日本劇場
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日本劇場(にほんげきじょう、日劇)は東京都千代田区有楽町にあった劇場である。戦後、昭和の芸能界を支えた。再開発により1981年3月に解体、現在の場所には有楽町センタービル(有楽町マリオン)がある。
有楽町センタービルが建てられた後も東宝の劇場名で日劇という名は映画館として引き継がれている。
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[編集] 沿革
- 1929年2月 - 日本映画劇場株式会社設立。ただちに着工するが途中資金不足のため工事停頓。
- 1933年4月 - 会社創立委員長で大株主である大川平三郎の資金注入により工事再開。
- 1933年12月24日 - 「日本劇場」として開場披露式挙行。
- 1933年12月31日 - 本興行開始。
- 1935年1月 - 株式会社東京宝塚劇場に賃貸。3月、東宝による直営興行開始。
- 1935年12月 - 日本映画劇場株式会社が株式会社東京宝塚劇場に吸収合併される。
- 第二次世界大戦 - 劇場内で風船爆弾が製作される。
- 1981年2月15日 - 施設の老朽化と東京都の再開発事業により閉館。この日に合わせ、「サヨナラ日劇フェスティバル」が数日間開催される。
- 1984年10月6日 - 有楽町センタービルオープン。
(これ以後は有楽町センタービルを参照)
[編集] 概要
もともと高級映画劇場として開場。当初は日本映画劇場株式会社が経営していたが、経営不振となり、いったん閉場。日活が賃借して映画館となるが、日活も経営に失敗。ついで東宝が賃借して直営、さらに会社そのものを吸収合併。
東宝経営後は基幹劇場の一つとして機能し、終戦後も占領軍へは東京宝塚劇場を提供することで接収を免れる。
戦後は東宝映画と実演の二本立て興行を行い、特に実演は日劇ダンシングチーム(NDT)のレビューと人気歌手のショーが注目を浴びた。とりわけ「日劇の舞台に出る事」が人気芸能人のステータスとなっていた時期があった。昭和30年代はロカビリー旋風に乗り、「ウエスタン・カーニバル」は大盛況となった。
1981年、娯楽の殿堂も老朽化には勝てず、閉鎖。劇場としての歴史は現在の日劇PLEXに繋がっている。
[編集] 構造
- 設計は渡辺仁、建築は大林組、解体は竹中工務店。地上7階、地下3階建。地下2階は一般の客は入ることのできなかったNDTダンサーのレストラン、地下1階は戦前、東京會舘のランチルームや、理髪店が入居していた。戦後は映画館「丸の内東宝」とカフェなどが入居。1階は正面玄関と3階までの大劇場、2階有楽町側には内外どちらからも入れた喫茶「らせん」。4階は練習場ホール、2台の映写機が置かれた映写室、照明室、パブレストラン「チボリ」、明治の喫茶店。5階は日劇ミュージックホールがあった小劇場。屋上は取材の場所としてよく使われたという。
- 地階は劇場内部からは行けず、1階正面玄関の外側に地階へ行く階段があった。
- 客席は3階席まであり、1階1060席、2階540席、3階463席の計2063席。両壁際にはロイヤルボックスと呼ばれたボックス席が10個(2階6個、3階4個)あり、2階席前3列とともに日劇唯一の指定席となっていた。立ち見の客を最大限入れた状態で「4000人劇場」と呼んだ。
- オーケストラピットや銀橋もあった。
- 開場当時、劇場内外部はステンドグラス、大理石、さまざまなデザインのレリーフなどで豪華絢爛に彩られ、人々の目を驚かせたが、昭和35年に大改装。しかし、解体時に長年の改装で覆われたベニヤ板をはがしたところ、正面ホールの壁からギリシャ神話をモチーフとした陶器モザイクの壁画が現れた。これは川島理一郎による作品で「平和」「戦争」「舞踊」「音楽」の4テーマにわかれていた。この壁画がベニヤ板で覆われてしまったのは、昭和33年のこと。理由はタイアップ商品をホールで販売する計画があり、背景としてはこの壁画はあまりにも芸術的過ぎて、そぐわないというものであった。こうして23年ぶりに発見され新聞などでも話題になった。記念として有楽町マリオンに残そうという話があったが、壁画はモルタルで固められているうえに、背後には上層階を支える大柱があったために難工事になると考えられた。そのため保存されることは叶わず、そのまま建物の廃材とともに廃棄となってしまった。
- また最盛期はファザードも華麗にライトアップされていたが、閉館間際になるとライトアップもしなくなり、あちこちの壁に広告がさがり、完成した当時の美しさは失われつつあった。また1階にファーストキッチンが入居するなど、劇場にはふさわしくないテナントが目立つようになり、雑居ビル化が進んでいた。
[編集] 関連事項
- 東宝
- 映画館 日劇PLEX
- 日劇ミュージックホール
- NHK紅白歌合戦
- 秦豊吉