠については優遇される立場にあった。下記のリストでも分かるように、森進一・布施明・沢田研二・小柳ルミ子はナベプロ所属、郷ひろみ・細川たかしはバーニング所属、田原俊彦・近藤真彦はジャニーズ所属、和田アキ子・山口百恵がホリプロ所属、西城秀樹・岩崎宏美・河合奈保子が芸映所属、桜田淳子・松田聖子がサンミュージック所属、といった具合で、出演回数の多さも上記の「力関係」が如実に反映されたものとなっている。
順位 | 回数 | 歌手名 | 出演期間 |
---|---|---|---|
1 | 222回 | 五木ひろし | 1971年6月21日(第138回)~1990年1月10日(第1096回) |
2 | 204回 | 森進一 | 1968年11月11日(第2回)~1989年9月20日(第1083回) |
3 | 187回 | 西城秀樹 | 1972年12月4日(第214回)~1988年11月23日(第1041回) |
4 | 176回 | 布施明 | 1968年11月4日(第1回)~1988年1月13日(第996回) |
5 | 175回 | 郷ひろみ | 1972年12月25日(第217回)~1990年6月20日(第1117回) |
6 | 158回 | 田原俊彦 | 1980年6月30日(第607回)~1990年9月19日(第1130回) |
7 | 151回 | 沢田研二(※) | 1969年10月20日(第51回)~1990年2月21日(第1102回) |
8 | 144回 | 小柳ルミ子 | 1971年5月24日(第134回)~1989年9月13日(第1082回) |
9 | 126回 | 近藤真彦 | 1980年11月24日(第628回)~1990年7月18日(第1121回) |
10 | 123回 | 野口五郎 | 1971年9月27日(第152回)~1987年3月4日(第951回) |
11 | 116回 | 八代亜紀 | 1974年2月18日(第276回)~1990年2月14日(第1101回) |
12 | 111回 | 和田アキ子 | 1969年6月9日(第32回)~1990年3月14日(第1105回) |
13 | 104回 | 岩崎宏美 | 1975年6月16日(第345回)~1988年6月1日(第1016回) |
14 | 100回 | 前川清(※) | 1969年4月14日(第25回)~1989年5月10日(第1064回) |
15 | 87回 | 松田聖子 | 1980年4月28日(第598回)~1990年9月5日(第1128回) |
15 | 87回 | 河合奈保子 | 1980年6月30日(第607回)~1990年6月27日(第1118回) |
17 | 86回 | 中森明菜 | 1982年9月20日(第723回)~1990年8月22日(第1126回) |
18 | 83回 | 山口百恵 | 1973年7月30日(第248回)~1980年10月6日(第621回) |
19 | 74回 | 細川たかし | 1975年5月5日(第339回)~1989年12月13日(第1093回) |
19 | 74回 | 桜田淳子 | 1973年5月28日(第239回)~1986年10月8日(第930回) |
※沢田研二についてはザ・タイガース及びPYGとしての出演、前川清については内山田洋とクール・ファイブとしての出演回数を通算した回数及び出演期間で表記してある。また、西城秀樹・野口五郎・和田アキ子・郷ひろみ・桜田淳子・岩崎宏美については1980年10月6日放送の引退特集番組「サヨナラ山口百恵」にも出演し、山口の持ち歌を中心に歌を披露しているが、このときの正式なゲスト出演者は山口百恵のみで、他の歌手は「友情出演」という扱いでの登場であったため、上記の出演回数には含まれていない。
[編集] CSでの再放送・映像の保存頻度
- フジテレビを代表する名音楽番組でもあったことから、1998年7月よりフジテレビがCS放送事業に参入し「フジテレビ721」の放送・運営を開始した当初より視聴者から根強い再放送の要望が寄せられ、同年よりその要望に応ずる形で同チャンネルにて再放送が行われるようになった(当初はDX版よりスタート。月曜時代のものについては翌1999年夏より再放送を開始)。
- しかし、当時の出演歌手の版権上の問題や、過去映像に対する解釈によって未だ完全版での再放送は実現していない。主だったところではジャニーズ事務所所属タレント(田原俊彦ら元所属タレントも含む)、サザンオールスターズ(当初は問題なく放送)らが「放送NG歌手」とされている。特にジャニーズ事務所所属タレントの出演回が全編放送できない点は1980年代の夜ヒット再放送において最大の欠点となっていることから、再放送の可否を交渉する当事者たるフジテレビ、またジャニーズ事務所側の双方に対して異議を唱える番組フリークも少なくない。
- 他に再放送不可能なのが確認できているのは、とんねるず、おニャン子クラブ、沢田研二、ラッツ&スター(シャネルズ)、来日アーティストら。沢田は1度だけCSではまったく放送予定になかった回が誤って放送された際、その中に含まれていたことがある。
- あすか組の出演回が再放送された際、彼女たちの顔にモザイクがかけられるという処置がとられた。
- 月曜時代の再放送の第1回目は、同番組がスタートした1968年11月4日放送分ではなく、本放送では第400回目に当たる1976年7月5日放送分となっている。これは、前田&芳村~芳村・三波司会時代にかけての映像の保存頻度が極めて低い(1974年までのもので現存が確認されているのは、2007年現在、1969年1月27日(これのみ家庭用VTRでありOPメドレーなど一部が欠落している)・同2月24日・同7月28日・1973年8月6日・1974年3月25日・同4月1日・8月5日(第300回記念)・8月19日の計8回分のみである)ことや、三波伸介の生前の映像使用につき彼の親族が許可を出していないこと(但し、『笑点』は一部の映像が部分的に放送された事があった)が要因となっているとされている。CS再放送第1回目に相当する第400回目の放送分以降についてはほぼ完全な形(ノイズや経年による色ムラなど微々たる欠陥を除き)で局に現存されており、過去の総集編企画等でもほぼ大半のパートを第400回目以降の映像が占めていた。1000回目記念では、前田武彦・三波伸介時代の映像も多数放送されたが、1001回目以降はほぼ井上順以降の映像が大半を占めた。
- 尚、初代司会の前田武彦は司会当時、同番組の映像を数多く家庭用VTRに保存し所有していたようであるが、「共産党バンザイ事件」(上述参照)による司会「解任」時にテープを全て解体・廃棄してしまったと自らの著書で後年回顧している。
[編集] ネットしていた局
[編集] 備考
- テレビ山口・テレビ長崎・テレビ大分・鹿児島テレビは1985年3月で打ち切り(但し、テレビ長崎は1990年10月1日よりフジテレビ系列フルネット局になったため1990年10月3日の最終回は再び同時ネットした)。
- 四国放送・西日本放送・高知放送は一時期のみのネットとみられる。
- 青森放送は1985年DX以降からネット開始。但しフジテレビとの同時ネット放送ではなく、きょうの出来事などが終了後23時40分からの遅れネット、スポンサーもローカルスポンサーに差し替えだった。
- 山梨放送は1978年3月6日から1985年3月まで、鹿児島テレビは1981年4月から1985年3月までネットしていた(枠移動先の水曜日は日本テレビ系のネットのため)。
- テレビ宮崎は1985年4月に一旦ネット打ち切り(枠がテレビ朝日系同時ネット(欽どこ、特捜最前線)だったため)、半年後に、再びネット開始した。
- かつてFNS系列だった札幌テレビ・福島中央テレビ・広島テレビでもネットしていた。
[編集] 歴代セット
基本的には22年間の放送期間全期を通じて、左側にビッグバンドの演奏スペースを、右側に本編では歌手・司会者の待機場所として使用される、通称「大階段」セット+円形の小階段セットを、スタジオの上部には丸みを帯びた菱形の連なった飾りを両スペースにそれぞれ配置するという基本コンセプトは一切変わらなかったが、放送時期によって若干のマイナーチェンジがなされている。この番組セットのデザインは初代美術担当の妹尾河童が手掛けたものである。
[編集] 初代(1968年11月~1969年3月)
- セットデザインの模様がカラー放送開始以後のそれとは異なり、線のはっきりした菱形模様が伸縮したようなデザインが使用されていた。
- ビッグバンドの配置もカラー放送開始以後とは異なり、歌手の待機場所に近いほうから、ストリングス→ギター(下段)・ドラム(上段)→ピアノ(下段)・ブラス(上段)という配置となっていた。コーラスは指揮者の隣に配置された1本のリボンマイクロホンで唄に参加する手法が採られていた。
- スタジオの背景色はこの頃は基本的には紺色であった。
[編集] 2代目(1969年4月~1973年)
- セットデザインが擦れかかった菱形模様の伸縮したようなデザインへと変更。このデザインは放送終了時まで変更されなかった。
- ビッグバンドもストリングスとブラスの配置が逆となり、これも以降放送終了時まで変更はなかった。
- コーラスもこの頃より、大階段セットと一体化している円形階段の最上段で歌に参加することが多くなった。
[編集] 3代目(1973年~1976年3月)
- ビッグバンドの演奏スペースと、大階段+円形階段セットが切り離された。
- 歌手の座る椅子の置場は、円形階段のところではなく、大階段セットの端の部分に置かれるようになった。
- 司会者のMCスペースとして1ヶ所、指揮者の指揮スペースとして1ヶ所、歌手の立ち位置として計2ヶ所(正面及びビッグバンドの演奏スペースのストリングス・ピアノ演奏者の配置している箇所)に円形のシートのようなものが敷かれるようになった。この中のデザインは当初は丸みを帯びた菱形を1つだけ大きく描いたものが使用されていたが、1974年からは黒を基調に白いドッド柄が複数輪を描くようなデザインに、1975年からスタジオ上段の飾りのデザインと同様の丸みを帯びた菱形模様が輪を描くようなデザイン(黒基調、菱形模様が白)が使用された。
- 公開放送スタイルを採ったことからスタジオの裏には、観客が座るベンチが置かれた。人気歌手が出るときには用意していたベンチに収まりきらず、立ち見をする観客もいたという。
[編集] 4代目(1976年4月~1985年3月)
- ビッグバンドの演奏スペースと大階段+円形階段セットが再び直結。演奏スペースが広くなったためか、このころから適宜、演奏補助者(シンセサイザー、ギター、コーラスなど)がスペースの隅(ピアノ伴奏者の左隣)に座れるスペースが用意されるようになり、1978年からは、長方形型の補助者用のスペースが常時配置されるようになった。また、コーラス担当者も上段のストリングス演奏者のスペースの左隣に常時スタンバイする形となった。
- ビッグバンドの譜面台のデザインもそれまでは演奏バンドであるニューブリード専用のもの(中央に「NEW BREED」と書かれたもの)や当時のフジテレビのロゴマークである「8」マークを描いた、同局の音楽番組共通のものが使用されていたが、1978年5月の「500回記念」(実際は第499回放送)からは番組限定の白を基調に、丸みのある菱形の下半分を黒く描いた柄が使用されるようになった。
- 1976年7月の第401回以降は、円形階段の最上部にその時折の季節の花々が配置されるようになった。
- 1979年10月からは、大階段側のほうにあった上部の菱形の飾りが上下に昇降できるようになり、歌の間はスタジオの最上部に隠されるようになった。これによって、大掛かりなセットや演出が階段の上にも行えるようになった。
- スタジオ床に当初4箇所あった円形のスペースは1976年以降は中央の歌手の立ち位置のスペースがまず撤去され、1978年以降はオープニング時以外はMC用のスペースについても撤去されるようになり、指揮者用とビッグバンド側の歌手用スペースの2ヶ所だけが残された。また1980年からは指揮者用のものを除き、上記の複数の菱形が円弧を描くデザインの配色が白黒逆転したものに変更された。
[編集] 5代目(1985年4月~1990年9月)
- DELUXEへのリニューアルに伴い、基本コンセプトは維持しつつも、セットを全て新調。階段状のセット及びビッグバンドの演奏スペースには電飾が付けられ、スタジオ上部の菱形模様も立体的なものとなり、それぞれの菱形の中央に電飾が一つずつ付けられた(ただし、1989年夏ごろからは番組短縮が決定したことに伴い以前と同様に平面的なものに切替えられた)。また、ブラスバンドの譜面台もデザインはそれまでと同様であるが、若干縦長のものとなり、演奏中には白光するようになった(これは大階段+円形階段セットも同様)。
- ブラス担当が4名減り、その代わりに打楽器担当(木琴など)の演奏場所が配置されるようになった(1988年3月で撤去)。
- 1988年3月以降、司会者が男性二人コンビになったことも影響してか、演奏スペース側にも階段セット(ブラス担当者が座っているスペースの2段目の部分に階段セットを接着させたもの)が追加された。
- 1989年に第6スタジオの床が張り替えられたことから、それまで指揮者用、歌手の立ち位置としてそれぞれ1ヶ所ずつバンドの演奏スペース側に配置されていた円形のスペースは全編を通じて撤去された。
[編集] 歴代オープニング映像
- (番組開始-1975年3月31日)ドット抜きされた番組ロゴが現れ、徐々にドットが埋まっていき、ロゴが現れる。
- (1975年4月7日-1983年3月28日) 画面右下と左下から多数の白い斜めの太線が出てきて、画面全体が線で埋まると線が回転し、番組ロゴに変形する。因みにCMに入る直前に画面右端に表示される番組タイトルロゴや曲名テロップも1975年以降は黒く縁取られた色つきのものに切替えられている。
- (1983年4月4日-1985年3月25日) 格子模様が現れ、徐々に模様が細かくなり、光の筋のような線に変形し、番組ロゴが現れる。
(以上の映像は、スタジオ風景が背景になっている)
- (1985年4月3日-1989年9月27日) 宇宙空間をサーキットで走っていき、ライトアップされたスタジオ風景にワープし、ロゴが現れる。※時期によって、ロゴのカラーリングが変わったり、ロゴがばらばらになるなどの変化はある。
- このオープニング映像は「とんねるずのみなさんのおかげです」「志村けんのバカ殿様」「爆チュー問題」のコントなどで、出演者がジェットコースターに乗っているように見せる合成映像として使われることも多かった。出演者が「何で夜ヒットなんだ?」と慌てたり、「真理さーん!」と呼びかける様子が視聴者の笑いを誘った。
- (1989年10月18日-1990年10月3日) さまざまなポーズをとった多数のCGイラストが回転し、それらが消え、ロゴが現れる。
[編集] 脚注
- ^ 「TBSの研究 (4)低迷続く視聴率」 読売新聞、2005年12月9日。
- ^ 現在、夜のヒットスタジオSUPERを再放送するときは5回分程度しか再放送が可能になっていない状態にあるのもこのことが主な原因となっているようである。
- ^ 1989年11月8日放送では、前々日の11月6日に松田優作が逝去した為、急遽番組の冒頭から追悼コーナーを組み、松田が出演していた時のVTR(1980年4月28日放送)を流した際、司会の加賀は泣きながらコメントを語っている。旧知の俳優仲間の若すぎる死に純粋に悲嘆した帰結がこのシーンに繋がったものと解される。
- ^ 純粋にテレビ上で音楽を楽しむというよりも、ヒットチャートを調べるために見る、という、「目的から手段への変化」である。このニーズの変化に対応して誕生したのがTBS系「COUNT DOWN TV」やテレビ東京系「JAPAN COUNT DOWN」である。
- ^ 特に奥居香については「ブタ」発言があった直後のラジオ番組にて、加賀の番組内で見せた態度を痛烈に批判すると共に、自身を含むメンバー全員につき、番組への出演を拒否する旨を明確に表明、以後番組終了まで1度も出演することはなかった(※但し、1993年の復活版には出演した)。
- ^ これまで月に1回〜2回出演していた番組最多出演者・五木ひろしは1990年1月10日放送を最後に出演がなくなった。このほか、布施明・井上陽水・サザンオールスターズ・北島三郎・森進一らも「SUPER」への改編後は1度も登場していないほか、1980年代には毎週のように交替で所属タレントを出演させてきたジャニーズ事務所この頃にはヒットスタジオを最重要の番組として理解しなくなっていたためか、田原俊彦・近藤真彦・少年隊など常連組の同事務所所属タレントの出演頻度もこの時代になってから激減している。
- ^ 1990年4月18日放送に出演をした石川さゆりを最後に純然たる演歌歌手の出演は途絶えている
- ^ 因みにオーケストラを配置しなかったのは、1988年3月30日・DELUXE最終回・1990年10月3日・1987年・1988年・1989年の年末のスペシャル、あるいはは全編総集編という回のみであり、それ以外の回は演奏時間に関係なく設置されていた。
[編集] 関連項目
- 夜のヒットスタジオ出演歌手一覧
- FNS歌謡祭
- ビッグベストテン
- ヒットパレード'90s(1990年10月~1991年10月まで放送)
- HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP
- SHIONOGI MUSIC FAIR
- 音組
- NTV紅白歌のベストテン
- ザ・ベストテン
- はねるのトびら - この番組のパロディーを行った番組。
- 情報プレゼンター とくダネ! - 現在、この番組のパロディーである、「朝のヒットスタジオ」のコーナーを木曜日に行っている番組。過去には小川宏ショーのでも、同名のコーナーがあった。
[編集] 番組の入れ替わり
フジテレビ系 月曜22時枠 | ||
---|---|---|
前番組 | 番組名 | 次番組 |
夜のヒットスタジオ
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フジテレビ系 水曜21・22時枠 | ||
---|---|---|
前番組 | 番組名 | 次番組 |
夜のヒットスタジオDELUXE
|
フジテレビ系 水曜22時枠 | ||
---|---|---|
前番組 | 番組名 | 次番組 |
夜のヒットスタジオSUPER
|
フジテレビ系 生放送の音楽番組枠 | ||
---|---|---|
前番組 | 番組名 | 次番組 |
ザ・ヒットパレード
(1968年11月~1970年3月は当番組と並行放送) |
夜のヒットスタジオ
夜のヒットスタジオDELUXE 夜のヒットスタジオSUPER |
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
- 夜のヒットスタジオ - フジテレビ721公式サイト内
[編集] 非公式
- 伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る - ブログ。記事内に全放送回の出演者リスト(放送当日付の新聞掲載分が中心)がある。