てんぷくトリオ
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てんぷくトリオは、1960年代~1970年代に活躍した三人組のお笑いグループ。演芸ブームの一つである「トリオブーム」の中心となった。
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[編集] メンバー
- 三波伸介(みなみ しんすけ、1930年6月28日 - 1982年12月8日)
- 戸塚睦夫(とつか むつお、1931年4月20日 - 1973年5月12日)
- 伊東四朗(いとう しろう、1937年6月15日 - )
[編集] 経歴
- 1958年6月、石井均一座の旗揚げに参加し、ここで3人が知り合う。
- 1961年、石井均一座解散とともに「ぐうたらトリオ」を結成(戸塚がリーダー)。翌年「てんぷくトリオ」と改名した。この名前は当時人気だった「脱線トリオ」(由利徹・南利明・八波むと志)をもじったものである。「ぐうたらトリオ」から「てんぷくトリオ」に改名した理由は、日劇の舞台に出演することが決まり、「『ぐうたら - 』では好ましくない」という事務所の意向。
- 1972年からNHK『お笑いオンステージ』の名物コーナー「てんぷく笑劇場」に出演。
- 1973年、戸塚が胃癌により42歳で病死。残った三波と伊東で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。
- 1982年、三波が剥離性大動脈瘤破裂により52歳で急逝。突然の死に、相方の伊東は号泣した。
- 正式には解散していなかったが、2001年2月17日放送の読売テレビ『相方~芸人その世界~』で伊東が司会の笑福亭鶴瓶から解散について聞かれ、「正式に解散してないんですよ。いきなり戸塚睦夫が死んじゃったから。それでも“てんぷく”でやってたんですけど、今度は三波が死んじゃった。で、1人で“てんぷく”ってワケにもいかないからねぇ。今言っても良いんです、解散って。うん、今言います。解散です」と語った。
[編集] 概要
もともと、軽演劇の喜劇役者は公演が終了した後の夜間は一人または即席コンビを組んでキャバレー等端席の余興(「営業」ともいう)に出て凌いでいた。戸塚もまた三波と組んでコンビとしてキャバレー等のコントに出演していた。その後、三波が急遽戸塚の前から姿を消してしまったために戸塚はその代役として伊東を立て、以降この二人で余興に出ていた。(伊東は余興先で三波の名前を名乗っていた事もある。)
三波はその後大阪に行き、玉川良一、東けんじと共に「おとぼけガイズ」というトリオコントを組んで大阪劇場のレギュラーとなっていた。この大劇公演が毎日放送でテレビ中継され東京でもネットされたが、東京でこの番組を見た戸塚と伊東は行方不明になったと思っていた三波がこんなところで活躍していた事に面食らった。おとぼけガイズは東京逆進出を巡る意見の対立で解散となり、三波も帰京し戸塚達の前に再び姿を現した。戸塚は既に伊東とコンビを組んでいたため、三波を加えて三人でやることとなったが、石井均一座の解散で副業だったこのトリオが本業になり、正式にトリオを結成した。
太田プロダクションに所属し、当初は「ぐうたらトリオ」を名乗ったが、日劇出演が決まると日劇側からトリオ名にクレームが付いた。そこで「てんぷくトリオ」に改名させられてしまった。「脱線」の向こうを張る「転覆」だったが、ゲンが悪いと思ったのか三人ともこの改名に不満であったという。以降、トリオブームの牽引役として活躍。井上ひさしや前川宏司といった座付き作家にも恵まれ一躍人気者になった。代表作として「名月赤城山」(井上ひさし作。三波が国定忠治役)、代表的なギャグに「びっくりしたなぁ、もう!」(三波が驚いた口調で言う)がある。
また、日本テレビの名物プロデューサー井原高忠に見込まれ、歌謡バラエティー「九ちゃん!」に起用される。ここで洋楽などを歌わされ従来の芸風と異なる路線を強いられるが、却って他のトリオとの差別化に繋がり芸の幅が広がったとされる。TBSテレビでは谷岡ヤスジのナンセンスギャグ漫画を原作としたコメディー「笑うんだもんね!」(演出・桂邦彦)にも主演。フジテレビ「お昼のゴールデンショー」のレギュラーなどあらゆる笑いに挑戦した。
その後、サワズに移籍。しかし1973年戸塚の病死でトリオとしての活動に終止符が打たれ、その後三波の意向で個人としての活動が多くなっていった。1982年三波も急逝。現在は伊東だけになる。